Kingpin Chess Magazine ≫ Bent Larsen: 20 Questions


Bent Larsen - HD Wallpapers, HD Images, HD Photos




ベント・ラーセン(Bent Larsen) 1935年〜2010年


1941年、彼が6歳のとき多くの小児病にかかりますが、その時にチェスに触れます。1953年、土木工学

を学ぶためコペンハーゲンに移住するも、チェスへの情熱も失いませんでした。彼はデンマークのチェス

選手権で6回も優勝し、また世界的にも、ソ連を除く西側の世界ではトッププレーヤの一人でした。彼の

チェスの特徴は深い読みと想像力豊かな選手で、1971年の世界選手権・挑戦者決定戦では準決勝

〈相手はフィッシャー)まで上り詰めました。






ベント・ラーセン - Wikipedia より以下引用

ベント・ラーセン(Bent Larsen、1935年3月4日 - 2010年9月9日)は、デンマークのチェスプレーヤー。

コペンハーゲン生まれ。21歳でグランドマスターとなる。1970年代初期にはボビー・フィッシャー

自由主義圏No.1を争うほどの実力者であった。



かつては共産圏以外ではチェスのプロ制度がある国は少なかったが、その時代にあってラーセンは

フィッシャーと並ぶ自由主義圏における数少ないプロのチェスプレーヤーとして知られていた。



1970年にベオグラード(当時ユーゴスラビア)で開催されたソ連チーム対世界チーム戦ではラーセンは

世界チームの大将となり、ソ連チームの大将であるボリス・スパスキーと戦い、1勝1引き分け1敗だった。

4局目は補欠のレオニード・シュタインがスパスキーに代わりラーセンと対局した。なおこの大会でラーセン

が負けた2局目はラーセン・オープニングの代表的なゲームとして多くのチェスの書籍で紹介されている。



1973年にはフィリピンのマニラで開催されたトーナメント終了後に日本を訪れ、在日外国人を含む49人と

約4時間半かけて同時対局し、45勝3敗1引き分けという好成績を残した[5]。



2010年9月9日、アルゼンチンの首都・ブエノスアイレスにて急逝。75歳没。


 


ラーセンの名局


Bent Larsen vs Efim Geller
"Bent on Destruction" (game of the day Apr-19-13)
Nimzowitsch mem (1960) ・ Hungarian Opening: General (A00) ・ 1-0

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Bent Larsen vs Aleksandar Matanovic
"Great Dane" (game of the day Sep-14-10)
Zagreb International (1965) ・ Catalan Opening: Closed Variation (E07) ・ 1-0


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Bent Larsen vs Tigran Vartanovich Petrosian
"A Game of Shadows" (game of the day Feb-09-12)
Second Piatigorsky Cup (1966) ・ Sicilian Defense: Accelerated Dragon. Maroczy Bind Breyer Variation (B39) ・ 1-0

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Bent Larsen vs Borislav Ivkov
"Supersymmetry Theory" (game of the day Jul-09-16)
Palma de Mallorca (1967) ・ English Opening: Symmetrical Variation. Full Symmetry Line (A38) ・ 1-0


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Robert James Fischer vs Bent Larsen
"Game of the Dane" (game of the day Jul-16-09)
Palma de Mallorca Interzonal (1970) ・ Sicilian Defense: Fischer-Sozin Attack. Leonhardt Variation (B88) ・ 0-1


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Mark Taimanov vs Bent Larsen
"Hell Bent" (game of the day Jun-29-14)
Vinkovci (1970) ・ Nimzo-Indian Defense: Classical. Berlin Variation Pirc Variation (E39) ・ 0-1


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Bent Larsen vs Lubomir Kavalek
"Cavallier Kavalek" (game of the day Sep-19-10)
Lugano (1970) ・ Nimzo-Larsen Attack: English Variation (A01) ・ 1-0


