Safely Darling pics of fatima

ファティマの聖母マリア



1970年前後に作られた、聖書ゆかりの地のスライド写真

「The Holy Land 100 Color Kodak Film Slides From Sami Awwad Jerusalem」

50年近く経った現在、スライド写真は少し変色しております。尚、このスライド集をお持ちだった方

(詳細不明)がスライドに場所の名前などを書いていましたので、そのまま共に記します。

(2017年5月13日)





エルサレム ヒゼキヤ王の名作 泉から上の山と穴を掘って水の出会ったところ


Bible Stories: Hezekiah


Isaiah 37:14-20 - Hezekiah’s Prayer in the Temple



ヒゼキヤ - Wikipedia より、以下引用。

ヒゼキヤ(紀元前740年頃 - 紀元前687年)は、紀元前700年頃のユダ王国の王。



生涯



在位は紀元前715年、または716年から687年。25歳で王となったとき、ユダ王国はアッシリアの属国状態にあった。

しかしヒゼキヤは、アッシリアの顔色をうかがいつつ、国力を増強させた。



まず宗教において、大国の宗教に事大(当時のオリエントでは、世俗的な従属に伴って他国の神を崇拝させられる

ことが多かった)せず民族神のヤーウェ信仰を重視した。アハズ王の時代に盛んであった偶像崇拝の払拭に務め、

土着神の神殿を取り除き、国の宗教の純粋性を回復させた。そのため、歴代のユダ王国、イスラエル王国の王の中

でも、敬虔な王として讃えられる数少ない王の一人と言われている。旧約聖書「歴代誌下」には「神の言葉に従順

で、神の御目に適う事柄を行った」と記されている。



次に、王国の行政、町税制度を簡素化し、穀物を蓄え、畜産の面でも大きくした。さらに国境の防備を強化、城壁

の修理、また水の確保のために、トンネルを掘り貯水池を作るなどで確保した。



アッシリア王センナケリブの時代、バビロニア、エジプトがアッシリアに対して反乱の気運を作り戦いが始まると、

ヒゼキヤもそれに押される形で反乱国側についた。しかし、バビロン軍、エジプト軍が鎮圧され、701年にはユダ

王国の46の街が占領され、多くの民がアッシリアに連行されている。このときのセンケナブの記録によると、ヒゼ

キヤを籠の鳥のようにエルサレムに閉じ込めたとされている。



ヒゼキヤはエルサレムの明け渡しを要求されるが、これを断ると、センケナムはエルサレムに入城することなく、

軍を撤退させた。(en:Assyrian Siege of Jerusalem)。このとき、ユダ王国の預言者イザヤは、敵がこの街に

入る事は無いと預言している。実際の撤退の理由は不明であるが、この逸話と信仰深かったヒゼキヤの人物像が

重なり、旧約聖書では最高の名君であったと記されている 最後の14年の治世は事も無く過ぎ、死にあたっては

すべてのユダとイスラエルの住民が敬意を表したとされている。



ヒゼキヤは、ソロモン王やアハブ王の示したような(バアル神などの)他国・他民族宗教への寛容性・コスモポリ

タン性では強く劣っていたが、必要に応じ宗教の違うエジプトとも手を結んで、アッシリアに対抗し、ユダ王国の

独立を守った。世俗的な独立と、精神的な独立の双方を追求し、一定程度成功をおさめたといえる。



シロアム碑文



ヒゼキヤの治世において特筆すべきなのは、地下水路の開発である。ユダ王国は四方を山に囲まれており、防御は

非常に堅かったが、兵糧攻めや断水といった手段をとられると弱かった。このため、ヒゼキヤは広大な地下水路を

開削させ、恒常的な飲料水の確保に成功する。この水路は現在も残っており、「ヒゼキヤの泉」と呼ばれる。泉に

は当時の碑文も残されており、これが古代アラム語(英語版)の解読に貢献した「シロアム碑文(英語版)」である。




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