「激闘譜 シュタイニツからフィッシャーまで」

歴代 チェス チャンピオンからの珠玉集

マックス・エイベ著 松本康司訳

日本 チェス出版社





LES CHAMPIONS DU MONDE D





Medhat Moheb Chess News And Information: December 2011

Max Euwe(1901-1981)


訳者より (本書より引用)

翻訳を終り読み返してみて小学生の作文みたいなものには我ながら苦笑してしまった。

英語特有の係り結びを訳文に生かそうとするとよく見るように怪奇な日本語になってしま

う。「できるだけ平易な言葉に」ということをモットーとしていたらその反作用でこういうこと

になってしまった。載録された約600局はエイベ博士による鋭い解析とともにコンパクトに

編集され、この本を非常に密度の濃いものにしている。まあ日本の囲碁や将棋の本と同じ

編集をしたら優に30〜60冊分になってしまうだろう。こういう本だから逆に息抜きの部分

として「やさしい日本語」が必要とされるのだという言い訳を発見した。


エイベ博士については彼自身書いているがもう少し言いたい事がある。学生時代、ボクシ

ングと水泳の優れた選手でもあった彼は飛行機のパイロット、公認会計士の資格等をも合

わせ持つという。言うなれば典型的なヨーロッパ・スタイルのエリートである。自らは余技と

いう博士のチェスの強さを示すエピソードを一つだけあげてみよう。


1974年12月第一回アジアオリンピックでの出来事である。対シンガポール戦、日本チーム

のホープ佐藤隆は相手の定跡はずれをすばやく捉え捨て駒の妙によりたちまち優勢を確立

した。ところがその後をどうやってよいか明確な解答が出てこない。持ち時間がどんどん消え

て行く。佐藤はついに自ら踊りをおどってしまって逆にメタメタになってしまった。局後の検討

はしかし、やっぱりはっきりしなかった。4日、5日と経過した。相手シンガポール軍もこのゲー

ムに興味を持って検討を続けたという。佐藤優勢の“わかれ”は皆が認めた。だが結論がな

い。一夜、我々はエイベ博士と夕食を共にした。佐藤は自分の割り切れないゲームを見せこ

のあと白がどうしたらよいかを尋ねた。一秒。いや一瞬であった。エイベ博士は超初心者のや

りそうな手を示した。


佐藤は内心「ほら間違えた。やっぱりわなにはまった」と思いつつ黒の応手、誰が見ても白の

負けになる手を返した。私が身の毛のよだつ思い、全身の血が凍る思いがしたのはこの直後

である。ニコッと人がよさそうに笑った博士は王手の連続で黒のキングを詰めてしまった。敵の

応手は佐藤が示した手だけではない。しかし、それら全てに対し白が勝勢になると読み切るの

に1秒とかからなかったことにより、私は世界チャンピオンの強さを改めて知ったからである。


始めて私がエイベ博士に会ったのは1972年西独シーゲンのオリンピックのときである。一人の

品のよい老人が我々と宿舎のエレベーターを共にしたとき親しげに「ヤーパン・グーター・フロイン

ト」と呼び掛けてきた。私にしてみれば理由なく印象的であった。オリンピック特集の「チェス・サ

ロン誌」に私はこのことを書いた。しかし、背が高いこの相手が高名なエイベ博士だということを

日本チーム8人が8人誰も知らなかったのだから日本は田舎だ。


1972年、エイベ博士来日。飛行機が予定より大分早くついてしまって、我々が空港に出迎えに

行ったときはすでに博士はロビーの雑踏の中にあった。そして同じく雑踏の中にあった私を博士

はすばやく見付けた。“Mr.Matsumoto,I met you in Siegen” 西独のエレベーターの中でわずか

の時間を共にしただけの私を覚えていて人ごみの中から発見したのである。


チャンピオンらの記憶はみなこうである。1973年来日したフィッシャーについても、その超能力に

おいてほとんど同じような驚愕を覚えたが、ここではそれを記す紙面がない。エイベ博士は温厚誠

実さに加えて、東洋からも失われつつある謙譲さを合わせ持った人である。エイベ博士はきっと同じ

く立派なスポーツマン、スパスキイに自分自身を見ている思いがすることだろう。そして、私の思う