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Bent Larsen vs Murray Chandler
"Snake Chandler" (game of the day Sep-17-10)
Hastings (England) (1987) ・ Reti Opening: Advance Variation (A09) ・ 1-0


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ラーセンが負けた名局


Bent Larsen vs Boris Spassky
"When Pawns Attack" (game of the day Jan-08-07)
Beograd 1970 ・ Nimzo-Larsen Attack: Modern Variation (A01) ・ 0-1

Chess and Physics in the classroom | ChessBase



この試合は、チェスの歴史上最も偉大な125試合を詳しく解説した著名な文献
「The Mammoth Book of the World's Greatest Chess Games」に掲載されている。




「『世紀のマッチ』とうたわれた対戦から火花のとびちるような短手数局(ミニチュア)を

1局。近年のゲームとしては最もよく知られたゲームである。」


「完全チェス読本2 偉大なる天才たちの名局 ラスカーからカスパロフまで」から引用

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ラーセンの名局集


IGM Bent Larsen
Compiled by 64rutor


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ラーセン自身が選んだ50局
"Larsen's Selected Games" by Bent Larsen
Compiled by brucemubayiwa


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Chessgames.com


 


ラーセンの全棋譜

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挑戦者決定戦トーナメント(1970年)

Palma de Mallorca Interzonal (1970)
元世界チャンピオンなど世界のトップ棋士たちを集めた大会


Major players - In memoriam! Bent… - dorra Lilienthal,… - The blog of the Exchequer of the Roy Rene

The 1970 Interzonal was held in Palma de Mallorca from November 9-December 12, and was the last Interzonal held as a one-section round robin.
With the tournament swelling to 24 players and further expansion on the way, future changes were inevitable.
The following players vied for six slots in the candidates matches to be held in 1971:


このトーナメントの全棋譜

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挑戦者決定戦の準決勝(1971年)


Greatest Chess Photos - チェスのフォーラム - ページ 32 - Chess.com



Bent Larsen (1935-2010) by Edward Winter


フィッシャーとラーセンの10番勝負 1971年


Bobby Fischer 18.5-2.5 Taimanov, Larsen, Petrosian. Candidates 1971, all games. | Chess Mastery

Two weeks after Fischer's sensational 6-0 shutout streak in the Fischer - Taimanov Candidates Quarterfinal (1971) at Vancouver,
he met at Temple Buell College, Denver, Colorado USA to play a 10-game candidates match against Bent Larsen starting on July 6, 1971.
Larsen had qualified from the Larsen - Uhlmann Candidates Quarterfinal (1971).



このマッチの全棋譜

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チェス棋士・フィッシャー(Bobby Fischer) チェス世界チャンピオン

 


「完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯」フランク・ブレイディー・著 佐藤耕士・訳 羽生善治・解説 文藝春秋 より以下抜粋引用


