Fichier:Boris Spassky 1978.jpg - Wikipedia
HISTORICAL PHOTOS AND PUBLICATIONS
ボリス・スパスキー(Boris Spassky) 第10代世界チャンピオン (1937年1月30日生まれ)
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古今を問わずチェスを愛した数多くの人の中で、人間として最も尊敬を感じるのは誰だろうか? アビラの聖女テレサ、法王レオ13世、トルストイ、ツルゲーネフ、セルバンテス(「ドン・キホーテ」の 作者)、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(「星の王子さま」の作者)、プーシキンなど。チェス棋士 では、旧ユーゴスラビアの国民的英雄であったパッハマン、彼は共産主義であった当時のユーゴ スラビア生まれの著名なチェス名人で、自由化(プラハの春)を訴え「二千語宣言」を起草した一人 でしたが、ソ連軍が軍事介入(チェコ動乱)し、彼は投獄されてしまいます。数ヶ月に及ぶ拷問を受 け、自殺を図ったこともありますが、世界中のチェスファンの嘆願により解放され、西ドイツに移住 することが許されました。そんなパッハマンも2003年の3月6日78歳で亡くなりましたが、彼のチェ スの戦略を書いた本は今でも名著として高い評価を得ています。そして、このチェコ動乱の際に、ソ 連期待の天才チェス棋士スパスキーは、他のソ連選手と違い、直後の国際トーナメントで黒の腕章を をつけたチェコ選手のひとりひとりの手を握りしめたのでした。私も含めて、日本人には想像もつか ないことだと思いますが、当時の体制に異論を唱えることはどれ程危険なことだったでしょう。スパス キーはその後、伝説になった故フィッシャーとチェス世界選手権(1972年)を戦いますが、彼が暗に ソ連に抗議した行動は、世界中のチェスファンの胸に今も刻まれています。
スパスキィは天性、典型的なスポーツマンで、また一個の若者として運動競技を愛し、その方でも よい成績を残しています。教養高く、人間活動のあらゆる分野に興味を持つインテリアで一点の 非のうちどころない人間として、謙虚なそして誰もが否定することのできないチェスの天才として、 スパスキィは全世界のチェス愛好者が永年待ちのぞんでいた理想像そのものといえましょう。 マックス・エイベ 「激闘譜」より引用
1965年撮影 対戦相手はグリゴリッチ(Svetozar Gligoric) スパスキーの名局 Boris Spassky vs David Bronstein "The SMERSH Gambit" (game of the day Aug-29-11) URS-ch 1960 ・ King's Gambit: Accepted. Modern Defense (C36) ・ 1-0 レニングラード(現在のサンクト・ペテルブルグ)で行なわれたソ連選手権での試合 だが、この試合の終盤の局面が「007危機一髪 ロシアより愛をこめて」という映画 の中で登場する有名なものです。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1966年頃の撮影 ボリス・スパスキーに親しくあうのは、ひじょうな名誉だ(7月14日朝、サガ・ホテルの 朝食時に6頁の長広告を・・・・そのなかでフィッシャーは前夜の競技を拒否した事情 を釈明し、選手権そのものが中止になるとおどしつけていたのだが・・・・かれの目に ふれさせたのは、まったくの偶然から、わたしであった。スパスキーが「この手紙には ありとあらゆるものがありますね、チェスいがいの」と感想をもらしたときの、悲しみを たたえた丁寧な口ぶりは、かれならではのものだった)。 かれはたいへんな魅力をもつ、非のうちどころない礼儀を身につけたひとである。お よそフィッシャーとちがって、スパスキーは読み書き能力は多岐にわたり、その政治 意識は敏感であるとともに大人だ。かれはドストエフスキーとソルジェニーツィンを愛読 している。かれはかつて入院したことがない。