ボビー・フィッシャーの写真集 「Bobby Fischer against the World」 Harry Benson 写真・文





ボビー・フィッシャー(Bobby Fischer)  挑戦者決定戦への道(1970~1971年)






「Chess Informant 640 Best 64_Golden Games」より引用


挑戦者決定戦トーナメント(1970年)・・・フィッシャーの15勝1敗7分け

Palma de Mallorca Interzonal (1970)
元世界チャンピオンなど世界のトップ棋士たちを集めた大会


Major players - In memoriam! Bent… - dorra Lilienthal,… - The blog of the Exchequer of the Roy René

The 1970 Interzonal was held in Palma de Mallorca from November 9-December 12, and was the last Interzonal held as a one-section round robin.
With the tournament swelling to 24 players and further expansion on the way, future changes were inevitable.
The following players vied for six slots in the candidates matches to be held in 1971:


このトーナメントの全棋譜

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挑戦者決定戦の準々決勝(1971年)
Fischer - Taimanov Candidates Quarterfinal Match


Cheap Wood vs. Nice Plastic - Chess.com


フィッシャーとタイマノフの10番勝負 1971年・・・フィッシャーの6連勝


Bobby Fischer 18.5-2.5 Taimanov, Larsen, Petrosian. Candidates 1971, all games. | Chess Mastery

Soon after the Palma de Mallorca Interzonal (1970) qualifier was held, the first stage (the quarterfinals) of the Candidates matches
was held in four cities in May 1971.
In Vancouver, Canada there was a 10 game match between Mark Taimanov and Bobby Fischer, played May 16th - June 1st.



このマッチの全棋譜

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挑戦者決定戦の準決勝(1971年)


Greatest Chess Photos - チェスのフォーラム - ページ 32 - Chess.com



Bent Larsen (1935-2010) by Edward Winter


フィッシャーとラーセンの10番勝負 1971年・・・フィッシャーの6連勝


Bobby Fischer 18.5-2.5 Taimanov, Larsen, Petrosian. Candidates 1971, all games. | Chess Mastery

Two weeks after Fischer's sensational 6-0 shutout streak in the Fischer - Taimanov Candidates Quarterfinal (1971) at Vancouver,
he met at Temple Buell College, Denver, Colorado USA to play a 10-game candidates match against Bent Larsen starting on July 6, 1971.
Larsen had qualified from the Larsen - Uhlmann Candidates Quarterfinal (1971).



このマッチの全棋譜

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挑戦者決定戦の決勝(1971年)


Bobby Fischer: Showdown in Reykjavik | Rolling Stone


Bobby Fischer: Islândia e Buenos Aires - Esporte - UOL Esporte
1971年、ブエノスアイレスにて


フィッシャーとペトロシアンの10番勝負 1971年・・・フィッシャーの5勝1敗2分け


Bobby Fischer 18.5-2.5 Taimanov, Larsen, Petrosian. Candidates 1971, all games. | Chess Mastery

The Fischer - Larsen Candidates Semifinal (1971) and Petrosian - Korchnoi Candidates Semifinal (1971) was followed by a match between
Fischer and past World Champion Petrosian, scheduled in Buenos Aires from September 30 - October 26, 1971.
The winner would be the challenger for the World Champion title, in a match against Boris Spassky.



このマッチの全棋譜

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チェス棋士・フィッシャー(Bobby Fischer) チェス世界チャンピオンに戻る。


圧倒的な勝利を飾った1970年のブリッツ(早指し)・トーナメントの棋譜は、こちら です。



 


「完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯」フランク・ブレイディー・著 佐藤耕士・訳 羽生善治・解説 文藝春秋 より以下抜粋引用


