life World chess champion Tigran V. Petrosian... - Hosted by Google


NOJ's Tal Set--"An Anthem to the Reproduction of Chess Pieces" - Chess.com



ペトロシアン(Petrosian Tigran)
1929年6月17日 - 1984年8月13日


以下「楽しいチェス読本」より引用


1963年、新たにチェス界のオリンポス山を登ってきた者がいました。それは

モスクワのペトロシアン(1929年生)でした。キュラソー島での挑戦者選出大会

で優勝し、ボトビニクとの対戦が決まりました。彼はそれまでの全ソチャンピオ

ンと異なる一面をもっていました。疲れをしらぬ自己との闘いです。彼のストイ

シズム、忍耐力、自己批判は他の名人たちとは異質な、独自のものでした。

時の流れにつれて、ボトビニクは若者たちの追撃に対抗する力を失っていま

した。彼らを指導したのは、他ならぬボトビニク自身だったのですが。



ペトロシアンとの試合では、最初、チャンピオンが優勢でした。第1試合はボト

ビニクが取りました。しかし第2試合で、ボトビニクは攻撃力の弱化を露呈し、

挑戦者の意のままに指されてしまいました。終盤戦をみても、長所や美点は

すべて挑戦者の側にあらわれています。



この試合は、チェス愛好者や出版界の興味を喚起しました。トゥビリシ~モス

クワ間、エレバン~モスクワ間の電話は終日、予約済みでした。結果はペトロ

シアンの5勝2敗15分けで、彼は第9代世界チャンピオンになりました。



ジャーナリストの質問に答えて、ボトビニクは自分の状態を説明し、続けてこう

言ったのです。「新チャンピオンは驚くべき競技スタイルをもっている。彼はま

ず第1に自分の守備を配慮し、次いで相手の能力を落とす方法を考えたので

す。彼はそれを努力なしに、直感的にやってのけます。私は彼に対応できな

かったし、いつもの序盤戦の局面に引きづりこむことも成功しませんでした」。



数年後、『ボトビニク チェス作品集全3巻』が出版され、そこで彼は次のよう

に書いています。「1963年の試合において、私は想定されるあらゆる対策を

準備しましたが、良い結果は得られなかった。過去の偉大なプレーヤーの中

から最もペトロシアンに近いスタイルの人間を選ぶとすれば、それはフロル

だろう。とすると、これは一般的な型ではない。それが、私を定石からはみ

出させ、ハーモニーの創造という理想を空しくさせたのである。いずれにせ

よ、私は試合中、過度の緊張と束縛感にとらわれていた」と。






「ペトロシアンは20手先の危険を事前に察知して排除する能力をもっている。

ペトロシアンの才能には舌を巻いたよ。見事な陣形を築き、かならずそれを

強固にする作戦を見つけるのだから」 ボビー・フィッシャー











歴代世界チャンピオンの肖像Serkan Ergun
serkan-ergun-the-world-chess-champions-by-serkan-ergun | Serkan Ergun

(大きな画像)


歴代チェス世界チャンピオン

名前 チャンピオン在位期間 その時の年齢 
 1 Wilhelm Steinitz 1886~1894  50~58
2 Emanuel Lasker  1894~1921  26~52
3 Jose Raul Capablanca 1921~1927 33~39 
4 Alexander Alekhine 1927~1935  1937~1946 35~43 45~54
5 Max Euwe 1935~1937 34~36 
6 Mikhail Botvinnik  1948~1957 1958~1960 1961~1963 37~46 47~49 50~52
7 Vasily Smyslov  1957~1958  36 
8 Mikhail Tal  1960~1961  24 
9 Tigran Petrosian  1963~1969  34~40 
10 Boris Spassky  1969~1972  32~35 
11 Bobby Fischer  1972~1975  29~32 
12 Anatoly Karpov  1975~1985  24~34 
13 Garry Kasparov  1985~1993  22~30 
14 Vladimir Kramnik  2006~2007  31~32 
15 Viswanathan Anand  2007~2013  38~43 
16 Magnus Carlsen  2013~present  22~







