「パパラギ」

はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集

構成・絵 和田誠

エーリッヒ・ショイルマン編集 岡崎照男原訳 立風書房より








「パパラギ」とは、サモアの言葉で「空の穴から来た人」という意味でした。その

むかし、サモアにはじめてやってきたヨーロッパ人の宣教師を乗せた船の白い

帆を遠くから見たサモアの人は、空にあいた穴だと思ったのです。そして、「空

の穴から来た人」は「白人」と同じ意味を持つようになりました。サモアの酋長

ツイアビは、1915年頃、ヨーロッパを旅して帰り、はじめて見たヨーロッパの

印象を、島の人びとに報告しました。その記録を、サモアで暮らしたことがあり、

酋長とも親交のあった詩人エーリッヒ・ショイルマンが翻訳して、スイスで出版

しました。1920年のことです。この本は1977年に復刊され、その4年後に、

日本でも岡崎照男さんの訳によって出版されました。もともと80年以上前の

報告で、それは第一次世界大戦の頃。映画はまだサイレントの時代でした。

日本で出版されてからも20年を過ぎています。けれどもこの報告の内容は少

しも古くなっていないばかりか、ますます私たちに大切なことを思い出させて

くれるでしょう。それに、「パパラギ」とは白人を指す言葉でしたが、今では私

たち日本人を含めて、先進国と呼ばれるすべての国の人びとがパパラギだと

言えます。(本書 あとがき 和田誠)より引用







丸い金属と強い紙。彼らが「お金」と呼んでいるもの。これがパパラギの神さまだ。

あの国ではお金なしには生きてゆけない。日の出から日の入りまで。お金がなけ

れば、飢えも渇きもしずめることができない。夜になっても寝るためのむしろがな

い。一羽の鳩を獲るのにも、川でからだを洗うのにも、歌ったり踊ったりする楽し

みのための場所へ行くのにも、仲間に相談に行くのにも、たくさんの丸い金属や

強い紙を渡さなければならないのだ。そう、生まれるときにもお金を払わなけれ

ばいけないし、死ぬときも、ただ死んだというだけで、家族はお金を払わなけれ

ばいけない。からだを大地に埋めるにも、思い出のためにその上に置く大きな石

にも、お金がかかるのだ。私はたったひとつだけ、パパラギの国でもお金を取ら

れないことを見つけた。空気を吸うこと。だが、それも彼らが忘れているだけだと

思う。この話をパパラギにきかれたら、息をするにもすぐに丸い金属と強い紙を取

ると言いだすだろう。なぜなら、彼らは一日じゅう、お金を取る方法を探している

のだから。お金をたくさん持っているほど、いい暮らしができる。だからだれもが、

ほかの人よりお金を持ちたがる。丸い金属をひとつ砂に投げてみると、子どもた

ちがその上にころげこみ、戦いをたじめる。お金を投げる人はめったにいないけ

れども。どうすればお金をもらえるのか。いろいろな方法がある。やさしいものか

らむずかしいものまで。仲間の髪を切ってやるとか、小屋の前のごみを運んでや

るとか、海でカヌーを漕ぐとか、うまい計画を見つけるとか。公平であるために言っ

ておくべきこともある。それは、何をするにも丸い金属と強い紙が必要だが、何を

やってもそれがもらえるということだ。何かすればいい。それをパパラギは「労働」

と言う。「働け、そうすればお金になる」というのがパパラギの掟のひとつである。

だが、この掟はどこかおかしい。もしひとりのパパラギがたくさんお金をもうけたと

する。食べ物や、小屋や、寝むしろを手に入れてもまだ少しあまるとする。すると

彼はそのお金ですぐに仲間を働かせるのだ。彼が舟作りであったとする。彼はい

ろんな人を働かせて舟を作る。それを売ってお金をもうける。お金は働いた人の

ものになるはずなのに、大部分は彼が取ってしまう。そして働く人をどんどんふ

やし、百人、いやそれ以上の人が、彼のために舟を作ることになる。こうなると

この舟作りはむしろの上に寝ころんで、ほかの人たちが働いたのでもらったお

金を持ってこさせ、自分はまったく何もしなくなる。そこで人びとは彼のことを「お

金持ち」と呼ぶ。パパラギの世界では、人間の重さをはかるのは気高さや勇気

や心の輝きではなく、一日にどのくらいお金を作るか、どのくらいお金を箱にし

まっているかなのだ。私たちは何も持っていない。私たちのところには、箱いっ

ぱいの丸い金属や強い紙はない。パパラギに言わせれば、私たちは貧しくて

みじめな人間たちだ。だがしかし! みんなの目を金持ちの紳士とくらべてみ

よう。彼らの目はかすみ、しょぼしょぼとしているが、みんなの目は太陽のよう

に輝いている。喜びに、力に、いのちに、そして健康にあふれて輝いている。

みんなのような目は、パパラギの国では子どもだけしか持っていない。言葉を

まだ話せなくて、お金のことを知らない子どもだけしか。お金にとりつかれるの

は病気のようなもの。腐ってふくれあがる果物と同じだ。「私がこの世にきたと

きは、丸い金属も強い紙も持ってこなかったのだから、この世から出てゆくとき

も、なにもなくていい」と考えられないのだろうか。お金は悪魔だ。お金にさわっ

た者はその魔力のとりこになり、それをほしがる者は、生きているかぎり喜びも

お金のために捧げなければならない。私たちの島のやりかたは、そうではな

はない。もてなしをしたからといって何かを要求したり、何かをしてやったから

贈り物をほしがるような人間を、私たちは軽蔑する。このりっぱなならわしを

大切にしよう。ひとりの人間がたくさん持っていて、そのほかの人びとはなに

もない、というようなことを私たちは許さない。そのならわしを大切にしよう。

そうすれば私たちは、となりのきょうだいが悲しがっているのを見てうれしそ

うにしていられる、パパラギのような心にならずにすむのだ。


「パパラギ」を参照されたし



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