「ハイアワサの歌」
インディアン神話の英雄叙事詩
H.W.ロングフェロー著 三宅一郎訳
付録・Longfellow英文原詩 解題・横須賀孝弘 白い人「ハイアワサ」荒このみ
作品社 より
優雅で、洗練されたロングフェローの叙情詩「ハイアワサの歌」は文学的に (K.K)
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本書 帯文 より引用
『ハイアワサの歌』は、19世紀半ばに、北米インディアンのオジブワ族に伝わる英雄 神話をもとに、アメリカの著名な詩人ロングフェローにおって書かれた長編叙情詩で ある。この詩は刊行後すぐさま反響を呼び、こえい触発されたボードレールは詩『ハ イアワサの幼年期』を書き、ドボルジャークは交響曲「新世界」を作曲した。また、平 易で明快なため、アメリカでは今でも教科書の教材として用いられているほどよく知 られ、名著の誉れ高い詩集である。ここには、豊かな自然とともに暮らすインディアン たちの様子と、勇壮な英雄の姿が生き生きと描かれている。本書はその本邦初の完 訳である。
スペリオル湖畔の壮大な自然のなかで精霊たちと交わり、妖術師や魑魅魍魎と戦う 伝説の英雄ハイアワサ。19世紀、〈高貴なる野蛮人〉としてのインディアン像を世に知 らしめ世界的な大反響を呼び起こした、合衆国における国民的“神話”
15〜19世紀のインディアン史料図版・400点収蔵
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『ハイアワサの歌』の起源 訳者解説・三宅一郎 より引用
『ハイアワサの歌』を読む人にとって、まず最初になによりも知っておいてもらわねば
かねてから、この詩人の心のなかには、インディアンを扱ったものを書こうという総体
さて、ロングフェローは、この叙事詩を書き終わってから非常に心を乱し迷ったことは 前に述べた。この詩の一節に大きな疑問をもって削除しようかどうか迷っている。一節 と言っているが、一聯を指しているのではなく相当な部分のことであろう。なぜなら、文 字通りの一節(一聯)なら削除しなくても容易に書きかえることができたはずだからであ る。では、いったい、それはどの部分だったのであろうか? 按ずるに、それは最終部 分にキリスト教の神父を登場させた場面ではあるまいか? 彼としてはアメリカ国民(大 半はキリスト教徒)や政府におもねるつもりはなかったろうが、詩人としての良心がとが めたのではあるまいか? 典型的なアメリカ国民として自他ともに許し、誰からも尊敬さ れてはいるものの、インディアン教化に手を貸すような、神話としては極めて不自然に キリスト教神父と神話の人物を絡ませたことに忸怩たるものがあったにちがいない。わ れわれから見ると、せっかくの神話英雄譚が語るに落ちたものになり、ロングフェロー という白人の独善が匂って素朴な神話をぶちこわしている。神父が昼寝をしているあ いだに主人公が昇天したという趣向は棄て難いが、最後に神父などが登場せず、キリ ストとかマリアなどの文字がなかったら、もっと余韻が残ったのではあるまいか? しか し、別の見方からすると、このことが「ハイアワサの歌」の人気につながったとも言える。 もちろん叙事詩としての秀でた価値が識者に評価されたことが主な原因であろうが、 キリスト者側やインディアン対策に腐心している中央政府や州当局にとっては願っても ない作品であったろう。だから、その話を子供たちに語って聞かせ、教科書にも採り入 れ、ほとんどのアメリカ人が知るようになったとも言える。作者は、さぞ苦笑いをしたこ とだろう。インディアンにとっては白人は侵略者であり侵入者である。侵入者は、どこで も残虐で貪婪である。かれらは先住民の土地や資源を奪い、次第に追いつめて、かれ らが定めた不毛の地域に押しこめた。これはアイヌについても同じことが言える。そし て、奪った土地に旗を立てて、これは我々の昔からの固有の領土だと、ぬけぬけとうそ ぶく。世界のどこでも、ヨーロッパ人が侵入したところでは、まずキリスト教の宣教師が 尖兵として乗りこみ、住民を手なずけ、けっきょくは支配してしまう。彼らがたくみに飴と 鞭によって侵略していった事は歴史が物語っている。(中略) 二柱の神が天に昇って 水平線に消えるところに仏教の僧侶などが出てきたら、完全に神話のぶちこわしにな る。ロングフェローが削除しようかと迷ったのは、やはりこの点だったように思われる。 しかし、「ハイアワサの歌」は、こうしたことはさて措いて、読者は素直に神話英雄譚の 名作として受けとめ、その童話的な味わいを評価すべきである。ステペルはミュージカ ルにして失敗したが、こうした作品から神聖と神秘を取り去っては身も蓋もなくなる。 |
目次 序の文 H・W・ロングフェロー 序の歌
