「スピリットの器」

プエブロ・インディアンの大地から

徳井いつこ著 地湧社より






プエブロ・インディアンと呼ばれる人たちが作る土器を通して語られる

インディアンの精神世界と大地の美しい歌声。多くの陶芸作家の声

の中には大地への祈りと感謝が満ち満ちている。「私は、祈りの力

信じています。ええ、本当に信じていますよ、単純に。朝であれ、夜

であれ、それがいちばん主要なことです。野焼きのときは火に祈り、

採土のときは土に祈る・・・。祈ることは、それを感じることです。火を

感じ、土を感じ・・・地球のあらゆるものを感じることです」。本書は、

土器を通してインディアンの深い精神世界を垣間見させてくれる好著

であり、大地の豊かな恵みを肌で感じることが出来なくなっている私

たち文明人への感銘深い警鐘の書でもある。

(K.K)


 








本書 「あとがき」 より引用


アメリカの宇宙飛行士エド・ミッチェルは、月探検から帰還する途中、

宇宙船の窓から小さく輝く地球の姿を眺めたとき、世界のすべてが

精神的に一体であること(スピリチュアル・ワンネス)を感じたという。

その瞬間について、彼は「神の顔にこの手でふれた」と表現した。

立花隆の著書「宇宙からの帰還」のなかで、ミッチェルは次のように

語っている。「古代インドのウパニシャドに、”神は鉱物の中では眠

り、植物の中では目ざめ、動物の中では歩き、人間の中では思惟

する”とある。万物の中に神がいる。だから万物はスピリチュアルに

は一体なのだ。しかし、神の覚醒度は万物において異なる。(中略)

眠れる神をも見ることができるだけスピリチュアルになることができ

た人間にしてはじめて、この一体性を把握できる」。プエブロの土器

をつくる女たちは、あるいは、この”眠れる神”を見ていたのかもしれ

ない。土という、最も寡黙な存在の、音なき声を聴く。それは世界の

鼓動に耳を澄ませ、そのリズムのなかに溶解していくことである。

私の頭のなかに、いつのころからか棲みつくようになった、ひとつの

映像がある。大地の上に一個の巨大な土器が立っている。壷のか

たちをしているが、その全体は背伸びをしても見届けられないほど

大きい。奇妙なことに、壷と地面はつながっている。まるで一本の

樹のように、壷は地面から生えているのだ。この”樹のような土器”

の姿は、時とともに色褪せるどころか、ますます確固とした現実感

をともなって根を降ろし始めた。


 
 


ホピの女性陶芸作家、デキストラ・クォツキバの言葉(1)

