レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Lev Nikorajevich Tolstoj)
1828年9月9日(旧暦で8月28日)~1910年11月20日
File:Tolstoy and wife and two sons play chess.png - Wikimedia Commons 1910年、トルストイと対局しているのが義理の息子(Michel Souchotine)で、妻と二人の息子(Andre and Michel)
ここではトルストイが残した幾つかのチェスの試合を紹介します。ただトルストイの 棋譜が残されているのは1900年以降のものしかありません。主に郵便チェスでの 棋譜ですが、72歳という高齢でありながらも彼のチェスとはどんなものだったかを うかがい知ることが出来るでしょう。ここに紹介する棋譜は現存する12局のもので すが、勝ち負け両方が含まれています。尚、当時のロシアのチェスは大変盛んで 郵便チェスにも強者が沢山いたものと推察されます。尚、以下の12局は下のチェス サイトを参照しております。過去の名人たちのチェス棋譜をデータベース化しており、 とても重宝しています。
先ず1900年、72歳のトルストイが郵便チェス(葉書など利用して一手ずつ郵送する)で、 白番で負けた試合。 Sergei Tolstoy vs Karl
Behting I A Zybin vs Sergei
Tolstoy Sergei Tolstoy vs Vasily
Ivanovich Tabunshchikov Sergei Tolstoy vs Alexander
Ivanovich Romashkevich L K Stempovsky vs Sergei
Tolstoy Sergei Fedorovich Lebedev vs Sergei
Tolstoy A K Makarov vs Sergei
Tolstoy Leo Tolstoy vs Ivkoff Leo Tolstoy vs Fritz
Kuhler
1906年(トルストイ78歳)のもので、白番のトルストイが勝った試合。 Leo Tolstoy vs Aylmer
Maude Leo Tolstoy vs Aylmer
Maude Aylmer Maude vs Leo
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「完全チェス読本1 はまってしまった人々 ローマ法王からハンフリー・ボガートまで」 マイク・フォックス&リチャード・ジェイムズ著 若島正訳 毎日コミュニケーションズ より以下、引用。 9将には大物がくる。レオ・ニコライエヴィッチ・トルストイ伯爵は子供の頃にチェスをおぼえた。15歳のときに ツルゲーネフと指したこともある(ツルゲーネフについては、しばらくしてからまた)。トルストイはかなりのチェス 狂だったに違いない。青年将校の頃、徴兵勤務を忘れてチェスを指していたために投獄されたほどだ。しかし 彼は人生の前半を賭けトランプで負けることと「戦争と平和」執筆につぶした。その後ふたたびチェスに熱を あげ、なかなかの作戦巧者だったという。日記の中で、彼はこんな参考にならない忠告を書いている。「チェス の主な目的は、どんなことをしてでも勝つのではなく、おもしろい手筋を見つけようとすることである」 トルストイの棋力は、本当の実力者であるセルゲイ・S・ウルソフ皇子(この人物の実戦については、「貴族」 の項を参照)との対戦によって磨かれた。セバストポリ包囲戦の間、同僚の将校たちとトランプをしてルーブル を巻き上げられているとき以外は、19世紀ロシアにおいて最強のひとりであるこの皇子と、トルストイは何十局 も指したものだ。 セルゲイ・セミエヴィッチ・ウルソフはロシアの皇子で、19世紀の中頃では最強のひとりだった。彼はギャンビット 新定跡(1.e4 e5 2.Bc4 Nf6 3.d4 ed4 4.Nf3)の創始者であり、トルストイと数えられないくらい指し、セバストポリの 包囲戦でもチェスで戦いに勝とうとした。ロシア軍と英国軍がある地帯をめぐって数週間も戦いつづけ、双方に 大きな損害が出たがそれでもまだ決着がつかなかったときのこと。セルゲイ皇子は司令官のもとにかけつけて、 独創的な提案をした。英国軍には最強の人物を選ばせ、チェスで勝った方がその地帯を取るというのである。 将軍はこのロマンティックな発想に魅了されたが、たとえウルソフが勝ったとしても英国軍が約束を守るとは かぎらないというもっともな理由で、この申し出を却下した。 The Childhood of Russian Chess, Pt. IV - Chess.com Prince Sergey Semenovich Urusov(Sergey Urusov) 1827年~1897年 Sergey Urusov の全棋譜 The chess games of Prince Sergey Semenovich Urusov 棋譜を見るにはブラウザ「Internet Explorer」が必要で、 「Google Chrome」では出来ません。 またJAVA アプレットがインストールされていないと棋譜が表示されません。 Javaコントロール・パネルでのセキュリティ・レベルの設定 Urusov_All.pgn へのリンク (チェス棋譜再現ソフトをご用意ください) |
