「Lasker's Manual of Chess」
Emanuel Lasker 著


  





1894年から1921年まで世界チャンピオンを
保持したラスカーによる青少年向けに書か
れた優れた名著で、現在でもその評価が
下がることはない。ラスカーの明解な分析
は序盤からポジショナル、終盤それぞれに
発揮されており、完璧なチェス手引書として
現在でも君臨している。



Emanuel Lasker - Best Of Chess


  









歴代チェス世界チャンピオン

名前 チャンピオン在位期間 その時の年齢 
 1 Wilhelm Steinitz 1886〜1894  50〜58
2 Emanuel Lasker  1894〜1921  26〜52
3 Jose Raul Capablanca 1921〜1927 33〜39 
4 Alexander Alekhine 1927〜1935  1937〜1946 35〜43 45〜54
5 Max Euwe 1935〜1937 34〜36 
6 Mikhail Botvinnik  1948〜1957 1958〜1960 1961〜1963 37〜46 47〜49 50〜52
7 Vasily Smyslov  1957〜1958  36 
8 Mikhail Tal  1960〜1961  24 
9 Tigran Petrosian  1963〜1969  34〜40 
10 Boris Spassky  1969〜1972  32〜35 
11 Bobby Fischer  1972〜1975  29〜32 
12 Anatoly Karpov  1975〜1985  24〜34 
13 Garry Kasparov  1985〜1993  22〜30 
14 Vladimir Kramnik  2006〜2007  31〜32 
15 Viswanathan Anand  2007〜2013  38〜43 
16 Magnus Carlsen  2013〜present  22〜






