「完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯」

フランク・ブレイディー著 佐藤耕士・訳 羽生善治・解説 文藝春秋






2013年2月17日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





「完全なる天才 天才ボビー・フィッシャーの生涯」文芸春秋 を読み終えて

(写真はフィッシャーの写真集より引用したもので世界選手権の休息日に撮られたものです。)



2001年9月11日、同時多発テロの日。



「ブッシュ大統領に死を! アメリカに死を! アメリカなんてくそくらえ!

ユダヤ人なんかくそくらえ! ユダヤ人は犯罪者だ。

やつらは人殺しで、犯罪者で泥棒で、嘘つきのろくでなしだ。

ホロコーストだってやつらのでっちあげだ。あんなの一言も真実じゃない。

今日はすばらしい日だ。アメリカなんてくそくらえ! 泣きわめけ、

この泣きべそかきめ! 哀れな声で泣くんだ、このろくでなしども! 

おまえたちの終りは近いぞ」



これはイスラム過激派の言葉ではない。この言葉は1972年という東西冷戦時のソ連にたった一人で

立ち向かい、チェスで勝利した男・ボビーフィッシャー(ユダヤ人の血をひくアメリカ人)が発したもの

である。



チェスを超えて自由主義圏の英雄ともてはやされた男が何故ここまで堕ちたのか、いや正確には追い

つめられたと言ったほうがいいのだろう。



妥協することを許さない天才。彼の言葉は物事の真実を暴こうとするが周囲からは理解されず、彼の

名声やお金に与ろうする人間によって傷つけられ、人間不信と妄想そして貧困が彼を蝕んでいく。



母子家庭で育ったフィッシャー、その乾いた心を慰めてくれたものがチェスだった。その天性の才能は

花開き、数々のドラマを生みながら目標としていた世界選手権に挑む。



相手はソ連の世界チャンピオン・スパスキーだった。スパスキーは、その天性・性格・容姿から「チェス

の貴公子」と呼ばれていたが、1968年ソ連がチェコスロバキアに軍事介入した時、スパスキーは黒の

腕章を巻いて大会に現われ、チェコの選手一人一人に握手した。ソ連政府に対して暗黙の抗議を行っ

たスパスキーは1975年フランスに亡命することになる。



一匹狼のフィッシャーと貴公子のスパスキー、この似ても似つかない二人が、1972年世界チャンピオン

の座をかけて戦い、そして20年後の1992年にも国連制裁を受けていたユーゴスラビアで再び戦う。



チェスは白と黒の全く異なる駒が戦う競技だが、それは相手がいればこそ成立する。最初は国の威信

をかけての敵同士だったが、アイスランドでの選手権の戦いを通して彼らはまるでチェスの白と黒の駒

のように惹きつけ合い、互いになくてはならない存在になっていることに気づく。



フィッシャーがアメリカ政府から起訴され、日本で無効なパスポートをもって入国したとして入管法違反

で拘留させられたときも、スパスキーは6歳年下のフィッシャーを、まるで本当の弟のように心配し、

「何故、フィッシャーだけ捕らえるんだ。私も同じ留置所に入れてくれ」と弁護している。



「フィッシャーはその天性の完全さでいつも私に特別な感銘を与えた。チェス、

そして人生の両面においてだ。妥協は一切なかった」 スパスキー



本書はフィッシャーと長年親交があった人が書いたフィッシャーの評伝であるが、単に壊れていく悲劇

の軌跡を追うだけに留まらず、稀にみる一人の天才が対局場で産み出したチェスの名局と共に、チェス

盤と同じ64マスの生涯を終えたフィッシャーの人生そのものがチェス盤そのものに映し出されたような

錯覚に陥ってならなかった。



2013年2月17日 K.K



 





