チェ・ゲバラ(Che Guevara)

(1928年6月14日〜1967年10月9日)



Where can I get this poster of Che Guevara playing chess? - Chess.com


Fernando Emilio Saavedra Palma: 2011-07-17




1966年キューバ・ハバナで開催されたチェスオリンピックの模様


左に立っているのがチェ・ゲバラ。ちなみに左の選手は旧ソ連のタイマノフ、右がアメリカ

のエバンス。タイマノフは1971年のチェス世界チャンピオンの挑戦者決定戦の準決勝で

フィッシャーに6対0で完敗しました。沢山チェスの写真を見てきましたが、この写真は特に

惹かれています。チェ・ゲバラが観戦していることもその理由の一つですが、何と言っても

タイマノフの眼光が、チェスという競技の真髄を垣間見せているからです。タイマノフは目

の前のチェス盤を見ているようですが、実は局面から派生する様々な変化を常人では考

えられないスピードで頭の中のチェス盤で追っている。まさにその時の写真なのです。こ

れ程までにチェスの真髄を見せてくれる写真はそうはありません。


(K.K)


 
 


「完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯」フランク・ブレイディー・著 文藝春秋 より抜粋引用。



本書 第8章 伝説同士の衝突 より抜粋引用



当時はだれも知らなかったが、じつはFBIがフィッシャーを捜査していたのである。それも何年も前から

だった。FBIがフィッシャーに興味を持ったのは、母親レジーナを共産主義者と見ていたことがきっかけ

だ。レジーナはモスクワで6年間医学部に通っていたからである。フィッシャーが子どものころから、FBI

はレジーナの身辺を捜査していた。フィッシャーが1958年にモスクワに行ったときは、レジーナが息子を

共産主義に教化するためモスクワへ送ったのだと、FBIは思いこんだ。



どうやらFBIは、政治的理由で渡航制限がある国へチェスをするためだけに行く人間がいることが、なか

なか信じられなかったらしい。フィッシャーのFBIファイルにある文書には、フィッシャーのパスポートは

「アルバニア、キューバ、中国の一部、韓国、共産主義下のベトナムへの渡航には無効」と記してあり、

1965年のキューバ担当調整室の覚書が添えられていて、そこには「キューバへの渡航基準にチェス大会

への参加目的を含めるべきではない」という勧告がある。



FBIの捜査対象かどうかはともかく、フィッシャーはハバナのトーナメントに参加する準備をしていたし、

主催者側も拒否するつもりはなかった。そこでアメリカ・チェス連盟の役員たちが力になって、きわめて

異例のアイデアを思いついた。フィッシャーがニューヨークに残ったまま、マーシャル・チェスクラブの

一室でトーナメントに参加する、というものだった。1965年当時、まだ携帯電話はないし、もちろんイン

ターネットもない。だがテレタイプでトーナメントに参加することはできる。キューバのチェス役員たちは

喜んで、必要な電話回線とテレタイプの費用約1万ドルを払うと申し出てくれた。トーナメントのほかの

参加者たちも、この奇抜な提案に賛成してくれた。なかにはしぶしぶ賛成した者もいたが、このトーナ

メントの準備で一番尽力したくれたのは、チェスの強いチェ・ゲバラである。



するとそこへ、フィデル・カストロ議長が横槍を入れてきた。フィッシャーの状況を「キューバの偉大なる

プロパガンダの勝利」と呼んだのである。この言葉はあちこちの新聞の見出しを飾った。フィッシャーは

憤慨してカストロに電報を打ち、カストロが自分を政治的策略に利用しないと約束しなければトーナメン

トから手を引く、と脅した。



 



タイマノフの名局


Anatoly Karpov vs Mark Taimanov
"Taimanov to Checkmate" (game of the day Dec-15-13)
October Revolution 60th Anniversary (1977) ・ Sicilian Defense: Old Sicilian. Open (B32) ・ 0-1


