File:Efim Geller 1977b.jpg - Wikipedia, the free encyclopedia
エフィム・ゲラー (Efim Geller 1925~1998) ウクライナ出身のゲラーは若い頃からチェスに親しみ、1952年には世界選手権の候補者 として名乗りを上げますが、その後も5回候補者となります。1955年から79年まで23回もソ連 選手権に出場し2回優勝している実力者です。また彼は歴代の世界チャンピオンに対して 対戦記録では上回っている(ボトヴィニク、スミスロフ、ペトロシアン、フィッシャー)ことが特筆 されます。また同じく、世界チャンピオンのエイベ、スパスキー、タリ、カルポフも倒した世界の トップクラスの選手です。 |
「完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯」フランク・ブレイディー・著 文藝春秋 より抜粋引用。 本書 第7章 アインシュタイン理論 「チェスのほうがずっと楽しい」 より抜粋引用 1962年の挑戦者決定戦で優勝したのは、ティグラン・ペトロシアンだった。8勝19引き分け負けなしで、 スコアは17.5ポイント。ソ連のエフィム・ゲレルとパウリ・ケレスが0.5ポイント差で2位タイ、フィッシャーは そこから3ポイント差で4位となり、5位のコルチノイとは0.5ポイント差だった。 フィッシャーはキュラソーで実際にはなにがあったのか、世界に知らせたかった。そこでこう書いた。 「ロシア人(ソ連)のプレイヤーのあいだであからさまな共謀行為がありました。彼らは自分たち同士の 対局を引き分けにしようと事前に取り決めていたんです・・・・対局中に指導もしていました。もし私が ロシア人のプレーヤーと対戦しているとしたら、私のいろんな対局を見ていたほかのロシア人たちが、 私の聞こえるところでこっちの手筋について解説しているんです」 コルチノイは「チェス・イズ・マイ・ライフ」という自伝のなかで、フィッシャーの非難を擁護した。「すべてを お膳立てしたのはペトロシアンでした。彼は友人ゲラーと、自分たちの全対局を引き分けにしようと取り 決めたんです。2人はケレスにもこの不正に加わるよう圧力をかけました。このおかげで、彼らはほかの プレーヤーたちよりも圧倒的な優位に立ったのです」 パル・ベンコは、フィッシャーが優勝できなかった理由を訊かれたとき、喧嘩のときの腹立ちを引きずっ ているのか、こう答えた。「要するに、最強のプレイヤーじゃなかったってことさ」 フィッシャーの成功する自己イメージは、キュラソーの結果で脆くも崩れ去ってしまった。史上もっとも 若い世界チャンピオンになるという彼の夢、もしくは妄想は、実現できなかった。いつかきっと世界 チャンピオンになるだろうとは思っていたが、フィッシャーにとってそれだけでは充分ではなかったの である。この若さで世界屈指のチェスプレイヤーにのしあがったことで、フィッシャーは自分がチャン ピオンになるのを確信していたが、ロシア人たちは、フィッシャーが不正と断じた行為を通して、フィッ シャーを押さえつけることを証明した。このことにフィッシャーは、憤りと悲しみを覚えた。 もう自分の運命は変わらないし、なすすべもないのだとフィッシャーは悟ったが、黙ってチェスの暗い闇 に甘んじようとは思わなかった。彼は自分にひどい仕打ちをしたソ連の棋士たちを軽蔑した。そして彼ら が世界チャンピオンの座を盗んだのだと確信し、世界にそれを知らせることにしたのである。 |
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El Cubo de Rubik · Antonio Gude: RELIQUIA ICONOGRÁFICA
Malta, 1980年
前列左から、Anatoli Karpov、Efim Geller、Yuri Balashov
後列左から、Gary Kasparov、Mijail Tal、Lev Polugaievsky
Ефим Геллер | Физкультура и спорт в СССР