Safely Darling pics of fatima

ファティマの聖母マリア



1970年前後に作られた、聖書ゆかりの地のスライド写真

「The Holy Land 100 Color Kodak Film Slides From Sami Awwad Jerusalem」

50年近く経った現在、スライド写真は少し変色しております。尚、このスライド集をお持ちだった方

(詳細不明)がスライドに場所の名前などを書いていましたので、そのまま共に記します。

(2017年5月13日)





エルサレム ダビデの墓


David - Wikipedia


Goliath


バト・シェバ - Wikipedia

David And Bathsheba ダビデとバト・シェバ(部分)。ヤン・マセイス画、1562年



ダビデ - Wikipedia より、以下引用。


ダビデ(ヘブライ語: ???? D?w?? (ダーウィーズ), ギリシア語: Δαβ?δ, ラテン語: David, アラビア語: ????? D???d)は、

古代イスラエルの王(在位:前1000年 - 前961年頃)。ダヴィデ、ダヴィドとも。



羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死したのちにユダで王位に着くと、

ペリシテ人を撃破し要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となり、40年間、王として君臨した。旧約聖書の

『サムエル記』および『列王記』に登場し、伝統的に『詩篇』の作者とされてきた。イスラム教においても預言者の一人に

位置づけられている。英語の男性名デイヴィッド(David)などは彼の名に由来する。



旧約聖書による生涯 少年期から即位まで



イスラエルの最初の王であったサウルは、アマレク人との戦いで主なる神の命令に背き、その寵を失った。



神の命をうけたサムエルは新たな王を見出して油を注ぐべく、ベツレヘムのエッサイなる人物の元に向かった。そこで

サムエルはエッサイの第八子で羊飼いの美しい少年ダビデに目をとめてこれに油を注いだ。主の霊がサウルを離れたため、

サウルは悪霊にさいなまれるようになった。そこで家臣たちが竪琴の巧みな者を側に置くように進言し、戦士であり竪琴も

巧みなダビデが王のもとに召し出された。ダビデが王のそばで竪琴を弾くとサウルの心は安まり気分がよくなった



その頃、サウルとイスラエル人たちはペリシテ人との戦いを繰り返していた。ペリシテ最強の戦士でガト出身のゴリアト

(ゴリアテ)はしばしば単身イスラエル軍の前に現れて挑発を繰り返したが、イスラエル兵はこれを恐れた。従軍していた

兄たちに食料を届けるために戦陣をおとずれたダビデは、ゴリアトの挑発を聞いて奮起し、その挑戦を受けることを決意した。

サウルの前にでたダビデはサウルの鎧と武器を与えられて身にまとったが、すぐにこれを脱ぎ、羊飼いの杖と石投げだけを

持って出て行った。



ゴリアトはダビデを見ると「さあ来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」と侮ったが、ダビデは「お前は剣や