タイマノフ(黒番)が1977年、当時の世界チャンピオン、カルポフ(白番)を破った見事な試合



karpovTaimanov1977.pgn へのリンク





Mark Taimanov vs Lev Polugaevsky
USSR Championship (1960) ・ Queen's Gambit Accepted: Mannheim Variation (D23) ・ 1-0




taimanov_polugaevsky_1960.pgn へのリンク





Mark Taimanov vs Alexsander A Shashin
"Going Out of Shashin" (game of the day Nov-29-16)
USSR (1978) ・ Zukertort Opening: Nimzo-Larsen Variation (A04) ・ 1-0




taimanov_shashin_1978.pgn へのリンク





タイマノフの名局集
Games from Taimanov's Book: TAIMANOV'S SELECTED

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2011年2月、85歳になったタイマノフだが、ロシアで放映された映像。

フィッシャーのことも話しており、「フィッシャーにとってチェスは彼の人生、

そして哲学」だった。そしてチェス以外、何も世界に存在していなかった」。


 

1971年、チェス世界選手権・準々決勝


Fischer - Taimanov Candidates Quarterfinal (1971)

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「完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯」フランク・ブレイディー・著 佐藤耕士・訳 羽生善治・解説 文藝春秋 より以下抜粋引用


パルマ・デ・マジョルカでの成功で、フィッシャーは世界タイトル奪取に向けてつぎの段階に移った。1959年のユーゴスラビアと1962年のキュラソーでの

挑戦者決定トーナメントで優勝を逃したあと、フィッシャーは、ソ連プレイヤーたちから集団暴行を受けた、彼らが早めの引き分けを共謀したことで自分

は世界タイトルを盗まれたようなものだ、と抗議してきた。フィッシャーに何度もせき立てられたFIDEは、ようやく重い腰をあげ、世界選手権の挑戦者を

決定することのトーナメントの、対戦相手選びのシステムを変更した。多数のプレイヤーがたがいに対戦する(リーグ戦)方式をやめたのだ。このリーグ

戦方式こそがソ連プレイヤーたちの共謀の機会につながったと、フィッシャーは告発したのである。かわりにFIDEは、マッチ方式(ノックダウン・トーナメ

ント)を採用した。これでフィッシャーは、優勝争いをする3人とそれぞれ対局することになる。ソ連のマルク・タイマノフとティグラン・ペトロシアン、デンマ

ークのベント・ラーセンだ。



分析家たちもプレイヤーたちも、ボビー・フィッシャーは挑戦者決定戦で苦戦するものの、優勝するだろうと予測した。ソ連人たちでさえ不安に駆られて

いた。タリはフィッシャーが5.5−4.5でタイマノフに勝つだろうと予想した。フィッシャー自身は、めずらしく自信がなさそうだった。ここ9ヶ月で74局も戦っ

てきて、最後のパルマ・デ・マジョルカでは7局連続で勝ったにもかかわらず、まだ最高の状態ではない、もっと場数を踏む必要がある、と思っていたの

だ。挑戦者決定マッチは徹底した準備が必要だった。なにも当たり前に思わないことが、フィッシャーの成功への鍵のひとつである。いつものように彼

は、6ヶ月という長期にわたるライバルたちとの緊張に満ちた対局に備えて、根気強く準備をした。



最初の対戦相手はマルク・タイマノフだった。力のある45歳のタイマノフは、このころ人生最高の対局をいくつかやっていて、パルマ・デ・マジョルカでも

異例の成功を収めていた。一方フィッシャーは28歳で、絶好調だった。二人の対決は1971年5月、カナダのバンクーバーにあるブリティッシュ・コロンビ

ア大学の美しいキャンパスではじまることになっていた。



タイマノフはソ連からお供引き連れて到着した。セコンド、助手、対戦マネージャーである。にもかかわらず、彼らの力を借りてさえも、タイマノフは無力

だった。フィッシャーが6局連続で勝利したのである。グランドマスターの完封負けは、チェス史上はじめてだった。



この圧倒的な敗北によって、タイマノフのチェス人生は事実上終わった。ソ連政府はこれを国家の恥と見なし、1局も引き分けられなかったことでタイマ

ノフに罰を与えた。役人たちは彼の給料を打ち切り、海外への渡航を禁止したのである。挑戦者決定マッチが終わったとき、タイマノフはフィッシャー

に、寂しそうにこう告げた。



「まあ、私にはまだ音楽があるさ」



 