「私は人生のゲームでは負け犬だ」・・・本書より引用


20年にもわたって姿を消していたチェス世界チャンピオンは往年のライバルと対戦すると、

ふたたび消息を絶った。クイーンを捨て駒とする大胆華麗な「世紀の一局」を13歳で達成。

冷戦下、国家の威信をかけてソ連を破り、世界の頂点へ。激しい奇行、表舞台からの失踪、

そしてホームレス寸前の日々。アメリカの神童は、なぜ狂気の淵へと転落したのか。少年時

代から親交を結んできた著者が、手紙、未発表の自伝、KGBやFBIのファイルを発掘して描

いた空前絶後の評伝。






本書 著者はしがき より抜粋引用


本書「完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯」には、私が目撃者だったり当事者

だったりした出来事がいくつも入っているが、私の回想録ではないので、私の存在はできる

かぎり文中から消すようにした。そして独自の調査、これまで知られていなかった文書や手

紙の分析、フィッシャーと知りあいだった人々や、知りあいとはちがう観点からフィッシャー

自身が変わったという話だけでなく、彼が不思議な錬金術で、何百万人もの人々の心にあ

るチェスのイメージと地位を変えたという話も書くようにした。そのほかに、フィッシャーの人

生が意外にも東西冷戦に巻きこまれてしまう様子も描こうとした。



おもにフィッシャー自身のカリスマ性と、マスコミによって広く宣伝された騒動のおかげで、

フィッシャーの世界選手権での勝利は、チェス史上類を見ないほどの熱狂的賞賛と注目を

生み、一般大衆のチェスそのものへの関心も呼んだ。フィッシャーは風変わりな有名人たち

と危ういつきあいをするようになり、最終的には彼らを軽蔑するようになった。一般大衆の

野次馬的見方のせいで、後年は頑なに厭世的となり、隠遁者同然の生活を送るようになっ

た。 (中略)



ボビー・フィッシャーを賞賛するのも軽蔑するのも自由だが・・・読んでもらえばわかるように、

賞賛と軽蔑を同時にするのも簡単だ・・・彼が問題を抱える人間だった一方で、知への情熱

を持つ真摯で偉大な芸術家でもあったことを、この物語が証明することを願っている。



ボビー・フィッシャーの歪んだ政治的宗教的言動を許すことはできないかもしれないし、許す

べきではないかもしれないが、彼がチェス盤上で見せた真の天才を、私たちは決して忘れる

べきではない。この評伝を読んだあとには、ぜひフィッシャーの対局に目を向けて研究して

もらいたいと思う。彼の対局こそが、彼の本当の姿を証明するものであり、彼の究極の遺産

だからだ。





「かつてチェスプレーヤーだった少年がいた。それぞれの駒の持つ潜在的な手筋が、色の

ついた光の閃きや軌跡を持つ物体として鮮明に見えるのが自分の才能のひとつだ、と彼は

明かした。潜在的な手筋の展開が光る生き物のように見えて、どの光が局面を最強にさせ、

緊張を最大にさせるかによって着手を選んだのである。ミスをしたのは最強でない手を選ん

だときだったが、それは、これ以上にないほど美しい光の軌跡だった。」

The Virgin in the Garden   A・S・バイアット




 チェス棋士・フィッシャー(Bobby Fischer) チェス世界チャンピオン


 