Emanuel Lasker(エマヌエル・ラスカー) 1868〜1941


「チェス戦略大全T 駒の活用法」ルディック・パッハマン著より引用


ほぼ同じ頃、全く別の面ではあるが、シュタイニッツの教えを発展させたマスターが現

れた。それが抜きんでた第2代世界チャンピオン、他ならぬエマニエル・ラスカーである。

おそらく彼は、史上最も深くまでチェスを掘り下げた人物だろう。ラスカーはシュタイニッツ

の原則を推し進めて、正確無比なものにした。シュタイニッツやタラッシュとは反対に、ラ

スカーは絶対的な正着を追究することにこだわることはなかった。それというのも、チェス

は良い特質も悪い特質も備わった2つの個性の間の闘争であると、彼は考えたからであ

る。チェス固有の複雑で時間のかかる問題に直面したときには、最強のプレーヤーでさ

え手を誤ることがあるので、チェスを純粋な科学として見ることには無理があると主張し

たのである。ラスカーは最も偉大な、そしておそらく現存した唯一のチェス心理学者であ

る。彼の展開した理念に関しては「チェスの考え方」の章で詳しく述べることにしよう。人

には合理的な性質が備わっていて、最小限の努力で最大限の結果を得ようと努めるが、

チェス・プレーヤーもその例に洩れない。だからタラッシュの思想が19〜20世紀の狭間で

マスターに多大な影響を及ぼしたのに対して、ラスカーの深く思案された理論は賛同され

なかったのである。











「激闘譜」より引用


エマヌエル・ラスカーは1868年12月24日ドイツの小ベルリン市で生まれました。ラスカーの

名は並びなき栄光に包まれ、チェス史上の最高の地位を独占しています。彼は10才のと

き兄のベルトールド・ラスカーからチェスを覚えました。ベルリン大学数学部に入学できた

若いラスカーは、そこで得られる機会を貪欲に利用。彼は1889年ブレスローで最初の公

式競技会に出場し、マスター・タイトルを獲得し、直後プロに転じました。その成功は広く興

味をもって迎えられつ、ラスカーはイギリスに移住しました。イギリスでの試合の数々は・・

すべての相手を打ち破り・・彼の名を世界中に知らしめました。1892年彼はドイツの最強

の一人タラッシュに挑戦。しかしタラッシュは気位高く拒否しました。皮肉なことにこの試合

は後にタラッシュの方から逆に求め1908年になってやっと実現しました。


1893年ラスカーは一年間アメリカに渡り、試合という試合、競技会という競技会にすべて

優勝、チャンピオン挑戦者の第一候補に上げられるに至りました。スタイニツに挑戦する

世界タイトル・マッチの実現にはいろいろな困難がありました。1894年のこの大試合は、

年齢と生活難のハンディキャップを負う58才のスタイニツには重荷でしたか。ラスカーは

チャンピオンとなりました。ラスカーとスタイニツがチャンピオンを手中にするために同じ

コースを取ったのは興味深いことです。ベルリン・・ロンドン・・アメリカ・・、しかしスタイニツ

がそのために生涯の半分を費やしたことと較べて、ラスカーは5年。そのあと27年間彼は

特記すべき勝利の数々をそえて威厳高くチャンピオンの座を守りました。多くのプレーヤー

達がラスカーの王位を狙いました。1921年迄6回の試合を行い、彼のタイトル保持者として

の地位は疑問の余地はありませんでした。しかし、永遠の勝者は現世にはあり得ません。

1921年ラスカーはカパブランカにまったく予期せぬ敗北をとり王座を失いました。心身とも

に疲労し切った彼は試合中止を申し入れ、哲学的な冷静さでチャンピオンを明け渡しまし

た。重苦しいキューバの気候と、53才の年令が彼に敗北を与えた主因であることは軽々

しくは言えないでしょう。しかし、チェス界が新らしい、そして貴宝とすべきチャンピオンを

カパブランカに求めていたことは疑いありません。


後年のラスカーの成績は、その年令のハンデをものともせず、世界最高の一人たるにふさ

わしいものでした。1923年モスクワ・オストロワ・トーナメントにおいてレチエイベタルタコワ

ボゴリューボフ、タラッシュ、シュピールマン等々錚々たる精強を押え優勝、その翌年ニューヨ

ークGMトーナメントでは全20局中16点という素晴らしい成績でこれも優勝。因みに、最高レ

ベルのトーナメントで2位を1点以上離すのはとても大変なことですが、カパブランカ、アリョー

ヒン、マーシャル、レチ、マロツイ、ボゴリューボフ、タルタコワ等々といった世界のエリート連

中の中で2位を1.5点も引きはなし、断然たる強みを見せました。1925年から1934年までの9

年間ラスカーは競技に現われませんでした。1934年から1939年再び大競技会に参加した彼

は敬服すべき老令にめげず立派な成績を続けました。1935年のモスクワ・トーナメントでは

67才のラスカーは一局も敗けることなく、わずかに0.5点差で同率優勝したボトビニクとフロ

ールに続いて3位になりその健在を示しました。・・カパブランカ、シュピールマンほか若く有能

な新星を打ち破って・・。


その後ラスカーは政治的な理由でドイツを追われ、始めソ連に移住し学術院数学部に籍を

置きました。1938年アメリカに移り、1941年1月13日、ラスカーはニューヨークで還らぬ人と

なりました。ラスカーの成功は彼に棋風のうちに秘められています。量り知れない変化と、

錯綜と創意とそして闘争精神を持った冷利な巧妙なプレーヤーでした。率直すぎるほど率直

防ぎで相手の最強に打ち勝ちました。また彼は相手に対し徹底的な対人作戦を立て次から

次に難問を解くことを強要しました。ラスカーにとってチェスは単なる調和のとれた手順と手筋

の和音というだけではなく、更に、他に類のない、人間感情と、激情と思考と意思の闘争でし

した。ラスカーは史上で最も知性あるれたチェスプレーヤーの一人といえましょう。彼は、人

間活動のいろいろな分野に興味を示し深い造けいを持ちました。数学および哲学博士とし

て、チェス活動のあい間にこの二つの分野にも重要な足跡を残しています。人類知識のこう

いう分野における彼の研究やその他の業績はとても大きな価値がある。かの大数学者アイ

ンシュタインはその自伝の中で「この常人はずれた男が科学だけに専念しなかったこと」を

大いに口惜しがっている一節があります。


その一方で、ラスカーはチェス・ライターとしてまたジャーナリストとして名著を数多く著しました。

ドイツ、イギリス、アメリカ、ソ連等々各地で彼はチェス雑誌を発行し、多量の文章を載せていま

す。1895年英国で発行した処女作“チェスの常識”で彼は自身の独創的で精妙なとらえ方にふれ

ました。この本と、同じく彼の“チェス・ハンドブック”は世界中のいろいろな言語に翻訳され、チェ

ス理論の発展に大きな役割を果たしました。ラスカーは世界のチェスに、その科学に対する拒む

べからざる後見を貢献を通し、輝かしいしるしを残しました。彼は、このゲームで成功するために

は無視することのできない心理的手法の基礎を作ったのです。



 



