Safely Darling pics of fatima

ファティマの聖母マリア



1970年前後に作られた、聖書ゆかりの地のスライド写真

「The Holy Land 100 Color Kodak Film Slides From Sami Awwad Jerusalem」

50年近く経った現在、スライド写真は少し変色しております。尚、このスライド集をお持ちだった方

(詳細不明)がスライドに場所の名前などを書いていましたので、そのまま共に記します。

(2017年5月13日)





エルサレム シオンの丘の晩餐会の場所(最後の晩餐)


最後の晩餐 (レオナルド) - Wikipedia


File:Jezus neemt afscheid van Maria Rijksmuseum SK-A-1719.jpeg - Wikimedia Commons

母マリアに別れを告げるイエス



サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ) - Wikipedia より以下、引用。

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(イタリア語: Chiesa di Santa Maria delle Grazie)は、イタリア・ミラノにある

カトリック教会の聖堂である。レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐は、敷地内の修道院にある食堂の壁画であり、

ユネスコの世界遺産(レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメ

ニコ会修道院)に登録されている。


 


キリストが食事をした?「最後の晩餐の部屋」古都エルサレムの観光名所 | RETRIP[リトリップ]  より、以下引用。

イスラエル東部に位置するパレスチナ自治政府の都市エルサレムにある「最後の晩餐の部屋(Last Supper Room Coenaculum)」

は、レオナルド・ダヴィンチの名画でも知られるイエス・キリストとその弟子がユダヤ教の過ぎ越し祭を祝って食事をしたと

いわれる場所です。ユダヤ教の聖地のひとつに数えられている「ダビデ王の墓(King David's Tomb)」の建物の上階にある

ヴォールト天井の小さな空間で、入場は無料です。



「最後の晩餐の部屋」は、紀元130年頃に存在した原始キリスト教の集会場を起源として、4世紀に建てられた教会の跡と考え

られています。十字軍によって12世紀に再建され、14世紀から16世紀にかけてフランシスコ会の所有となりました。のちの

オスマントルコ時代にはモスクとして使用されていました。南側の壁にはイスラム教の聖地・メッカの方角を示す“ミハブ

(Mihrab)”があります。



たけさんのイスラエル紀行 より、以下引用。


2階には、天井の高い広々とした部屋がありました。これが、最後の晩餐が行われた「二階の間」だそうですが、

イエス様と12人の弟子たちが横になって食事をしたというイメージとは程遠いものでした。それで、記憶に残って

いないものと思われます。



では、何故、このような近代的な雰囲気の部屋が、2000年前にイエスと12弟子が最後の食事をした部屋だと

されているのでしょうか?



恭仁子さんの説明と、「聖都エルサレム5000年の歴史」などを参考にしながら、整理してみました。



◎AD70年にローマ軍がエルサレムを破壊したとき、エルサレムにいたユダヤ人キリスト教徒たちは山に逃れた。その後、

AD2世紀頃に戻ってきて、焼け残った石材を使って、ここにユダヤ人キリスト教徒のためのシナゴーグを建てた。その

指導者は、最初のエルサレム司教聖ヤコブの後継者だったと言われている。



◎その後のエルサレム司教キュリロス(AD315-387)は、ペンテコステ(聖霊降臨)の起こった場所を「使徒たちの二階

の教会」と呼んでいる。その時から、このシナゴーグは「使徒たちの教会」と呼ばれるようになった。



◎ビザンチン時代になって、皇帝テオドシウス一世(在位AD379-395)が大規模に建て替え、「聖シオン教会」とした。

マリア永眠教会の2倍半ほどの大きな教会だったと言われている。



◎AD614年にササン朝ペルシャによって破壊された。



◎一時、再建されたが、AD1009年にアル・ハーキムによって再び破壊された。



◎AD1099年に十字軍がエルサレムを占領した時、ビザンチン時代の「聖シオン教会」の遺蹟を発見。教会の南の付属

建物がかなり残っており、それが、最後の晩餐の部屋と信じられた。



◎十字軍は、その教会跡に「シオンの聖マリア教会」を新しく建て、その中に二階を設け、この記念すべき部屋を組み

込んで「二階の間」とした。そして、伝承により、ここが聖霊降臨の場所であり、また、イエスの母マリアがここで

生活していたとした。



◎更に、十字軍は、教会跡に「ダビデの墓」を発見したとして、一階にゴシック式の大きな石棺を設置した。



◎AD1219年、アイユーブ朝のスルタンによって破壊された。



◎AD1335-1337年に、カトリックのフランシスコ会がこの地を購入し、破壊された「二階の間」を修復し、その南に

修道院を建てた。当時は、「二階の間」を修道士たちの共同食堂に使っていたとのこと。しかし、一階のダビデの

墓の部屋はムスリムの聖職者たちが住居として使用していた。



◎AD16世紀中ごろムスリムはフランシスコ会を追い出し、彼らが戻ってこないように、「二階の間」も「ダビデの墓」

もモスクに変え、その壁面にメッカの方向を示す凹みと、ムスリムの模様のステンドグラスを設けた。これらは、

下の写真のように、今も残っています。


 