 

 

右の写真はアルゼンチンが産んだ巨匠ナイドルフ(チェス名人)と談笑するチェ・ゲバラ。

下の試合はチェ・ゲバラとこのナイドルフの親善試合で、序盤早々にナイドルフが引き

分けを提案したもの。というのもあまりにも実力に歴然とした差があり、このように著名

人とチェス名人の試合では、序盤での「引き分け」は社交辞令として行われている。




NajdorfGuevara1962.pgn へのリンク

 




ナイドルフの名局

Glucksberg vs Miguel Najdorf
The Polish Immortal
Warsaw 1929 ・ Dutch Defense: Queen's Knight Variation (A85) ・ 0-1




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ナイドルフが負けた名局


Ossip Bernstein vs Miguel Najdorf
"Old Man, Take a Look at my Knight" (game of the day Mar-12-17)
Montevideo (1954) ・ Old Indian Defense: Normal Variation (A55) ・ 1-0

Bernstein(1882〜1962) が72歳の時の試合。



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Herman Pilnik vs Miguel Najdorf
"A Bitter Pilnik to Swallow" (game of the day May-20-2013)
Mar del Plata (1942), rd 13
Caro-Kann Defense: Tartakower Variation (B15) ・ 1-0




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ナイドルフの名局集
Don Miguel
Compiled by policrates


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ガルリ・カスパロフ 「決定力を鍛える チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣」より引用


極端な負けず嫌いのヴィクトール・コルチノイは、公開対局に対して私以上に真剣な姿勢

で臨む。対局集で紹介されているつぎのような話を読むかぎり、それは間違いない。1963

年、ソ連のグランドマスターたちとともにキューバのトーナメントに参加した際、数人のグラ

ンドマスターが参加者の多い同時対局に挑んだ。コルチノイの相手のなかにはほかならぬ

チェ・ゲバラがいて、対局前にある役人からゲバラとは引き分けるといいのでは提案され

たという。対局後、ホテルに戻ったコルチノイに、多面指しはどうだったかと訊いたミハイ

ル・タリは、その返事に驚いたにちがいない。コルチノイは全勝したと答えたのだ。「チェ・

ゲバラにも?」とタリが尋ねた。「ああ」とコルチノイ。「あの男はカタラン・オープニングに

どう対処すればいいか、まるでわかっていない!」


チェ・ゲバラが好きだったチェスが、そしてその想いが現代の子どもたちにも

受け継がれているのだろう。




The Meaning of Life According to..... - Google Cultural Institute




2012年9月23日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



Tobey Maguire dans la peau de Bobby Fischer
 より引用

伝説のチェス世界チャンピオンの映画(フィンチャー監督) 