1910年 カール・シュレヒターとの世界選手権の試合はこちら


「楽しいチェス読本」

ロフリン著 日本チェス協会訳編 ベースボール・マガジン社 より引用




2代目の公認世界チャンピオンは、ドイツのエマヌエル・ラスカー(1868〜1941)でした。彼はハイデルベ

ルグ大学を卒業するまえに、すでに名人の称号を獲得していたのです。1893年には彼はニューヨークに

移住し、20年ちかくをそこで過ごし、そこで哲学と数学の博士号も取得しています。その頃、シュタイニッツ

はアメリカやヨーロッパで最高の名声を得ていましたが、実戦の力は衰えをみせていました。1892年の

チゴリンとの試合のときに、すでに、シュタイニッツの衰退は予見されていたのです。



1894年3月15日から5月26日まで、アメリカの各都市でシュタイニッツとラスカーの世界選手権が催されま

した。先に10勝をあげた者がチャンピオンの座に着くことになっていました。結果は10勝5敗4引き分けで、

若いラスカーの勝利に終わりました。



ラスカーの勝利は、さまざまな評価を呼びおこし、シュタイニッツの後継者であるドイツのタラシュは、次の

ように書いています。「深い遺憾の念をもって、最後にゲームだけを検討することができます。・・・本当にこ

れがあのシュタイニッツの試合なのだろうか! チェス競技の英雄として、四半世紀以上も君臨したあの

シュタイニッツと同じ人なのか・・・」



ラスカーは、対戦者のシュタイニッツと師匠タラシュの希望を受け入れ、シュタイニッツとのリターンマッチ

を行ないました。1896年11月7日から1897年1月14日まで、モスクワで開かれたこの試合で、ラスカーは

10勝2敗5引き分けと比較的楽に勝利をものにし、2人の力についての論争に終止符がうたれました。1899

年にロンドンで開かれた国際試合でも、ラスカーは2位に4.5点の差をつけて優勝しています。



ラスカーは、その時代に使用されていたポジションプレーのシステムを、戦術的により弾力なものにする

ことで完成させたのです。序盤戦の準備には大きな意味を認めず、以前には知られていなかった新しい

モチーフを実戦に使用したのです。それは心理学を応用したものでした。



ラスカーは試合の前に、プロの競技者として、対戦者の強い面と弱点、どんなゲーム展開を好むか、相手

のスタイルの特徴をすべてにわたって綿密に研究していたのです。



1920年代になって、リチャード・レティは自分にとってチェスは「哲学のシステム作成のための試金石」で

あるが、ラスカーにとっては「ファンタジーと構想の魅力的な闘い」であると強調します。ラスカーに弟子が

できなかった理由の一つもここにあります。ラスカーにとって貴重だったのは、個性的な作品を作りあげる

ことだったのです。ラスカーの試合を称賛し楽しむことは可能です。しかしそのテクニックを研究するため

には、キューバの生んだ天才カパブランカを待たなければなりませんでした。



チャンピオンのラスカーは、3人の挑戦者を退けています。アメリカのマーシャルに8勝0敗7引き分け(1907)、

タラシュに8勝3敗5引き分け(1908)、ヤノフスキーに7勝1敗2引き分け(1909)。その後、1910年に再びヤノ

フスキーを8勝0敗3引き分け、1916年にタラシュを5勝0敗1引き分けで破っています。1914年ペテルスブルク

で行なわれた国際試合での優勝は、ラスカーをチェス界最高のプレーヤーとし、その権威をゆるぎないもの

としたのです。



1921年の春、チェス界の視線はキューバのハバナに集中していました。ラスカーとカパブランカの試合が

行なわれたのです。



これより前の1914年に、カパブランカはラスカーの技術を十分評価して、次のように書いています。「いずれ

にせよ、われわれは他のプレーヤーより数段すぐれており、われわれの対戦だけが本当の名人を決める

ことができる。私は試合が早く実現することを望んでいる。私は、老人とではなく全盛期にある人物と対戦

したいからだ」。






1925年、モスクワで開かれた第1回国際チェス競技大会で、私はまたラスカーに会うことができました。彼との座談

はカパブランカとは異なるとはいえ、率直さにおいては同じでした。私は本質的な問題についての彼らの深い洞察力

と判断の確かさについて、強く印象づけられました。ラスカーの機知に富んだ答えは、たんにプレーヤーとしてだけの

ものではなく、哲学者、芸術家のものでもあったのでしょう。




1925年に、出版の目的で私が彼から借りてきたインタビュー記事のなかで、彼は次のように語っていました。「国家の

保護のもとで、ソ連の若者たちはチェスの普及のうえで重要な役割を演じうるし、古代の名勝負に新しい構成を付け

加えることも可能である」。「人生は闘争の連続である。そしてここに、チェスを含めてあらゆる闘争理論が命ある緑樹

の周囲を旋回している理由があるのである」。このことばの真意が読者にはおわかりでしょうか?



今世紀のはじめ以来、すでにラスカーはチェスにおける心理的起源説の熱烈な擁護者でした。彼にとって、チェスの

駒はたんなる木彫りの像ではなく、象徴的な意味をもったものだったのです。チェスの思考法則の研究業績は、1905

年から1914年頃にかけて、ラスカーによってめざましく向上しました。複雑な状況下で最良の手を選ばなければなら

ない場合に、彼は対戦相手の秘められた意図を洞察することを勧めています。



この方法で、ラスカーが危機を脱したことは少なくありません。出口のない状況、特に試合のクライマックスにおいて

は、終局はすぐ目前に迫っているとみなければなりません。



27年間のチャンピオンの座を守り続けたラスカーは、彼の勝利の理由を好運やめぐり合わせなどと判断されることに

は憤慨しています。それは当然のことで、好運は勝利のごく小さな要素でしかありません。しかし、それを無視しても

いけません。


(中略)


