Susan Polgar Chess Daily News and Information: Is there a perfect game of chess?
左は、Lubomir Kavalek で彼の名局はこちら
Week of reddit.com/r/chess (Wednesday 5/15 - Tuesday 5/21)
以下、ウィキペディアより引用 アナトーリー・イェヴゲンイェヴィッチ・カルポフ( Anatoly Karpov, 1951年5月23日 - )は、ソビエト連邦生まれの チェスの世界チャンピオン(1975年 - 1985年、1993年 - 1999年)。ズラトウースト出身。18歳のときにストックホ ルムで開催された世界ジュニアチェス選手権で優勝し、10人目のジュニア世界チャンピオンとなる。1970年グラ ンドマスターの称号を得る。 1975年、当時の世界チャンピオン、ボビー・フィッシャーへの挑戦権を得るが、フィッシャーの棄権により不戦勝 でタイトル獲得。1978年、ヴィクトール・コルチノイの挑戦を受ける。コルチノイはその2年前にソ連から西側へ 亡命しており、このマッチは「ソ連の体制対裏切り者」という構図でとらえられた。マッチは「先に6勝、局数無制 限」という条件で行なわれ、カルポフは第27局を勝って5勝2敗と大きくリードする。しかしコルチノイは続く4局を 3勝1分と急追し、両者後のない5勝5敗のタイで第32局を迎えた。極度の緊張下で行なわれたこのゲームにカル ポフは快勝、きわどく初防衛を果たした。続く1981年にもコルチノイの連続挑戦を受けたが、今度は6勝2敗(10 引き分け)と危なげなく防衛に成功した。 1984年にはガリー・カスパロフの挑戦を受け、途中まで5勝0敗と圧倒したが、やはり局数無制限の条件であっ たためにマッチが非常に長期化し、48局(カルポフの5勝3敗)の時点で中断、無勝負となる。翌1985年の再戦 は伝統的な24局マッチで行なわれ、逆にカスパロフが5勝3敗15和で勝利した。カルポフはさらに1986年のリタ ーンマッチ、1987年、1990年の挑戦マッチをカスパロフと戦った。勝利こそできなかったがいずれのマッチも1点 差以内の僅差であり、内容から見ても棋史に残る名勝負である。特に1987年のマッチは24局すべてが同点か 1点差で戦われたという競り合いで、カルポフが第23局を勝って1点リードしたが、最終第24局を敗れてカスパロ フに引き分け防衛を許した。 1993年、カスパロフは挑戦者ナイジェル・ショートとともにプロチェス協会を設立し、独自に防衛マッチを行なった ため、国際チェス連盟(FIDE)からタイトルを剥奪された。そしてカルポフがヤン・ティマンとのマッチを経てFIDE チャンピオンに復位した。カルポフはその後、1996年にはゲイタ・カムスキー、1998年にはヴィスワナータン・ アーナンドを相手にタイトルを防衛したが、翌1999年の世界選手権制度変更に抗議して王座を返上した。 |
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「完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯」フランク・ブレイディー・著 より引用 本書 第11章 荒野の時代・称号を放棄 より抜粋 23歳のアナトリー・カルポフはレニングラード大学経済学部の学生であり、痩せて背が低く、いつも床屋に 行ったほうがよさそうなボサボサ髪をした青白い若者で、ブルックリン出身の元神童にして32歳の世界 チャンピオンであり、スポーツ選手の身体と王者の風格を持ったボビー・フィッシャーとは、とうてい世界 選手権マッチで戦えそうになかった。だがカルポフは、挑戦者決定戦の3戦を勝ち抜いて、フィッシャーに 挑戦する資格をもぎ取っていた。全46局の厳しい対局のなかで、負けたのは3局だけだった。23歳のころ のフィッシャーとくらべると、カルポフはチェスの能力で数年上まわっていたし、多くのチェスプレイヤーが ・・・ソ連のプレイヤーだけでなく・・・大きく成長したフィッシャーよりもカルポフのほうが強いかもしれないと 噂していた。フィッシャーが以前手に負えなかったボトヴィニックが、カルポフの先生となっていたのだ。 (中略) フィッシャーの決意の反響は、世界じゅうに広がった。「ニューヨーク・タイムズ」は、インターナショナル・ グランドマスターのロバート・バーンが書いた「ボビー・フィッシャーは失敗を恐れている」という記事を掲載 した。その記事には、フィッシャーは序盤で1.2局落したらほぼ勝者になれないと考えていて、その恐怖の せいでずっとチェスの大会から遠ざかっていた、とあった。さらに記事は、一流のチェスプレーヤーがもっと も恐れているのは「だれもが陥ることがある説明不能のミス」、偶然の失敗だ、と続く。フィッシャーの弁護 士ポール・マーシャルでさえ、フィッシャーの「恐怖」についてこう述べている。「フィッシャーは未知のもの、 自分がコントロールできないものを恐れている。だから人生からもチェスからも、偶然の要素を排除しよう としているんだ」 しかし、みんな見過ごしているようだが、フィッシャーはチェス盤上ではだれも恐れていなかった。名優が むずかしい演技の前にあがってしまうように、対局前に神経質な部分を見せはしたが、この対局前の不安 を恐怖と混同すべきではない。この不安はフィッシャーにとって慎重さの源であり、神経を研ぎ澄ませ、 強みを与える糧になった。詰まるところフィッシャーを偉大なプレーヤーにしたのは、自分への決して揺る がない自信だったのである。 心理分析の専門家、M・バリー・リッチモンド医学博士は、「ボビー・フィッシャーの決断の意味」と題する 論文のなかで、ロバート・バーンの意見に異議を唱え、フィッシャーを深遠な芸術家、ピカソ作品のように 非凡な存在と見なすべきだと訴えた。その主張によると、フィッシャーがタイトル防衛をやらないのは、 世界チャンピオンとしての責任を感じている証拠である。独自のルールの世界を作ったり生み出したり 変えようとしたりする姿はまさにその責任感を示すものであって、恐怖とはなんの関係もない。 |
