「蛇と太陽とコロンブス」
アメリカインディアンに学ぶ脱近代
北澤方邦著 農文協 より
本書は著者の三回目のホピ族との出会いを綴ったものであるが、著者の 幅広い見識と鋭い観察力、ならびに現代文明の限界を見据えた視点で アメリカ・インディアンの精神世界並びに日本を含む環太平洋文化に迫 った好著である。またホピ族の伝統的な儀式(スネーク・ダンス、バタフラ イ・ダンスなど)や他の部族の儀式の様子を克明に記録している数少ない 文献の一つである。著者とその妻、青木やよいは多くのホピ族に関する 文献を出版しており、「ホピの聖地へ」、「ホピ・精霊たちの大地」、 (K.K)
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本書あとがきより引用。
「近代文明」が、もはやその道をあゆみつづけることが不可能---あゆみつづける なら、われわれは人類の滅亡を覚悟しなくてはならない---であるとすれば、われ われはその転機の鍵を古代や「未開」に求めなくてはならない。なぜなら彼らは、 人間をつねに宇宙や自然の視座、いいかえれば神々やトーテム祖先の視座から とらえてきたのであり、母なる地球の使信を聴きつづけてきたからである。数百万 年にわたる人類史のなかで、わずかこの五百年のみが、「神」を背に母なる地球 と敵対し、人間中心主義の傲慢によって支配された特異な時代であったのだ。 いまわれわれは、その傲慢の清算をせまられている。
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本書より引用。
夕方からは雷雨があいつぐ。それぞれのキヴァの地下の部屋では、蛇司祭と カモシカ司祭たちが、断食し、身を清め、祭壇をそれぞれのトーテムにふさ わしい形に建て、砂絵を描き、星を占い、採集した蛇たちとともに暮らし、蛇 と自分自身の身体を器として大宇宙との交感を実現し、村の、ホピの、そし て人類の平和と豊饒を祈って、沈黙と秘密の儀式をすでに十日間にもわた って続けているのだ。日常性を切り裂いた恐るべき裂け目に、あえておのれ の身を置くこと。無数の星が不断に生成し、消滅し、光の泡と渦を繰り広げ、 巨大なエネルギーの波動が絶え間なしに押し寄せ、踊り、飛び散っていくこ の大宇宙を、おのれ自身の身体のなかに感得すること。現代人がそれを見 失ってから、すでに久しい。現代人にとって、日常性はあまりにも厚く織りな された布であり、切り裂くことはおろか、その向こうになにものかがあることさ え気づくことはない。部厚い絨毯をむらがり渡る蟻のように、人々は日常性 の毛足のなかに埋もれ、おのれ自身さえも見失う。おのれが世界の主体で あり、宇宙の主体であるとする近代人の傲慢、あるいは近代人の悲惨な錯 覚は、いまや世界の破滅を導きつつある。ひとたび日常性の裂け目に身を 置いたものは、謙虚に、自分自身が宇宙の、そして自然の客人であることを 認識する。だがそれは、おのれが、単に宇宙の一構成物、一断片であること を意味しない。それが宇宙自身の意志であったかどうかにかかわりなく、この 地球というまれな星に生命が織りなされ、生物そして人間という客人、つまり まれびとが誕生したことを意味する。人間は偶発的な破滅の道ではなく、そ のまれな運命を、地球上の全生物とともに生き抜かなくてはならないのだ。 ホピの予言は、第一の世界から始まる死と再生の循環である人間の歴史は、 そのようにして第九の世界、すなわち星々と太陽と神々の世界のなかに、光と なって融け入ることで終わるとしている。あいつぐ雷鳴と閃光のなかで、そして 明日から始まるスネーク・ダンスに思いを駆けて、さまざまな想念が浮かんで は消えていく。
いづれにしろトーテム的思考体系---人類学者のレヴィ=ストロースはそれを 「野生の思考」と名づけたが---は、人間をつねに自然のなかに位置づけ、 人間や宇宙を包摂した「自然」全体の体系を、自然科学的であると同時に 神話的・宗教的なものとして認識する知の体系であった。個々の事物や現 象をつねに全体のなかで認識し、分析する点で、それはすべてを個別の 要素に分解する近代の知の体系にまさっていたといわなくてはならない。 そのような知の体系が、近代人の想像を絶するような先史時代の大航海 を生みだしたのであり、また先史時代の諸文明を築いてきたのだ。人間の 能力、とりわけ全体的な知の体系の所有者としての能力は、むしろ歴史を 経るに従って退化してきたといってよいだろう。