パルマ・デ・マジョルカでの成功で、フィッシャーは世界タイトル奪取に向けてつぎの段階に移った。1959年のユーゴスラビアと1962年のキュラソーでの

挑戦者決定トーナメントで優勝を逃したあと、フィッシャーは、ソ連プレイヤーたちから集団暴行を受けた、彼らが早めの引き分けを共謀したことで自分

は世界タイトルを盗まれたようなものだ、と抗議してきた。フィッシャーに何度もせき立てられたFIDEは、ようやく重い腰をあげ、世界選手権の挑戦者を

決定することのトーナメントの、対戦相手選びのシステムを変更した。多数のプレイヤーがたがいに対戦する(リーグ戦)方式をやめたのだ。このリーグ

戦方式こそがソ連プレイヤーたちの共謀の機会につながったと、フィッシャーは告発したのである。かわりにFIDEは、マッチ方式(ノックダウン・トーナメ

ント)を採用した。これでフィッシャーは、優勝争いをする3人とそれぞれ対局することになる。ソ連のマルク・タイマノフとティグラン・ペトロシアン、デンマ

ークのベント・ラーセンだ。



分析家たちもプレイヤーたちも、ボビー・フィッシャーは挑戦者決定戦で苦戦するものの、優勝するだろうと予測した。ソ連人たちでさえ不安に駆られて

いた。タリはフィッシャーが5.5-4.5でタイマノフに勝つだろうと予想した。フィッシャー自身は、めずらしく自信がなさそうだった。ここ9ヶ月で74局も戦っ

てきて、最後のパルマ・デ・マジョルカでは7局連続で勝ったにもかかわらず、まだ最高の状態ではない、もっと場数を踏む必要がある、と思っていたの

だ。挑戦者決定マッチは徹底した準備が必要だった。なにも当たり前に思わないことが、フィッシャーの成功への鍵のひとつである。いつものように彼

は、6ヶ月という長期にわたるライバルたちとの緊張に満ちた対局に備えて、根気強く準備をした。



最初の対戦相手はマルク・タイマノフだった。力のある45歳のタイマノフは、このころ人生最高の対局をいくつかやっていて、パルマ・デ・マジョルカでも

異例の成功を収めていた。一方フィッシャーは28歳で、絶好調だった。二人の対決は1971年5月、カナダのバンクーバーにあるブリティッシュ・コロンビ

ア大学の美しいキャンパスではじまることになっていた。



タイマノフはソ連からお供引き連れて到着した。セコンド、助手、対戦マネージャーである。にもかかわらず、彼らの力を借りてさえも、タイマノフは無力

だった。フィッシャーが6局連続で勝利したのである。グランドマスターの完封負けは、チェス史上はじめてだった。



この圧倒的な敗北によって、タイマノフのチェス人生は事実上終わった。ソ連政府はこれを国家の恥と見なし、1局も引き分けられなかったことでタイマ

ノフに罰を与えた。役人たちは彼の給料を打ち切り、海外への渡航を禁止したのである。挑戦者決定マッチが終わったとき、タイマノフはフィッシャー

に、寂しそうにこう告げた。



「まあ、私にはまだ音楽があるさ」



ベント・ラーセンとの試合は、7月6日午後4時、38度近い不快な熱波のさなかに、デンバーではじまった。フィッシャーはタイマノフ戦と同じように、

ラーセンに対しても圧倒的な試合運びだった。全対局を勝利して、完封勝ちしたのだ。



1971年7月20日午後9時、ボビー・フィッシャーは、チェス界でだれ一人達成したことがなかったことをやってのけた。二人のグランドマスターに、

1引き分けも1敗もせずに、勝ったのだ。世界最強のプレイヤーたちに対して、前人未到の19局連続勝利を飾ったのである。



フィッシャーの実力を信じたくない者たち、とりわけソ連のプレイヤーたちは、フィッシャーがタイマノフを圧倒的な力で破ったことを、あれはまぐれ

だといっていた。だが評価の高かった年下のラーセンに対しても同じように完封勝ちしたため、フィッシャーは傑出した実力の持ち主であることを

みずから証明することになった。二人の対戦を驚きの目で見ていたロバート・バーンは、ボビー・フィッシャーだろうとだれだろうと、どうやればベン

ト・ラーセンほどのチェスの天才を相手に立て続けに6局も勝てるのか、まったく説明がつかない、といった。



ソ連のプレイヤーたちは、はじめはほっと胸を撫でおろした。なぜならラーセンが完敗したことで、相対的にタイマノフ惨敗の影が薄まったからだ。

ソ連じゅうのテレビ局とラジオ局が通常の番組を中断して、フィッシャー対ラーセンの結果を放送した。何百万人ものソ連人が試合の進行状況を

熱心に追いながら、フィッシャーの天才ぶりに魅了された。スポーツ紙「ソビエツキー・スポルト」は、こう宣言した。



「奇跡が起こった」



(中略)