「私は弟子たちが自分で資料の批評や思考ができるように教育したいと考えています。私は彼らに、抽象的理解や

既成概念を与えたくない。成長し、花開き、悩む、そんな人生の力でもあるような生きた知識を与えたいと思っている

のです。彼らは、経験によって、自分自身の法則や判断基準を培っていかなければなりません。それは、中断する

ことなく続けてゆかなければならないのです」。・・・とラスカーは言っています。



ラスカーの基本的な思想は、チェスに対する合理的思考です。ラスカーは「チェスに対する合理的思考」という題で、

1895年に著書を出版しています。「誤解することはかまわないが、自分を騙そうとすることはやめたほうがいい。誰で

も自分の見解だけで生きることは可能です。しかし、人はときに負けることもあります。そのとき、そうなった理由を

苦しんで見つけ出すことのできる人はそこから光明を見い出せるのです。そうして、人は名人に、識者に、芸術家に

なっていくのです」と彼は強調しています。



 


ラスカーの名局



Emanuel Lasker vs Johann Hermann Bauer
"Emanuel Labor" (game of the day Sep-05-11)
Amsterdam (1889) ・ Bird Opening: Dutch Variation (A03) ・ 1-0




「有名なダブル・ビショップ・サクリファイスの最初の例。」

「完全チェス読本2 偉大なる天才たちの名局 ラスカーからカスパロフまで」から引用



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Harry Nelson Pillsbury vs Emanuel Lasker
"Pillsbury d'oh!" (game of the day Aug-01-05)
St. Petersburg 1895-96 (1896) ・
Queen's Gambit Declined: Pseudo-Tarrasch. Primitive Pillsbury Variation (D50) ・ 0-1




この試合は、チェスの歴史上最も偉大な125試合を詳しく解説した著名な文献
「The Mammoth Book of the World's Greatest Chess Games」に掲載されている。




「両者の戦いはどの一戦をとりあげても興味がつきない。このゲームではラスカーの

卓越した攻撃が見どころ。」


「完全チェス読本2 偉大なる天才たちの名局 ラスカーからカスパロフまで」から引用



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Moritz Porges vs Emanuel Lasker
"This Porges is Too Cold!" (game of the day Oct-04-10)
Nuremberg (1896) ・ Spanish Game: Berlin Defense. Pillsbury Variation (C67) ・ 0-1




「いちばん学べる名局集」アーヴィング・チェルネフ著 水野優訳では、この試合の詳しい

解説がされています。「すべての手に狙い!・・・ラスカーに勝つのが大変な理由の一つは、

ハイパーモダン派が発見する何年も前から、彼がその考え方をゲームに活用していたこと

だ。例えば、本局では『窮屈な陣形は必ずしも不利ではない』というニムゾヴィッチの概念を

実証している。肝心なのは、陣形内で蓄積したエネルギー量と、それを放出できるかどうか

だ。読者は、ラスカーがそれぞれに狙いを持たせた連続10手のエネルギーの解放する方法

を、楽しめるだろう。」・・・本書より抜粋引用




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Emanuel Lasker vs Siegbert Tarrasch
St Petersburg (1914) ・ Queen's Gambit Declined: Tarrasch Defense. Pseudo-Tarrasch (D30) ・ 1-0




「いちばん学べる名局集」アーヴィング・チェルネフ著 水野優訳では、この試合の詳しい

解説がされています。「孤立ポーン・・・孤立ポーンは、他の味方のポーンとはなれて独りで

立っている。ピースでしか守れないので弱そうに見える。しかし、孤立ポーンは簡単には取ら

れない。取ろうと狙っているピースに対応するように、守りに駆けつけられる味方のピースが

ある。孤立ポーンを取るためには、巧妙な手段を見つける才能が必要だ。ラスカーにはその

才能がある。以下のような方法だ。まず孤立ポーンを直接攻撃する。それがだめなら、ポー

ンを守っているピースを攻撃する。これも通じなければ、孤立ポーンを守っているピースを

守っているポーンを攻撃する。防御連鎖の土台をこうして崩すことで、致命的な弱点を作り、

結果的に駒損へと追い込める。本局では、ラスカーがナイト+2ポーンと引き替えにルークを

得る。大した優位には思えないが、強豪が勝つためには十分だ。ラスカーが相手に投了を

強いる方法から、勝局の勝ち方を学べる。」・・・本書より抜粋引用




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Emanuel Lasker vs Jose Raul Capablanca
"Rage Against the Machine" (game of the day Jan-01-05)
St Petersburg (1914) ・ Spanish Game: Exchange. Alekhine Variation (C68) ・ 1-0




「ラスカーの心理作戦としてしばしば引用されるゲームの一例。どうしても勝ち点がほしい

ために、故意にドローにいたる手順を選択。対戦相手はガードをさげた。」


「完全チェス読本2 偉大なる天才たちの名局 ラスカーからカスパロフまで」から引用



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Carlos Torre Repetto vs Emanuel Lasker
"Seventh Seal" (game of the day Jul-31-07)
Moscow (1925) ・ Torre Attack: Classical Defense (A46) ・ 1-0




