ヒゼキヤ - Wikipedia より、以下引用。
ヒゼキヤ(紀元前740年頃 - 紀元前687年)は、紀元前700年頃のユダ王国の王。
生涯
在位は紀元前715年、または716年から687年。25歳で王となったとき、ユダ王国はアッシリアの属国状態にあった。
しかしヒゼキヤは、アッシリアの顔色をうかがいつつ、国力を増強させた。
まず宗教において、大国の宗教に事大(当時のオリエントでは、世俗的な従属に伴って他国の神を崇拝させられる
ことが多かった)せず民族神のヤーウェ信仰を重視した。アハズ王の時代に盛んであった偶像崇拝の払拭に務め、
土着神の神殿を取り除き、国の宗教の純粋性を回復させた。そのため、歴代のユダ王国、イスラエル王国の王の中
でも、敬虔な王として讃えられる数少ない王の一人と言われている。旧約聖書「歴代誌下」には「神の言葉に従順
で、神の御目に適う事柄を行った」と記されている。
次に、王国の行政、町税制度を簡素化し、穀物を蓄え、畜産の面でも大きくした。さらに国境の防備を強化、城壁
の修理、また水の確保のために、トンネルを掘り貯水池を作るなどで確保した。
アッシリア王センナケリブの時代、バビロニア、エジプトがアッシリアに対して反乱の気運を作り戦いが始まると、
ヒゼキヤもそれに押される形で反乱国側についた。しかし、バビロン軍、エジプト軍が鎮圧され、701年にはユダ
王国の46の街が占領され、多くの民がアッシリアに連行されている。このときのセンケナブの記録によると、ヒゼ
キヤを籠の鳥のようにエルサレムに閉じ込めたとされている。
ヒゼキヤはエルサレムの明け渡しを要求されるが、これを断ると、センケナムはエルサレムに入城することなく、
軍を撤退させた。(en:Assyrian Siege of Jerusalem)。このとき、ユダ王国の預言者イザヤは、敵がこの街に
入る事は無いと預言している。実際の撤退の理由は不明であるが、この逸話と信仰深かったヒゼキヤの人物像が
重なり、旧約聖書では最高の名君であったと記されている 最後の14年の治世は事も無く過ぎ、死にあたっては
すべてのユダとイスラエルの住民が敬意を表したとされている。
ヒゼキヤは、ソロモン王やアハブ王の示したような(バアル神などの)他国・他民族宗教への寛容性・コスモポリ
タン性では強く劣っていたが、必要に応じ宗教の違うエジプトとも手を結んで、アッシリアに対抗し、ユダ王国の
独立を守った。世俗的な独立と、精神的な独立の双方を追求し、一定程度成功をおさめたといえる。
シロアム碑文
ヒゼキヤの治世において特筆すべきなのは、地下水路の開発である。ユダ王国は四方を山に囲まれており、防御は
非常に堅かったが、兵糧攻めや断水といった手段をとられると弱かった。このため、ヒゼキヤは広大な地下水路を
開削させ、恒常的な飲料水の確保に成功する。この水路は現在も残っており、「ヒゼキヤの泉」と呼ばれる。泉に
は当時の碑文も残されており、これが古代アラム語(英語版)の解読に貢献した「シロアム碑文(英語版)」である。
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