1968年8月のソビエトの侵攻まもないあ る国際トーナメントに、チェコの競技者が腕に喪章をまいてきたとき、慎重ななかにも、 あえて同情の意思表示をした唯一のロシア人がスパスキーであり、ひとりひとりの手を にぎりしめたのだった。ひとことでいえば、かれがときおりみせる和やかな、ユーモアた っぷりのひとがらに、奥ふかく秘められた力と信念のみなもとがある。かれはこのゲー ムの、おどろくほど才能に恵まれ、しかもすみずみまで訓練のいきとどいた名人なのだ。 ケーレスやタリ、ブロンステーイン、ラーセン、そしてフィッシャーの時代のチャンピオン として、なんら不足はなかった。
だが、その典雅な個性は、たしかに重大な弱点をつくっていた。スパスキーは憂鬱に おちいりやすく、内省的なうけ身をとりがちになる(ロシアの文学なり人生観にあるオブ ローモフ気質)。最終分析にあたっては、意識・・・・知覚・・・・の内容が、かれにはチェ スを指すことよりも問題であるらしい。局面のわずかな利益から勝利をもぎとり、相手 の心臓部に楔を打ちこもうとはかる殺し屋の牙と偏執狂の緊張とが、かれには欠けて いる。チェス盤をまえにしたときのスパスキーの落ち着きは、ひどく難儀したときでさえ そうなのだが、有名である。それは、ひとつには紳士たる礼儀作法と偉大な技巧派の 克己とによるものだ。が、それはまた、このゲームにたいする極端な冷静さ・・・・たぶん 意識下での、フィッシャーが公言したような「すべて」ではないという実感・・・・のあらわれ だろう。ボリス・スパスキーの、一個の男としての立派さ、一競技者としての弱点は、 1972年のながい夏をとおして、大きな比重をしめるのであった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スパスキーとフィッシャー 1970年9月20日、ドイツ・シーゲンのチェス・オリンピックでの対戦 マックス・エイベ「激闘譜」より引用 ボリス・スパスキィ。10人目のチャンピオン。1937年1月30日生まれ。ピオニールの少年宮でチェスを始め、 早くから異才を発揮しました。11才のとき第1カテゴリーに仲間入りし、13才のときマスター・カンディデイトです。 5年後、未だ学生のとき、ブカレストの大会に出場し4−6位。この大会でスミスロフに対する勝を入れてイン ター・ナショナル・マスター位を与えられました。1955年、世界ジュニア選手権優勝、続いてインター・ゾーナル、 挑戦者決定戦と進みます。19才、当時として史上最年少でGMの栄冠に輝きます。何度かの挫折はありまし たが、超スピードの上達は彼をして未来の挑戦者たる評判を得るに充分でした。 連勝につぐ連勝、しかし最後の瞬間の不覚が彼を世界タイトルへの道から追い落とし、雌伏の10年が続きま す。1958年の場合、彼はタリの引き分けの申し出を拒否しました。ここで申し出を受け0.5を得ておけばイン ター・ゾーナル進出は決定していたことでしょう。この局と次の局を破れ、スパスキィは無念、3年後の次ぎの 機会を待つことを余儀なくされました。 3年後、同じことが繰り返されます。インター・ゾーナル進出を懸ける28回全ソ選手権、終幕まであと2局にせま り、スパスキィに必要なのはあと0.5勝。どちらかを引き分けにすればよいところをまた2連敗。しかし、スパスキィ はこれらの苦渋を転機として更に急速に技に練達を加えました。 1964年、新生のスパスキィはインター・ゾーナル勝者として、ペトロシアンへ挑戦する資格を争う8人の仲間入り をしました。それぞれ個性に満ちたチェス界の8つの巨星たち、スミスロフ、ボルティッシュ、イフコフ、ラースン。 そして彼が倒したケレス、ゲラー。優勝決定戦、タリとの一戦にも勝ち宿望の挑戦権を得たスパスキィはしかし 待ち受けるペトロシアンに返り打ちを受け、チャンピオンの座は動きません。 1968年、スパスキィは再び頂上征服を目指します。ゲラー、ラースンを悠然と破り、過去のしくじりによる心理的 な影響も克服して最終戦のコルチノイをも血祭り。3局を通じて勝負のついたものは8勝2敗という快勝を背にし て、スパスキィは再度ペトロシアンとの決闘にのぞみます。 