いまわれわれは、コロンブス のアメリカ大陸到達五百年祭を前にして、誤解と偏見に満ちたヨーロッパ 中心主義や近代主義から生みだされた「世界史」を、根本的に書き改める 必要に迫られている。むしろこの意味で、コロンブス五百年祭は、コロンブ スの<大航海>が幕を開けたとする「近代」という時代の終りを告げる記念 すべき行事であるのかもしれない。あらゆる点で袋小路に逢着した近代文 明は、この五百年の<航海>を導いてきた理性や合理性という羅針儀が 誤った方向を指し示していたことにようやく気づき始めたのだ。いまや近代 文明は、羅針儀なき漂流の時代に入ったといってよい。求められるべき新 しい羅針儀とはなんであるのか? かつて、先史時代の大航海にあたっ て、ポリネシア人やアメリカ・インディアン、あるいはわれわれの祖先である 縄文人たちが、太陽や月や星々の運行の観測による天文航法を基本と たように、この稀な惑星である地球を永遠の棲み家とするかぎり、われわ れ人類は、母なる大地の法を法として生き続けるほかないであろう。地球 の重力圏を脱出して生活した宇宙飛行士たちの教訓も、人間が、単に 酸素がなくては生きられないというだけではなく、われわれの身体の生理 学が、何億年という地球の生物の進化の結果として、この地上の重力作 用と不可分であることを示してきた。われわれは宇宙空間や他の惑星で は、身体的に長期間生きのびることは不可能なのだ。これは宿命なの ではない。むしろ私たちがよりよく生きるための、積極的な条件なのだ。 古代の人々は、アメリカ・インディアンたちは、そしていまなお未開と呼ば れてきた人々は、そのことを知り、その諸条件をよりよく組み合わせ、み ごとにそれぞれの文明や文化を創造してきた。われわれは近代文明の 所産を全否定するものではない。そこにもすぐれた創造物があったし、 すぐれた科学や技術もあった。われわれはその最良の遺産を、母なる 大地の法を法として生きる古代人やアメリカ・インディアンの「生き方」 (ウェイ・オヴ・ライフ)と結びつけようというのだ。そのような新しい文明を つくりだす時代こそ、真のポスト・モダン(脱近代)の名に値するだろう。 心ある人々は、すでにそれぞれの領域でそのような方向をめざして仕事 を始め、努力を重ね始めている。暮れなずむ太平洋の海面をはるかに 眺めながら、私は、先史時代の大航海に、そしてコロンブスの航海に 思いをはせ、羅針儀なき漂流の時代もけっして長くは続かないであろ うという予感に、ほのかな安堵をおぼえたのである。
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目次 プロローグ 南米に渡った縄文人・・・・先史時代の大航海
T章 宇宙と自然の法に生きる 九年ぶりのホピ・インディアン訪問 征服者の神と被征服者の神 夏至の祭、幻想的なニーマン儀礼 キャップテン・クックはなぜ殺されたか 影を落とすヴェトナム後遺症 日本にも届いたクマラの道 「ホピ・イズ・マイ・ドリーム!」 原爆を語ったマーサウウの予言 ホピの生き方に共感する日系人 あえて「インディアン」を名乗る
U章 異文化の圧力と民族のアイデンティティー ウラニウム開発と近代化の波 〈白い兄弟〉として歓迎されたコロナド 芸術家ロロマの工房 キリスト教に改宗したアワトヴィの悲劇 悠久の歴史を語るコール・キャニオン インディアン芸術と商業主義 ホピを憂えるカール牧師 連邦政府への〈友好派〉〈敵対派)の分裂
V章 多数決の民主主義と全員一致の民主主義 言葉も風俗も異なる隣村ハノ ウンデド・ニーの虐殺 スリット・ドラムにみるアステカとポリネシアの類似性 五百年にわたるインディアン征服の歴史 ホピの移住伝説を表すフルート・セレモニー 一人一人が自己決定権をもつインディアンの民主主義
W章 「近代」の終わりから 華麗なる求愛の踊り「バタフライ・ダンス」 世界を滅亡から救うホピの道 大宇宙との交流から祭は始まる ウラニウム開発により放射能汚染の深刻化 天と地の調和を祈る「スネーク・ダンス」 近代化と伝統の均衡をめざすナバホ 灼熱の太陽に輝く苦痛と陶酔と聖なるもの 〈折りたたまれた〉世界をのぞくゾンビの文明 聖なるテイラー山に別れを告げて 羅針盤なき漂流の時代
あとがき 参考文献
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