第9局がはじまったとたん、1万人以上のファンがホールに詰めかけて、ロビーや路上にまであふれた。ロシアでさえ、これほどまでチェスの

観客が多かったことはない。ペトロシアンは第46手で投了し、ボビー・フィッシャーは晴れて世界チャンピオンへの新たな挑戦者となった。難攻

不落と思われていた元世界チャンピオンに対して、5勝1敗3引き分け、トータルスコア6.5-2・5で、圧倒的勝利を飾ったのである。



世界チャンピオンとタイトルを賭けて戦う挑戦者としては、フィッシャーが過去30年以上で初の非ソ連圏・非ロシア人のプレイヤーだった。ソ連

のグランドマスターたちは何年も自分たち同士で戦ってきて、世界チャンピオンのタイトルをソビエト連邦の手中から出さないようにしてきたの

だ。フィッシャーはここまで登りつめたことによって、7500ドルの賞金のほかに、アメリカ・チェス連盟から褒賞金として3000ドルを授与された。

それより重要なのは、フィッシャーがアメリカ合衆国に、かつては見られなかった現象を引き起こしたことだ。ほぼ一夜にして、アメリカにチェス

ブームが沸き起こったのである。チェスセットの売り上げは一気に20パーセント上昇した。アメリカのほとんどすべての雑誌や新聞は、フィッ

シャーの記事を掲載し、フィッシャーの写真や、対ペトロシアン戦最終局の終盤の棋譜を掲載したりした。ニューヨーク・デイリー・ニューズは

全対局の棋譜を掲載したし、ニューヨーク・タイムズは日曜版の表紙に記事を掲載し、翌日の新聞の第一面にあらためて記事を掲載した。

タイムズの一面をチェスが飾ったのは、1954年以来のことである。ソ連チームがアメリカを訪問して、カーマイン・ニグロがその国際試合を

見せるために11歳のフィッシャーを連れて行った年だ。



ボビー・フィッシャーは国民的英雄となった。アメリカに戻ったあと、フィッシャーは引っきりなしにテレビに出て、その顔が一気に国民に知られ

たため、ニューヨーク市の路上でサインを求められるようになった。だがフィッシャーは、単なる有名人ではなかった。人気歌手のような存在で

もなかった。ソ連の世界チャンピオンを倒す可能性のある、唯一のアメリカ人だった。冷戦の勝ち負け・・・少なくともそれに近いもの・・・戦場や

外交会議ではなく、知性の戦いで決めようとしていたのだ。使うのは、32個の暗号めいた駒だけだった。


 