本書 第7章 アインシュタイン理論 「チェスのほうがずっと楽しい」 より抜粋引用



1962年の挑戦者決定戦で優勝したのは、ティグラン・ペトロシアンだった。8勝19引き分け負けなしで、

スコアは17.5ポイント。ソ連のエフィム・ゲレルパウリ・ケレスが0.5ポイント差で2位タイ、フィッシャーは

そこから3ポイント差で4位となり、5位のコルチノイとは0.5ポイント差だった。



フィッシャーはキュラソーで実際にはなにがあったのか、世界に知らせたかった。そこでこう書いた。

「ロシア人(ソ連)のプレイヤーのあいだであからさまな共謀行為がありました。彼らは自分たち同士の

対局を引き分けにしようと事前に取り決めていたんです・・・・対局中に指導もしていました。もし私が

ロシア人のプレーヤーと対戦しているとしたら、私のいろんな対局を見ていたほかのロシア人たちが、

私の聞こえるところでこっちの手筋について解説しているんです」



コルチノイは「チェス・イズ・マイ・ライフ」という自伝のなかで、フィッシャーの非難を擁護した。「すべてを

お膳立てしたのはペトロシアンでした。彼は友人ゲラーと、自分たちの全対局を引き分けにしようと取り

決めたんです。2人はケレスにもこの不正に加わるよう圧力をかけました。このおかげで、彼らはほかの

プレーヤーたちよりも圧倒的な優位に立ったのです」



パル・ベンコは、フィッシャーが優勝できなかった理由を訊かれたとき、喧嘩のときの腹立ちを引きずっ

ているのか、こう答えた。「要するに、最強のプレイヤーじゃなかったってことさ」 



フィッシャーの成功する自己イメージは、キュラソーの結果で脆くも崩れ去ってしまった。史上もっとも

若い世界チャンピオンになるという彼の夢、もしくは妄想は、実現できなかった。いつかきっと世界

チャンピオンになるだろうとは思っていたが、フィッシャーにとってそれだけでは充分ではなかったの

である。この若さで世界屈指のチェスプレイヤーにのしあがったことで、フィッシャーは自分がチャン

ピオンになるのを確信していたが、ロシア人たちは、フィッシャーが不正と断じた行為を通して、フィッ

シャーを押さえつけることを証明した。このことにフィッシャーは、憤りと悲しみを覚えた。



もう自分の運命は変わらないし、なすすべもないのだとフィッシャーは悟ったが、黙ってチェスの暗い闇

に甘んじようとは思わなかった。彼は自分にひどい仕打ちをしたソ連の棋士たちを軽蔑した。そして彼ら

が世界チャンピオンの座を盗んだのだと確信し、世界にそれを知らせることにしたのである。





本書 第11章 荒野の時代・称号を放棄 より抜粋引用



23歳のアナトリー・カルポフはレニングラード大学経済学部の学生であり、痩せて背が低く、いつも床屋に

行ったほうがよさそうなボサボサ髪をした青白い若者で、ブルックリン出身の元神童にして32歳の世界

チャンピオンであり、スポーツ選手の身体と王者の風格を持ったボビー・フィッシャーとは、とうてい世界

選手権マッチで戦えそうになかった。だがカルポフは、挑戦者決定戦の3戦を勝ち抜いて、フィッシャーに

挑戦する資格をもぎ取っていた。全46局の厳しい対局のなかで、負けたのは3局だけだった。23歳のころ

のフィッシャーとくらべると、カルポフはチェスの能力で数年上まわっていたし、多くのチェスプレイヤーが

・・・ソ連のプレイヤーだけでなく・・・大きく成長したフィッシャーよりもカルポフのほうが強いかもしれないと

噂していた。フィッシャーが以前手に負えなかったボトヴィニックが、カルポフの先生となっていたのだ。


(中略)