写真は他のサイトより引用しましたが、元チェス世界チャンピオン・フィッシャーをトビー・マグワイアが

演じています。



今から40年前の1972年、ボビー・フィッシャーの名前はチェスファンだけに留まらず、世界の多くの人の

記憶に刻まれました。世界チェンピオンであった旧ソ連のスパスキーと挑戦するアメリカのフィッシャー

ユダヤ人の母をもつ)、この24番勝負は米ソの東西冷戦の象徴として、世界中の注目を集めたのです。



このフィッシャーの伝記映画が来年公開されます。監督は「ソーシャル・ネットワーク」「ドラゴン・タトゥー

の女」などで知られるデヴィッド・フィンチャー。映画の主人公フィッシャーを演じるのはスパイダーマン役

で知られるトビー・マグワイアです。



マグワイアがどんなフィッシャーを演じるのか今まで全く情報がなかったのですが、上の写真を見るとま

るでフィッシャーが乗り移ったのではないかと思うほど姿や雰囲気が似ています。



奇人と知られるフィッシャーは個人的に好きですが、相手のスパスキーも私は尊敬しています。1968年

のソ連がチェコスロバキアに侵攻したチェコ動乱(プラハの春)の直後に行われた国際トーナメントで、

ソ連のスパスキーは黒の腕章をつけチェコスロバキアの選手一人一人に握手しました。



それはソ連がチェコに対して行ったことへの抗議であり、一人の人間としての謝罪でした。



私自身、正直言いまして共産主義国家には抵抗があります。旧ソ連のスターリンなどによる粛清、中国

・毛沢東のチベット侵略や粛清。



何故、共産主義は人間をこうも憎悪の虜にしてしまうのか、その答えははっきり出ませんが、チェ・ゲバラ

が「世界の何処かで、誰かが被っている不正を、心から悲しむ事が出来る人間になりなさい。それこそ、

最も美しい革命家の資質なのだから。」と言うのに対し、旧ソ連・中国の共産主義は逆にあるものへの憎

しみに囚われていたと感じてなりません。



これは哲学者の梅原猛さんも指摘していることですが、憎悪は増幅して更に多くの憎悪を産むのかも知

れませんし、共産主義だけにあてはまるものでもありません。。



チェスとは関係ない話になってしまいましたが、映画ではアメリカ的な善玉悪玉の構図でスパスキーを

描いて欲しくないと願っています。



最後に、フィッシャーは2008年スパスキーとの世界選手権が行なわれたアイスランドで、チェス盤のマス

の数と同じ64歳の生涯を終えました。



(K.K)




追記(2012年11月30日)


監督はフィンチャー監督が降板し、「ラスト・サムライ」のエドワード・ズウィックになっています。

 


2012年1月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略

1966年キューバ・ハバナで開催されたチェスオリンピックの模様

左に立っているのがチェ・ゲバラ。ちなみに左の選手は旧ソ連のタイマノフ、右がアメリカの

エバンス。



チェ・ゲバラはアルゼンチン生まれの医師でキューバのゲリラ指導者。1959年7月15日、

31歳のゲバラはキューバの使節団として来日し、工場見学の予定を急きょ取りやめ夜行

列車で広島に向かい、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花した。この時、

原爆資料館と原爆病院を訪れたが、それ以来キューバの初等教育では広島・長崎で

起こったことを子どもたちに伝えている。尚、同じゲリラの戦友であったカストロ前議長も

チェス愛好家で、キューバにチェスオリンピックを誘致するほどだった。父からチェスを

教わり12歳の時にチェスのトーナメントに初めて参加したチェ・ゲバラは、このキューバ

で行なわれたチェス・オリンピックを熱心に観戦している。



☆☆☆



「世界の何処かで、誰かが被っている不正を、心から悲しむ事が

出来る、人間になりなさい。それこそ、最も美しい革命家の資質

なのだから。」・・・チェ・ゲバラ



☆☆☆



私自身まだチェ・ゲバラの伝記は読んだことはありませんが、いつか読みたいものです。



(K.K)


 
 

2012年6月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





代表者を如何にして選ぶか(インディアン・イロコイ連邦のピースメーカーを感じながら)。
写真はFB友達の伊藤研人さんから紹介してもらったDVD「世界を癒す13人のおばあちゃん 
これからの7世代と、さらに続くこどもたちへ」から引用。



