「契約の櫃」

聖書預言の最終シナリオ

ジョナサン・グレイ著 林陽訳 徳間書店 より









ロン・ワイアットが発見したモーゼの10戒の石版を収めた「契約の箱」、

これをどのように捉えていいのか私自身わからないでいます。(K.K)





紀元前14世紀、モーゼが「十戒の石版」奉納のため、神からの啓示に基づき制作したと

いわれる契約の櫃。しかし紀元前587年、アークは突如歴史の表舞台からその姿を消すこ

とになる。以後、神の臨在をしるし、世界支配の魔力を宿すといわれた<失われたアーク>

をめぐって、バビロニア、ローマ帝国、さらにヒットラー、ムッソリーニに到るまで、時の権力

者たちは執拗にその行方を追い続けてきた。本書は、1982年1月に発掘されていた史上

最大の秘宝アーク発見までの経緯と、宗教界、国際情勢に大変動をもたらす事実が明らか

になったことで「機密扱い」にせざるをえなかったイスラエル政府の衝撃と苦悩を綴った壮絶

なるドキュメントである。・・・・・・・櫃の洞窟にはとんでもない発見が待ち構えていた。聖櫃の

蓋にかかっていたミステリアスな黒い物質である。科学研究所での分析により、それが男の

人間の血、それも母の染色体しか持たぬ、いわゆる「半数体」の血であることが判明したの

である。ロンは、この血を、二千年前に十字架で槍に刺されたイエス・キリストの血そのもの

であると結論づける。(本書より)


 


本書より引用


それは、医者のルカが注釈しているように、エシュアがゲッセマネで血の汗をかいた前の晩から

始まった。命を奪うことになる「大いなる苦しみ」は、このときに始まったのだ。イエスは、釘の傷や

十字架の苦しみから死んだのではなかった。身に負った人類の罪の重さ、その罪によって神に

見捨てられた苦しみの思いから、死んだのではなかろうか。自ら負うことを選んだ世界の罪によっ

て、彼は殺されたのではなかろうか。これは、私たちのような普通の死ではない。神からの離反と

いう「究極の死」であった。私たちをそこから救い出さんがために、イエスはその死を味わったの

である。字句的にも、比喩的にも、胸が張り裂けて死んだのである。 地震とともに岩が割れ、

エシュアの十字架を支える柱穴の底のすぐ左側で、岩が口を開いた。そして百卒長がイエスの

脇腹に槍を刺した時には、血と水という二種の別々の液体が流出した。常人の血の量は、四-

五リットルである。血と水は、彼の脇腹から両脚を伝い、十字架穴へ流れ込んだ。血は、岩の

裂け目に流れ込み、亀裂を伝い落ちて、約6メートル下方の洞窟に埋まった契約の櫃の「贖い

の蓋」に注がれたのである。このすべてを計画されたのは神ご自身に他ならない。まず、エシュア

が死ぬ600年も前に、契約の櫃がこの洞窟に隠されるよう、状況が整えられた。前587年の

バビロニア軍による攻撃の際に、エレミヤほかの宮の祭司たちが、どこかの洞窟に櫃を隠すよ

う動かされた。彼らは、西暦31年のその日に起こる出来事など、知る由もなかった。次に十字架

穴を掘ったローマ人たちは、その下に何があるかを知らなかったし、自分たちが正確な地点に

中央の柱穴を掘っていることも知らなかった。第三に、イエスが死ぬその時まで、血の流れ下る

道は存在しなかった。亀裂が岩に出来ていなかったからだ。だが、これらの驚異的ともいえる

「偶然の一致」が、現に起こったのである。いや、「一致」というべきであろう。何事も正しく「一致」

させなければ、事は起こらないものだ。いったい、こんなことをすべて一致させたのは誰であろ

うか。そして、2000年後、われわれが次なる神の大介入 --- 約束されたキリストの再臨 ---

に近づいた今、急ぎも遅れもなさらない神は、ついに契約の櫃を外に出されるのである。


 
 