1の歌 平和のパイプ 2の歌 四方の風 3の歌 ハイアワサの幼年期 4の歌 ハイアワサとマジェキーイス 5の歌 ハイアワサの断食 6の歌 ハイアワサの友だち 7の歌 ハイアワサ舟で行く 8の歌 ハイアワサの魚捕り 9の歌 ハイアワサと真珠羽根 10の歌 ハイアワサの求愛 11の歌 ハイアワサの婚礼宴 12の歌 宵の明星の子 13の歌 とうもろこし畑きよめ 14の歌 絵文字 15の歌 ハイアワサの哀悼 16の歌 ポォプクキーイス 17の歌 ポォプクキーイス征伐 18の歌 クワシンドの死 19の歌 亡霊 20の歌 飢饉 21の歌 白人の足あと 22の歌 ハイアワサの旅立ち
原註 図版解説・出典一覧 訳者解説 森林インディアン・オジブワ族の世界・・・・横須賀孝弘 白い人「ハイアワサ」・・・・荒このみ
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白い人「ハイアワサ」 荒このみ より抜粋引用 アメリカという新しい共和国に抒情詩を残そうと、インディアン伝説に源を求めていった はずの「ハイアワサの歌」は、インディアンの英雄譚であることをいつの間にかやめて、 白人共和国賛歌になっている。 22の歌の最後は、ハイアワサが夢の中で見たアメリカの未来の姿である。見知らぬ 群集がこの土地にやってきて、西へ西へと進んで行き、どこに行っても人々で満ちあふ れている。かららの話す言葉は種々雑多だけれども、心の深みは同じひとつの魂を抱 いている。かれらは森林を切り拓き、谷間の部落には、元気に生きている証の煙がた ちのぼっている。新しい国作りに意欲を燃やし、順調に行われている輝ける未来の図 は、白人側の「楽園建設」という大儀にのっとった、かれらの使命が現実に実践された 成功の図ではあるが、インディアンにとってもそうだというわけではない。たしかに、ヨー ロッパの文明から程遠く、白人文明の恩恵に預かることなく生きていたインディアンだ が、異文化が侵入してくる以前の時代こそ、インディアンにとっては「楽園」だったと言 えるのだ。ハイアワサの幻視は、黒い闇を含んでいる。部族の者は散り散りになり、 戦争のために弱体化してゆくインディアンの未来を予測する。残存者は、「秋の枯葉の ように」疲れきって、悲痛に胸を重くして、西の方へと逃げて行く。 ロングフェローは、このようにハイアワサに語らせている。この未来図は、作品が発表 された段階では、すでにインディアンが経験してきた歴史的事実であり、アメリカの現実 の姿であった。ハイアワサに「わたしの助言を忘れてしまい」と言わしめている詩人は、 ジャクソン大統領が行なった強制移住も、その責はすべてインディアンにあると言って いるのではないか。白人に従え、というハイアワサの忠告を受け入れず、キリスト教に 改宗もせず、ひたすら自分たちの神を信じ、自分たちの国家を存続させようとするイン ディアンの側にこそ、悲惨を招いた原因はあるのだ、と。 ロングフェロウが、先住民のインディアンに対して、「ハイアワサの歌」にあらわれたよう な理解しか示さなかったといって、詩人の感受性を否定してしまうわけにはいかない。 ロングフェロウが住んでいた時代的制約、白人、しかもアングロ・サクソンの支配体制を 当然とする時代の通念を考えなければいけないだろう。ロングフェロウの生まれた家庭 は、ポートランドがファルマスと呼ばれていた18世紀半ばから、その地にあって人々の 尊敬を受けていたのである。詩人自身が優秀な学生として、あるいは立派な教師として、 常に周りから敬われ、社会的地位に恵まれていたという事実も、逆に制約となったかも しれない。ロングフェロウには、物事を慣習的に見てしまう傾向があった。「ハイアワサ の歌」に出てくる「呪われたユダヤ人」という形容も、何の疑いもなくすらすらと書いたの だろう。 「ハイアワサの歌」が出版された1855年は、アメリカを代表するもうひとりの詩人が作品を 発表した年でもある。ウォルト・ホイットマンは、「私自身の歌」を初めてこの年に公にして いる。二人の詩人とも、アメリカ人の間のみならず、世界の各国で広汎によく読まれてい る。「国民的」という形容詞を冠するに相応しい詩人ではあるが、両者の隔たりの何と大 きいことか。輝ける共和国を謳いながら、その実、視線は自己の内へと沈潜して行くホイ ットマンは、アメリカを讃えている点では同じであっても、異質の魂の持ち主である。白人 (アングロ・サクソン)優越を毫も疑わぬロングフェロウは、ニュートン・アーヴィングの指摘 するように、「繊細ではあるが、深い感情」に欠けていたのかもしれない。おそらくそれは、 ロングフェロウの楽天主義と言えるのだろう。だが、同時代に行き、同じニュー・イングラ ンドに住んでいたアングロ・サクソンの女性マーガレット・フラーは、詩人をどのように評価 したか。結びとして、マーガレット・フラーの言葉を掲げよう。 「さらば、海賊や騎士が登場し、あらゆる花が謳われている豪華な本よ。受くるべき正当な 評価をせずに軽視しようというのではない。(略) ロングフェロウ氏には、筆に対して純粋 なる尊敬の念があり、いい加減に書いたり、書きたくないのに無理をしたり、富のために 書くこともなど一切ない。という事実を忘れているものでもない。庭師の手間を省き、それ なりの利用価値のある温室育ちの花を、豊かな自然の美にもまして素晴らしいと讃える人 を、受け入れないというのでもない。しかしそれでも忘れてはならぬ。 なお高く!」 (「ヴィクトリア朝時代のアメリカ人」より) |