歴史は、世界チャンピオン決定戦で、一流のプレーヤーが自信あるプレイができず精神のバランスをくずして 敗退する例を多く示しています。スパスキィは、自分もそういう失敗者群に投ずることを拒否、根性とチェス盤上 の調和のある手法とにより、ついに勝利を得ることになります。多くのドラマチックな場合の連続による心理的 な闘争。そして10人目のチャンピオン、スパスキィの誕生です。 このあとの2年間、スパスキィはたまにトーナメントに出場しましたが成果はあまりおくありませんでした。1972年 夏、レイキャビクにおいて、挑戦者決定戦の勝者フィッシャーと、双方引くに引けぬ緊張の極に達したせ界タイト ルマッチをスパスキィは迎えます。試合内容も世界中の興奮にこたえるものでした。フィッシャーは、世界チャン ピオンの自身をゆさぶり世紀の対決に勝ちました。11人目のチャンピオンとして・・・。 1973年スパスキィは大活躍して、全ソ選手権などで88勝を残しました。そして1974年、三度挑戦者決定戦に身を 置いた彼は、準々決勝、バーンに楽勝したあと、準決勝でカルポフに予想を裏切って敗れました。 スパスキィは天性、典型的なスポーツマンで、また一個の若者として運動競技を愛し、その方でもよい成績を残し ています。教養高く、人間活動のあらゆる分野に興味を持つインテリアで一点の非のうちどころない人間として、 謙虚なそして誰もが否定することのできないチェスの天才として、スパスキィは全世界のチェス愛好者が永年待 ちのぞんでいた理想像そのものといえましょう。 (注)スパスキーは1975年、フランスに亡命しました。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「天声人語」朝日新聞2004年8月19日朝刊 より以下引用 10年ほど前、「ボビー・フィッシャーを探して」という題名の米国映画が公開された。チェスに才能 を見せる少年を描いた作品だ。題名の人物は、実在するチェスの元世界チャンピオンである。 一時は米国の英雄ともてはやされたが、忽然と姿を消し、もはや伝説の存在に近かった。先月、 彼が成田空港で拘束されたという報は世界をめぐった。不法入国をしていた疑いである。米国に とっても彼は「お尋ね者」だった。強制送還されるかどうか、世界のメディアが注視している。「私 を逮捕してボビーと同じ部屋に入れてください。チェスの道具と一緒に」。ブッシュ大統領あてに そう懇請したのは、宿命のライバルともいえるボリス・スパスキーさんだ。旧ソ連時代の世界チャ ンピオンである。72年、世紀の対決と騒がれた対局でフィッシャーさんにタイトルを奪われた。2人 は92年に旧ユーゴで再戦、この時もフィッシャーさんが勝った。米国は経済制裁下の旧ユーゴで の対局を容認せず、フィッシャーさんを起訴、以来彼は「逃亡生活」をしていた。その間、反米的 発言で米政府を刺激したこともあった。「彼は悲劇的な性格の人だ。恐ろしく非社交的で、普通 の基準には合わない。いつも自分の損になることばかりしている」。スパスキーさんは宿敵につ いてそう言いながら寛容な措置を乞うた。チェスの試合では引き分けが多い。チェスの名人を めぐって今後、日米間の綱引きもあるだろう。強制送還ではなく、せめて引き分けに持ち込めな いものか。チェスファンの願いだろう。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スパスキーの名局集 Spassky Defeats the Best Compiled by Anatoly21 棋譜を見るにはブラウザ「Internet Explorer」が必要で、 「Google Chrome」では出来ません。 またJAVA アプレットがインストールされていないと棋譜が表示されません。 Javaコントロール・パネルでのセキュリティ・レベルの設定 Spassky_Best.pgn へのリンク (チェス棋譜再現ソフトをご用意ください) スパスキーの全棋譜(2285局)はこちら |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