「白夜のチェス戦争」ジョージ・スタイナー著 諸岡敏行訳 晶文社 より以下抜粋引用


みなが一様におどろいたことに、1970年3月にベオグラードで開かれるソビエト連邦・対・世界戦を、フィッシャーは

競技することに同意した(その失意の年月にも、フィッシャーはユーゴスラビアでは声価があった)。かれがラーセン

より下位の、というのは、前年度の国際舞台の競技実績がかれよりも積極的なうえに光彩を放っていたせいだが、

2番卓で指すことに承諾したとき、一転して、驚愕はまったくの不審にかわった。フィッシャーは会場にはいると、

1番卓のラーセンとスパスキーに一瞥をくれ、静かに腰をおろしてペトロシアンとむかいあった。あとにつづいたの

は、チェス史をとおして、もっとも目をひく章の1頁であった。



すでにふれたように、フィッシャーはみごとな初戦をものにした。3月31日、黒番を指した〈イギリス・オープニング〉で、

かれは再度勝利をおさめた。対局の第3、第4戦は引きわけだった。試合はフィッシャーの自信を回復させ、その競技

がもつ比類のない心理的、技術的エネルギーを解放した。わずか数週あとには、スムィスロフと引きわけ、グリゴリッチ

と、ひじょうにすぐれた西ドイツの名人であるウォルフガンク・ユールマンを破って、ロビニとザクレブの平和のトーナ

メントを勝ちとった。その12月、かれはパルム・デ・マヨルカのインターゾン大会を、15勝7引きわけ、じつに1敗・・・

ラーセン戦・・・と圧勝した。72手の名作をのこしたゲーレル戦の厳然たる勝利と、12月6、7日にタイマーノフがとった

〈シシリア〉を撃破したことは、心理的に最重要なものであったにちがいない。ほぼ一夜にして世界タイトルをかけて

競技する機会が、さらにはそれをうばいとる機会が、ふたたびかれにめぐってきた。おなじトーナメントにおいて、

レシェフスキー戦であげたフィッシャーの勝利は、白の7行目を無慈悲に突き破ったのだが、残忍な添え物でしか

なかった。過去はとうにどうでもよかった。



1971年5月と6月、挑戦者決定戦の最初の対局を、フィッシャーはタイマーノフと指した。1958年にさかのぼった時点で、

ソビエト・チェス体制は、若き名人(かれは熟達した音楽家でもある)を「対戦相手の力量をみくびりすぎる」と非難して

いた。が、それでもタイマーノフの国際競技は、しばしば脅威になることを実証し、けっしてあなどれない試合記録を

手に、かれはバンクーバーにのりこんだのであった。かれは第1試合で実力を発揮したが、むずかしい終盤で弱さが

でた。第2試合は引きわけをふいにした。第3試合は、勝ち筋にあたるものを見誤った。第4試合は、仮借ないフィッ

シャーの猛攻のまえに敗れさった。第5試合は引きわけ模様だったが、ルークをみすみす献上してしまった。第6試合

のかれは放心状態に近く、それが最終戦であった。スタイニッツが英国のジョセフ・ブラックバーンを1876年に7対0と

たたきつぶしていらい、このクラスのチェスで、これほど一方的な競技結果は絶えてなかった。7月、フィッシャーは

ベント・ラーセンと指すためデンバーにおりたった。当時のラーセンは、フィッシャーをべつにすれば、西側きっての

すぐれた競技者だった。かれはゲーレル、タリとの対局を勝ちあがった。さきの顔あわせでは、かれがフィッシャー

から勝利をもぎとった。かれは戦略展開の把握力と闘争能力で鳴りひびいていた。だが、のっけからかれは深刻な

難儀にあった。記憶にのこる第1試合で、フィッシャーは戦術面の完全な支配権をにぎった。第2試合は、ラーセンが

へまをし、有力なポーンをふたつ失なった。第3局のフィッシャーは〈シシリア防御〉をものともしなかった。対局を

手中にする望みを絶たれたラーセンは、第4試合で、フィッシャーの〈キングのインディアン〉にたいし、きわめて強力

な配置とおもわれるものを展開させたが、それも23手目と27手目の矛盾のおおい、結局は負けにつながる選択を

するまでのことだった。第5試合は互角にわたりあいながら、こみいった危険の大きい手順をとって、もとも子もなく

した。そして対局の最終日は、パーペチュアル・チェックによる慰めの引きわけをいさぎよしとせず、全滅の道を

とった。



1971年9月30日、ブエノスアイレスにおいて、フィッシャーはペトロシアンと対戦した。ペトロシアンは、8連続の引き

