「ネイティブ・アメリカンの世界」歴史を糧に未来を拓くアメリカインディアン

青柳清孝 著 古今書院 より引用





本書の狙い (本書より引用)


ネイティブ・アメリカン文化の多様性をはじめ、現在のネイティブ・アメリカンの実体は

私たち日本人にはほとんど知られていない。ネイティブ・アメリカンは変化し、決して

静止し固定されたものではない。ネイティブ・アメリカンの歴史を考察することによっ

て変化の内的・外的要因を探り、かつ現在の状況を考察してはじめてその実体が明

らかとされるであろう。しかし、ネイティブ・アメリカンのイメージ、過去と現在、そして

彼らの多様性について理解を深められるような手頃な日本語の書物はきわめて少

ない。本書は、アメリカ・インディアンのイメージがいかに作られてきたか、部族の歴

史がいかに現代に生かされているか、そしてネイティブ・アメリカンが直面している現

代的課題は何かの三つの視点から構成されている。この本において、時間的にも空

間的にも多様性を示すネイティブ・アメリカンの姿をできるだけ忠実に伝えようと試み

た。読者が本書からネイティブ・アメリカンの過去と現在、そして彼らの多様性につい

て理解を深めていただければ、それは著者にとって少なからぬ喜びである。


 


目次

第一部 アメリカ・インディアンのイメージ


第一章 ポカホンタスの命乞い

二つの世界の邂逅

歴史の真実とは

作り上げられたポカホンタス


第二章 イメージ “野生” と “文明”を生きたインディアン

野生インディアンの出現

新しい世界のなかで

野生と文明

蘇ったイシ


第二部 歴史に学び生きる人々


第三章 チェロキーの歩んだ道

チェロキーの故郷

イギリス人の進出

涙の旅路

新しい土地で


第四章 オクラホマ・インディアン 強制移住させられた人々

強制移住の開始

部族混住のオクラホマ

インディアン文化の復活


第五章 南西部プエブロ・インディアンの伝統文化 カチーナ儀礼

プエブロ文化の背景

ズニのカチーナとその儀礼

ホピのカチーナとその儀礼

カチーナの変化


第六章 バッファローとともに生きた人々

大平原のインディアン

消えたバッファロー

甦ったバッファロー


第七章 マカの選択 捕鯨復活を求めて

マカ捕鯨の昔

捕鯨の中止と再開

先住民生存捕鯨の将来


第三部 現代を生き抜く力


第八章 博物館の展示とアメリカ・インディアン

博物館への問いかけ

シカゴ・フィールド自然史博物館

カーネギー自然史博物館

アメリカ・インディアン国立博物館


第九章 保留地カジノと部族主権

インディアン・カジノの現状

インディアン・カジノ経営をめぐって

カジノ・ポリティックスと部族の主権


第十章 都市に響くドラム 都市インディアンのアイデンティティ

都市を目指すアメリカ・インディアン

シカゴの都市インディアン

シカゴ・インディアンのパウワウ




真実のポカホンタス を参照されたし。



二 歴史の真実とは 『真実の話』と『バージニア史概説』 本書より引用

(長い引用になりますが、著者の方お許しくださればと思います。)