「ラスカーの最も有名な敗局。対戦相手のメキシコ人は、悲劇的な神経衰弱によって棋士生命を

縮めたが、この試合では興味深い『風車』コンビネーションによって、勝利をおさめた。」


「完全チェス読本2 偉大なる天才たちの名局 ラスカーからカスパロフまで」から引用



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Frank James Marshall vs Emanuel Lasker
Lasker-Marshall World Championship Match (1907) ・
Spanish Game: Berlin Defense. Nyholm Attack (C65) ・ 0-1




「いちばん学べる名局集」アーヴィング・チェルネフ著 水野優訳では、この試合の詳しい

解説がされています。「見えない兵器、ツークツワンク・・・『終盤戦は、序盤戦と同じく、マスター

の実戦から学ぶのが最良の方法だ』とカパブランカが自書Chess Fundamentals で述べている。

本局は、この助言を実証している。序盤早々からエキサイティングなコンビネーションが炸裂す

る。自らの想像力をかき立てられるようだ。そして突然、中盤戦をすっ飛ばして終盤戦へ突入

する。それは、史上まれに見るほど注目すべきものだ。全盛期のラスカーならではの慎重さ、

熟考、妙技が遺憾なく発揮されている。我々は、全盛期のラスカーとともに、この終盤戦の理解

を高めていける。」・・・本書より抜粋引用




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ラスカーの名局集
Why Lasker Matters by Andrew Soltis
Compiled by keypusher


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ラスカーが解説した局

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Chessgames.com


ラスカーの全棋譜


 



この試合は、チェスの歴史上最も偉大な125試合を詳しく解説した著名な文献
「The Mammoth Book of the World's Greatest Chess Games」に掲載されている。




「敗者のネイピアが生涯のベスト・ゲームと評価する恐るべき打撃戦。」
「完全チェス読本2 偉大なる天才たちの名局 ラスカーからカスパロフまで」から引用



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Emanuel Lasker vs William Ewart Napier
Cambridge Springs (1904) ・ Sicilian Defense: Closed Variation. Traditional (B34) ・ 1-0