槍や投げ槍でわたしに向かってくるが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち

向かう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」と答えた。ダビデが石を投じるとゴリアトの額に

めり込み、ゴリアトはうつぶせに倒れた。ダビデは剣を持っていなかったので、ゴリアトの剣を引き抜いてその首を落とした。

ペリシテ軍はこれを見て総崩れになり、追撃したイスラエル軍は大いに勝利した。



その後、ダビデは出陣の度に勝利をおさめ、人々の人気を博した。サウルはこれをねたみ、ダビデを憎むようになった。

サウルはペリシテ軍の手によってダビデを亡き者にしようとたびたび戦場に送り込んだが、ダビデはことごとく勝利をおさめ、

サウルの娘ミカルをめとった。ここにいたってサウルは家臣たちにダビデ殺害の命令を下したが、サウルの息子ヨナタンは

ダビデを愛していたので、ダビデにこれを告げ、ダビデは死地を逃れた。その後もサウルは幾度もダビデの命を狙ったが、

すべて失敗した。



サウルの手を逃れて各地を転々としたダビデであったが、あるとき、エン・ゲディの洞窟に隠れているときにサウルがそこに

入ってきた。ダビデの周囲の者たちはサウルを仕留めるように勧めたが、ダビデはこれをせず、ひそかにサウルの上着の

裾を切り取った。ダビデは何も気づかずに洞窟を出たサウルに裾を示し、害意のないことを告げた[4]。また、別の機会に

サウルがダビデを討つべく出陣したときに、ダビデがサウルの陣内に侵入するとサウルと従者が眠りこけていた。ダビデの

従者は再びサウルを討つことを進めたが、ダビデはこれを拒み、王の槍と水差しをもって陣営を出た。ダビデは再びサウルに

害意のないことを告げた。



その後、神の寵愛を失っていたサウルはペリシテの軍勢の前に敗れ、息子たちとともにギルボア山に追い詰められた。

ヨナタンを含む息子たちは戦死し、サウルは自ら剣の上に身を投じて死んだ。サウルの死を聞いたダビデは衣を引き裂いて

これを嘆いた。ダビデは神の託宣を受けてユダのヘブロンへ赴きそこで油を注がれてユダの王となった。



ユダの一族を率いたダビデは、サウルの後を継いだサウルの息子イシュ・ボシェト率いるイスラエルの軍勢と戦いを繰り

返した。イシュ・ボシェトは昼寝中に家臣に殺害され、その首がダビデの元にもたらされた。ダビデはイシュ・ボシェトを殺害

した2人を殺して木につるした。ここに至ってダビデは全イスラエルの王、指導者になり、エルサレムに進撃してそこを都と

した。



ダビデ王の治世とその晩年



エルサレムを都としたダビデはペリシテ軍を打ち破り、バアレ・ユダにあった神の箱をエルサレムに運び上げた。ダビデが

ヘブロンで即位したのは30歳のときであり、7年6ヶ月の間ヘブロンでユダを治め、33年の間エルサレムでイスラエル全土を

統治した。ダビデはペリシテ人だけでなく、モアブ人、アラム人、エドム人、アンモン人も打ち破り、これを配下に収めた。



ダビデは晩年、家臣ウリヤ (ヒッタイト)(英語版)の妻であるバト・シェバが水浴びしているのを見初め、彼女を呼び出し

関係を結ぶ。妊娠がばれるとまずいのでウリヤを戦場から連れ戻し、バト・シェバと床に入るように画策する。しかし、

これがうまく行かないことを知ると、ウリヤを最前線に追いやり、戦死させた。預言者ナタンはこれを知ってダビデを責めた。

ナタンがダビデの犯した罪をたとえ話で語るとダビデは自分のことと思わずに激怒し、「そんなことをした男は死罪だ」と

いった。ナタンがそれがダビデのことであると明かすと、ダビデは自らの罪を悔いた。神は罰として、バト・シェバから

生まれた子供の命を奪った。次にバト・シェバから生まれた子供が次の王になるソロモンである。また、ダビデの長男で

マアカから生まれたアムノンが妹タマルを犯し、それに怒った次男のアブサロムがアムノンを殺し、やがて父ダビデに対し

謀反を起こした。ダビデは一時都エルサレムを追われた。ダビデはなんとかアブサロムの反乱を収めたが、アブサロムは

ダビデの意に反して家臣によって殺害され、ダビデはアブサロムの死を嘆き悲しんだ。



ダビデは、中央集権的君主制を樹立し、傭兵の軍隊を組織した。そして、税を徴収するために人口調査のような改革策を

いくつか実施した。これらの改革案が人々に衝撃を与えた。ダビデは、いつの間にか王国をヤーヴェの神のものでなく、

自分のものとしていた。



年老いたダビデ王は体が暖まらなかったのでシュネムのアビシャグという美しい娘を傍らに置いて自らの世話をさせた。

そんな折ハギドの子アドニヤがダビデを差し置いて自ら王を名乗るという事件が起こった。ナタンとバト・シェバはこれを

聞いてダビデのもとに赴き、息子ソロモンを次の王にするという誓いをたてさせた。祭司ツァドクはソロモンに油を注ぎ、

ここにソロモンがイスラエルの3代目の王となった。ダビデはソロモンに戒めを残して世を去り、ダビデの町に葬られた。


 