わけのあと、9試合目の勝利でコルチノイを制したばかりであった。サン・マルチン劇場の興奮はさながら熱病の

ようで、街頭にひしめく群衆のあいだに蔓延した。おりしもレニングラードで開かれていたソビエト連邦選手権は、

アルゼンチンから中継される指し手を競技者が吟味するため、再三再四中断した。フィッシャーは、のこり時間に

ひどく苦しみながらも、第1局を勝ちとった。だが、10月5日をもって、奇跡の日々はおわりをつげた。やや不用意に

〈グリュンフェルト防御〉や〈ペトロフの防御〉をあやつるペトロシアンの剣呑な正確さは、いまや対局をいいように

指している、とおしえていた。とにかく、フィッシャーが不機嫌をみとめたように、その気ならペトロシアンは、第3局

でもう1勝ものにできたのだった。10月17、18日の第6試合は、フィッシャーの全競技歴をとおして、もっとも重要な

ものであったかもしれない。白番のペトロシアンは、N-KB3(ナイトをキング側のビショップの3へ)と初手を指し、

ニムゾビッチの攻撃〉の名で知られる態勢にはいった。そのそばから、フィッシャーがクイーン翼で対抗措置の

主導権をにぎる。19手目には、黒は中央をおさえていた。いまは守勢にたって、ペトロシアンはうけ身ながらきわめ

て強固なポーンの陣形をとった。このクリンチ・ワークが、コルチノイ戦に判定勝ちをもたらしたのであった。

フィッシャーの中央は散開しすぎているようにうかがわれ、分析者の集団は引きわけがないなら白の勝利、と指し

かけ時に予言した。けれども日がかわると、フィッシャーは偉大さをとりもどした。かれはビショップを理想の位置

につけて57手目にルークで詰みの脅威にさらし、そのあと、たったの7手で投了を強いた。10月19日、ペトロシアン

はいつもの戦法を放棄した。生きのびるためには攻撃しなければならなかった。フィッシャーが白番で、駒の展開

(斬新な、みごとに計った8手目のクイーン側ビショップ・ポーンを4へ)と油断のない防御とのあいだに、かれは20分

間長考した。14手で、かれはペトロシアンにクイーンの交換をせまり、手厚い守備がためにうつった。『ソビエト・

ライフ』の6月号に発表されたスパスキーの分析が、22手以降の必至のなりゆきをとりあげている。「強力なナイト

をビショップと交換し、アメリカ人グランドマスターは、これがもっとも鮮明な、もっとも経済的な勝利への道である、

と正確に算定した。いまやいっさいの列は、白のおもうがままであった」 結末は4度詰み手におびやかされた

34手目にやってきた。それをもって対局は事実上の幕を閉じた。戦争神経症におちいり、ペトロシアンは最後

の2試合を失なった。挑戦者決定戦を3度たたかって、フィッシャーの成績は6-0、6-0、6.5-2.5であった。



この戦績がいかに偉大で衝撃的かは、それを宣伝する記述を待つまでもない。上級のチェスマスターは、わずか

な点差でひしめいている。トーナメントなりマッチの1点差の勝利は、申しぶんない満足とされるのだ。タイマーノフ

なら、世界の檜舞台にでた経験がないということで、かたづけられもするだろう。が、ペトロシアンはさきの世界

チャンピオンであり、ラーセンにしても、いつそうなってもおかしくはなかった。両者はもちろん、いずれかひとり

に辛勝するだけで、たいへんな戦果になりえたのだった。ところが、フィッシャーは荒廃の種子をまいた。ラーセン

は見も心もうちのめされて、デンバーをあとにした。「ペトロシアンの気力は、対局の第6戦のあと、すっかりくず

おれてしまった」 ペトロシアンのセコンドをつとめたロシアン人グランドマスターのユーリー・アベルバーフは、

こうつたえている。



ブエノスアイレスはチェス界を茫然自失させ、この時点から仲間うちばかりでなく・・・もはや仲間などいただろうか

・・・世界中の新聞、雑誌やラジオ、テレビをとおして、フィッシャーは神話になるのであった。「現存する棋士で・・・

たしかに実在の棋士で・・・このブルックリン出の天才にかなう者は、だれもいない」(ションバーグ)



フィッシャーは「空前の、もっとも利己的な、妥協のない、うちとけない、手に負えない、孤独な、自閉的な、独立

独歩のチェスの名人であり、もっとも孤立した世界チャンピオンである。かれはまた世界最強の棋士でもある。

事実、かつて世にでただれよりも強い競技者なのだ」(ペトロシアン戦でフィッシャーのセコンドについたグランド

マスターのラリー・エバンス)


 