 以下、 マックス・エイベ「激闘譜」より引用



チグラン・ワルタノビチ・ペトロシアンは1929年6月17日に生まれました。ペトロシアンはその気やすさ、社交

性、謙虚さで大変人に好かれています。数学博士の学位を持つ彼は子供の頃からずっとチェスを続けていま

す。学生のときすでにグルジア共和国選手権戦で善戦しています。その頃彼は両親を失い生活難でしたが、

持ち前の不屈の意志により、いろいろな苦労に打ち勝ちました。彼は“くろがねのペトロシアン”といわれてい

ますが、それは伊達ではありません。強固な個性と鉄の意志でチェスに関してだけではなく、彼は実生活でも

困難から立ち上がったものでした。



1947年18才のときペトロシアンは全ゾ選手権準決勝トーナメントに参加し、よう5位を獲得し、マスター格となり

ました。1951年、第19回全ソ選手権にボトビニクケレススミスロフ等の最強選手に混ざって参加しました。

22才のときです。彼は2-3位に入賞しインターゾーナル出場権を獲得しました。彼の夢GMを得ることは1952

年草速かなえられました。



インターゾーナルでも同率2-3位を取り、いよいよ挑戦者決定戦に出場です。ペトロシアンはこの頃すでに、

チェスの最高の技に達していたといえるでしょう。彼は以来毎回挑戦者決定戦に参加しています。1953年

チューリヒ5位、1956年アムステルダム3位、1959年ユーゴスラビア3位。彼の技に何が欠けていたのでしょう

か。オランダの大会では非常に善戦しました。難局に遭遇して、もつれることもありませんでした。けれど

優勝するには至りません。ユーゴスラビアでの彼への期待もたとえようもなく大きなものでした。しかしただの

3位。



そして4回目の挑戦者決定戦、1962年のキュラソーの大会での優勝。チャンピオン、ボトビニクに一槌を加え

るべく立ち向かうことになりました。ペトロシアンの棋風はどちらかといえば無味乾燥で、決して大向うをうなら

せるような派手さはありませんが、ボトビニクとの立合いは大きな興味をよびました。試合が始める前から、

すでに興奮と熱狂がまき起りました。



第1局、ペトロシアンの白番。しかし取り口に自信を欠いて敗退です。しかし、この敗戦がペトロシアンの強さを

触発するところとなりました。“鉄の意志”が頭をもちあげ敵の鋭鋒を見事にかわします。ペトロシアンが反撃に

移るには長くを要しませんでした。相手のちょっとした緩手をとらえ積極的に戦い5局終わって2.5-2.5のタイ・

スコア。7局目も更にペトロシアンがあ取りました。そのあとのボトビニクの猛攻は冷静な防御によってはね返

されます。忍耐強く相手の弱点をさがし出して、そこを突き攻撃、混戦に持ち込み、1局また1局と引き分けを

繰り返しました。一方ボトビニクの砂を噛む思いの努力も14局目になって実りやっと勝ちを入れる。しかしそれ

も束の間、すぐ次ぎのゲームでまたペトロシアンがリード。こうして最後は12.5対9.5でペトロシアンは9人目の

チャンピオンとして勝ち名乗りを上げました。



FIDEの会議では前チャンピオンのリターン・マッチの権利をなくす決定がなされました。ボトビニクは世界選手権

戦からの引退を表明し、ペトロシアンは新しいチャンピオンを待つことになります。同じ年、ペトロシアンはサンタ・

モニカのトーナメントに参加しましたが出来が悪く6-7位。そして次の挑戦者を待つ間数回いろいろなトーナメント

に参加しています。



さて、アムステルダムでのインターゾーナルを突破、ケレス、ゲラータリを個別に撃退してスパスキイがペトロシ

アンに挑戦すべく登場。1966年モスクワでの二人の対決は12.5対11.5、僅差の接戦でしたがペトロシアンの防衛

するところとなりました。1969年、スパスキイ挑戦として再登場です。モスクワには全世界のエリート達が集まって

きます。試合に先立ち、エイベ博士はこの勝負の分かれ目は第16局以降になるだろうと予想を述べました。

予言が当たり、第12局で6-6のタイになったあと引き分けが続き第17局に至ってスパスキイが1勝とリード、更に

19局に差がもう一つ開きました。ペトロシアンは挽回に血をしぼりましたが徒労に終り12.5対10.5で勝利はスパス

キイの頭上に輝きました。



ペトロシアンはしかし不退転です。果たして再びチャンピオンを奪還して、6年間の王座に書き加えることができる

か否かは今後の歴史が示すでしょう。




 