バト・シェバ - Wikipedia より、以下引用。


バト・シェバ(ヘブライ語: ?? ????)は、ヘブライ語聖書によれば、ヒッタイト人ウリヤ (ヒッタイト)(英語版)の妻で、後に

古代イスラエルの王ダビデの妻、ダビデの跡を継いで王となったソロモンの母。バテシバ、バテ・シェバとも表記される。



聖書から



「バト・シェバ」という名前のヘブライ語における意味は明らかではなく、ヒッタイト語(カナン語/インド・ヨーロッパ語)に

由来する可能性がある。名前の第2の部分は、旧約聖書・歴代誌・上・第3章5節では「shua (Bath-shua)」となっている。



バト・シェバはエリアム(歴代誌・上・第3章5節ではアミエル (Ammiel) と呼ばれている。)の娘である(サムエル記・下・第

11章3節)。彼女の父親は一部の学者によってサムエル記・下・第23章34節にギロ人アヒトフェル (Ahitophel) の子エリアムと

して登場する人物と同一視されている。



バト・シェバはヒッタイト人ウリヤの妻であったが、後にダビデの妻となり、ダビデの跡を継いでイスラエル王国の王となった

ソロモンを産んだ。



ダビデがバト・シェバに言い寄る物語はサムエル記・下・第11章で言及され、歴代誌では省略されている。物語はダビデが王宮

の屋上を散歩している時、水浴中のウリヤの妻バト・シェバに目を留めた事を伝えている。ダビデはすぐに彼女を呼び寄せ、関係

を持ち妊娠させた。



ダビデは自らの罪を隠そうとし、ウリヤを妻バト・シェバと性交させ、子供が自分のものだと考えることを期待して、ウリヤを

戦闘中の軍から呼び戻した。ウリヤは戦闘中の兵士を律する古来よりの習わしに背く事を望まず、自宅のベッドで寝るよりも王宮

の兵士たちと共に滞在する事を選んだ。



ウリヤ自身がバト・シェバを妊娠させたと信じ込ませようとする試みが不首尾に終わった後、王は彼の将軍ヨアブ (Joab) に

ウリヤを激戦の最中に見捨て、敵陣に置き去りにするよう命令を与えた。皮肉にも、ダビデはウリヤに彼自身の死を命ずる書状

を持って行かせた。ウリヤの死後、ダビデは未亡人となったバト・シェバを妻に迎えた。



サムエル記によると、主はダビデの行動に怒り、王を叱責するために預言者ナタンを遣わせた。預言者は貧しい隣人から1匹の

小羊を奪った金持ちの寓話を話し、不正な行為に対する王の激しい怒りを起こさせた後、これをダビデのバト・シェバに対する

行為に例えた(サムエル記・下・第12章1-6節)。王はすぐに自らの罪を懺悔して、心からの悔悟を表明した。ダビデとバト・

シェバの子供は重病に罹り、出生後わずか数日で他界した。王はこれを自らに対する罰として受け入れた。



ナタンもまた、ダビデの家が姦淫と謀殺のために呪われ不安定になっている事に気付いていた。数年後ダビデが寵愛した息子の

1人アブサロムが反乱を起こし、王国を内戦状態に陥れた。ナタンの預言通り、新らしい王である事を明確に示すため、アブサ

ロムは人前で父の側室のうちの10人と性交をした。これは他の男性の妻を奪い取ったダビデの行為に対して、神が与えた10倍の

罰と見なす事ができる。



ダビデの老年期、バト・シェバは生存するダビデの最年長の息子アドニヤ(英語版)の代わりに彼女の息子ソロモンの王位継承

を確実なものとした。(列王記・上・第1章11-31節)。



Грех Давида 1_19_10

 ダビデとバト・シェバ ヤン・マセイス画、1562年


Biblical King David Biography

ダビデの最初の妻、サウルの娘ミカル



APOD: 2017 August 7 - Spiral Galaxy NGC 1512: The Inner Ring

(大きな画像)



銀河の「ダビデ」と「ゴリアテ」



旧約聖書に登場するイスラエルの王「ダビデ」、このダビデがまだ羊飼いの少年だった頃に巨人「ゴリアテ」を倒します。



大きな棒渦巻銀河である「NGC 1512」と、小さな矮小銀河である「NGC 1510」の姿はダビデとゴリアテの物語を彷彿

させます。



この2つの銀河は共に、地球から約3000万光年離れたところに、とけい座の方向に位置しています。



大きな銀河「NGC 1512」の外側のリングから中心に向かってガスと塵が運ばれ、内側の円盤「核周辺スターバースト・リング」

では活発に星が誕生していますが、今から4億年前はは2つの銀河だったらしいです。外側の年老いた銀河が「NGC 1512」に

吸収され、現在の姿になっていると考えられています。



また大きな銀河「NGC 1512」からは、巻きひげのような腕が小さな銀河「NGC 1510」を包むように渦巻いていますが、それは

互いの強い重力的な相互作用の影響です。





銀河の「ダビデ」と「ゴリアテ」 - AstroArts を参照sれたし。



ESA Science & Technology: NGC 1512 and NGC 1510

(大きな画像)



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