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Alexander Petrov (chess player) - Wikipedia Alexander Dmitrievich Petrov(Alexander Petrov) 1794年~1867年 この時代、ロシアで最強の棋士であったペトロフ。4歳でチェスを覚え、12歳の若さで、サンクトペテルブルク での最強の棋士になる。ペトロフ・ディフェンスの名前でも知られている。 F Alexander Hoffmann vs Alexander Petrov "Petrov's Immortal" (game of the day Mar-19-17) Warsaw m (1844) · Italian Game: Classical Variation. Center Attack (C53) · 0-1 hoffmann_petrov_1844.pgn へのリンク ペトロフ の全棋譜 棋譜を見るにはブラウザ「Internet Explorer」が必要で、 「Google Chrome」では出来ません。 またJAVA アプレットがインストールされていないと棋譜が表示されません。 Javaコントロール・パネルでのセキュリティ・レベルの設定 Petrov_All.pgn へのリンク (チェス棋譜再現ソフトをご用意ください) |
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トルストイの名言・格言集。人類愛を説いた文豪の言葉 | 癒しツアー より抜粋引用。 レフ・トルストイ(1828年~1910年) ロシアの小説家、思想家。ドストエフスキー、イワン・ツルゲーネフと並び、ロシアを代表する文豪。 1828年、モスクワの165km南に位置するトゥーラ郊外のヤースナヤ・ポリャーナにて、伯爵家の四男として生まれる。 祖先は由緒ある貴族で富裕な家庭であったが、幼くして両親をなくし、親戚に育てられる。1844年、大学に入学するも 成績がふるわず中退。このころフランスの哲学者ルソーの本を愛読し、生涯その影響を受けた。 1847年、広大な領地を相続したトルストイは農地経営を始め、農民の生活改善を目指すも農民に理解されず失敗。 モスクワで放蕩生活を送ったのち、1851年にコーカサス戦争の砲兵旅団に志願して編入される。1853年のクリミア 戦争では将校として従軍。このときの体験が後に非暴力主義を展開する素地となる。 1852年24歳のときに執筆した『幼年時代』が雑誌に発表され、新進作家として注目を集める。退役後は、教育問題に 関心を持ち、ヨーロッパへ視察旅行を行なうが、パリ滞在中に公開処刑を目撃して物質文明に失望する。 帰国後、1861年の農奴解放令に先立って独自の農奴解放を試みる。1859年には領地に学校を設立し、農民の 子弟の教育にもあたる。強制を排し、自主性を重んずる教育方針であった。 34歳のときに、18歳のソフィアと結婚。9男3女が生まれた。幸福な結婚生活の中で世界文学史上に残る傑作が 書かれる。これらの作品では、自らの生きた社会を現実感をもって描写するという、写実主義の手法を用いた。 トルストイは社会事業にも熱心で、自らの莫大な財産を用いて、貧困層へのさまざまな援助を行った。 しかし、代表作『アンナ・カレーニナ』を書き終える頃から人生の無意味さに苦しみ、自殺を考えるようになる。次第に 宗教や民衆の素朴な生き方にひかれ、原始キリスト教的な独自の教義を作り上げる。以後作家の立場を捨て、その 教義を広める思想家・説教者として活動。 トルストイは、民衆を圧迫する政府も非難し、国家を否定したが、反政府運動であっても暴力は認めなかった。自身 の生活も簡素にし、農作業にも従事。さらに印税や地代を拒否しようとして、家族と対立。1884年には最初の家出を 試みた。 1904年の日露戦争における暴力行為に対しても非暴力の立場から批判。また、非暴力・不服従で英国からの独立 運動を指揮したガンディーとも文通している。 1910年、夫人との長年の不和に悩んでいたトルストイは、再び家出を決行するが、鉄道で移動中に悪寒を感じて 途中下車、1週間後、駅長官舎で肺炎により死去(82歳没)。葬儀には1万人を超える参列者があった。 トルストイの語録 学問のある人とは、 本を読んで多くのことを知っている人である。 教養のある人とは、 その時代に最も広がっている知識やマナーを すっかり心得ている人である。 そして有徳の人とは、 自分の人生の意義を理解している人である。 慈善は、それが犠牲である場合のみ 慈善である。 愛とは、大勢の中から たった一人の男なり女なりを選んで、 ほかの者を決して顧みないことです。 他人の不幸の上に 自分の幸福を築いてはならない。 他人の幸福の中にこそ、 自分の幸福もあるのだ。 人生の唯一の意義は、 人のために生きることである。 一生涯ひとりの異性を愛することは、 一本の蝋燭が生涯燃えることと同じである。 よい人間とは、 自分の罪をいつまでも忘れないで、 自分の善行はすぐに忘れる者のことである。 わるい人間とは、その反対に、 自分の善行をいつまでも忘れないで、 自分の罪はすぐに忘れる者のことである。 自分を許すな。 そうすれば、容易に他人を許すことができよう。 我々が知りうる唯一のことは、 我々は何も知らないということである。 そしてこれが人間の知恵が飛翔しうる 最高の高みなのだ。 芸術は技芸ではなく、 それは、芸術家が体験した感情の伝達である。 人間が死んだり、金銭を失ったり、 家がないとか、財産がないとかいうことが、 哀れなのではない。 なぜなら、これらすべてのものは、 人間にもともと備わっているものではないからだ。 人間は、自分の本来の財産、最高の財産、 すなわち「愛するという才能」を失った時が、 哀れなのである。 |