Cheap Wood vs. Nice Plastic - Chess.com



以下、「決定力を鍛える チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣」

ガルリ・カスパロフ著 近藤隆文訳 NHK出版 より引用



輝かしい伝説と悲しき遺産

街頭で誰かにチェスプレーヤーの名前を挙げるように頼んだら、かなりの確率でボビー・フィッシャーの

名前を耳にするだろう。1972年、インターネットとチェスエンジンが登場するよりはるか昔、チェスがまだ

純粋に人間のゲームだったころに、フィッシャーは歴史上もっとも有名なチェスプレーヤーとなった。その

チェスの才能に匹敵するのは、彼自身の物議をかもす才能のみ。それはテレビ時代における西側初の

スター棋士にとって理想的な・・・・あるいは破滅的な・・・・組み合わせだった。



ブルックリン育ちのフィッシャーは第一級の十代の天才児だった。勝利へのとてつもない決意と飽くなき

練習意欲、無類の正確さを誇る技術を併せ持っていた。その実績の多くは今後も破られることはないだ

ろう。14歳で全米チャンピオン。16歳で世界選手権の候補者。1963年の全米選手権を11-0の完璧な

成績で制覇。世界選手権の候補者大会では2試合連続で6-0と完勝。そして1972年、アイスランドの

レイキャヴィクでボリス・スパスキーを破って世界チャンピオンとなる。外部からの支援をほとんど受けな

いまま、因習を打破するフィッシャーは破竹の勢いで台頭し、1948年以降初となるソ連からの王座奪取

を実現した。



レイキャヴィクでの対戦にいたるまでの経緯と論争が、最高の舞台をつくりあげた。フィッシャーはプレー

しないらしい、いやするらしい、いや違うようだ、空港に現われた、いや現われていない・・・・などなど。

ヘンリー・キッシンジャーはわざわざ電話をかけ、愛国者としての義務を果すようフィッシャーを説得した。

遅まきながらフィッシャーがアイスランドに到着したあとも、このイベントを順調に進めるには偉大な外交

術とスパスキー側の騎士道精神が必要だった。



試合開始後も驚くべき事態がつづいた。フィッシャーは大悪手を重ね、黒番での第1局を失った。第2局

のまえには会場の状態について抗議した。フィッシャーは得意の気晴らしである。雑音が多すぎるし、

カメラも多すぎると彼は言った。やがてゲームは開始される・・・・ところがフィッシャーがいない! 彼は

出場を拒み、この局を放棄したのだ。これで0-2とリードされ、ついに対戦は中止されるかと思われた。

粘り強い交渉のおかげで対戦は続行されたものの、第三局がおこなわれたのは舞台の上ではなく、

卓球用の裏部屋。観客は有線方式のカメラを通してアイドルたちの姿を見るしかなかった。フィッシャー

はその第3局でスパスキーから初めて勝利を奪うと、そのまま優勢に試合を進め、タイトルを手に入れた。



このとき世界はフィッシャーの思いのままだった。彼は若くハンサムで、裕福であり、チェスを米国の一大

人気スポーツに仕立てあげようとしていた。資金提供の申し出やイベントへの招待が舞いこんだが、何度

かテレビ出演に応じただけで、ほとんど断った。そして、訪れた沈黙。フィッシャーはチェスをやめ、20年

にわたって本格的な試合でポーンを突くことはなくなる。1975年には、つぎの世界チャンピオン戦のルール

をめぐってFIDEと対立し、王位を剥奪された。挑戦者のカルポフが後釜に据えられ、フィッシャーは姿を

消した。




彼の所在についての噂や、いまにもふたたび現われてチェス界を制覇するのだという風説はたえず存在

した。だがボビー・フィッシャーが、50歳を目前に太ってひげを生やした姿でチェスのプレーを再開するの

は1992年を迎えてからになる。それは喜ばしくも悲しい出来事だった。ふたたび脚光を浴びたのは、フラ

ンスで半隠居生活をしていたボリス・スパスキーと、戦乱のユーゴスラビアで再戦をおこなうという数百万

ドルのオファーに引かれたためだった。チェスの腕は予想どおりさびついており、以前の輝きはほとんど

見る影もなかった。最悪だったのは、冒涜的な反ユダヤ的発言をせずにはいられない傾向を見せたこと

だ。フィッシャーの傷つきやすい心は、唯一理解できたチェスという世界を長く離れているあいだに崩壊

していた。



試合後、フィッシャーはまたも消息を絶ち、今度は2004年、日本の成田空港の収容所というさらに意外な

場所に現れた。ユーゴスラビアでの試合は国連によるユーゴ制裁措置に違反するものであり、彼は無効

になったパスポートで旅していたとして拘束されたのだ。こうしてフィッシャーはふたたび話題の人物となっ

た。そして8ヵ月後、日本政府はフィッシャーをアイスランドに送り出す。彼の最大の勝利の舞台。彼が

いまでも敬愛されている国に。



その言動や数奇な人生にかかわらず、フィッシャーは何よりチェスに対する限りない貢献で記憶されるに

値する。頂点に君臨した期間は悲劇的に短かったが、彼は現代のポール・モーフィともいえるほど、同時

代のプレーヤーのなかでぬきんでた存在だった。フィッシャーの成功と並はずれたカリスマはある世代

全体にチェスを広め、とくに米国では大きな“フィッシャー・ブーム”が起こっている。フィッシャーとスパス

キーの対戦がおこなわれた当時、9歳だった私は友達とともに1局1局を熱心に追ったものだ。彼の餌食

にあった者の大半はソ連人だったが、フィッシャーのファンはソ連でも多かった。彼のチェスが素晴らし

かったのは間違いない。だが私たちは彼の個性と独立心に敬服したのである。



 