Jesus, Lamb of God? - Crossroads Initiative


Image: 032 Jesus washes the feet of his disciples


Story Helix | Stories that Change Our Lives



http://www.facebook.com/papamfranciscum



2013年3月30日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。

画像省略

以下、引用します。


☆☆☆☆


(CNN) ローマ法王フランシスコはイースター(復活祭)を前にした「聖木曜日」の28日、ローマ市内にある少年院で

「主の晩餐のミサ」をささげ、罪を犯して収容されている少年少女の足を洗った。



ミサはローマのカサル・デル・マルモ少年院で行われ、法王は少年少女の足に水を注ぎ、白いタオルでぬぐってキス

をした。



主の晩餐のミサはこれまでローマ大司教の聖堂であるサンジョバンニ・インラテラノ大聖堂で行われるのが慣例だった。

フランシスコ法王はこれを少年院で行うことで、また1つ慣例を破ったことになる。ローマ法王庁によると、法王は極め

て質素なミサを強く希望したという。



少年院の入所者から法王へは、院内の作業で作った木製の十字架と膝つき台を贈呈。フランシスコ法王はイースター

の卵と、ハトの形をしたイタリアの伝統菓子を全員に配る。



同少年院には14〜21歳の約50人が収容されている。法王が足を洗う若者は、さまざまな国や宗教の入所者の中か

ら選ばれ、女性2人とイスラム教徒2人が含まれていた。



この日午前にサンピエトロ大聖堂で行われたミサには、フランシスコ法王と共に枢機卿や司教など2000人以上と、

カトリック信者1万人以上が参列した。



☆☆☆☆


 


新ローマ法王:清貧の原点はスラム…通いつめ十数年

毎日新聞 2013年03月27日 12時14分(最終更新 03月27日 13時24分) より引用。



他の枢機卿と一緒のバスに乗り、ホテルの宿泊費を自ら支払うなど選出早々、型破りの行動で注目を浴びる

フランシスコ新ローマ法王(76)。そもそも、いかなる人物なのか。出身地のアルゼンチンを訪れた。【ブエノス

アイレス國枝すみれ】



新法王となったホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿はコンクラーベ(法王選挙会議)出席のためブエノスアイレス

をたつ際、旅行かばんを手に「すぐ帰ってくるからね」と言い残した。自分が選ばれるとは思っていなかったのだ。

仕事部屋のカギも携帯し、そのドアは閉まったままだ。



大聖堂のすぐ横で他の神父たちと台所共有のアパートに暮らす。自室は一つでベッド、机、椅子、整理ダンスし

かない。ブエノスアイレス大司教区で6年間部下だったフェデリコ・ワルス氏(32)は「本当に質素な方。自動車

も携帯電話も持たず、新聞も靴下も自分で買う。いただいた贈り物は全て貧しい人にあげる。大好物のチョコ

レートぐらいは食べたかもしれませんが」と証言する。



生家はブエノスアイレスの中産階級が住むフローレス地区に残る。4軒隣には11歳のころ「結婚したら赤い屋根

の白い家に住もうね」とラブレターを書いた初恋の相手が今も暮らす。



だが「貧しい者のための貧しい教会」を目指す法王の原点は、隣接するビジャソルダティ地区のスラム街にある。

十数年間、電車と地下鉄を1時間乗り継ぎ、ふん尿の臭いが漂う道路を歩いて通い、ホームレスや不法外国

移民の生活向上に尽力した。住民のスサナ・ビジャビセンシオさん(60)は「車で送るといっても断って歩いて帰

られる。私の堅信式(入信の儀礼の一つ)も執り行ってくれた」と言う。97年に建てた礼拝堂の名称は「聖フラン

シスコ・アシス」。「必要なのは愛と平和だけ」と一切の所有を拒否した13世紀イタリア・アッシジの聖フランシスコ

にちなんだ。法王名にも選んだ聖人だ。ただし保守派として、貧困層のために武器を取る聖職者も出した「解放の

神学」とは一線を画す。



「枢機卿(カルデナル)」と呼ばれるのを嫌がる。あいさつは「神父(パドレ)と呼んでくれ」で始まり、「私のために

祈ってください」で結ぶ。仲間の神父の誕生日には祝福の電話を入れ、南米で広く飲まれるマテ茶を信者と同じ

ストローで回し飲みした。




神父の性的虐待スキャンダル、バチカンの内紛……課題は山積している。小説「逆さの十字架」でカトリック教会

の偽善を暴いた作家のマルコス・アギニス氏は「教会は大改革が必要なことを認識している」と言い、ベルゴリオ

枢機卿が法王に選ばれたのは(1)欧州人でない(2)性的虐待問題が火を噴く北米大陸と無関係(3)アフリカの

宗教と混在し過ぎたブラジルを除く(4)前法王と違って強いメッセージと存在感を出せる人物??との観点からと

分析。「人当たりは柔らかいが信念は強固。同性愛者の教会婚は認めないが、シビルユニオンと呼ばれる一定

の法的保護は認めるだろう。妊娠中絶反対の立場は維持する一方、離婚、避妊、神父の妻帯は許す可能性が

ある」と推測する。




 

2013年3月24日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。

画像省略

新しく法王になったフランチェスコT世の写真(他のサイトより引用)ですが、フランチェスコという名前は13世紀に生きたアッシジの

聖フランシスコ(フランチェスコ)
から頂いたものと聴き感慨深いものを感じてなりませんでした。



また新法王フランチェスコT世の言動を見ると、アッシジの聖フランシスコに愛された弟子ジネプロを彷彿させる単純さや、ユーモア

の美徳が宿っているように感じてしまいます。



私にとって聖人とは、自分がどんな逆境にあろうと、人の喜びを喜び、人の悲しみを分かち合うことが出来る、ある意味とても単純な

人のことを指すのかもしれません(私には中々難しいですが)。



このような方は世には広く知られていなくても、案外身近にいるのかも知れませんね。



☆☆☆☆




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