フィッシャーの決意の反響は、世界じゅうに広がった。「ニューヨーク・タイムズ」は、インターナショナル・

グランドマスターのロバート・バーンが書いた「ボビー・フィッシャーは失敗を恐れている」という記事を掲載

した。その記事には、フィッシャーは序盤で1.2局落したらほぼ勝者になれないと考えていて、その恐怖の

せいでずっとチェスの大会から遠ざかっていた、とあった。さらに記事は、一流のチェスプレーヤーがもっと

も恐れているのは「だれもが陥ることがある説明不能のミス」、偶然の失敗だ、と続く。フィッシャーの弁護

士ポール・マーシャルでさえ、フィッシャーの「恐怖」についてこう述べている。「フィッシャーは未知のもの、

自分がコントロールできないものを恐れている。だから人生からもチェスからも、偶然の要素を排除しよう

としているんだ」



しかし、みんな見過ごしているようだが、フィッシャーはチェス盤上ではだれも恐れていなかった。名優が

むずかしい演技の前にあがってしまうように、対局前に神経質な部分を見せはしたが、この対局前の不安

を恐怖と混同すべきではない。この不安はフィッシャーにとって慎重さの源であり、神経を研ぎ澄ませ、

強みを与える糧になった。詰まるところフィッシャーを偉大なプレーヤーにしたのは、自分への決して揺る

がない自信だったのである。



心理分析の専門家、M・バリー・リッチモンド医学博士は、「ボビー・フィッシャーの決断の意味」と題する

論文のなかで、ロバート・バーンの意見に異議を唱え、フィッシャーを深遠な芸術家、ピカソ作品のように

非凡な存在と見なすべきだと訴えた。その主張によると、フィッシャーがタイトル防衛をやらないのは、

世界チャンピオンとしての責任を感じている証拠である。独自のルールの世界を作ったり生み出したり

変えようとしたりする姿はまさにその責任感を示すものであって、恐怖とはなんの関係もない。





本書 第11章 流浪する魂 より抜粋引用


これらの被害妄想めいた恐怖の数々が、フィッシャーにとっては、常に命の心配をすることを正当化さ

せているようだった。それらの恐怖は根拠のない想像にすぎないと考える人もいるが、この身体的脅威に

対する反応は、チェス盤上での脅威に対する反応に通じるものだった。フィッシャーは起こりうる事態、

いかなる方向からの攻撃にも抜かりなく備えて、それを阻止したかったのである。逮捕されたり殺されたり

するんじゃないか、突然呼び止められたり屈辱を味わわされたりするんじゃないかという不安が絶えずつき

まとって、フィッシャーを疲弊させた。毎晩10時間か12時間眠っていた理由は、ひとつにはそれがあるの

かもしれない。フィッシャーはいつも暗がりを怖がっていたし、そのどこにでもある恐怖は、風車に立ち向か

うドン・キホーテよろしく仮想の敵と絶えず戦うこととあいまって、彼を疲れさせた。


(中略)


もちろんフィッシャーには、まだ行けない国がひとつあった。その国に行けば逮捕されるのはほぼ確実

だった。アメリカである。そのせいで、1997年7月には苦渋の選択を迫られた。母レジーナが亡くなった

のだ。フィッシャーは母の葬儀に参列したかった。ワシントン州のチェスプレーヤーのなかには、フィッ

シャーは変装してこっそりアメリカに入国した、最初はカナダのバンクーバーに飛行機でやってきて、

そこから国境を越えてシアトルに入り、カリフォルニアまで車で南下して、お忍びで葬儀に参列したんだ、

と噂する者もいた。その噂によると、フィッシャーは姉や甥に一切話しかけず、だれかに気づかれること

なく、じっと立って葬儀を見守っていたそうだ。それから1年もしないうちに、フィッシャーは姉のジョーン

が脳卒中で60歳の生涯を終え、フィッシャーはまたしても家族の葬儀に参列できない焦燥感に苦しん

だ。こうして家族と引き裂かれてしまったことが、1976年から抱いてきたアメリカに対する憎悪をさらに

増大させた。1976年は、フィッシャーが連邦裁判所の裁判で破れ、以来税金を払わなくなった年である。

フィッシャーがアメリカの当局から逃れているあいだ、姉ジョーンもジョーンの家族もフィッシャーに会いに

ヨーロッパに行っていないが、母レジーナは、一度フィッシャーに会いにブダペストを訪ねている。



 


完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯(目次)