本書より引用


最近、ワイアットは公の場所で話す申し出を受け、彼の発見は、以前よりも知られるようになって

きた。だが、そうすることによって、批判を天職とするような人間に、絶好の攻撃の機会を与える

ことにもなった。あるとき、彼がセミナーを終えると、一人の男が集会の主催者に声をかけた。

「なかなかの見せ物だった」と彼は詰るように言った。「だが、あのワイアットのいうことは、みな

作り話だよ。人の注意を集めたくてしているのさ」 主催者は、舞台の袖にもたれているワイアット

に、この話を伝えた。そのとき、ロンは、跪いてこう言った。「アーサー、私にどうしてそんなことが

できますか。主と顔と顔とを合わせるときに、どう弁解できるでしょうか!」彼の目には涙が見え

た。「彼の顔には、ひどい苦悶の表情があった」とアーサーは私に語ったものだ。ロンは、これ

まで、各分野の専門家と称する人々からかけられる、愚弄の声と公然たる攻撃に、ひたすら耐

えてきた。こういう人々は、事実をもっと知らなくてはなるまい。1992年10月に、私は、あごひげ

を蓄えたこの大柄なアメリカ人と、初めて対座した。彼の主張は、控え目ではない。彼の語る発見

談は、大胆すぎるとさえ思えた。皆が追い求めてきた史上最大の遺物を、たった一人でこんなに

も発見できるとは、到底考えられぬことである。「あなたのおっしゃることが、もし本当だとしたら」

と私は口火を切った。「それは世界的な大問題なのですよ!」 「ジョナサン」と彼は諌めるように

言った。「私ではない、すべては、神のなさったことなのです」 「それにしても、このようなことを

されている理由は、どこにあるのですか?」と私は尋ねた。「年に三度もの探検旅行では、莫大

な資金が必要でしょう」 彼は私をじっと見つめた。「ジョナサン、これは宝探しなどではないの

です。私は聖書を、文字通りに信じている人間です。そして、神が歴史に介入された証拠を、

神を実証できる証拠を、探し求めているのです」 「しかし、どうして、考古学を正規に学ばれた

ことのないあなたが・・・・・・・」 「まさに、おっしゃる通りです」とロン。「資格の点では、あなた

以上の人々が確かにいます。肩書きや名の知れた人、長年、現場に携わってきた考古学者と

か。なのに、なぜ、あなたが第一発見者にされたのでしょうか」 「ジョナサン、どうして主が、

私みたいな男を選ばれたのか、自分でも分からないのです」そう語る彼の瞳に、うっすらと涙が

見えた。「主のために役立てようとしているからでしょうか」





2015年9月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





スターリン、ヒトラーなどの独裁者に共通するもの



自身が絶対正義だと陶酔し、意見の異なる人を邪魔者として抹殺する。



最近の日本では小泉がそうでしたが、今回の安保法案の賛成・反対派の両者とも、その危険性のある議員や民が

いるのを感じました。



聖徳太子の十七条憲法(604年4月3日に臣下を集め提示したこの憲法は、日本で初めての成文法と言われています)

の第十条にはこう書かれています。



「心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。

人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと

思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだという

わけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがい

だれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、

むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって

行動しなさい。」



十七条憲法は崇高な理念が書かれているのではなく、モーゼの十戒「殺すな、盗むな、姦淫するな」と同じく

行動規範が書かれています。



ただ、この第十条だけを抜粋して十七条憲法を語るのは卑怯な態度なので、憲法全文を時間がありましたら見て

いただけたらと思います。



第七条にはこうも書かれています。



「人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な

人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、

生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小に

かかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かに

のびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は

官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。」



欺瞞・汚職にまみれた中国に限らず日本でも、聖徳太子のような人物が出てきたらと思っていますが、現代の

民主主義では不可能ではないかとさえ思うことがあります。



言霊、「言葉には霊力があるから、決して嘘をついてはいけない」、これは昔の日本だけでなくアメリカ先住民

(インディアン)
にも共通していたことです。



選挙で聖徳太子のような人が選ばれるには、全ての民に言霊が宿って初めて実現するのですが、それは

聖徳太子の時代から1400年経っても殆ど変わらない姿を見ると悲観的にもなってしまいます。



ただ、そんな荒波の中でも、名もない知られざる英雄がいたことを指標として、自身が出来ることを模索して

いかねばと思っています。



写真は9月15日に撮影した合歓の木(ネムノキ)です。









アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)


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