選挙が近づくと大声で「お願いします、あと一歩、あと一歩です」なんて聞くと、どこかの漫才でも

ないがリハビリしているのかと言いたくなってしまう。



僕が描く理想的な代表の選び方は、水洗式である。チェ・ゲバラは虐げられている者への共感が

根底にあったが、維新だの改革だの叫んでいる人たちは、ただ単に自分の、民衆の頭の中を

真っ白にして古いものを一瞬にして洗い流したいだけだろう。



あれ、字が間違っていた、推薦式である。



住民が地域社会に対して行ってきたその人の活動なり言動を見て、この人だったらこの地域に

住む人、そして広く日本に住む人のために良い方向に導いてくれる、彼(彼女)に代表者になる

意志はなくともそんな人を推薦する。



そして各地(村単位)で推薦された人たちが集まって、町まり市なり県・国の代表者を推薦していく。



インディアンの社会においてどのようにして族長を選ぶかに関しては詳しくないが、ある部族は

女性だけの投票で族長(男性)を選ぶところがあり、推薦式なのだろう。



勿論、インディアンの部族という小さな集団での選び方が、そのまま日本にあてはまるかは疑問も

多いだろうが、一つの視点になるのではないだろうか。



話は飛ぶが、アメリカ合衆国には治外法権が適用されFBI(米連邦捜査局)さえ踏み込めない

準独立国・色恋連邦がある。



あ、また間違った。イロコイ連邦である。



今から1000年ほど前に結成されたこのイロコイ連邦の民主的な制度に通じていたフランクリン

(独立宣言起草委員)は、イロコイ連邦組織を手本にオルバニー連合案(1754年)を作り、この

多くの要素が現在の合衆国憲法にも取り入れられている。



このイロコイ連邦を作ったとされるピースメーカーの物語を少し紹介したいが、彼の物語はロング

フェローの叙事詩「ハイアワサの歌」でも有名であり、如何に代表者を選ぶかということも示唆され

ていると思う。



ピースメーカーの物語、「ハイアワサの歌」はロングフェローの脚色が多すぎるため違う文献から

引用したい。



☆☆☆☆



そこで、ピースメーカーは語りかけた。人間はだれでも<グッドマインド>をもっていて、それを使え

ば人間どうしも、また地球上の生きとし生けるものとも平和に共存できるし、争いも暴力ではなく話し

合いで解決できる。



だから、血で血を洗う殺し合いはもうやめよう、と。



彼はまた、九つの氏族を定めて乱婚を避けること、そして相続は母系で行うことを教えた。



家や土地や財産は母から娘へ引き継がれ、子どもはすべて母親の氏族に属するのである。



各氏族は男性のリーダーとして族長を、女性のリーダーとして族母を選び出し、族長と族母には

それぞれ補佐役として男女一人ずつの信仰の守り手(Faith Keeper)がつく。



族長は族母によって選ばれ、族長にふさわしくない言動があれば、族母はそれを辞めさせること

もできる。



氏族メンバーの総意で選ばれる族母は、つねに人びとの意思を汲み上げる大きな責任を負う。



族母(クランマザー)の由来は次のように伝えられている。



ピースメーカーがオンタリオ湖の南岸に着いて平和行脚をはじめたばかりのころ、セネカ族の

土地で峠の宿を営む女将に出会った。



そこは東西を結ぶ街道の要所で、彼女は道ゆく戦士たちを心づくしの食事でもてなすのが

自慢だった。



しかし乱世のこと、それは争いの火に油を注ぐ役目も果たし、また彼女自身、ときどき食事に

毒を盛っては人殺しに手を染めることがあったという。



そこへ通りかかったピースメーカーの話を聞くと、女将はたちまち平和の道にめざめ、すっか

り改心して最初の支持者となる。



ピースメーカーは彼女を「生まれ出ずる国の母」を意味するジゴンサセと名づけて讃えた。

初代クランマザーの誕生である。



「小さな国の大いなる知恵」ポーラ・アンダーウッド著より引用。



☆☆☆☆




(K.K)




   
   
   







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