著者はしがき

プロローグ



第1章 小さなチェスの奇跡

母はノーベル賞科学者の元秘書、父はユダヤ人生物物理学者。

パズルが大得意なブルックリンの少年は、姉から買い与えられた1ドルのチェス盤に熱中する。



第2章 天賦の才能

IQ180だが学校嫌いのフィッシャーは、風呂のなかでもチェス盤を離さず四六時中、研究に励む。

12歳にしてトーナメントに参加し、初めて新聞に載る。



第3章 クイーン・サクリファイス

あえてクイーンを取らせて勝った「世紀の一局」を13歳で達成。14歳で全米チャンピオンに。

早熟の天才ぶりは、ゼウスの頭の中から生まれたと称される。



第4章 アメリカの神童

共産圏が覇権を持っていた当時のチェス界、憧れの最強国ソ連へ。

続いて訪れたユーゴでは世界チャンピオン、ブロンシュタインと引き分け衝撃を与える。



第5章 冷戦のグラディエーター

米ソ冷戦下、チェス対決は知の代理戦争だった。

フィッシャーは国家の威信をかけて対局に臨む。

一方、ラジオ放送で知ったカルト教会に強く惹かれてゆく。



第6章 宿敵との激戦

身なり構わなかったフィッシャーが、揃いのスーツで登場、周囲を驚かせる。

宿敵タリとの激しい戦いを終え、次期世界チャンピオンの手応えを掴む。



第7章 アインシュタイン理論

無学で女性嫌いとの偏見記事を書かれたことで、フィッシャーのジャーナリスト嫌いは決定的になる。

元世界チャンピオンだった憎きタリを遂に破ることに。



第8章 伝説同士の衝突

世界チャンピオンのボトヴィニックと対戦する。

また、カストロとの政治的応酬後に臨んだハバナ・トーナメントは、NYからの難儀なテレタイプ対局となった。



第9章 世界チャンピオンへの挑戦

ペトロシアンとの対決。

ロシアの牙城を崩して世界チャンピオンへの挑戦権を得る。

一夜にしてアメリカにチェスブームが巻き起こり、国民的英雄となった。



第10章 ついに頂点へ

親チェス国アイスランドで行われたスパスキーとの頂上決戦。

何かと難癖をつけるフィッシャー、だが3局目から盛り返してアメリカ人初の世界王者に輝く。



第11章 荒野の時代へ

世界チャンピオンの称号を放棄したフィッシャーは、20年にわたる隠遁生活に入る。

反ユダヤ主義へ傾倒し奇行が目立つように。

各地を転々と放浪する。



第12章 フィッシャー対スパスキー ふたたび

17歳の少女プレイヤーに心を開いたフィッシャー。

彼女がきっかけとなり、スパスキーとの復帰戦が、米の経済制裁下にある東ヘルツェゴビナで行われる。



第13章 流浪する魂

ハンガリーに滞在中、ラジオで反ユダヤ発言をして問題に。

その後、親しい女性のいるフィリピンと日本を行き来する。

9.11時の反米発言が波紋を呼ぶ。



第14章 成田での逮捕

パスポートの無効を理由に成田で逮捕されたフィッシャー。

救出に奔走する日本チェス協会会長代理代行の女性と結婚する。

釈放されるが、絶望が彼を包み込む。



第15章 氷の国の終着駅

行き場のないフィッシャーの受け入れ先となったアイスランド。

しかし晩年の彼は、アイスランド人にも悪態をつき、医者嫌いのまま、病に蝕まれてゆく。



エピローグ

あとがき

謝辞

ソースノート

参考文献

解説 羽生善治







2015年10月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





2001年9月11日、同時多発テロの日。



「ブッシュ大統領に死を! アメリカに死を! アメリカなんてくそくらえ!



ユダヤ人なんかくそくらえ! ユダヤ人は犯罪者だ。



やつらは人殺しで、犯罪者で泥棒で、嘘つきのろくでなしだ。



ホロコーストだってやつらのでっちあげだ。あんなの一言も真実じゃない。



今日はすばらしい日だ。アメリカなんてくそくらえ! 泣きわめけ、



この泣きべそかきめ! 哀れな声で泣くんだ、このろくでなしども! 



おまえたちの終りは近いぞ」



2013年2月17日、亡き伝説のチェス王者・フィッシャーのこの言葉をフェイスブックで紹介したが、フィッシャーの母はユダヤ人

であり、生涯その関係は血のつながりを感じさせる温かいものであった。



なのに何故?



何が彼をそこまで追いつめたのか?



