Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)
アラスカ・コユーコン族・長老たちからの贈りもの リチャード・ネルソン著 星川淳訳 星野道夫写真 めるくまーる より引用 1991年 ジョン・バロウズ賞受賞作
そこからゆっくり歩み去りながら、心の中で何度もさきほどの体験を反芻してみる。それは 何ヶ月も前、いつか鹿にさわれるかもしれないという夢を抱いたことから始まったのだった。 しかしこの秋、無邪気な小鹿で試して失敗したあと、そんな夢はとうていかなえられないか、 そもそも馬鹿げていたのだとあきらめかけていた。それがいま、まったく予想外の不思議な 形で実現したのだ。雌鹿は向こう見ずな好奇心に駆られたのだろうか。野生が支配するこ の島で、いままで一度も人間に出会ったことがないのだろうか。それとも、さかりの勢いで 何か妙な錯覚を起こしたのだろうか。いろいろ想像しているうちに、本当のところそんなこ とはどうでもいいのだと気づいた。この際、すべてを説明しなければ気がすまないという考 えに流されず、起こったことを純粋な経験として受け入れよう。コユーコンの長老たちは、 やって来るものを虚心に受け入れる。彼らは森羅万象に魂と意識があると教え、自分をそ の世界に明けわたしながら、しかも特別な声が聞こえるのを期待するわけではなく、啓示 の訪れを待つでもなく、見えない領域に踏みこむ特権を求めることもない。ウィリアム爺と 最後に狩りに行ったときの出来事を思い出す。草地のはずれに腰をおろして話をしている とき、そばの木の梢で1羽の珍しい鳥が歌とおしゃべりを始めた。最初は小ぶりの鷹に見 えたのだが、どうも色と形がちがう。ぼくがなんの鳥かたずねると、爺はその鳴き声にじっ と聞き耳を立てたあと、ぼくの双眼鏡を取り上げ、好奇心ととまどいの入り混じった顔で長 い間観察していた。「わからんな」彼は独り言のようにつぶやいてから、それまでぼくが聞 いたことのないむずかしそうなコユーコン語の名前を挙げた。まもなく、爺の関心が懸念 に変わった。その見かけない鳥がやって来たのは何かの兆しだったのだろうか。突然、爺 はやさしく穏やかな口調で鳥に向かってコユーコン語の長広舌をふるいだした。「あんた はどなたかね?」彼は訝しむ。「そしてわれらに何を言いたいのかな?」爺は草地の中へ 歩み入りながら語りかけを続け、その雄弁な鳥は不吉な来訪者などではなく、ふつうの 鳥のはずだというそぶりを装っていた。「だれでもかまわんが、われらに幸運を祈ってく だされ」爺は言う。「われらがつつがなく暮らせるよう祈り、あんたの孫であるわれらを円 く囲んでくだされ」。そのころには、ぼくもそれがなんの鳥か知りたい気持ちなど失せて、 一羽の鳥に慈悲と庇護を乞うウィリアム爺にすっかり見とれていた。木のてっぺんにいる 羽根の生えた使者にあいさつを述べる男。その情景には、ぼくがコユーコンの人びとか ら学んだすべてが凝縮していた。魂と力に満ちた自然界で生きることについて、彼らが ぼくに教えようとしたすべてが集約されていたのである。あれほどの感動は生まれてか らめったに味わったことがない。人びとは何千世代にわたって、日々の暮らしの中でご くさりげなく周囲の自然存在たちに語りかけ、祈りを捧げてきたにちがいない。人類史 の他のどの時代であっても、そのときぼくが目にしたこと、つまり人が鳥をはじめ自然 存在に語りかけることは、人が人に語りかけるのと同じくらい当然だったのだろう。ウィ リアム爺はぼくから見ると、自分が生きる世界に偏在する力にひれ伏して願い、祈りを 捧げる普遍的人間の姿を代表している。そうした力は、ぼく自身も属する社会がつい 最近になって忘れ去ったものだ。ウィリアム爺の行動がしごくあたりまえのこととして ぼくの目に映るくらいだったら救われたろうに。爺が理解していることを手放してしまっ たぼくの祖先たちが悔やまれた。二人とも、そのときはそれがなんの鳥かわからずじ まいだったが、ぼくはあとで調べて若いオオモズだろうという結論に達した。それにして も、もしあの鳥が本当になんらかの予兆を携えていたのだとしたら、いったいだれに向 けたものだったのだろう。湿原の山側のはずれに沿う木立の陰で足を止め、コユーコ ンの人びとと過ごした日々を思い返す。いまのぼくにとって一番大きいのは、自然から 何も期待することなく、その神秘と美と糧、そして生命を謙虚に受け取る、彼らの伝統 特有の知恵だ。その返礼としてコユーコンの人びとは、魂と聖性が万物に遍満するこ とを認め、人間に向けるのと同じ敬意を自然に対して示す。ぼくの理解が正しければ、 自然に対する彼らの行動はいくつかの単純な原則にのっとっている。ゆっくり動くこと、 おとなしくしていること、注意深く観察すること、つねに謙虚であること、傲慢さや無礼は 固く慎むこと --- 。そのうえで、彼らの従う最大の掟を一つだけ挙げるとしたら、それ は彼ら自身もその一部である全生命に謙虚さと慎みをもって接することだろう。万物は それぞれに特別な存在なのだ。昨日と今日の体験を振り返って、代々の長老たちに よって練り上げられた大地に根ざす知恵の光に照らしたとき、一つ大切な教訓が得ら れる。二頭の鹿がやって来て、ぼくに二つの道を開いてくれた。一頭は獲物となり、お かげでぼくらは一つの体を共有することになった。もう一頭は手を触れさせてくれ、お かげでぼくらは一つの体を共有することになった。二つの出来事は正反対に見える が、もしかしたらそっくり同じ一つのことなのかもしれない。どちらも同じ原則、同じ関 係、同じ相互性の上に成り立っている。だから二つの出来事は実は同種の贈りもの にちがいない。コユーコンの長老たちなら、彼ら一流の表現で、ぼくが恵みの二つの 瞬間、つまり彼らの言う“幸運”の瞬間に踏みこんだと説明するだろう。狩人であれ 目撃者であれ、幸運の瞬間に分け入ることがあって初めて成果を上げられる。技術 によるものでもなければ才知やずる賢さによるものでもない。自然には、そこから授 かることができるだけで、けっして奪い取れないものもあるのだ。
心に響く言葉・アタルヴァ・ヴェーダ(七の六六)を参照されたし
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