ジョン・スミスはけがのため帰国するが、その後間もなく『真実の話』(1608年)のなかで、

ジェームズタウンでの体験談を書き残している。さらにその16年後、彼は『バージニア史

概説』(1624年)を執筆している。それらは、現在、バーボアーが編集したキャプテン・ジョ

ン・スミス全著作集に収録されている。しかし両者では、いくつかの点で大きく異なってい

る。この事実に注目した正木恒夫の論文から、二者の違いを要約してみよう。


『真実の話』ではまず、パウハタン首長の威厳について「大きな玉の真珠の首飾りを幾重

にも首に巻きつけ、アライグマの毛布で作った大きな外套をまとい」、「こちらが思わず感嘆

するような落ち着いた堂々とした風貌」と述べている。しかし、後に出版された『バージニア

史概説』では、パウハタン首長は「見るも恐ろしい姿に身をやつし」「人というよりは悪魔の

よう」と描写されている。しかしその恐ろしさについての具体的な記述はない。


また『真実の話』では、スミスが囚われの身となっている間、監視はきわめて穏やかで、た

だ一度スミスに息子を殺された父親が斬りつけてきたというほかは、かなりていねいに扱

われたようである。しかし『バージニア史概説』では、捕虜となった瞬間から、スミスは厳重

な監視下に置かれ、一時は木に縛りつけられ、矢をつがえた男たちに取り囲まれた。この

ときは首長の介入で難を逃れるが、集落まで「蛮人」に腕を掴まれ連行された(正木 24−

25)。もっとも注目されるのは、クライマックスの処刑の場面である。正木によれば、『バー

ジニア史概説」では、この場面は以下のように記されている。


王の前に連れ出されると、人々はいっせいに大歓声をあげた。アパマタマック女王が言い

つけに従って手を洗う水をスミスの所に運び、別の一人が手を拭くタオルの代わりに鳥の

羽を一束もってきた。野蛮なりに精一杯の馳走をふるまった後、長々と評定が続いたが、

やがてそれも終わったと思うと、パウハタンの前に大きな石が二つ運ばれてきた。それか

ら皆で寄ってたかってスミスを石の所へ引きずっていってその上に頭をのせ、あわや棍棒

で脳天を打ち砕くかと見えた瞬間、王の愛娘ポカホンタスが、哀願も空しいと思ったのか、

スミスの頭をかきいだき、自らの頭をその上にのせて命を救ったのだった。(前掲書 17-18)


ところが前著『真実の話』では、捕虜になって連行される場面はあっても、上記のような処刑

の場面はない。スミス処刑の場を書いた『真実の話』では、ポカホンタスの出番はないので

ある。


差異の意味するもの・・・・この同じ著者による二冊の書物に見られるパウハタン描写の差異

は、どこから来ているのだろうか。その理由は明らかに、1622年に起こったインディアンによ

る「大虐殺」だとするヒュームの説を正木は紹介している。しかし理由はそれだけではない。

正木はそれに加えて後著に見られる「野蛮なインディアン」の存在は、植民を正当化するため

に必要なことだったとしている(正木 18-19)。


パウハタン部族と植民者との衝突は、早くも1607年に起こっている。ジェームズタウンの植民

者の領土拡大支配に反対したパウハタン大首長の弟オペチャンカナウは、200名の軍勢を

もってキャプテン・スミスの率いる軍を攻撃している。その時、唯一の生き残りがスミスで、

彼は捕らえられ、ヨーク川沿いにあるパウハタンの村に連れていかれた。その後、釈放され

たスミスは報復の手段に出て、パウハタン大首長の村を襲い、彼を人質にする。しかし植民

者に食料を提供するという条件で大首長は釈放された。


一方、植民者はタバコ生産が有利な生産であることから、パウハタンを謀略に陥れ広大な

土地を手にした。これに反発したオペチャンカナウは、1622年3月22日植民者に奇襲をか

け、1400人中、女性や子どもも含めて347人を殺害した。ふたたび植民者側は復讐に出

て、パウハタンの村を襲い、穀物や住居を焼き払って人々を追い詰めた。その後両者の

衝突は絶えることがなかったが、ようやく1644年い和平協定が結ばれた(Grinde 252-253)