ラスカー(白) 対 ネイピア(黒) 1904年



「白夜のチェス戦争」ジョージ・スタイナー著 諸岡敏行訳 晶文社 より引用


かれの王位継承者は、わたしには、チェスの不滅の名人たちのうちでもこのうえなく魅惑的におもわれる。

ドイツのエマヌエル・ラスカー博士は、スタイニッツを破った1894年のニューヨークから、ホセ・ラウル・カパ

ブランカに敗れる1921年のハバナまでタイトルを保持した。ラスカーの技術にはつつましい普遍性があった。

1904年のケンブリッジ・スプリングスで黒を指したW.E.ネイピア戦のような試合は、どんなチェスの競技者だろ

うと感嘆させ、深遠な論理の系の存在をおぼえさせる。〈シシリア防御〉に対抗するラスカーの序盤のいささか

常軌を逸したはこびが、ネイピアに機会をあたえ、才気あふれる駒のコンビネーションをそっくりとらせてし

まった。ラスカーは隙なく迎えうったが、白のほうは、黒の17手目につづく有効な指し手がないようにおもわれ

た。そのあと、側面で予想外の前進をして、ラスカーが攻撃のいとぐちをみつけた。指し手はながく註釈者の

分析するところとなった。おどろくべきは、現実の競技の心理的重圧のもとにありながら、すくなくともかなりの

度合いで、ラスカーとネイピアがたがいの手順を算定し、対照できた点である。ひどく圧迫されつつも、ナイト

をキングの5(e4)と指した21手目で、ネイピアは天才の片鱗をのぞかせた。かれはルークをひとつおとした

が、ものともせずに詰めのコンビネーションをつくって、脅威をあたえた。極端に時間に追いつめられた状況

でおのおの40手を指しおえなければならないかったからだが、ラスカーはたったひとつだけある突きかえしの

手を発見した。ルークは返上したものの、かれはポーンふたつ取った。そして試合は、それぞれに代数解が

かくされた透かし文字をもつ、白の連続手のうちにおわりをつげた。



1924年、すでに世界チャンピオンの座をおりていたラスカー博士は、3月から4月にかけてブロードウェイ71番

ストリートのアラマック・ホテルで開かれる国際トーナメントに参加するため、ニューヨークいりした。このトーナ

メントこそはチェス史上最強のものだろう。それまでの10年間に95のトーナメントや単独の対局でわずか1試

合しかおとしていない世界チャンピオンのカパブランカをはじめ、とおからず世界チャンピオンになるロシアの

アレクサンドル・アリョーヒン、その理論が「超モダン」な序盤戦(伝統的なキング・ポーンまたはクイーン・ポー

ンという中央ではじめるのではなく、側面からはいる序盤定跡)をあみだしたチェコのリチャード・レチ、オース

トリアからきた恐るべきザーフィーリー・タルタコバー、つねに油断ならないマッチ・プレイの棋士であるウクラ

イナのE.D.ボゴリューボフ、合衆国のフランク・J・マーシャル、ほかにも何人かの国際級の権威が一堂に会し

たのだ。このおりに指された延べ110の試合は、チェスの文献にのこる屈指の激戦であり、そのおおくは巧緻

このうえない。



ラスカー博士は13試合に完勝し、レチとボゴリューボフを再度くだした。アリョーヒン、カパブランカとはひじょう

に困難な試合を引き分けにもちこんだ。たったひとつの失点は14試合目のカパブランカ戦で、ラスカーは黒番

にもかかわらず消極的な、引き分けを呼ぶ手順をきらい、すばらしい終盤戦で果てたのだった。4月15日の

ラルタコバーとの1勝は、首位と不滅の勝利をラスカーにもたらした。おしみない拍手の嵐のなか、かれは会

場をさっていった。



だがラスカーは、チェスの天才というばかりではなかった。あきらかにかれは、専門技術いがいにも関心を

もつバランスのとれた、広い教養を身につけた人間であった。競技中のかれは強烈そのものだったが、物腰

はつねに落ち着けはらっていた(「フィッシャーはほとんど落ち着くことがなく、スパスキーがつぎの一手をじっ

と思案しているそばで470ドルの特注の回転椅子をせわしなくまわしていた。手番のあいまに、フィッシャーは

爪をかm、鼻をほじり、耳掃除をした」)。もっとも、1924年の長丁場の1位賞金は、たったの150ドルにすぎな

かったし、“輝きの賞(The First Brilliancy Prize)”にいたっては、これはいちばん興奮させた1試合に判定で

贈られるものだが、75ドルだった。つたえるところによれば、金貨というちがいはあったが。



New York 1924 chess tournament
# Player 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 Total
1 Emanuel Lasker (Germany) xx ?0 1? ?1 11 11 11 ?1 ?1 ?1 11 16
2 Jose Raul Capablanca (Cuba) ?1 xx ?? ?? 01 ?1 11 11 1? ?1 ?1  14?
3 Alexander Alekhine (France) 0? ?? xx ?? 10 1? ?? ?? 11 ?? 11 12
4 Frank Marshall (United States) ?0 ?? ?? xx ?1 0? 01 ?0 ?1 1? 11 11
5 Richard Reti (Czechoslovakia) 00 10 01 ?0 xx ?? 01 11 10 10 11  10?
6 Geza Maroczy (Hungary) 00 ?0 0? 1? ?? xx 01 ?? 11 ?1 10 10
7 Efim Bogoljubow (Soviet Union) 00 00 ?? 10 10 10 xx 01 11 ?1 01  9?
8 Savielly Tartakower (Poland) ?0 00 ?? ?1 00 ?? 10 xx 10 ?0 ?1 8
9 Frederick Yates (England) ?0 0? 00 ?0 01 00 00 01 xx 11 ?1 7
10 Edward Lasker (United States) ?0 ?0 ?? 0? 01 ?0 ?0 ?1 00 xx 0?  6?
11 Dawid Janowski (France) 00 ?0 00 00 00 01 10 ?0 ?0 1? xx 5



New York 1924 chess tournamen で指された全棋譜

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以下、「決定力を鍛える チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣」