パルマ・デ・マジョルカでの成功で、フィッシャーは世界タイトル奪取に向けてつぎの段階に移った。1959年のユーゴスラビアと1962年のキュラソーでの

挑戦者決定トーナメントで優勝を逃したあと、フィッシャーは、ソ連プレイヤーたちから集団暴行を受けた、彼らが早めの引き分けを共謀したことで自分

は世界タイトルを盗まれたようなものだ、と抗議してきた。フィッシャーに何度もせき立てられたFIDEは、ようやく重い腰をあげ、世界選手権の挑戦者を

決定することのトーナメントの、対戦相手選びのシステムを変更した。多数のプレイヤーがたがいに対戦する(リーグ戦)方式をやめたのだ。このリーグ

戦方式こそがソ連プレイヤーたちの共謀の機会につながったと、フィッシャーは告発したのである。かわりにFIDEは、マッチ方式(ノックダウン・トーナメ

ント)を採用した。これでフィッシャーは、優勝争いをする3人とそれぞれ対局することになる。ソ連のマルク・タイマノフとティグラン・ペトロシアン、デンマ

ークのベント・ラーセンだ。



分析家たちもプレイヤーたちも、ボビー・フィッシャーは挑戦者決定戦で苦戦するものの、優勝するだろうと予測した。ソ連人たちでさえ不安に駆られて

いた。タリはフィッシャーが5.5−4.5でタイマノフに勝つだろうと予想した。フィッシャー自身は、めずらしく自信がなさそうだった。ここ9ヶ月で74局も戦っ

てきて、最後のパルマ・デ・マジョルカでは7局連続で勝ったにもかかわらず、まだ最高の状態ではない、もっと場数を踏む必要がある、と思っていたの

だ。挑戦者決定マッチは徹底した準備が必要だった。なにも当たり前に思わないことが、フィッシャーの成功への鍵のひとつである。いつものように彼

は、6ヶ月という長期にわたるライバルたちとの緊張に満ちた対局に備えて、根気強く準備をした。



最初の対戦相手はマルク・タイマノフだった。力のある45歳のタイマノフは、このころ人生最高の対局をいくつかやっていて、パルマ・デ・マジョルカでも

異例の成功を収めていた。一方フィッシャーは28歳で、絶好調だった。二人の対決は1971年5月、カナダのバンクーバーにあるブリティッシュ・コロンビ

ア大学の美しいキャンパスではじまることになっていた。



タイマノフはソ連からお供引き連れて到着した。セコンド、助手、対戦マネージャーである。にもかかわらず、彼らの力を借りてさえも、タイマノフは無力

だった。フィッシャーが6局連続で勝利したのである。グランドマスターの完封負けは、チェス史上はじめてだった。



この圧倒的な敗北によって、タイマノフのチェス人生は事実上終わった。ソ連政府はこれを国家の恥と見なし、1局も引き分けられなかったことでタイマ

ノフに罰を与えた。役人たちは彼の給料を打ち切り、海外への渡航を禁止したのである。挑戦者決定マッチが終わったとき、タイマノフはフィッシャー

に、寂しそうにこう告げた。



「まあ、私にはまだ音楽があるさ」



ベント・ラーセンとの試合は、7月6日午後4時、38度近い不快な熱波のさなかに、デンバーではじまった。フィッシャーはタイマノフ戦と同じように、

ラーセンに対しても圧倒的な試合運びだった。全対局を勝利して、完封勝ちしたのだ。



1971年7月20日午後9時、ボビー・フィッシャーは、チェス界でだれ一人達成したことがなかったことをやってのけた。二人のグランドマスターに、

1引き分けも1敗もせずに、勝ったのだ。世界最強のプレイヤーたちに対して、前人未到の19局連続勝利を飾ったのである。



フィッシャーの実力を信じたくない者たち、とりわけソ連のプレイヤーたちは、フィッシャーがタイマノフを圧倒的な力で破ったことを、あれはまぐれ

だといっていた。だが評価の高かった年下のラーセンに対しても同じように完封勝ちしたため、フィッシャーは傑出した実力の持ち主であることを

みずから証明することになった。二人の対戦を驚きの目で見ていたロバート・バーンは、ボビー・フィッシャーだろうとだれだろうと、どうやればベン

ト・ラーセンほどのチェスの天才を相手に立て続けに6局も勝てるのか、まったく説明がつかない、といった。



ソ連のプレイヤーたちは、はじめはほっと胸を撫でおろした。なぜならラーセンが完敗したことで、相対的にタイマノフ惨敗の影が薄まったからだ。

ソ連じゅうのテレビ局とラジオ局が通常の番組を中断して、フィッシャー対ラーセンの結果を放送した。何百万人ものソ連人が試合の進行状況を

熱心に追いながら、フィッシャーの天才ぶりに魅了された。スポーツ紙「ソビエツキー・スポルト」は、こう宣言した。



「奇跡が起こった」



(中略)