ガルリ・カスパロフが過去に国際チェス連盟と騒動を起こし、イギリスのショートと共にチェス界を分裂さ

せたことを忘れることができません。1993年、チャンピオン・カスパロフと挑戦者・ショートは、彼らの世界

選手権を乗っ取り、彼らが作ったプロチェス協会(PCA)の元で行なうことを宣言しました。彼ら理由として、

「国際チェス連盟(FIDE)の規則では、世界選手権決勝マッチの開催地はFIDE、世界チャンピオン、挑戦

者の3者の合議で決定することとなっていた。しかし、カンポマネス(FIDE会長)はこれらの規則を破って、

開催地をマンチェスターと宣言した」からだとしていますが、確かにFIDEの官僚体制などいろいろ問題が

あったかも知れません。しかし、彼らカスパロフとショートが動いた根本動機は私利私欲であった面は否定

できないと思います。カスパロフは以前からカンポマネスに不信感をもっており、自分主導でチェス界を

引っ張っていく想いが強かったのかもしれませんが、ただ言えることは、彼が現在のチャンピオンになる

ことが出来たのは、地方・国など多くのチェス組織があってこそだと思います。会長への憎しみだけのため、

今まで自分を育ててくれた組織を分裂させてしまったカスパロフとショートの行動は批判されるべきかも

知れません。カスパロフは最近、あの行動は間違っていたと語り、その責任の多くがショートにあると主張

していますが、これもチェス界の悲しい遺産の一つです。



2013年月.30日 (K.K)

 


以下、「楽しいチェス読本」ロフリン著 より引用


複雑な局面で、攻撃強化手段を判定する際、多くは中間の着手がポイントになります。これを手品の

ように巧妙に使ったのは、アメリカのフィッシャーでしょう。彼のたくさんの試合のなかから、1つだけとり

あげてみましょう。フィッシャーが白番です。






黒の防御態勢は完全に見えるのですが、予期せぬ試合展開になりました。

1.Be4 ! Qe7

(もし 1...de4 とすれば、2.N3e4 で次に 3.Nf6) 黒の敗けです。


(中略)