以下、「決定力を鍛える チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣」 ガルリ・カスパロフ著 近藤隆文訳 NHK出版 より引用 ふたつの対照的なチェスの知の泉 チグラン・ペトロシアンは第9代世界チャンピオンであり、ボリス・スパスキーは2度目の挑戦でペトロシアンから タイトルを奪った人物である。ふたりはソ連代表のチームメイトで、国際舞台にデビューした当時の私にとって 専任の家庭教師のような存在だった。いまだ第一線で活躍するプレーヤーでありながら、トップレベルでの豊富 な経験を新進の後輩に分け与えてくれたのである。 彼らの教えを受けるようになったのは、実際に出会うよりはるか昔、両者にとって2度目となる1969年の世界 チャンピオン戦に関する書物を通じてのことだった。その本は子供のころにプレゼントされたものだが、ページ をめくり、彼らの対局にふれる楽しさはいまも変らない。 ペトロシアンとスパスキーは盤をはさんでの稽古もつけてくれた。私はどちらに対しても最初の2度の決戦で 優勢なポジションから負けを喫しており、年を重ねて分別がつくようになってようやく通算成績を2−2の互角に もちこんだにすぎない。 ペトロシアンは1963年、私が生まれた年にタイトル戦を制して、ボトヴィニクの時代に終止符を打った人物で ある。その恐るべき守備的な棋風は、勝利には1勝無敗で事足りるマッチ形式にうってつけだった。ボトヴィニク もめずらしく勝者を称え、局面を深く評価する能力にかけてペトロシアンの右に出る者はないと語っている。 スパスキーは真に万能の棋士であり、華麗な攻撃と冷静なマヌーバリンングプレーのどちらにも長けていた。 最初の世界チャンピオン戦では、複雑な局面におけるペトロシアンの能力を侮ったのが響いた。2度目の1969 年の対戦では、自身の攻撃性をコントロールして勝利する。だが残念ながら、スパスキーは何より、1972年の アイスランドはレイキャヴィクでの有名な試合でアメリカ人ボビー・フィッシャーにタイトルを奪われたことで記憶 されている。 気ままな性格のスパスキーは、長くトップにとどまるために必要なたゆまぬ努力をすることもなかった。自由を 重んじる彼はソ連的精神を受けいれず、フランス人女性と結婚して1976年にフランスに移住。現在は、ロシア 民族主義者で君主制支持者であると自負している。 「スパスキーはうらやましいほど健康で、優れた心理学者であり、状況、自分の強み、 対戦相手の強みを鋭敏に評価する」・・・ミハイル・ボトヴィニク 「ボビー・フィッシャーを探して」 フレッド・ウェイツキン著 若島正・訳 みすず書房 より以下引用 記事には、元世界チャンピオンのボリス・スパスキーが大会に参加することも触れられていた。たぶん、多面指し をやるか、連続講演をするのだろう。8ヶ月前、スパスキーはニューヨークで多面指しをした。40人の相手の中には ジョッシュもいて、後で私たちは一緒に夕食をとった。スパスキーと一緒に時を過ごすのは、刺激的であると同時 に、心おだやかではない体験だった。 多面指しのあいだは、彼はエレガントで、流暢だしウィットに富んだ、チェスの伝道師になる。講演をすると、カルポフ の鼻にかかった声色や、カスパロフの闘争心と若さがみなぎる様子や、コルチノイのパラノイアぶりを真似してくれ る。多面指しのときに、ジョッシュが彼のポーンを取ったのを見て、ぎょっとしたといわんばかりにおどけてのけぞって みせたし、凡庸なプレーヤーたちに対しては慇懃を尽くしてドローを申し出たりした。彼は素晴らしい芸人なのだが、 元世界チャンピオンが生計を立てるためにチェスの余興にしょっちゅう出演するのには、どこか悲しいところが あった。 スパスキーはボビー・フィッシャーのことを愛情と敬意をもって語り、ロシアチェス界のことになると苦々しい口調に なった。まだ50歳にもなっていないのに、すでに人生の絶頂期は過ぎ去っているように見える。「ボビーに腹を立てた ことは一度もないよ」と彼はアイスランドでの対戦についてそう言った。「彼はいつでも紳士だったからね。実を言う と、私はレイキャヴィクに来る前に、もう敗者だった。