以前、郵便チェスでアメリカ人と対局したことがあるが、彼は「フィッシャーは不幸にして病んでいる」と応えていたが、アメリカ人

の多くがそう思っていることだろう。



1972年のアイスランドでの東西冷戦を象徴する盤上決戦と勝利、マスコミは大々的に報じ、フィッシャーを西側の英雄・時代の

寵児として持ち上げた。



それから43年後の2015年。



フィッシャーの半生を映画化した「完全なるチェックメイト」(原題はPawn Sacrifice)が日本でも12月25日から全国で上映される。



主演はスパイダーマンで有名なトビー・マグワイアだが、このスパイダーマンの映画の中で心に残っている台詞は、



「これから何が起ころうと僕はベン叔父さんの言葉を忘れない。『優れた能力には重大な責任が伴う』 この能力は僕の喜び

でもあり悲しみでもある。だって僕はスパイダーマンだから。」



フィッシャーとスパイダーマン、一時的にはフィッシャーは英雄となったが、彼にとって「重大な責任」とはチェスの真髄を追い

つづけることだったのかも知れない。



東西決戦の後にフィッシャーがとった奇怪な言動は、妥協を決して許さない態度が周囲との摩擦を深めていく中で、奇異な

ものとなっていったのだろう。



フィッシャーの素顔。



アメリカから訴追され、日本に居たフィッシャーをアイスランドへ出国させる為に尽力した渡井美代子さんは、フィッシャーと

スパスキーとの再戦時(1992年)に招待された時のことを次のように書いている。



「フィッシャーは誠実の人です。約束は必ず守ります。だから、会うたび違うことをいう人を(どんな些細な食い違いであった

としても)絶対に信用しません。フィッシャーは、私が希望をいえば誠実に応えてくれる最高の友です。試合のない日は私と

食事するという約束は何があっも一度も違えませんでした。どんな偉い人がきても袖にしました。」



有名な写真家Harry Bensonは、フィッシャーが亡くなった後に、「Bobby Fischer against the World」という自らが撮った

フィッシャーの写真集を出版した。



そこには、花や馬と戯れるフィッシャーがいた。



アイスランド。



盤上決戦の地であり、フィッシャーが64歳で亡くなった地。



私がチェスに関心をもつ前に、ある写真集に惹かれ、それから写真・写真集に関心を持つようになったのだが、そのきっかけ

となったのがアイスランドの写真集だったのも何かの因縁かも知れない。




 

2013年2月17日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





「完全なる天才 天才ボビー・フィッシャーの生涯」文芸春秋 を読み終えて

(写真はフィッシャーの写真集より引用したもので世界選手権の休息日に撮られたものです。)



2001年9月11日、同時多発テロの日。



「ブッシュ大統領に死を! アメリカに死を! アメリカなんてくそくらえ!

ユダヤ人なんかくそくらえ! ユダヤ人は犯罪者だ。

やつらは人殺しで、犯罪者で泥棒で、嘘つきのろくでなしだ。

ホロコーストだってやつらのでっちあげだ。あんなの一言も真実じゃない。

今日はすばらしい日だ。アメリカなんてくそくらえ! 泣きわめけ、

この泣きべそかきめ! 哀れな声で泣くんだ、このろくでなしども! 