1966年におけるチェス界5人のスターの1人で、急速に頭角をあらわしたアメリカのロバート・フィッシャー

に目を転じましょう。彼は1943年生まれの全米チャンピオンで、ボトビニクは彼について「アメリカチャン

ピオンは、大変な才能をもったプレーヤーである。彼は確実に、素早く、戦術のもつれを解明し、バリエー

ションを計算する。試合が漠然とした性格をあらわしたときには、まず第1にプランの問題とポジションの

判定について決定しなければならない。フィッシャーはまだその点で不十分であるのだが・・・」 そして、

「もしこの2~3年でフィッシャーがチャンピオンになれなかったときは、彼に2度とチャンスはまわってこな

いだろう」と記しています。最初の部分は討論に値するとしても、後半はほとんど的中しました。1972年に、

彼は世界チャンピオンとなったのです。



フィッシャーは15歳にして、すでに国際的巨匠として認められていました。チェス史上、他に例のないこと

です。当時の彼は、生活の趣味や思考をすべてチェスに関連づけ、夢はチェスの世界チャンピオンになる

ことでした。100年ほど前に、未公認ながらチャンピオンになったアメリカ人ポール・モーフィーのように。



当然のことですが、偶然や気まぐれで世界チャンピオンになれるものではありません。フィッシャーの最初

の成功は、国内においてでした。ある大会で12試合をやり、彼は12ポイントを獲得しました。それから国際

地区大会、ストックホルム(1962年)、パルム・デ・マヨルカ(1970年)での勝利、そして国際選手権での勝利、

ザグレブ、ブエノスアイレス、ベオグラード。1971年に世界選手権挑戦者になったときの3巨匠との試合が

彼のレコードです。タイマノフに6-0、ペトロシアンに6.5-2.5という成績でした。



彼のスタイルと型の特徴は、棋風は堂々として、指された手にはすばやく反応し、稀有の記憶力をもち、

序盤戦に長じているということです。最も重要なことは、彼の気質です。途方もないバイタリティーにあふれ

ているのです。これらの力が一体となって試合で発揮されるのです。フィッシャーの銘は「闘いは最後の一

兵まで」ということでしょう。



フィッシャーのこういった長所を無視して、たとえばラースンはこう主張したのです。「世界選手権のような

長い試合(24試合)は、スパスキーにとって有利と言わねばならない」と。たしかにスパスキーは、モスクワ

に戻ってきたときに著者に向って「最後の最後まで希望は捨てなかった。王座を死守できると思っていた

のだが」と語ってくれました。



1972年夏、レイキャビクで行なわれた試合を簡単にみてみることにしましょう。最初の10試合はスパスキー

にとってきわめて悪い状態でした。彼は戦略的な誤りと戦術的な失敗を重ねていました。心理的にもあまり

良い状態ではありませんでした。フィッシャーは対戦者と審判に対して、容認しがたい毒舌をはき、世界選手

権にふさわしい試合の雰囲気ではなかったように思われます。すべての状況が否定的な役割を果したとい

えるでしょうし、フィッシャーは後半戦での敗北を計算していたように思われます。事実、後半戦のポイントは

それほど良くはなかったのです。いずれにしろ、ソ連の名人がふつうに指せる状態ではなかったかもしれま

せん。



後半戦の11試合は6-5でフィッシャーが勝っていますが、ボトビニクの「試合におけるフィッシャーの天才的

技術」についての見解は反駁されたのです。スパスキーの11試合目の勝利と、フィッシャーの13試合の勝利

を分析すると、戦いにおける屈折の様子がわかります。私はレイキャビクの観戦者である巨匠クロギウスに

質問してみました。後半戦でフィッシャーが戦術的に特別の抑制をした様子が見られなかったか(意識的な

防衛への移行)?と。答えは、フィッシャーは後半戦では非常に疲れていたようだったし、力の限界を越えて

指していた(スパスキーが攻勢にでていった頃から)ということでした。



たしかに考えられることであり、ソ連の獅子の目覚めるのが少々遅かったということでしょう。結果を分析し

て、多くの専門家が指摘したことは、レイキャビクでの試合の準備中、スパスキーは自分の力を過信して

しまったということです。戦力向上のため、国内でのトーナメントに出場し、試合に必要なものをすべて取り

戻しておかねばならなかったにもかかわらず、彼はそれをやらなかったからです。実際のところ、ソ連の

プレーヤーで世界チャンピオンになった者のうち、ボトビニクを除いては誰も全ソ選手権で競技をしたものは

それまでいなかったのです。



新チャンピオンの、序盤の組み立て方に関する主張には、彼特有の分析的能力は感じられません。元チャ

ンピオンのスミスロフは、次のように強調しています。「たえずチェス研究に没頭しているフィッシャーは、ス

パスキー以上に下準備をしていました。以前からフィッシャーが白盤のときの第1手は常にe4であると見なさ

れており、その対応策を準備することは容易でした。しかし実際には、フィッシャーはものすごいエネルギー

とすばらしい記憶力で、種々の序盤戦のシステムを準備し、ポジション研究による卓越した技術を示したの

でした。」







Robert James Fischer vs Oscar Panno
"The Pann-handler" (game of the day Jan-08-10)
Buenos Aires 1970 · Sicilian Defense: French Variation (A04) · 1-0




fischer_panno_1970.pgn へのリンク


 



チェスの歴史上、最強の人間は誰だったか、それは人の感性や棋力により答えが異なるのは当然かと

思います。現在のレーティング(強さの数値)で判断すると、必ず現在の棋士がトップに来ますが、それは

チェスのイロレーティング(Elo rating)が年に数%づつインフレを起こしているためです。ですから最も公平

な見方は、同時期に存在した多くの名人たちとの比較などでしか判断できないかも知れません。例えば時

代別にA・B・Cの名人を並べると、AとB、BとCは対戦が多く優劣の判断はできるが、AとCは対戦したこと

がない。このような場合、AとC、どちらが強いかを判断するには、Bの存在で測ることも可能です。AとBの

勝率、BとCの勝率などで、AとCの力関係を推察することができる。しかし、この比較も名人と言えども全盛

期とそうでない時期、そして相性の問題も当然あるのでやはり確定することはできないように思います。私

個人としては、モーフィーカパブランカフィッシャーがチェス史上最強かと思いますが、カスパロフに関し

ては序盤研究のプロ集団を雇っていた彼にはその資格はないと思います。そして大事なことは、たまたま

チェスに接することがなかっただけで、その素質は彼らより上という人間も人類誕生から今日まで沢山いた

ことを忘れてはいけないと思っています。


2013年1月31日 K.K





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アイスランド 不死鳥のオーロラ (大きな画像)







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