ソ連では私のことでありとあらゆる噂が流れていて、マッチを 戦うために到着したときにはもうくたくただったのさ。それにボビーは手強い相手だったからな。彼のほうが実力は 上なのに、どういうわけか私には彼の指し手がだいたい読めた。ところが、マッチが終わってモスクワに戻ってみる と、私はソ連スポーツ委員会から酷評された。まるでわざと負けようとしたみたいに」 「あなたを非難した人たちの中には、ボトヴィニクもいたんですか?」 「いや、けれどもボトヴィニクは私が負けて喜んでいたよ。私がチャンピオンになれば、彼の名声に傷がつくと感じ ていたんだろうな。世間から忘れられるのが嫌だったんだ」 そのスパスキーが、2日したら60マイル離れたところにいて、カルポフやカスパロフやボビー・フィッシャーについての いつも同じ質問に答え、お決まりのジョークや逸話を語り、それからまたどこかで出演するために飛び立っていく のだ。チェスは大好きだが、プロ棋士の生活は大嫌いだと言っていた彼の言葉を私は思い出した。「息子さんを チェスのプレーヤーにしてはいけませんよ」と彼は言ったのだった。そのとき私はうなずいた。もちろん、ジョッシュ には何か他の生き方をさせる、というつもりで。 ところがそれと同時に、私は息子が世界でもトップクラスのグランドマスターたちと競い合うところを想像していた。 これは私の人生の矛盾と呼ぶべきもので、我ながらわけがわからない。貧しいどさ回りのプレーヤーの不幸を息子 には味わせたくないと思うくせに、だからといって幼いうちから活躍してもらいたいという無謀な熱狂を消し去ることも できないのである。 |
「Garry Kasparov |
Request: High Res picture of Boris Spassky
2015年10月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 2001年9月11日、同時多発テロの日。 「ブッシュ大統領に死を! アメリカに死を! アメリカなんてくそくらえ! ユダヤ人なんかくそくらえ! ユダヤ人は犯罪者だ。 やつらは人殺しで、犯罪者で泥棒で、嘘つきのろくでなしだ。 ホロコーストだってやつらのでっちあげだ。あんなの一言も真実じゃない。 今日はすばらしい日だ。アメリカなんてくそくらえ! 泣きわめけ、 この泣きべそかきめ! 哀れな声で泣くんだ、このろくでなしども! おまえたちの終りは近いぞ」 2013年2月17日、亡き伝説のチェス王者・フィッシャーのこの言葉をフェイスブックで紹介したが、フィッシャーの母はユダヤ人 であり、生涯その関係は血のつながりを感じさせる温かいものであった。 なのに何故? 何が彼をそこまで追いつめたのか? 以前、郵便チェスでアメリカ人と対局したことがあるが、彼は「フィッシャーは不幸にして病んでいる」と応えていたが、アメリカ人 の多くがそう思っていることだろう。 1972年のアイスランドでの東西冷戦を象徴する盤上決戦と勝利、マスコミは大々的に報じ、フィッシャーを西側の英雄・時代の 寵児として持ち上げた。 それから43年後の2015年。 フィッシャーの半生を映画化した「完全なるチェックメイト」(原題はPawn Sacrifice)が日本でも12月25日から全国で上映される。 主演はスパイダーマンで有名なトビー・マグワイアだが、このスパイダーマンの映画の中で心に残っている台詞は、 「これから何が起ころうと僕はベン叔父さんの言葉を忘れない。『優れた能力には重大な責任が伴う』 この能力は僕の喜び でもあり悲しみでもある。だって僕はスパイダーマンだから。」 フィッシャーとスパイダーマン、一時的にはフィッシャーは英雄となったが、彼にとって「重大な責任」とはチェスの真髄を追い つづけることだったのかも知れない。 東西決戦の後にフィッシャーがとった奇怪な言動は、妥協を決して許さない態度が周囲との摩擦を深めていく中で、奇異な ものとなっていったのだろう。 フィッシャーの素顔。 アメリカから訴追され、日本に居たフィッシャーをアイスランドへ出国させる為に尽力した渡井美代子さんは、フィッシャーと スパスキーとの再戦時(1992年)に招待された時のことを次のように書いている。 「フィッシャーは誠実の人です。