第9局がはじまったとたん、1万人以上のファンがホールに詰めかけて、ロビーや路上にまであふれた。ロシアでさえ、これほどまでチェスの

観客が多かったことはない。ペトロシアンは第46手で投了し、ボビー・フィッシャーは晴れて世界チャンピオンへの新たな挑戦者となった。難攻

不落と思われていた元世界チャンピオンに対して、5勝1敗3引き分け、トータルスコア6.5−2・5で、圧倒的勝利を飾ったのである。



世界チャンピオンとタイトルを賭けて戦う挑戦者としては、フィッシャーが過去30年以上で初の非ソ連圏・非ロシア人のプレイヤーだった。ソ連

のグランドマスターたちは何年も自分たち同士で戦ってきて、世界チャンピオンのタイトルをソビエト連邦の手中から出さないようにしてきたの

だ。フィッシャーはここまで登りつめたことによって、7500ドルの賞金のほかに、アメリカ・チェス連盟から褒賞金として3000ドルを授与された。

それより重要なのは、フィッシャーがアメリカ合衆国に、かつては見られなかった現象を引き起こしたことだ。ほぼ一夜にして、アメリカにチェス

ブームが沸き起こったのである。チェスセットの売り上げは一気に20パーセント上昇した。アメリカのほとんどすべての雑誌や新聞は、フィッ

シャーの記事を掲載し、フィッシャーの写真や、対ペトロシアン戦最終局の終盤の棋譜を掲載したりした。ニューヨーク・デイリー・ニューズは

全対局の棋譜を掲載したし、ニューヨーク・タイムズは日曜版の表紙に記事を掲載し、翌日の新聞の第一面にあらためて記事を掲載した。

タイムズの一面をチェスが飾ったのは、1954年以来のことである。ソ連チームがアメリカを訪問して、カーマイン・ニグロがその国際試合を

見せるために11歳のフィッシャーを連れて行った年だ。



ボビー・フィッシャーは国民的英雄となった。アメリカに戻ったあと、フィッシャーは引っきりなしにテレビに出て、その顔が一気に国民に知られ

たため、ニューヨーク市の路上でサインを求められるようになった。だがフィッシャーは、単なる有名人ではなかった。人気歌手のような存在で

もなかった。ソ連の世界チャンピオンを倒す可能性のある、唯一のアメリカ人だった。冷戦の勝ち負け・・・少なくともそれに近いもの・・・戦場や

外交会議ではなく、知性の戦いで決めようとしていたのだ。使うのは、32個の暗号めいた駒だけだった。


 