ところでは、博士の生涯の誇りはこのスパスキイとフィッシャーの困難な試合を無事まとめ上げたこ

とであろう。彼はこのことには一つも触れていないが、大変な仕事であった。この名オーガナイザー、

エイベを除いて世界チェス連盟百カ国の会長として他に誰が適任するであろうか。


国際的なチェスに疎遠であった読者にとって、この本の中には聞きなれない人名が沢山登場しすぎ

るかも知れない。しかし、彼ら一人一人、世界的に言って、日本の囲碁将棋の石田、中原よりはるか

に高名でありそのスポーツ界での地位は、日本のスポーツ界でのかつての長島どころの比ではない。


チェスは決して勝負のみを争う勝負事ではない。技術を争うスポーツとしての認識はチェス・プレーヤー

をして、ハプニングによる盤くるわせを嫌わせる。チェスの試合に一番勝負はありえない。弱者が必ず敗

れて、勝者が真の強者であらしめるためには、試合は十五局、二十局を要するし、それでなければ世間

が納得しない。こういう事情もきっと読者には耳新しいであろう。日本でチェスがスポーツだというとほと

んどの人が抵抗する。だが、一例をあげるのをゆるしてほしい。世界中のスポーツ記者が構成している

国際スポーツ記者クラブが選んだ1973年および1974年の世界の最優秀スポーツ選手は(アマ・プロ

問わない)ソ連の誇る新星、新らしくチェス、チャンピオンの座についたアナトリイ・カルポフであった。

カルポフは二年連続オスカー賞を受賞した。


最後に一言。この記念すべき本はユーゴスラビアで印刷製本された。出版社のいうように、ユーゴスラビア

で作られた最初の日本語の本であろう。訳者の1972年以来の友人であるモレロビチ編集者のすばらしい

発想と理解にもとずくものである。GENS UNA SUMUS 、人類は一つの家族。世界チェス連盟のこのスロー

ガンは決して単なる理想を言っているのではなく、現在のチェス界を述べているに過ぎない。チェスは過去

の英智を積み重ねた人類最高の文化の一つだと確信する。チェスを通じての友情はいろいろなことを可能

にするのだ。そういうチェス界に日本がもっと積極的な役割を果たすのはいつだろうか。


1975年10月 世界チェス連盟中央委員 松本康司



「Chess Informant 640 Best 64_Golden Games」より引用

 





歴代世界チャンピオンの肖像Serkan Ergun
serkan-ergun-the-world-chess-champions-by-serkan-ergun | Serkan Ergun

(大きな画像)


歴代チェス世界チャンピオン

名前 チャンピオン在位期間 その時の年齢 
 1 Wilhelm Steinitz 1886〜1894  50〜58
2 Emanuel Lasker  1894〜1921  26〜52
3 Jose Raul Capablanca 1921〜1927 33〜39 
4 Alexander Alekhine 1927〜1935  1937〜1946 35〜43 45〜54
5 Max Euwe 1935〜1937 34〜36 
6 Mikhail Botvinnik  1948〜1957 1958〜1960 1961〜1963 37〜46 47〜49 50〜52
7 Vasily Smyslov  1957〜1958  36 
8 Mikhail Tal  1960〜1961  24 
9 Tigran Petrosian  1963〜1969  34〜40 
10 Boris Spassky  1969〜1972  32〜35 
11 Bobby Fischer  1972〜1975  29〜32 
12 Anatoly Karpov  1975〜1985  24〜34 
13 Garry Kasparov  1985〜1993  22〜30 
14 Vladimir Kramnik  2006〜2007  31〜32 
15 Viswanathan Anand  2007〜2013  38〜43 
16 Magnus Carlsen  2013〜present  22〜