約束は必ず守ります。だから、会うたび違うことをいう人を(どんな些細な食い違いであった としても)絶対に信用しません。フィッシャーは、私が希望をいえば誠実に応えてくれる最高の友です。試合のない日は私と 食事するという約束は何があっも一度も違えませんでした。どんな偉い人がきても袖にしました。」 有名な写真家Harry Bensonは、フィッシャーが亡くなった後に、「Bobby Fischer against the World」という自らが撮った フィッシャーの写真集を出版した。 そこには、花や馬と戯れるフィッシャーがいた。 アイスランド。 盤上決戦の地であり、フィッシャーが64歳で亡くなった地。 私がチェスに関心をもつ前に、ある写真集に惹かれ、それから写真・写真集に関心を持つようになったのだが、そのきっかけ となったのがアイスランドに近いアイルランドの写真集だったのも何かの因縁かも知れない。 |
2013年2月17日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 「完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯」文芸春秋 を読み終えて (写真はフィッシャーの写真集より引用したもので世界選手権の休息日に撮られたものです。) 2001年9月11日、同時多発テロの日。 「ブッシュ大統領に死を! アメリカに死を! アメリカなんてくそくらえ! ユダヤ人なんかくそくらえ! ユダヤ人は犯罪者だ。 やつらは人殺しで、犯罪者で泥棒で、嘘つきのろくでなしだ。 ホロコーストだってやつらのでっちあげだ。あんなの一言も真実じゃない。 今日はすばらしい日だ。アメリカなんてくそくらえ! 泣きわめけ、 この泣きべそかきめ! 哀れな声で泣くんだ、このろくでなしども! おまえたちの終りは近いぞ」 これはイスラム過激派の言葉ではない。この言葉は1972年という東西冷戦時のソ連にたった一人で 立ち向かい、チェスで勝利した男・ボビーフィッシャー(ユダヤ人の血をひくアメリカ人)が発したもの である。 チェスを超えて自由主義圏の英雄ともてはやされた男が何故ここまで堕ちたのか、いや正確には追い つめられたと言ったほうがいいのだろう。 妥協することを許さない天才。彼の言葉は物事の真実を暴こうとするが周囲からは理解されず、彼の 名声やお金に与ろうする人間によって傷つけられ、人間不信と妄想そして貧困が彼を蝕んでいく。 母子家庭で育ったフィッシャー、その乾いた心を慰めてくれたものがチェスだった。その天性の才能は 花開き、数々のドラマを生みながら目標としていた世界選手権に挑む。 相手はソ連の世界チャンピオン・スパスキーだった。スパスキーは、その天性・性格・容姿から「チェス の貴公子」と呼ばれていたが、1968年ソ連がチェコスロバキアに軍事介入した時、スパスキーは黒の 腕章を巻いて大会に現われ、チェコの選手一人一人に握手した。ソ連政府に対して暗黙の抗議を行っ たスパスキーは1975年フランスに亡命することになる。 一匹狼のフィッシャーと貴公子のスパスキー、この似ても似つかない二人が、1972年世界チャンピオン の座をかけて戦い、そして20年後の1992年にも国連制裁を受けていたユーゴスラビアで再び戦う。 チェスは白と黒の全く異なる駒が戦う競技だが、それは相手がいればこそ成立する。最初は国の威信 をかけての敵同士だったが、アイスランドでの選手権の戦いを通して彼らはまるでチェスの白と黒の駒 のように惹きつけ合い、互いになくてはならない存在になっていることに気づく。 フィッシャーがアメリカ政府から起訴され、日本で無効なパスポートをもって入国したとして入管法違反 で拘留させられたときも、スパスキーは6歳年下のフィッシャーを、まるで本当の弟のように心配し、 「何故、フィッシャーだけ捕らえるんだ。私も同じ留置所に入れてくれ」と弁護している。 「フィッシャーはその天性の完全さでいつも私に特別な感銘を与えた。チェス、 そして人生の両面においてだ。妥協は一切なかった」 スパスキー 本書はフィッシャーと長年親交があった人が書いたフィッシャーの評伝であるが、単に壊れていく悲劇 の軌跡を追うだけに留まらず、稀にみる一人の天才が対局場で産み出したチェスの名局と共に、チェス 盤と同じ64マスの生涯を終えたフィッシャーの人生そのものがチェス盤そのものに映し出されたような 錯覚に陥ってならなかった。 2013年2月17日 K.K |