おまえたちの終りは近いぞ」



これはイスラム過激派の言葉ではない。この言葉は1972年という東西冷戦時のソ連にたった一人で

立ち向かい、チェスで勝利した男・ボビーフィッシャー(ユダヤ人の血をひくアメリカ人)が発したもの

である。



チェスを超えて自由主義圏の英雄ともてはやされた男が何故ここまで堕ちたのか、いや正確には追い

つめられたと言ったほうがいいのだろう。



妥協することを許さない天才。彼の言葉は物事の真実を暴こうとするが周囲からは理解されず、彼の

名声やお金に与ろうする人間によって傷つけられ、人間不信と妄想そして貧困が彼を蝕んでいく。



母子家庭で育ったフィッシャー、その乾いた心を慰めてくれたものがチェスだった。その天性の才能は

花開き、数々のドラマを生みながら目標としていた世界選手権に挑む。



相手はソ連の世界チャンピオン・スパスキーだった。スパスキーは、その天性・性格・容姿から「チェス

の貴公子」と呼ばれていたが、1968年ソ連がチェコスロバキアに軍事介入した時、スパスキーは黒の

腕章を巻いて大会に現われ、チェコの選手一人一人に握手した。ソ連政府に対して暗黙の抗議を行っ

たスパスキーは1975年フランスに亡命することになる。



一匹狼のフィッシャーと貴公子のスパスキー、この似ても似つかない二人が、1972年世界チャンピオン

の座をかけて戦い、そして20年後の1992年にも国連制裁を受けていたユーゴスラビアで再び戦う。



チェスは白と黒の全く異なる駒が戦う競技だが、それは相手がいればこそ成立する。最初は国の威信

をかけての敵同士だったが、アイスランドでの選手権の戦いを通して彼らはまるでチェスの白と黒の駒

のように惹きつけ合い、互いになくてはならない存在になっていることに気づく。



フィッシャーがアメリカ政府から起訴され、日本で無効なパスポートをもって入国したとして入管法違反

で拘留させられたときも、スパスキーは6歳年下のフィッシャーを、まるで本当の弟のように心配し、

「何故、フィッシャーだけ捕らえるんだ。私も同じ留置所に入れてくれ」と弁護している。



「フィッシャーはその天性の完全さでいつも私に特別な感銘を与えた。チェス、

そして人生の両面においてだ。妥協は一切なかった」 スパスキー



本書はフィッシャーと長年親交があった人が書いたフィッシャーの評伝であるが、単に壊れていく悲劇

の軌跡を追うだけに留まらず、稀にみる一人の天才が対局場で産み出したチェスの名局と共に、チェス

盤と同じ64マスの生涯を終えたフィッシャーの人生そのものがチェス盤そのものに映し出されたような

錯覚に陥ってならなかった。



2013年2月17日 K.K



 
 

2013年2月5日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 



ヴェラ・メンチク(1906-1944)・写真は他のサイトより引用



現在でも光り輝く星・ヴェラ・メンチク、彼女はチェスの世界チャンピオンを倒したこともある実力を持ちながら、

第二次世界大戦のドイツの空爆により、38歳で亡くなる。



上の写真はメンチク(前の女性)がクラブの23人のメンバーと同時対局(18勝1敗4分け)した時の写真である

が、彼女の偉業を称えて、チェス・オリンピックでは優勝した女性チームに「ヴェラ・メンチク・カップ」が現在に

至るまで贈られている。



彼女のような輝く女性の星が再び現われるには、ユディット・ポルガー(1976年生まれ)まで70年もの年月が

必要だった。チェスの歴史上、数多くの神童や天才が出現したが、その中でもひときわ輝いていた(人によっ

て評価は異なるが・・・)のがモーフィー(1837年生まれ)、カパブランカ(1893年生まれ)、フィッシャー(1943年

生まれ)である。



他の分野ではわからないが、このように見ると輝く星が誕生するのは50年から70年に1回でしかない。



20世紀の美術に最も影響を与えた芸術家、マルセル・デュシャン(1887年~1968年)もピカソと同じく芸術家

では天才の一人かも知れない。1929年、メンチクとデュシャンは対局(引き分け)しているが、デュシャンは

チェス・オリンピックのフランス代表の一員として4回出場したほどの実力を持っていた。



「芸術作品は作る者と見る者という二本の電極からなっていて、ちょうどこの両極間の作用によって火花が

起こるように、何ものかを生み出す」・デュシャン、この言葉はやはり前衛芸術の天才、岡本太郎をも思い出

さずにはいられない。世界的にも稀有な縄文土器の「美」を発見したのは岡本太郎その人だった。



「チェスは芸術だ」、これは多くの世界チャンピオンや名人達が口にしてきた言葉だ。この言葉の真意は、私

のような棋力の低い人間には到底わからないが、それでもそこに「美」を感じる心は許されている。



メンチクの光、芸術の光、それは多様性という空間があって初めて輝きをもち、天才もその空間がなければ

光り輝くことはない。



多様性、それは虹を見て心が震えるように、「美」そのものの姿かも知れない。




 

2012年9月23日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



Tobey Maguire dans la peau de Bobby Fischer
 より引用

伝説のチェス世界チャンピオンの映画(フィンチャー監督) 