国家組織というべきものを作り上げていたパウハタンは、はたして「野蛮人」であったのだ

ろうか? イギリス人に抵抗し反逆する「野蛮人」は征服されて当然であるので、征服する

相手は、「野蛮人」であったほうが都合がよい。友好的なインディアン、あるいは文明的な

インディアンを征服し、植民地建設のために掃討したとすれば、それはイギリス人にとって

あまり気分のよいことではない。1622年の大虐殺以降、パウハタンが突然「野蛮人」として

描写されるようになったのは、正木の指摘通りそのような筋書きがあるのだろう。


それでは、1607年のスミス自らが捕虜となった襲撃事件では、なぜパウハタンは「野蛮人」

とならなかったのであろうか。この時期はジェームズタウンの揺籃期で、植民者はまだ何か

といってはインディアンの好意にすがらなければならない時期であったためではないだろう

か。


では、『バージニア史概説』に突如現れるポカホンタスのスミス命乞いは、どのように理解

すればよいであろうか。この命乞い物語の真偽については、かなり古くから議論があった

らしい。1860年には、ニューイングランドの歴史家ディーンが、スミスの二つの著書『真実

の物語』と『バージニア史概説』の記述の違いを根拠に、ポカホンタスのスミス命乞いの話

が疑わしいことを公にした。アダムスも歴史家パーフレィの勧めに従って、1867年1月「北

アメリカ・レビュー」に命乞いを否定する論文を発表し、ディーン、パーフレィ、アダムスと

いった人々がスミス論争に火をつけた。一方、この論争において命乞いの話が真実であ

ると主張したのは、南部出身者であった(Tilton 173-175)。南北戦争の前後に当たるこの

時期、バージニアを擁する南部にとって、ポカホンタスはあくまでも彼らに都合のよい英雄

でなければならなかったのである。


三 作り上げられたポカホンタス

ポカホンタスの履歴書

スミスに対するポカホンタスの命乞い物語の真偽は、実は私自身にとっては、それほど

重要ではない。むしろ私が興味をもっているのは、この物語が多くのアメリカ人にとって、

真実の美しい恋物語として受け取られ、実像とは異なるかもしれないポカホンタスが作り

上げられていったという事実である。この命乞いの物語の素晴らしいロマンスの種を感じ

取ったのは、1800年にアメリカを旅行していた、ジョン・デービスというイギリス青年であっ

た。彼は、スミスに対するポカホンタスの愛に焦点を当てた物語を、『アメリカ合衆国の4

年半の旅』(1803年)のなかで作り上げ、次いで『キャプテン・スミスと王女ポカホンタス』

(1805年)と『バージニアの最初の入植者たち』(1806年)のなかでさらに飾りつけをした。

以降、この物語をロマンチックに仕上げるおびただしい本が、出版されるようになったそ

うである(Tilton 32-33)。ここで一般に伝えられているポカホンタスの履歴を記述してみ

よう(Tilton 7-8)


1595年頃、パウハタン大首長の娘として誕生。

1607年、スミスと逢う。スミスのために命乞いをする。その後も彼との関係は続き、彼女

が仲立ちになることで、パウハタンの一族は食糧不足に苦しむジェームズタウンの植民

者に、援助の手を差し延べる。

1612年、船長アーゴールに誘拐され、ジェームズタウンに囚われる。

1613年、囚われの身のままキリスト教徒になる。

1614年、イギリス人ジョン・ロルフと結婚

1615年、息子トマス誕生

1616年、イギリスへ旅行し、当地でインディアン王女としてもてはやされる

1617年、イギリス、クレイビセンドで死去


年譜によれば、彼女がスミスを救ったのは、12歳の頃で、それからわずか10年ほど

で生涯を閉じたことになる。その間キリスト教徒となり、イギリス人と結婚し、イギリスを

訪問する。やがて彼女は故郷に帰ることを希望し、船旅に出る。しかし、途中で病気

になり英国に引き返し、異郷の地で死亡した。死因は天然痘か肺炎のためと憶測さ

れているが、「失意のうちに」死んだという話を聞くことはあっても、彼女の死の原因

は何か、またそれを人々がどう感じたかについて聞くことはまずない。息子のトマス

は後にアメリカに渡り、インディアン掃討の軍事行動の指揮をとったという(Kilpatrick

152)。








アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)に関する文献

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