2012年9月23日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 Tobey Maguire dans la peau de Bobby Fischer より引用 伝説のチェス世界チャンピオンの映画(フィンチャー監督) 写真は他のサイトより引用しましたが、元チェス世界チャンピオン・フィッシャーをトビー・マグワイアが 演じています。 今から40年前の1972年、ボビー・フィッシャーの名前はチェスファンだけに留まらず、世界の多くの人の 記憶に刻まれました。世界チェンピオンであった旧ソ連のスパスキーと挑戦するアメリカのフィッシャー (ユダヤ人の母をもつ)、この24番勝負は米ソの東西冷戦の象徴として、世界中の注目を集めたのです。 このフィッシャーの伝記映画が来年公開されます。監督は「ソーシャル・ネットワーク」「ドラゴン・タトゥー の女」などで知られるデヴィッド・フィンチャー。映画の主人公フィッシャーを演じるのはスパイダーマン役 で知られるトビー・マグワイアです。 マグワイアがどんなフィッシャーを演じるのか今まで全く情報がなかったのですが、上の写真を見るとま るでフィッシャーが乗り移ったのではないかと思うほど姿や雰囲気が似ています。 奇人と知られるフィッシャーは個人的に好きですが、相手のスパスキーも私は尊敬しています。1968年 のソ連がチェコスロバキアに侵攻したチェコ動乱(プラハの春)の直後に行われた国際トーナメントで、 ソ連のスパスキーは黒の腕章をつけチェコスロバキアの選手一人一人に握手しました。 それはソ連がチェコに対して行ったことへの抗議であり、一人の人間としての謝罪でした。 私自身、正直言いまして共産主義国家には抵抗があります。旧ソ連のスターリンなどによる粛清、中国 ・毛沢東のチベット侵略や粛清。 何故、共産主義は人間をこうも憎悪の虜にしてしまうのか、その答えははっきり出ませんが、チェ・ゲバラ が「世界の何処かで、誰かが被っている不正を、心から悲しむ事が出来る人間になりなさい。それこそ、 最も美しい革命家の資質なのだから。」と言うのに対し、旧ソ連・中国の共産主義は逆にあるものへの憎 しみに囚われていたと感じてなりません。 これは哲学者の梅原猛さんも指摘していることですが、憎悪は増幅して更に多くの憎悪を産むのかも知 れませんし、共産主義だけにあてはまるものでもありません。。 チェスとは関係ない話になってしまいましたが、映画ではアメリカ的な善玉悪玉の構図でスパスキーを 描いて欲しくないと願っています。 最後に、フィッシャーは2008年スパスキーとの世界選手権が行なわれたアイスランドで、チェス盤のマス の数と同じ64歳の生涯を終えました。 (K.K) |
追記(2012年11月30日) 監督はフィンチャー監督が降板し、「ラスト・サムライ」のエドワード・ズウィックになっています。 |
2016年6月7日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 コルチノイ出演の牛乳のCM コルチノイは旧ソ連出身のチェス棋士でしたが、ソルジェニーツィン、あるいはノーベル平和賞を取った物理学者の サハロフと同じように旧ソ連に反逆し、1974年に奥さんと一緒にオランダ(後にスイス)に亡命します。 1974年というと、世界中を沸かせたフィッシャー対スパスキーの世紀の一戦の2年後で、1978年には挑戦者として、 旧ソ連の王者カルポフと世界選手権を争いますが、僅差で敗れてしまいます。 昨日、「ソ連のフィッシャー」と呼ばれたコルチノイは85歳で亡くなりましたが、70歳過ぎてまで闘志むき出しの対局 姿勢に世界のファンは魅了されたのではと思います。 偉大な芸術家に共通する老いることのない情熱。 激動の時代の生き証人だった人ですが、このようなおどけた姿でCMに出ていたんですね。 |