「完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯」フランク・ブレイディー・著 文藝春秋 より抜粋引用。



本書 第7章 アインシュタイン理論 「チェスのほうがずっと楽しい」 より抜粋引用



1962年の挑戦者決定戦で優勝したのは、ティグラン・ペトロシアンだった。8勝19引き分け負けなしで、

スコアは17.5ポイント。ソ連のエフィム・ゲレルパウリ・ケレスが0.5ポイント差で2位タイ、フィッシャーは

そこから3ポイント差で4位となり、5位のコルチノイとは0.5ポイント差だった。



フィッシャーはキュラソーで実際にはなにがあったのか、世界に知らせたかった。そこでこう書いた。

「ロシア人(ソ連)のプレイヤーのあいだであからさまな共謀行為がありました。彼らは自分たち同士の

対局を引き分けにしようと事前に取り決めていたんです・・・・対局中に指導もしていました。もし私が

ロシア人のプレーヤーと対戦しているとしたら、私のいろんな対局を見ていたほかのロシア人たちが、

私の聞こえるところでこっちの手筋について解説しているんです」



コルチノイは「チェス・イズ・マイ・ライフ」という自伝のなかで、フィッシャーの非難を擁護した。「すべてを

お膳立てしたのはペトロシアンでした。彼は友人ゲラーと、自分たちの全対局を引き分けにしようと取り

決めたんです。2人はケレスにもこの不正に加わるよう圧力をかけました。このおかげで、彼らはほかの

プレーヤーたちよりも圧倒的な優位に立ったのです」



パル・ベンコは、フィッシャーが優勝できなかった理由を訊かれたとき、喧嘩のときの腹立ちを引きずっ

ているのか、こう答えた。「要するに、最強のプレイヤーじゃなかったってことさ」 



フィッシャーの成功する自己イメージは、キュラソーの結果で脆くも崩れ去ってしまった。史上もっとも

若い世界チャンピオンになるという彼の夢、もしくは妄想は、実現できなかった。いつかきっと世界

チャンピオンになるだろうとは思っていたが、フィッシャーにとってそれだけでは充分ではなかったの

である。この若さで世界屈指のチェスプレイヤーにのしあがったことで、フィッシャーは自分がチャン

ピオンになるのを確信していたが、ロシア人たちは、フィッシャーが不正と断じた行為を通して、フィッ

シャーを押さえつけることを証明した。このことにフィッシャーは、憤りと悲しみを覚えた。



もう自分の運命は変わらないし、なすすべもないのだとフィッシャーは悟ったが、黙ってチェスの暗い闇

に甘んじようとは思わなかった。彼は自分にひどい仕打ちをしたソ連の棋士たちを軽蔑した。そして彼ら

が世界チャンピオンの座を盗んだのだと確信し、世界にそれを知らせることにしたのである。



 


ペトロシアンの名局


Tigran Vartanovich Petrosian vs Ludek Pachman
"Petrofied" (game of the day Jan-03-09)
Bled (1961) · Zukertort Opening: Sicilian Invitation (A04) · 1-0



「いちばん学べる名局集」アーヴィング・チェルネフ著 水野優訳では、この試合の詳しい

解説がされています。「サプライズ! サプライズ!・・・400年以上昔のことだが、偉大な棋士

ルイ・ロペス(1.e4で始まる最強の定跡名は彼の名にちなむ)は、相手が日光でまぶしくなるよ

うに盤を置くことを、良策として推奨した。今日のマスターには、こんな作戦は必要ない。相手

の注意をそらすにしても、もっと巧妙な方法がある。本局では、狡猾なペトロシアンが、クイー

ン側ポーンへの様々な攻撃を繰り出す。その防御に追われていたパッハマンは、キング側で

の強烈なクイーン・サクリファイスで完全に不意を突かれる。この仰天の手に続く渋い手は、

どこからともなくメイトの狙い。避けられない狙いを出現させる。パッハマンほどの定跡研究家

が序盤で不意打ちを食らったのだから、当然、我々も本局のペトロシアンの作戦から何かを

学べると考えられる。」・・・本書より抜粋引用




pachman_petrosian_1961.pgn へのリンク





Tigran Vartanovich Petrosian vs Kozali
Montevideo 1954 · Queen's Gambit Declined: Exchange. Positional Variation (D35) · 1-0