本書「スピリットの器」徳井いつこ著 地湧社 より引用



成形という作業・・・この地球を覆っている土といっしょに働くことの何たる

かを知らなければ、あなたはいつも怒ってばかりいなければならないで

しょう。それから喜びを得ることはできますまい。だってあなたは、それを

力ずくでねじふせようとしている。”私が””私が”と望むやり方でね。いち

ばん大切なのは、自分のやっていることに”耳を傾ける”ことです。あなた

が地球のリズムとはずれてしまっているとき、あらゆることと不一致をもつ

ことになります。それが何であれ、たとえ小さな不一致にも耳を傾けるこ

と。私たちの地球・・・。地球をつくっているすべてのマテリアル(素材)と

いうのは、生命をつくりだす何か特別なものです。私が”自然から何かを

とるときは、必ずそれとコンタクトをとらなければいけない”と言うときの

意味は、そこにあります。何で欲しいものが手当たり次第にとれるわけが

あるでしょう。草であれ、石であれ、そこにある意味がある。たまたまそこ

に転がっていたわけではない。何らかの目的・・・ええ、すべてのものに

は目的があります。それが何であれ、あなたは尊敬を示さなくてはいけ

ない。私は水を深く尊敬しています。水は多大なパワーを秘めている。

・・・ええ、水道の水にも同じ気持ちを感じます。だってそれは地球から

きている。地球から・・・。粘土もその一部。生命をつくりだす特別なもの

の一部です。粘土は、ある意味では、聖なるものです。私は、粘土を触

っているとき、”ああ、私は粘土の一部だ”と感じます。”粘土が粘土を

こねている””私が私自身をこねている”と。ええ、私は粘土です。粘土

と私は、同じ素材。”ひとつ”です。あなたは粘土を触りながら自分を触

っている。粘土がしてほしいと望むことを、あなたはする。”創造”といわ

れていることは、すべて、この作業です。



私は自然のなかを歩いているときも、これと同じ感覚をもつことがあり

ます。砂漠にはたくさんの岩が転がっている。私はそこに腰を下ろす。

山、砂、小さな草、一匹の虫・・・様々のものが取り巻いている。私は、

大きな全体の一部。私を含むふべてのものが、いっしょになって動い

ていく。そこには、何の飾りもごまかしもない。地球を形づくるすべての

もの、”ひとつ”に含まれるすべてのもの。それらは、同じマテリアルな

んです。木、岩・・・ただ、目に見えるありようが違うだけ。私たちは、

そこかしこにいる・・・。人が死ねば土に還る。そこから草が生え、その

草を動物が食べ、それを人が食べる。実際のところ、彼らは自分自身

を食べている。つまり地球を。それは、ひとつの”輪”。溯っていけば、

かつて私たちが砂や土であったことがあるかもしれない。一方、砂や

土も同じいのちをもっている。そして、そのいのちを変えていく。たとえ

ば、人というかたちに。スピリットは、そうやって変り続ける。



私は、粘土はスピリットを持っていると言った。スピリットを見ることは

できない。でも、たしかに、その存在を感じることができる。あなたが

感じるものは、何であれ、事実そこに存在し、あなたとともにはたらき

続ける。見えなくとも、信じることができるのよ。私が”信じる”と言う、

その意味がわかる? あなたには何も見えない。でも、その存在へ

の信頼をもっていれば、それはそこにある。たとえば、土器をつくる。

あなたが、ここから、ある器が生まれてくると信じれば、それは現実

になる。もし信じなければ、そこには何ひとつ生まれはしない。そう、

”信じる”というのは、”祈る”ことと似ている。何かに対して祈るとき、

あなたには見えないけれど、あなたは、それを信じている。すると、

それが、起こる。それは、あなたが深く信じているから


 


ホピの女性陶芸作家、デキストラ・クォツキバの言葉(2)