2012年6月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 代表者を如何にして選ぶか(インディアン・イロコイ連邦のピースメーカーを感じながら)。 写真はFB友達の伊藤研人さんから紹介してもらったDVD「世界を癒す13人のおばあちゃん これからの7世代と、さらに続くこどもたちへ」から引用。 選挙が近づくと大声で「お願いします、あと一歩、あと一歩です」なんて聞くと、どこかの漫才でも ないがリハビリしているのかと言いたくなってしまう。 僕が描く理想的な代表の選び方は、水洗式である。チェ・ゲバラは虐げられている者への共感が 根底にあったが、維新だの改革だの叫んでいる人たちは、ただ単に自分の、民衆の頭の中を 真っ白にして古いものを一瞬にして洗い流したいだけだろう。 あれ、字が間違っていた、推薦式である。 住民が地域社会に対して行ってきたその人の活動なり言動を見て、この人だったらこの地域に 住む人、そして広く日本に住む人のために良い方向に導いてくれる、彼(彼女)に代表者になる 意志はなくともそんな人を推薦する。 そして各地(村単位)で推薦された人たちが集まって、町まり市なり県・国の代表者を推薦していく。 インディアンの社会においてどのようにして族長を選ぶかに関しては詳しくないが、ある部族は 女性だけの投票で族長(男性)を選ぶところがあり、推薦式なのだろう。 勿論、インディアンの部族という小さな集団での選び方が、そのまま日本にあてはまるかは疑問も 多いだろうが、一つの視点になるのではないだろうか。 話は飛ぶが、アメリカ合衆国には治外法権が適用されFBI(米連邦捜査局)さえ踏み込めない 準独立国・色恋連邦がある。 あ、また間違った。イロコイ連邦である。 今から1000年ほど前に結成されたこのイロコイ連邦の民主的な制度に通じていたフランクリン (独立宣言起草委員)は、イロコイ連邦組織を手本にオルバニー連合案(1754年)を作り、この 多くの要素が現在の合衆国憲法にも取り入れられている。 このイロコイ連邦を作ったとされるピースメーカーの物語を少し紹介したいが、彼の物語はロング フェローの叙事詩「ハイアワサの歌」でも有名であり、如何に代表者を選ぶかということも示唆され ていると思う。 ピースメーカーの物語、「ハイアワサの歌」はロングフェローの脚色が多すぎるため違う文献から 引用したい。 ☆☆☆☆ そこで、ピースメーカーは語りかけた。人間はだれでも<グッドマインド>をもっていて、それを使え ば人間どうしも、また地球上の生きとし生けるものとも平和に共存できるし、争いも暴力ではなく話し 合いで解決できる。 だから、血で血を洗う殺し合いはもうやめよう、と。 彼はまた、九つの氏族を定めて乱婚を避けること、そして相続は母系で行うことを教えた。 家や土地や財産は母から娘へ引き継がれ、子どもはすべて母親の氏族に属するのである。 各氏族は男性のリーダーとして族長を、女性のリーダーとして族母を選び出し、族長と族母には それぞれ補佐役として男女一人ずつの信仰の守り手(Faith Keeper)がつく。 族長は族母によって選ばれ、族長にふさわしくない言動があれば、族母はそれを辞めさせること もできる。 氏族メンバーの総意で選ばれる族母は、つねに人びとの意思を汲み上げる大きな責任を負う。 族母(クランマザー)の由来は次のように伝えられている。 ピースメーカーがオンタリオ湖の南岸に着いて平和行脚をはじめたばかりのころ、セネカ族の 土地で峠の宿を営む女将に出会った。 そこは東西を結ぶ街道の要所で、彼女は道ゆく戦士たちを心づくしの食事でもてなすのが 自慢だった。 しかし乱世のこと、それは争いの火に油を注ぐ役目も果たし、また彼女自身、ときどき食事に 毒を盛っては人殺しに手を染めることがあったという。 そこへ通りかかったピースメーカーの話を聞くと、女将はたちまち平和の道にめざめ、すっか り改心して最初の支持者となる。 ピースメーカーは彼女を「生まれ出ずる国の母」を意味するジゴンサセと名づけて讃えた。 初代クランマザーの誕生である。 「小さな国の大いなる知恵」ポーラ・アンダーウッド著より引用。 ☆☆☆☆ (K.K) |