ガルリ・カスパロフ著 近藤隆文訳 NHK出版 より引用



意見を異にする賢者たちのライバル関係

20世紀初頭、チェス競技における史上有数の激しい敵対関係がエマーヌエル・ラスカーとジークベルト・

タラッシュのあいだで見られた。しかも、この対立はチェス盤上にとどまらなかった。ドイツの二大名手は

チェスの本質に関して、というより人生に関して根本的に異なる考えをいだいていたのだ。出典はあやしい

ながら有名な逸話によれば、1908年にデュッセルドルフでおこなわれた世界チャンピオン戦第1局の開始

前に和解が試みられたらしい。しかしタラッシュは入場するとラスカーに歩み寄って言った。「ラスカー君、

私からきみに言いたい言葉は三つだけだ。『チェック、そして、メイト!』」。タラッシュとその支援者たちに

はあいにくなことに、試合開始後に彼がこの台詞を使う機会はあまりなかった。ラスカーが8勝3敗で楽勝

したのである。



エマーヌエル・ラスカーは1894年から1921年まで世界王者の栄冠を誰よりも長く保持した。タイトル獲得

はヴィルヘルム・シュタイニッツを破ってのことだったが、当時のチェス界は若きドイツ人の力量に半信

半疑だった。シュタイニッツはすでに60歳に近く、明らかに全盛期を過ぎていたためだ。つづく5年間、

ラスカーは参加したあらゆる大会を圧倒的な強さで制覇し、その実力に対する疑念を払拭した。



ラスカーは数学でも偉大な才能を発揮しており、その分野における数々の貢献はいまも色あせない。

哲学と社会学にも強い関心をもっていた。ラスカーの(死後出版された)伝記に慈愛に満ちた序文を寄せ

たのは、ラスカーをよく知るアルバート・アインシュタインだった。『人間の抱えるあらゆる大問題に熱心な

関心をいだく一方で、ここまで独自の個性を守った人物はまずいない』。特筆すべきは、その序文には

相対性理論に関するラスカーの論文への反論も含まれていることだ。



ラスカーにとって、チェスとは第一にふたりの人間の意志がぶつかり合う心理戦だった。よくいわれるよう

に、彼はチェス盤ではなく人間を相手にプレーしたのだ。ミスは不可避であり、勝利は最大の圧力をかけ

た者、その圧力に最善の抵抗を見せた棋士に訪れるのだと認識していた。対戦相手からは、敵が混乱

するのを承知で故意に悪手を選んでいると非難もされた。それは言いすぎというものだが、ラスカーの棋譜

を見れば、敵がいちばん動揺するスタイルに切り換える達人だったのはうかがわれる。



恵まれたチェスの才能に加えて人間の心理に対する深い理解があったためか、ラスカーは60代になって

もきわめて高いレベルでプレーすることができた。1921年にキューバの天才ホセ・ラウル・カパブランカ

タイトルを奪われはしたが、1924年にニューヨークで開催された史上最大級のトーナメントでは、チャンピ

オンのカパブランカとのちのチャンピオン、アレクサンドル・アリョーヒンを抑えて優勝している。








ラスカーについて

「アマチュア棋士の大多数にとってはもちろん、名人たちにとってもここまで不可解な名手は、エマーヌエル・

ラスカーをおいてほかにいない」・・・ホセ・ラウル・カパブランカ




「タラッシュは知識を教え、ラスカーは知恵を教える」・・・フレッド・ラインフェルド



「チェス盤上では嘘と偽善は長く生きられない。創意ある手筋が嘘の厚かましさを暴き、無上な事実が

チェックメイトに結実して偽善者を否定する」・・・ラスカー




 

  19世紀(16〜17世紀も含む)に指されたチェスの名局集




 

アインシュタインのチェス棋譜



「チェスはその指数を把握し、

そして最も強い内的自由と独立性が影響を受けないよう、心と脳を拘束します。」


アインシュタイン






ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン ラスカーその2: 水野優のブログ〜チェストランス出版
より以下、抜粋引用。



1930年代の初めの数年間、ラスカーはアインシュタインと親交があった。アインシュタインは、後にラスカ

の伝記に序文を寄せている。中でもアインシュタインは、二人が相対性理論に関して長々と議論したと語って

いる。



ラスカーは、真空中での光の速度が無限とは証明されていないと珍しく反論した。この仮定が相対性理論の

土台となっているので、アインシュタインは、この仮定が証明か反証されるまで相対性理論を正当化できなく

なる。



アインシュタインは、特に当面確実な証明方法がないからといっていつまでも待てないと応酬し、加えて、その

チェス棋士気質のせいで、いかに不本意な結論への道筋に対しても忍耐強いとラスカーを形容した。この気質

においては、何かが定義されることが要求されない。結局、チェスはゲームに過ぎないからである。この点で、

両面価値が抑圧されていることはラスカーにとって好都合だった。そうでなければ、彼の一流の頭脳は物理学

になにがしかの貢献をしたことだろう。






アインシュタイン(白) 対 オッペンハイマー(黒)
Albert Einstein vs Robert Oppenheimer
"e=Nc4" (game of the day Aug-14-11)
Princeton USA (1933) ・ Spanish Game: Morphy Defense. Caro Variation (C70) ・ 1-0
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ロバート・オッペンハイマー - Wikipedia より以下、抜粋引用。


ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer, 1904年4月22日 - 1967年2月18日)は、

ユダヤ系アメリカ人の物理学者である。

理論物理学の広範な領域にわたって国際的な業績をあげたが、第二次世界大戦当時ロスアラモス国立

研究所の所長としてマンハッタン計画を主導。卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発プロジェクトの指導者

的役割を果たしたため「原爆の父」として知られた。



ブラックホール研究から原爆開発へ



1930年代末には宇宙物理学の領域で、中性子星や今日でいうブラックホールを巡る極めて先駆的な研究

を行っていたが、第二次世界大戦が勃発すると、1942年には原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が

開始される。オッペンハイマーは1943年ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究

チームを主導した。彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、ニューメキシコでの核実験(『トリニティ

実験』と呼ばれている)の後、大日本帝国の広島市・長崎市に投下されることになった(→広島市への原子

爆弾投下・長崎市への原子爆弾投下)。



弟のフランクが、後日ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』の中で語ったところでは、世界に使うこと