「白夜のチェス戦争」ジョージ・スタイナー著 諸岡敏行訳 晶文社 より以下抜粋引用


みなが一様におどろいたことに、1970年3月にベオグラードで開かれるソビエト連邦・対・世界戦を、フィッシャーは

競技することに同意した(その失意の年月にも、フィッシャーはユーゴスラビアでは声価があった)。かれがラーセン

より下位の、というのは、前年度の国際舞台の競技実績がかれよりも積極的なうえに光彩を放っていたせいだが、

2番卓で指すことに承諾したとき、一転して、驚愕はまったくの不審にかわった。フィッシャーは会場にはいると、

1番卓のラーセンとスパスキーに一瞥をくれ、静かに腰をおろしてペトロシアンとむかいあった。あとにつづいたの

は、チェス史をとおして、もっとも目をひく章の1頁であった。



すでにふれたように、フィッシャーはみごとな初戦をものにした。3月31日、黒番を指した〈イギリス・オープニング〉で、

かれは再度勝利をおさめた。対局の第3、第4戦は引きわけだった。試合はフィッシャーの自信を回復させ、その競技

がもつ比類のない心理的、技術的エネルギーを解放した。わずか数週あとには、スムィスロフと引きわけ、グリゴリッチ

と、ひじょうにすぐれた西ドイツの名人であるウォルフガンク・ユールマンを破って、ロビニとザクレブの平和のトーナ

メントを勝ちとった。その12月、かれはパルム・デ・マヨルカのインターゾン大会を、15勝7引きわけ、じつに1敗・・・

ラーセン戦・・・と圧勝した。72手の名作をのこしたゲーレル戦の厳然たる勝利と、12月6、7日にタイマーノフがとった

〈シシリア〉を撃破したことは、心理的に最重要なものであったにちがいない。ほぼ一夜にして世界タイトルをかけて

競技する機会が、さらにはそれをうばいとる機会が、ふたたびかれにめぐってきた。おなじトーナメントにおいて、

レシェフスキー戦であげたフィッシャーの勝利は、白の7行目を無慈悲に突き破ったのだが、残忍な添え物でしか

なかった。過去はとうにどうでもよかった。



1971年5月と6月、挑戦者決定戦の最初の対局を、フィッシャーはタイマーノフと指した。1958年にさかのぼった時点で、

ソビエト・チェス体制は、若き名人(かれは熟達した音楽家でもある)を「対戦相手の力量をみくびりすぎる」と非難して

いた。が、それでもタイマーノフの国際競技は、しばしば脅威になることを実証し、けっしてあなどれない試合記録を

手に、かれはバンクーバーにのりこんだのであった。かれは第1試合で実力を発揮したが、むずかしい終盤で弱さが

でた。第2試合は引きわけをふいにした。第3試合は、勝ち筋にあたるものを見誤った。第4試合は、仮借ないフィッ

シャーの猛攻のまえに敗れさった。第5試合は引きわけ模様だったが、ルークをみすみす献上してしまった。第6試合

のかれは放心状態に近く、それが最終戦であった。スタイニッツが英国のジョセフ・ブラックバーンを1876年に7対0と

たたきつぶしていらい、このクラスのチェスで、これほど一方的な競技結果は絶えてなかった。7月、フィッシャーは

ベント・ラーセンと指すためデンバーにおりたった。当時のラーセンは、フィッシャーをべつにすれば、西側きっての

すぐれた競技者だった。かれはゲーレル、タリとの対局を勝ちあがった。さきの顔あわせでは、かれがフィッシャー

から勝利をもぎとった。かれは戦略展開の把握力と闘争能力で鳴りひびいていた。だが、のっけからかれは深刻な

難儀にあった。記憶にのこる第1試合で、フィッシャーは戦術面の完全な支配権をにぎった。第2試合は、ラーセンが

へまをし、有力なポーンをふたつ失なった。第3局のフィッシャーは〈シシリア防御〉をものともしなかった。対局を

手中にする望みを絶たれたラーセンは、第4試合で、フィッシャーの〈キングのインディアン〉にたいし、きわめて強力

な配置とおもわれるものを展開させたが、それも23手目と27手目の矛盾のおおい、結局は負けにつながる選択を

するまでのことだった。第5試合は互角にわたりあいながら、こみいった危険の大きい手順をとって、もとも子もなく

した。そして対局の最終日は、パーペチュアル・チェックによる慰めの引きわけをいさぎよしとせず、全滅の道を

とった。



1971年9月30日、ブエノスアイレスにおいて、フィッシャーはペトロシアンと対戦した。ペトロシアンは、8連続の引き

わけのあと、9試合目の勝利でコルチノイを制したばかりであった。サン・マルチン劇場の興奮はさながら熱病の