エイベとアリョーヒン 1937年の世界選手権時



以下、本書より引用

マックス・エイベ博士は1901年3月20日アムステルダムで生まれた。1921年ウィーンの国際大会で2位と

なり、オランダ大会で優勝するというぐあいに彼は少壮の頃から頭角を現わしています。



後に彼は数学の講師となり学問の研究に大部分を捧げてきましたが、チェスも止めませんでした。1923年

ヘイスチングおよびウエストンで優勝。1924年ビースバーデン、1926年にふたたびウエストンと優勝を重ね

ました。この年、カパブランカとの対決にそなえるアリョーヒンはエイベと試合をもちました。アリョーヒンの

辛勝(5.5対4.5)は青壮のエイベが若くして世界のトップ・クラスにあることを示しました。



1928年ヘーク、1930年ヘースチング、1931年ロッテルダムおよびアムステルダムのマッチ・トーナメントに

優勝した彼はオランダ・チャンピオンを手中にしました。1932年ベルンのトーナメントではアリョーヒンに優勝

をさらわれましたが1933年には再びアムステルダムでオランダ・チャンピオンの座を奪還しました。



エイベの名声はオランダのみならず世界中に広まっていきました。世界チャンピオン戦のための特別委員

会は、エイベ・アリョーヒン戦を企画しました。エイベが挑戦者になることはアリョーヒンにとってむしろ喜ばし

いことでした。しかし、やはり、より若い挑戦者を迎えることに一抹の不安がよぎったのでしょうか。アリョー

ヒンはもし挑戦者が勝った場合、1973年以前にリターン・マッチを行うという条件を求めました。



この試合にそなえて、エイベは特に序盤セオリーの研究に力を入れました。オランダ中がこの試合を待ち

望みました・・・オランダからチェスの棋聖が誕生するかどうか・・・。



試合は1935年に開始されました。エイベ側はしかし、出だしまったく悪く不吉な予想が立てられました。

アリョーヒンの3−1の勝ち越し。エイベはしかし、少しも落胆せず、心身ともに強健な若さと、日頃の大戦略

家としての自分を示すのはこのときとばかり頑張りました。14局目。彼はついに7−7のタイに持ち込み、

最後の1局を残したところで15−14と1点リード。いよいよ最後のドタン場です。ここでもしアリョーヒンの勝ち

となれば15−15でチャンピオン防衛。しかし結果は和局。ついに栄冠は5人目のチャンピオンとしてエイベ

に帰しました。



新チャンピオンにしてみれば人生の余技であるチェス。一身を打ち込んだ時期がいうならば全くなかった

エイベ博士が王位についたということはしかし、とても重要なことを示しています。オランダ中が勝利を歓喜

しました。エイベ博士・・・チェスにおける世界一の高名です。




新チャンピオンはその後もトーナメントに現われました。1936年サンドウォルド2位、アムステルダム優勝、

そしてノッチンガムではレシェフスキィファインと並んで3−5位、そして1937年バッド・ナウヒムで優勝。



規約によるリターン・マッチは1937年の年末オランダで行なわれました。アリョーヒンは立上がりから素晴ら

しい技を見せて、最後まで相手を圧倒しつづけ、チェス界を驚嘆のルツボにまき込みました。10勝4敗11和、

アリョーヒンは15.5対9.5でチャンピオン奪回に成功しました。チャンピオンを失った博士はしかし、戦前、数

回のトーナメントに参加し成功しています。大戦が終わって、1946年、ロンドン、サンダム、マストリヒト等の

トーナメントで世界最高のプレーヤーたちを相手に優勝の数々。フレニンゲンではボトビニクに次いで2位。

これらの成果は彼を再び世界のトップに置くに充分でした。



1948年、アリョーヒンの死後空位になったチャンピオン位をめぐり、5人の当時最強者が争うことになりまし

たが、博士は準備の不足でこのとき5位に甘んずるほかありませんでした。その後、しかし彼は相変わらず

諸競技会で好成績をしばらく続けました。



後にエイベはFIDE(世界チェス連盟)の会長に選ばれました。全世界のチェス協会を結ぶ中心人物として、

国際チェス界の組織づくりに活躍しております。(1972年の春には日本にも来訪し、当時内紛に明けくれた

日本のチェス界にも温厚な解決策を見出されました。訳者註)



専門職(数学博士)とチェスに対する深い愛情ゆえに、そして知性と、活力迫力と驚嘆すべき記憶力と自分

を律した厳格なスポーツマン精神ゆえにエイベ博士は初めは競技者として、そして今はオーガナイザー、

