「ナバホの大地へ」
文・写真 ぬくみ ちほ 理論社 より引用
ナバホに何回も逗留した著者による体験記で、素直で飾らない文体は 彼らナバホ族も私たちと同じように、今この空の下に生きていることを 感じさせてくれる。ぬくみさんの著作は他に「ナバホの人たちに聞く」 「うさぎあそびうた」「カラスとよる」「ホワイトサンズ 白い風 白い時」 があり、訳書として「俺の心は大地とひとつだ」、「ナバホ・タブー」、 「クレイジー・ホース」がある。 2002年10月3日 (K.K)
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本書より引用
私は何に急いでいたのだろう。ゆっくりと通りすぎる景色のなか、アメリカへ 来る前も来てからも、何をするにも自分は飛ばしすぎていたのではないかと 思いはじめた。ナバホに来てから見かける人たち、道を教えてくれたおじさ ん、オフィスの女性たち、みんなみんなおっとりしている。人だけではない。 地平線までつづく空も、大地も、ゆったりとしている。
私はその日、家の仕事を手伝っていた。柵から羊と牛を放った。柵の中の大きな アルミ缶の水を替えながら、ずっとあの夢を思い出していた。夢の中で山に感じた あの気配は、なにかなつかしいものだった。斧をふりあげ薪を割りながら、私は子 どものころに、アイリーンさんほどではなかったが、体格のいい祖母と二人で散歩 をしたときのことを思い出していた。生まれ育った千葉市には、住宅街がつぎつぎ とできていくなかに、取り残されたかのように畑が横たわる場所がある。両側に畑 の広がる道を歩きながら、祖母と私はお地蔵さんの前にさしかかった。目をつぶ り、あぐらをくんで座るお地蔵さんの石の顔はとても静かだった。お地蔵さんの前 にさしかかった。目をつぶり、あぐらをくんで座るお地蔵さんの石の顔はとても静 かだった。お地蔵さんが座っている石の台の前には、草花が生けられていた。 近くに住むだれかが、そこで祈っていたのだろう。祖母は私をお地蔵さんに向か わせ、手を合わすように言った。手を合わせて目をつぶり、祖母は祈った。私も 手を合わせて目をつぶった。「お地蔵さんはね、この道で事故が起こりませんよう に、ここを通る人たちが幸せに暮らしますようにって見守ってくれているのよ」 祖母はそう言っていた。大きくなってから、お地蔵さんの前を通っただろうか。あ のころのように手を合わせたことがあっただろうか。日本でもお地蔵さんの前を 通っているはずなのに、どこで見かけたのか思い出せないでいた。あのころ祖母 が私に教えてくれたのは、目には見えないものへの畏怖の念だ。それが大きく なるにつれ消えていった。そうだ。私は子どものころ、目に見えないなにかがい ると思っていた。遊びすぎて、暗くなった道をひとり帰るときも、なにかがいっしょ に歩いてくれているような気がしていた。お地蔵さんの前でも、神社に行ったと きも、そこにいるなにかに一生懸命に祈っていた。私はアイリーンさんの家に いると、そんな子ども時代に、自然に信じていたものを思い出す。木に登り、草 や土の上を走り、自然ととけあっていたころのことがよみがえってくる。風にのっ て山を巡った夢のなかで、遠い昔はいつも感じていた見えないものにまた出会っ た。ジェイさんはそれを風の人々と山の人々と言っていた。その精霊たちはナバ ホの創世神話にも登場する。精霊たちとともに暮らすナバホの人たちは、いつも 身近にいる見えないものへ祈り、感謝し、畏怖の念を抱いている。日本人も昔は そうだったにちがいない。手を合わせるという動作は、ずっとずっと昔から、私た ちの先祖がいつも祈ってきたことの名残のような気がしてならない。お地蔵さん に手を合わせていた祖母はきっと、生まれたときからなにかに祈り、感謝し、畏 れていたのだ。祖母がこの世を去る数日前、私はその病室にいた。祖母はもう ろうとしながらも、「お迎えがきた。ほら、みんなが迎えにきてくれた」といってほ ほえんだ。祖母は見えないものが人を見守り、祖母自身も見守られていると生 涯感じていたのだ。ここナバホの大地で感じる、人よりもずっとずっと大きく世界 そのものを包みこむような魂を、お地蔵さんに手を合わせることで、私は祖母に 教えてもらっていた。
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目次
第一章 アイリーンさんの暮らし 朝の祈り 祈りのパイプ アイリーンさんの一日
第二章 ナバホに行くまで アメリカに行きたい インディアンとネイティブ・アメリカン ポーラとメロー リザベーションとBIA ナバホ・リザベーション アッヒャヘ(ありがとう) ナバホとデェネエ アイリーンさんの生い立ち 寄宿学校を体験したあるナバホ女性の話
第三章 牛追い いなくなった十頭の牛 しまった! 歴史としてのナバホ創世神話
第四章 羊さがし ふたたびナバホの大地へ 見えないものへの祈り ナバホの家 ホーガン
第五章 祈祷 魔術をかけられて メディスンマンのところで ナバホのタブー(してはいけないこと)
第六章 孫たちへのプレゼント イースター・デー ユッカ・シャンプー アイリーンさんのナバホ料理のレシピ
第七章 羊の解体 昇りたての朝日を浴びて 命を食べる
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