ようで、街頭にひしめく群衆のあいだに蔓延した。おりしもレニングラードで開かれていたソビエト連邦選手権は、

アルゼンチンから中継される指し手を競技者が吟味するため、再三再四中断した。フィッシャーは、のこり時間に

ひどく苦しみながらも、第1局を勝ちとった。だが、10月5日をもって、奇跡の日々はおわりをつげた。やや不用意に

〈グリュンフェルト防御〉や〈ペトロフの防御〉をあやつるペトロシアンの剣呑な正確さは、いまや対局をいいように

指している、とおしえていた。とにかく、フィッシャーが不機嫌をみとめたように、その気ならペトロシアンは、第3局

でもう1勝ものにできたのだった。10月17、18日の第6試合は、フィッシャーの全競技歴をとおして、もっとも重要な

ものであったかもしれない。白番のペトロシアンは、N-KB3(ナイトをキング側のビショップの3へ)と初手を指し、

ニムゾビッチの攻撃〉の名で知られる態勢にはいった。そのそばから、フィッシャーがクイーン翼で対抗措置の

主導権をにぎる。19手目には、黒は中央をおさえていた。いまは守勢にたって、ペトロシアンはうけ身ながらきわめ

て強固なポーンの陣形をとった。このクリンチ・ワークが、コルチノイ戦に判定勝ちをもたらしたのであった。

フィッシャーの中央は散開しすぎているようにうかがわれ、分析者の集団は引きわけがないなら白の勝利、と指し

かけ時に予言した。けれども日がかわると、フィッシャーは偉大さをとりもどした。かれはビショップを理想の位置

につけて57手目にルークで詰みの脅威にさらし、そのあと、たったの7手で投了を強いた。10月19日、ペトロシアン

はいつもの戦法を放棄した。生きのびるためには攻撃しなければならなかった。フィッシャーが白番で、駒の展開

(斬新な、みごとに計った8手目のクイーン側ビショップ・ポーンを4へ)と油断のない防御とのあいだに、かれは20分

間長考した。14手で、かれはペトロシアンにクイーンの交換をせまり、手厚い守備がためにうつった。『ソビエト・

ライフ』の6月号に発表されたスパスキーの分析が、22手以降の必至のなりゆきをとりあげている。「強力なナイト

をビショップと交換し、アメリカ人グランドマスターは、これがもっとも鮮明な、もっとも経済的な勝利への道である、

と正確に算定した。いまやいっさいの列は、白のおもうがままであった」 結末は4度詰み手におびやかされた

34手目にやってきた。それをもって対局は事実上の幕を閉じた。戦争神経症におちいり、ペトロシアンは最後

の2試合を失なった。挑戦者決定戦を3度たたかって、フィッシャーの成績は6−0、6−0、6.5−2.5であった。



この戦績がいかに偉大で衝撃的かは、それを宣伝する記述を待つまでもない。上級のチェスマスターは、わずか

な点差でひしめいている。トーナメントなりマッチの1点差の勝利は、申しぶんない満足とされるのだ。タイマーノフ

なら、世界の檜舞台にでた経験がないということで、かたづけられもするだろう。が、ペトロシアンはさきの世界

チャンピオンであり、ラーセンにしても、いつそうなってもおかしくはなかった。両者はもちろん、いずれかひとり

に辛勝するだけで、たいへんな戦果になりえたのだった。ところが、フィッシャーは荒廃の種子をまいた。ラーセン

は見も心もうちのめされて、デンバーをあとにした。「ペトロシアンの気力は、対局の第6戦のあと、すっかりくず

おれてしまった」 ペトロシアンのセコンドをつとめたロシアン人グランドマスターのユーリー・アベルバーフは、

こうつたえている。



ブエノスアイレスはチェス界を茫然自失させ、この時点から仲間うちばかりでなく・・・もはや仲間などいただろうか

・・・世界中の新聞、雑誌やラジオ、テレビをとおして、フィッシャーは神話になるのであった。「現存する棋士で・・・

たしかに実在の棋士で・・・このブルックリン出の天才にかなう者は、だれもいない」(ションバーグ)



フィッシャーは「空前の、もっとも利己的な、妥協のない、うちとけない、手に負えない、孤独な、自閉的な、独立

独歩のチェスの名人であり、もっとも孤立した世界チャンピオンである。かれはまた世界最強の棋士でもある。

事実、かつて世にでただれよりも強い競技者なのだ」(ペトロシアン戦でフィッシャーのセコンドについたグランド

マスターのラリー・エバンス)



Classic Pawn Structure, Part 3b - Chess.com







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