「いちばん学べる名局集」アーヴィング・チェルネフ著 水野優訳では、この試合の詳しい

解説がされています。「ポーンの行軍・・・本局では、ペトロシアンの手順が、よく書かれた短篇

小説の文章のように流れている。感知できないほどわずかな優位が形を変え、さらに転換し

ていく。センターに戦力を終結することで、ペトロシアンはキング側からポーンで攻撃を始める

ことができたのだ。キング側ポーンの侵入により、ポーンの後ろにいたピースのためにファイ

ルが開く。ピースの一つ(ルーク)が7段目まで侵入し、相手キングの動きを封じる。結末はそ

の直後に訪れる。駒損かチェックメイトだ。」・・・本書より抜粋引用




kozali_petrosian_1954.pgn へのリンク





Tigran Vartanovich Petrosian vs Boris Spassky
"Boris Bad and Off" (game of the day Oct-28-08)
Petrosian-Spassky World Championship Match (1966) ·
King's Indian Defense: Fianchetto. Panno Variation Blockade Line (E63) · 1-0



この試合は、チェスの歴史上最も偉大な125試合を詳しく解説した著名な文献
「The Mammoth Book of the World's Greatest Chess Games」に掲載されている。



「エクスチェンジ・サクリファイスは、ソ連選手のトレードマークといわれることがしばしば

ある。この試合でペトロシアンはそれを2回もやってみせる。」


「完全チェス読本2 偉大なる天才たちの名局 ラスカーからカスパロフまで」から引用



spassky_petrosian_1966.pgn へのリンク


この試合の10年前(1956年)にもペトロシアンは同じような最終局面を迎えていた。


Tigran Vartanovich Petrosian vs Vladimir Simagin
Ch URS 1956 · Old Indian Defense: Czech Variation (A53) · 1-0




petrosian_simagin_1956.pgn へのリンク





Tigran Vartanovich Petrosian vs Viktor Korchnoi
Leningrad 1946 · Dutch Defense: Stonewall. Modern Variation (A90) · 1-0



「いちばん学べる名局集」アーヴィング・チェルネフ著 水野優訳では、この試合の詳しい

解説がされています。「柔術の技・・・ペトロシアンには天性のひらめきがあるに違いない。

コルチノイのような強豪を不思議な数手で早々と片づけることなど、他の誰にできるだろう?

巧妙な戦略を使い、ペトロシアンは、相手のピースが互いに守り合わねばならない局面に

持ち込む。クイーンはナイト、ナイトはルーク、ルークはポーンを守るという局面だ。ペトロ

シアンが柔術の達人のような能力で急所を攻撃すると、コルチノイはすぐに投了せざるを

得なくなる。」・・・本書より抜粋引用




petrosian_korchnoi_1946.pgn へのリンク





Aganalian vs Tigran Vartanovich Petrosian
"Alian Invasion" (game of the day Jan-11-12)
Tbilisi 1945 · Old Indian Defense: Ukrainian Variation (A54) · 0-1



「いちばん学べる名局集」アーヴィング・チェルネフ著 水野優訳では、この試合の詳しい

解説がされています。「強力なパスポーン・・・現代のマスターはわずかな優位を積み重ねよ

うと試みるが、それが直ちに功を奏するとはかぎらない。本局では、ペトロシアンが、相手の

ナイトとビショップに対して2ビショップを持っていることと、開いたファイルでルークを重ねる

ことで、有利な局面に持ち込んでいく。これだけでは不十分だが、突然の交換損(エクスチェ

ンジ)サクリファイスによって、このつかみ所のない優位をわかりやすい形に転換する。ペト

ロシアンにはセンターにニ連結パスポーンが残り、相手のルークと向かい合う。不思議なこと

に、このルークは、ポーンの一つがクイーンになるのを防ぐことができない。」

・・・本書より抜粋引用




aganalian_petrosian_1945.pgn へのリンク





Tigran Vartanovich Petrosian vs Vasily Smyslov
USSR Championship 1961a (1961) ·
Queen's Indian Defense: Kasparov-Petrosian Variation. Petrosian Attack (E12) · 1-0