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カルポフの名局 |
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カルポフの名局集 Anatoly Karpov's Best Games Compiled by KingG 棋譜を見るにはブラウザ「Internet Explorer」が必要で、 「Google Chrome」では出来ません。 またJAVA アプレットがインストールされていないと棋譜が表示されません。 Javaコントロール・パネルでのセキュリティ・レベルの設定 Karpov_Best.pgn へのリンク (チェス棋譜再現ソフトをご用意ください) |
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以下、「決定力を鍛える チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣」 ガルリ・カスパロフ著 近藤隆文訳 NHK出版 より引用 私の人生を決めた対戦相手 第12代世界チャンピオン(1975-85)。ソ連、ズラトウスト生まれ。タイトル獲得を目指して急速に頭角を現した のち、1975年に世界チャンピオンの冠を戴く。アメリカ人チャンピオンのボビー・フィッシャーが国際チェス連盟 との長い交渉の末に称号を剥奪されたためだった。こうした戴冠の経緯から気概を示す必要性を感じたのか、 その後の大会という大会を制覇。その見事な戦績はいまも他の追随を許さない。 1978年と81年に、いずれもヴィクトール・コルチノイを相手にタイトル防衛に成功。私とは1984年、85年、86年、 87年、90年と、五回連続で世界チャンピオンをかけて対戦しており、総対局数は144におよぶ。長丁場の戦い を終えたあと、われわれの対戦成績は驚くほど拮抗していた(私が21勝、カルポフが19勝、そして引き分けが 104!)。この“K-K”対決はスポーツ史上指折りの熾烈な対戦として広く知られている。 カルポフは、課せられた使命ともいうべきアメリカ人フィッシャーからのタイトル奪還を果した結果、ソ連国内で 莫大な政治的支援を受けた。ソ連の権力構造と強く結びついたわけだが、元来、彼は権力と手を組む傾向に ある。われわれの火と氷のように対照的な棋風は、“反逆者対政権協力者”という盤上を離れての評判を反映 するものであった。用意周到に駒を操るスタイルに熟達していたことから、“カルポフ流の(Karpovian)”という チェス用語が使われるようになった。これは大蛇のようにじわじわと念入りに敵を締めつけることを指す。 「カルポフの意図を理解したとき、対戦相手はすでに逃れることができなくなっている」・・・ミハイル・タリ 「ゲームの進め方には二種類あるとしよう。ひとつは、美しい戦術な一突きで変化をつけ、正確な読み を阻止するやり方。もうひとつは、陣形の変化で圧力をかけるやり方だ。私は躊躇なく後者を選ぶ」 ・・・・カルポフ |
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ガルリ・カスパロフが過去に国際チェス連盟と騒動を起こし、イギリスのショートと共にチェス界を分裂さ せたことを忘れることができません。1993年、チャンピオン・カスパロフと挑戦者・ショートは、彼らの世界 選手権を乗っ取り、彼らが作ったプロチェス協会(PCA)の元で行なうことを宣言しました。彼ら理由として、 「国際チェス連盟(FIDE)の規則では、世界選手権決勝マッチの開催地はFIDE、世界チャンピオン、挑戦 者の3者の合議で決定することとなっていた。しかし、カンポマネス(FIDE会長)はこれらの規則を破って、 開催地をマンチェスターと宣言した」からだとしていますが、確かにFIDEの官僚体制などいろいろ問題が あったかも知れません。しかし、彼らカスパロフとショートが動いた根本動機は私利私欲であった面は否定 できないと思います。カスパロフは以前からカンポマネスに不信感をもっており、自分主導でチェス界を 引っ張っていく想いが強かったのかもしれませんが、ただ言えることは、彼が現在のチャンピオンになる ことが出来たのは、地方・国など多くのチェス組織があってこそだと思います。会長への憎しみだけのため、 今まで自分を育ててくれた組織を分裂させてしまったカスパロフとショートの行動は批判されるべきかも 知れません。カスパロフは最近、あの行動は間違っていたと語り、その責任の多くがショートにあると主張 していますが、これもチェス界の悲しい遺産の一つです。 2013年月.30日 (K.K) |
El Cubo de Rubik · Antonio Gude: KARPOV (Tilburg 86)
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2016年6月7日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 コルチノイ出演の牛乳のCM コルチノイは旧ソ連出身のチェス棋士でしたが、ソルジェニーツィン、あるいはノーベル平和賞を取った物理学者の サハロフと同じように旧ソ連に反逆し、1974年に奥さんと一緒にオランダ(後にスイス)に亡命します。 1974年というと、世界中を沸かせたフィッシャー対スパスキーの世紀の一戦の2年後で、1978年には挑戦者として、 旧ソ連の王者カルポフと世界選手権を争いますが、僅差で敗れてしまいます。 昨日、「ソ連のフィッシャー」と呼ばれたコルチノイは85歳で亡くなりましたが、70歳過ぎてまで闘志むき出しの対局 姿勢に世界のファンは魅了されたのではと思います。 偉大な芸術家に共通する老いることのない情熱。 激動の時代の生き証人だった人ですが、このようなおどけた姿でCMに出ていたんですね。 |