チェス(CHESS)


GM Zenón Franco Ocampos. Partidas Memorables (98). Vladimir Tukmakov vs. Oscar Panno, Buenos Aires 1970. ABC Color Digital. Paraguay

左からスミスロフ、ナイドルフ、パノ、フィッシャー 1970年 ブエノスアイレス


「チェスの名局」・Fischer(フィッシャー) vs Panno ブエノスアイレス 1970年7月30日




Robert James Fischer vs Oscar Panno
"The Pann-handler" (game of the day Jan-08-10)
Buenos Aires 1970 · Sicilian Defense: French Variation (A04) · 1-0


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以下、「楽しいチェス読本」ロフリン著 より引用


複雑な局面で、攻撃強化手段を判定する際、多くは中間の着手がポイントになります。これを手品の

ように巧妙に使ったのは、アメリカのフィッシャーでしょう。彼のたくさんの試合のなかから、1つだけとり

あげてみましょう。フィッシャーが白番です。






黒の防御態勢は完全に見えるのですが、予期せぬ試合展開になりました。

1.Be4 ! Qe7

(もし 1...de4 とすれば、2.N3e4 で次に 3.Nf6) 黒の敗けです。


(中略)


1966年におけるチェス界5人のスターの1人で、急速に頭角をあらわしたアメリカのロバート・フィッシャー

に目を転じましょう。彼は1943年生まれの全米チャンピオンで、ボトビニクは彼について「アメリカチャン

ピオンは、大変な才能をもったプレーヤーである。彼は確実に、素早く、戦術のもつれを解明し、バリエー

ションを計算する。試合が漠然とした性格をあらわしたときには、まず第1にプランの問題とポジションの

判定について決定しなければならない。フィッシャーはまだその点で不十分であるのだが・・・」 そして、

「もしこの2~3年でフィッシャーがチャンピオンになれなかったときは、彼に2度とチャンスはまわってこな

いだろう」と記しています。最初の部分は討論に値するとしても、後半はほとんど的中しました。1972年に、

彼は世界チャンピオンとなったのです。



フィッシャーは15歳にして、すでに国際的巨匠として認められていました。チェス史上、他に例のないこと

です。当時の彼は、生活の趣味や思考をすべてチェスに関連づけ、夢はチェスの世界チャンピオンになる

ことでした。100年ほど前に、未公認ながらチャンピオンになったアメリカ人ポール・モーフィーのように。



当然のことですが、偶然や気まぐれで世界チャンピオンになれるものではありません。フィッシャーの最初

の成功は、国内においてでした。ある大会で12試合をやり、彼は12ポイントを獲得しました。それから国際

地区大会、ストックホルム(1962年)、パルム・デ・マヨルカ(1970年)での勝利、そして国際選手権での勝利、

ザグレブ、ブエノスアイレス、ベオグラード。1971年に世界選手権挑戦者になったときの3巨匠との試合が

彼のレコードです。タイマノフに6-0、ペトロシアンに6.5-2.5という成績でした。



彼のスタイルと型の特徴は、棋風は堂々として、指された手にはすばやく反応し、稀有の記憶力をもち、

序盤戦に長じているということです。最も重要なことは、彼の気質です。途方もないバイタリティーにあふれ

ているのです。これらの力が一体となって試合で発揮されるのです。フィッシャーの銘は「闘いは最後の一

兵まで」ということでしょう。



フィッシャーのこういった長所を無視して、たとえばラースンはこう主張したのです。「世界選手権のような

長い試合(24試合)は、スパスキーにとって有利と言わねばならない」と。たしかにスパスキーは、モスクワ

に戻ってきたときに著者に向って「最後の最後まで希望は捨てなかった。王座を死守できると思っていた

のだが」と語ってくれました。



1972年夏、レイキャビクで行なわれた試合を簡単にみてみることにしましょう。最初の10試合はスパスキー

にとってきわめて悪い状態でした。彼は戦略的な誤りと戦術的な失敗を重ねていました。心理的にもあまり

良い状態ではありませんでした。フィッシャーは対戦者と審判に対して、容認しがたい毒舌をはき、世界選手

権にふさわしい試合の雰囲気ではなかったように思われます。すべての状況が否定的な役割を果したとい

えるでしょうし、フィッシャーは後半戦での敗北を計算していたように思われます。事実、後半戦のポイントは

それほど良くはなかったのです。いずれにしろ、ソ連の名人がふつうに指せる状態ではなかったかもしれま

せん。



後半戦の11試合は6-5でフィッシャーが勝っていますが、ボトビニクの「試合におけるフィッシャーの天才的

技術」についての見解は反駁されたのです。スパスキーの11試合目の勝利と、フィッシャーの13試合の勝利

を分析すると、戦いにおける屈折の様子がわかります。私はレイキャビクの観戦者である巨匠クロギウスに

質問してみました。後半戦でフィッシャーが戦術的に特別の抑制をした様子が見られなかったか(意識的な

防衛への移行)?と。答えは、フィッシャーは後半戦では非常に疲れていたようだったし、力の限界を越えて

指していた(スパスキーが攻勢にでていった頃から)ということでした。



たしかに考えられることであり、ソ連の獅子の目覚めるのが少々遅かったということでしょう。結果を分析し

て、多くの専門家が指摘したことは、レイキャビクでの試合の準備中、スパスキーは自分の力を過信して

しまったということです。戦力向上のため、国内でのトーナメントに出場し、試合に必要なものをすべて取り

戻しておかねばならなかったにもかかわらず、彼はそれをやらなかったからです。実際のところ、ソ連の

プレーヤーで世界チャンピオンになった者のうち、ボトビニクを除いては誰も全ソ選手権で競技をしたものは

それまでいなかったのです。



新チャンピオンの、序盤の組み立て方に関する主張には、彼特有の分析的能力は感じられません。元チャ

ンピオンのスミスロフは、次のように強調しています。「たえずチェス研究に没頭しているフィッシャーは、ス

パスキー以上に下準備をしていました。以前からフィッシャーが白盤のときの第1手は常にe4であると見なさ

れており、その対応策を準備することは容易でした。しかし実際には、フィッシャーはものすごいエネルギー

とすばらしい記憶力で、種々の序盤戦のシステムを準備し、ポジション研究による卓越した技術を示したの

でした。」









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