のできない兵器を見せて戦争を無意味にしようと考えていたそうだが、人々が新兵器の破壊力を目の当た

りにしてもそれを今までの通常兵器と同じように扱ってしまったと、絶望していたそうである。 また、戦後原爆

の使用に関して「科学者(物理学者)は罪を知った」との言葉を残している。



水爆反対活動と公職追放



戦後、1947年にはアインシュタインらを擁するプリンストン高等研究所所長に任命されたが、核兵器の国際

的な管理を呼びかけ、原子力委員会のアドバイザーとなってロビー活動を行い、かつソ連との核兵器競争

を防ぐため働いた。水素爆弾など核兵器に対して反対するようになったため、「水爆の父」ことエドワード・

テラーと対立した。



冷戦を背景に、ジョセフ・マッカーシーが赤狩りを強行した。 これがオッペンハイマーに大きな打撃を与える。

妻のキティ、実弟のフランク、フランクの妻のジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーン

(Jean Tatlock)は、アメリカ共産党員であった。また自身も共産党系の集会に参加したことが暴露された。

1954年4月12日、原子力委員会はこれらの事実にもとづき、オッペンハイマーを機密安全保持疑惑により

休職処分(事実上の公職追放)とした。オッペンハイマーは私生活も常にFBIの監視下におかれるなど生涯

に渡って抑圧され続けた。



後年



オッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神の化身クリシュナ

が自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は

死神なり、世界の破壊者なり」と語った部分(11章32節)を引用してクリシュナを自分自身に重ね、核兵器

開発を主導した事を後悔していることを吐露している。



1963年エンリコ・フェルミ賞受賞。1965年、咽頭がんの診断を受け、手術を受けた後、放射線療法と化学

療法を続けたが効果はなかった。1967年、昏睡に陥ったオッペンハイマーは、ニュージャージー州プリンス

トンの自宅で2月18日、62歳で死去した。



 


アインシュタイン名言・格言集。感動の言葉を! | 癒しツアー より以下、抜粋引用。



アルベルト・アインシュタイン(1879年〜1955年)

ドイツ生まれのユダヤ人理論物理学者。米国TIME誌のパーソン・オブ・ザ・センチュリー(20世紀の人)に選出される。


相対性理論などを提唱し、現代物理学の父と称される。幼少の頃は、数学に関しては突出した才能を示したが、

言葉を理解したり、話したりすることは苦手だった。1922年の訪日の途中にノーベル物理学賞を受賞。おとなしく、

生真面目な性格であり、自身を天才であるとはいささかも思っていなかったという。



アインシュタイン語録







天才とは努力する

凡才のことである。







過去から学び、

今日のために生き、

未来に対して希望をもつ。

大切なことは、

何も疑問を持たない状態に

陥らないことである。







自分自身のことについて誠実でない人間は、

他人から重んじられる資格はない。







成功という理想は、

そろそろ奉仕という理想に

取って替わられてしかるべき時だ。







教えるということは、

こちらが差し出したものが

つらい義務ではなく

貴重な贈り物だと

感じられるようなことであるべきです。







常識とは十八歳までに身につけた

偏見のコレクションのことをいう。







学べば学ぶほど、

自分がどれだけ無知であるか思い知らされる。

自分の無知に気づけば気づくほど、

より一層学びたくなる。







知的な馬鹿は、

物事を複雑にする傾向があります。

それとは反対の方向に進むためには、

少しの才能と多くの勇気が必要です。







6歳の子供に説明できなければ、

理解したとは言えない。







人の価値とは、

その人が得たものではなく、

その人が与えたもので測られる。







知識人は問題を解決し、

天才は問題を未然に防ぐ。







ある年齢を過ぎたら、

読書は精神をクリエイティブな探求から遠ざける。

本をたくさん読みすぎて、

自分自身の脳を使っていない人は、

怠惰な思考習慣に陥る。







可愛い女の子と一時間一緒にいると、

一分しか経っていないように思える。

熱いストーブの上に一分座らせられたら、

どんな一時間よりも長いはずだ。

相対性とはそれである。







科学はすばらしいものだ。

もし生活の糧を

そこから得る必要がないのなら。







真実とは、

経験という試練に

耐え得るもののことである。







すべての宗教、芸術、科学は、

同じ一つの木の枝である。







正規の教育を受けて

好奇心を失わない子供がいたら、

それは奇跡だ。







たとえ国家が要求しても

良心に反することをしてはいけない。







宗教なき科学は

不完全であり、

科学なき宗教は

盲目である。





THE GRAND INTERNATIONAL MASTERS'CHESS TOURNAMENT AT ST.PETERSBURG,1914 - Chess.com

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Wainstein,Marshall,Alechin,Maxinow,Maljutin,Sabonroff,Talwik,Sossnitzky,Rubinow,Lochwitzky,
Snosko-Borowsky,Nimzowitsch,Korolew


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