写真は他のサイトより引用しましたが、元チェス世界チャンピオン・フィッシャーをトビー・マグワイアが

演じています。



今から40年前の1972年、ボビー・フィッシャーの名前はチェスファンだけに留まらず、世界の多くの人の

記憶に刻まれました。世界チェンピオンであった旧ソ連のスパスキーと挑戦するアメリカのフィッシャー

ユダヤ人の母をもつ)、この24番勝負は米ソの東西冷戦の象徴として、世界中の注目を集めたのです。



このフィッシャーの伝記映画が来年公開されます。監督は「ソーシャル・ネットワーク」「ドラゴン・タトゥー

の女」などで知られるデヴィッド・フィンチャー。映画の主人公フィッシャーを演じるのはスパイダーマン役

で知られるトビー・マグワイアです。



マグワイアがどんなフィッシャーを演じるのか今まで全く情報がなかったのですが、上の写真を見るとま

るでフィッシャーが乗り移ったのではないかと思うほど姿や雰囲気が似ています。



奇人と知られるフィッシャーは個人的に好きですが、相手のスパスキーも私は尊敬しています。1968年

のソ連がチェコスロバキアに侵攻したチェコ動乱(プラハの春)の直後に行われた国際トーナメントで、

ソ連のスパスキーは黒の腕章をつけチェコスロバキアの選手一人一人に握手しました。



それはソ連がチェコに対して行ったことへの抗議であり、一人の人間としての謝罪でした。



私自身、正直言いまして共産主義国家には抵抗があります。旧ソ連のスターリンなどによる粛清、中国

・毛沢東のチベット侵略や粛清。



何故、共産主義は人間をこうも憎悪の虜にしてしまうのか、その答えははっきり出ませんが、チェ・ゲバラ

が「世界の何処かで、誰かが被っている不正を、心から悲しむ事が出来る人間になりなさい。それこそ、

最も美しい革命家の資質なのだから。」と言うのに対し、旧ソ連・中国の共産主義は逆にあるものへの憎

しみに囚われていたと感じてなりません。



これは哲学者の梅原猛さんも指摘していることですが、憎悪は増幅して更に多くの憎悪を産むのかも知

れませんし、共産主義だけにあてはまるものでもありません。。



チェスとは関係ない話になってしまいましたが、映画ではアメリカ的な善玉悪玉の構図でスパスキーを

描いて欲しくないと願っています。



最後に、フィッシャーは2008年スパスキーとの世界選手権が行なわれたアイスランドで、チェス盤のマス

の数と同じ64歳の生涯を終えました。



(K.K)




追記(2012年11月30日)


監督はフィンチャー監督が降板し、「ラスト・サムライ」のエドワード・ズウィックになっています。

 

2016年3月17日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)


不死鳥のオーロラ(写真はNASAより引用)


アイスランドにて昨年9月に撮影されたものですが、オーロラを見に集まっていた人々が帰った午前3時30分、

光が弱くなっていたオーロラが突然空を明るく照らします。



場所はアイスランドの首都レイキャビクから北30kmにある所で、流れている川はKaldaと呼ばれています。



画像中央やや上にはプレアデス星団(すばる)が輝き、山と接するところにはオリオン座が見えます。不死鳥の

頭の部分はペルセウス座と呼ばれるところです。



☆☆☆



この不死鳥のくちばしの近く、やや右下に明るく輝く星・アルゴルが見えます。



アラビア人は「最も不幸で危険な星」と呼んでいましたが、それはこの星が明るさを変える星だったからです。



イギリスの若者グッドリックは、耳が聞こえず口もきけないという不自由な体(子供の時の猩紅熱が原因)でした

が1782年から翌年にかけてアルゴルの変光を追いつづけ、この星が明るさを変えるのは暗い星がアルゴルの

前を通過することによって起こる現象ではないかと仮説を立てます。



1786年、その功績によりロンドンの王立協会会員に選出されますが、その4日後にグッドリックは肺炎により

22歳の若さで他界してしまいます。



グッドリックの仮説が認められたのは100年後(1889年)の分光観測によってでした。



今から230年前の話です。



不死鳥のオーロラ、多くの魂が光の中で飛翔していますように。










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