FIDE会長として、棋道チェスの頂点に自身を推しとどけることに成功したのです。


Sonja Graf and Max Euwe




 




マックス・エイベの名局


Max Euwe vs Alexander Alekhine
"The Pearl of Zandvoort" (game of the day Oct-20-08)
Alekhine-Euwe World Championship Match (1935) ・
Dutch Defense: Nimzo-Dutch. Alekhine Variation (A90) ・ 1-0



「有名なオランダ人棋士の最も有名なゲーム。『ザントフォールトの真珠』と讃えられ、

センセーショナルなマッチ戦のタイトル獲得に大きく寄与した。」


「完全チェス読本2 偉大なる天才たちの名局 ラスカーからカスパロフまで」から引用



Alekhine-Euwe 1935: powerful images | Chess News

euwe_alekhine_1935.pgn へのリンク





Efim Geller vs Max Euwe
"Game Euwe" (game of the day Sep-16-09)
Zurich Candidates (1953) ・ Nimzo-Indian Defense: Saemisch. O'Kelly Variation (E26) ・ 0-1



この試合は、チェスの歴史上最も偉大な125試合を詳しく解説した著名な文献
「The Mammoth Book of the World's Greatest Chess Games」に掲載されている。




geller_euwe_1953.pgn へのリンク





Max Euwe vs Miguel Najdorf
"Swervy Euwe" (game of the day Aug-26-06)
Zurich Candidates (1953) ・
King's Indian Defense: Fianchetto Variation. Immediate Fianchetto (E60) ・ 1-0



この試合は、チェスの歴史上最も偉大な125試合を詳しく解説した著名な文献
「The Mammoth Book of the World's Greatest Chess Games」に掲載されている。




euwe_najdorf_1953.pgn へのリンク





マックス・エイベが負けた名局

Theo Daniel van Scheltinga vs Max Euwe
Maastricht (1946), Maastricht NED, rd 3, Apr-22
Italian Game: Classical. Tarrasch Variation (C53) ・ 0-1



van_scheltinga_euwe_1946.pgn へのリンク





エイベがメンチク女史に負けた局

Max Euwe vs Vera Menchik
"Join the Club" (game of the day Jul-10-11)
Hastings 1930/31 (1930) ・
Queen's Gambit Declined: Orthodox Defense. Henneberger Variation (D63) ・ 0-1




euwe_menchik_1930.pgn へのリンク





マックス・エイベの名局集

MAXimum Teacher
Compiled by Garre


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エイベの全棋譜はこちらです。



File:Max Euwe, wife and Karpov 1976.jpg - Wikipedia, the free encyclopedia

エイベ夫妻と当時の世界チャンピオン アナトリー・カルポフ 1976年


エイベとナイドルフ(アルゼンチンのチェス名人)

中央に立っているのはレシェフスキー(アメリカのチェス名人)と思われる。


1993年 蒲田 チェスセンターにて 故・松本康司(Matsumoto Yasuji)氏 前JCA(日本チェス協会)会長







麗しき女性チェス棋士の肖像

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