「いちばん学べる名局集」アーヴィング・チェルネフ著 水野優訳では、この試合の詳しい

解説がされています。「キングの護衛を取り除く・・・ペトロシアンがキング側を攻撃する方法

には、凡庸さがない。最もありふれた局面においても味のある作戦を発見する。本局では、

相手の領域へ侵入する独創的な手段を見つけ出す。まずは、クイーンの攻撃的な手を3回

続ける。これで、相手のキャスリングしたキングを守る3個のポーンが浮き足立つ。残るは、

キングの強力な守護神クイーンを追い払うだけ! ペトロシアンは、ビショップを犠牲にして

クイーンを引き離してから、要塞を強襲する。」

・・・本書より抜粋引用




petrosian_smyslov_1961.pgn へのリンク





Petrosian,Tigran V - Gligoric,Svetozar [E97]
Rovinj/Zagreb Zagreb, 1970
[GM Lubomir Kavalek/The Huffington Post]

ChessBaseより引用



kavalek35.pgn へのリンク





Tigran Vartanovich Petrosian vs Petrovsky
"Love Triangle" (game of the day Mar-26-13)
Leningrad (Russia) 1946 · Bogo-Indian Defense: Nimzowitsch Variation (E11) · 1-0




petrosian_petrovsky_1946.pgn へのリンク

 

ペトロシアンの名局集
Tigran, Tigran, burning bright
Compiled by sleepyirv


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ペトロシアンの全棋譜


 


以下、「決定力を鍛える チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣」

ガルリ・カスパロフ著 近藤隆文訳 NHK出版 より引用



ふたつの対照的なチェスの知の泉

チグラン・ペトロシアンは第9代世界チャンピオンであり、ボリス・スパスキーは2度目の挑戦でペトロシアンから

タイトルを奪った人物である。ふたりはソ連代表のチームメイトで、国際舞台にデビューした当時の私にとって

専任の家庭教師のような存在だった。いまだ第一線で活躍するプレーヤーでありながら、トップレベルでの豊富

な経験を新進の後輩に分け与えてくれたのである。



彼らの教えを受けるようになったのは、実際に出会うよりはるか昔、両者にとって2度目となる1969年の世界

チャンピオン戦に関する書物を通じてのことだった。その本は子供のころにプレゼントされたものだが、ページ

をめくり、彼らの対局にふれる楽しさはいまも変らない。


ペトロシアンとスパスキーは盤をはさんでの稽古もつけてくれた。私はどちらに対しても最初の2度の決戦で

優勢なポジションから負けを喫しており、年を重ねて分別がつくようになってようやく通算成績を2-2の互角に

もちこんだにすぎない。



ペトロシアンは1963年、私が生まれた年にタイトル戦を制して、ボトヴィニクの時代に終止符を打った人物で

ある。その恐るべき守備的な棋風は、勝利には1勝無敗で事足りるマッチ形式にうってつけだった。ボトヴィニク

もめずらしく勝者を称え、局面を深く評価する能力にかけてペトロシアンの右に出る者はないと語っている。



スパスキーは真に万能の棋士であり、華麗な攻撃と冷静なマヌーバリンングプレーのどちらにも長けていた。

最初の世界チャンピオン戦では、複雑な局面におけるペトロシアンの能力を侮ったのが響いた。2度目の1969

年の対戦では、自身の攻撃性をコントロールして勝利する。だが残念ながら、スパスキーは何より、1972年の

アイスランドはレイキャヴィクでの有名な試合でアメリカ人ボビー・フィッシャーにタイトルを奪われたことで記憶

されている。



気ままな性格のスパスキーは、長くトップにとどまるために必要なたゆまぬ努力をすることもなかった。自由を

重んじる彼はソ連的精神を受けいれず、フランス人女性と結婚して1976年にフランスに移住。現在は、ロシア

民族主義者で君主制支持者であると自負している。








「私のプレーは慎重すぎると考える人もいるが、問題は別のところにあるのではないだろうか。私は努めて

偶然を避ける。偶然に頼る者はカードかルーレットをやったほうがいい。チェスはまったく別のものだ」

・・・ペトロシアン




File:Albin Planinc vs. Tigran Petrosian at the 1973 IBM international chess tournament.jpg - Wikimedia Commons


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