本書「スピリットの器」徳井いつこ著 地湧社 より引用



子どものころ、昇ってくる太陽を拝むことが、その人の一日を光で満たして

くれるのだと教えられた。”起きなさい。日の出を見ることが、今日あなた

がする最初のこと。起きたとき雨が降っている、太陽が少ししか出ていな

いこともある。たとえそうであっても起きなさい”。いまになって、親たちが

どうしてこの習慣を教えたのか理解できる。それは朝起きたとき、人は感

謝の気持ちで満たされていなければならないということ。そして、今日一日

に備えるということ。私が子どものころは、村の人々の全員が日の出前に

起きていた。小さな子供たちも、ほとんど強制的にそれをさせられた。でも、

いまでは、こうしたすべての良き習慣が絶えてしまった。もう子供たちは、

親の言うことをきかない。若い世代は別の見方、考え方をしているのよ。

彼らは、私たちの生き方を”オールド・ファッション”と呼ぶ。いまでは、親

である私たちを、子どもがコントロールするようになってしまった。娘や息

子が何時に起きているのかはよくわからない。いまは離れて住んでいる

のでね。さあ・・・たぶん一時か二時、そんなところではないかしら。彼ら

を変えようとしても、話してきかせたようとしても駄目なのよ。彼らはまる

で違う。何から何まで。ええ、母がしてくれたように、私も子供たちに話し

ました。古くからの考え方や習慣をね。でも、違うんですよ。人生が。彼ら

はほかの子供たちのようになりたいんです。白人の文化が子供たちに

与える影響は強大です。それは、概して子供たちを悪くさせている。もち

ろん、そのなかには、いいところもたくさんある。でも、影響力が、あまり

にも強い。白人の生き方とホピの生き方との多くの違い・・・その落差

が、私たちの子供たちとのギャップとなって現れてきている。状況を見

守りながら、ゆっくりと時間をかけて、子供たちを助けていくことができ

たら。でも、その方法はない。逃げ道はない。外部からの影響が強す

ぎます。



考えてみれば、昔は伝統的な生活をしていました。私の伯父は”スト

ーリー・テラー”だった。ストーリー・テラーとは、私たちに規律を教え鍛

える人。ひとりひとりにアドバイスを与えてくれる人。日の出前に起き

ることの意味を教えてくれたのも、この伯父でした。子供たちはいつ

も伯父のまわりに集まっていろんな話をせがんだわ。それはたいて

い食事がすんだ後の時間・・・。いま、子供たちが”オールド・ファッ

ション”と呼ぶことのなかには、たくさんの大事な価値が秘められて

いる。両親が、かつて語ってくれた言葉の数々。”あなたがここに

いるのは、目的があるからなのよ”と、母は口癖のように言ってい

た。”いま、世界に耳を傾ければ、あなたがいるこの場所に耳を傾

ければ、それがわかる。たくさんのものが見えてくる。あなたはもう

たくさんのことを知っているのよ”。母は、死んでしまったいまも、

時間を超えて私の”標識”であり続けています。ええ、こうしている

いまも、彼女の残したたくさんの言葉がきこえる。私のまわりに感

じるんです。母がいるのを。母は、”日没の心得”についても教え

てくれた。”今日という日は、最後になるかもしれない。だから一日

をせいいっぱい生きること。そして、太陽が沈むときは、人に優しく

できるよう。腹を立てないよう。乱暴にならないよう”。私たちは、

こういったことを信じているし、引き継いでもいる。でも、いまでは

何もかもすっかり変ってしまった。若い子たちは、もう年寄りを敬お

うとしない。こうしたことの一部始終は、予言のなかで昔から言わ

れていたこと。子供たちが親にひどい扱いをし、敬わず・・・。それ

が、いま、ここで起こっている。私たちがいま体験していることは、

世界のあちこちで起こっていることのなかでも、最も苦しく難しい

ことだと思います。私たちは、伝統的な生き方を守る最後の世代。

・・・そう。伝統がまさに死のうとしている、その終わりの世代・・・


「スピリットの器」徳井いつこ著 地湧社 より


 


本書 あとがき 徳井いつこ より抜粋引用


私の机の上には、淡紅色の石が載っている。掌にすっぽりとはまるインカローズの

玉だ。指でかるく触れると、ターンテーブルがゆっくりと滑りだすような複雑なテンポで

回り始める。原稿に疲れると、私はこれを手のなかでころがしたり、光に透かして眺

めたりした。とろりとした光沢は、鉱物というより一片の肉に近い。じっと握っていると、

規則正しく打ち続ける自分の鼓動が、心臓からではなくこの小さな石から発せられて

いるような錯覚に陥る。


プエブロの土器づくりの女たちを一冊の本に書いてみたい、という思いが胸に宿って

から、はや三年の歳月が流れた。イヤホンを耳に押し込み黙々とテイプを起こし、カ

ードを机にばらまいて構成を思案し、汗でねばる指でワープロを叩いた。石はいつも

超然として目の前にあり、ぬかるんだ思考に一陣の涼風を送ってくれた。


おそらく“創作”とは、普遍的なものにちがいない。つくっているものが土器であれ、文章

でれ、つくり手が創作のなかで体験する緊張や感動、不安、高揚といった精神的プロセス

は同じである。土器づくりの女の声を書きながら、しばしば、書いているその言葉に励ま

されている自分を発見した。「見えなくても信じることができるのよ。あなたには何も見え

ない。でもその存在への信頼をもっていれば、それはそこにある。ここからある土器が

生まれててくると信じれば、それは現実になる。もし信じなければ、そこには何ひとつ生ま

れはしない」と、デキストラは言った。


私は誰かの注文を受けて、これを書き始めたわけではない。いつ投げ出してもかまわな

い状況で、それをしなかったのは、書いているその言葉が後押ししてくれたからにほかな

らない。アメリカの宇宙飛行士エド・ミッチェルは、月探検から帰還する途中で、宇宙船の

窓から小さく輝く地球の姿を眺めたとき、世界のすべてが精神的に一体であること(スピリ

チュアル・ワンネス)を感じたという。その瞬間について、彼は「神の顔にこの手でふれた」

と表現した。立花隆の著書「宇宙からの帰還」のなかで、ミッチェルは次のように語ってい

る。「古代インドのウパニシャドに、“神は鉱物の中では眠り、植物の中では目ざめ、動物

の中では歩き、人間の中では思惟する”とある。万物の中に神がいる。だから万物はスピ

リチュアルには一体なのだ。しかし、神の覚醒度は万物において異なる。眠れる神をも見

ることができるだけスピリチュアルになることができた人間にしてはじめて、この一体性を

把握できる」


プエブロの土器をつくる女たちは、あるいは、この“眠れる神”を見ていたのかもしれない。

土という、最も寡黙な存在の、声なき声を聴く。それは世界の鼓動に耳を澄ませ、そのリズ

ムのなかに溶解していくことである。私の頭のなかに、いつのころから棲みつくようになっ

た、ひとつの映像がある。大地の上に一個の巨大な土器が立っている。壷のかたちをして

いるが、その全体は背伸びしても見届けられないほど大きい。奇妙なことに、壷と地面は

つながっている。まるで一本の樹のように、壷は地面から生えているのだ。この“樹のよう

な土器”の姿は、時とともに色褪せるどころか、ますます確固とした現実感をともなって根を

降ろし始めた。


私が生まれたのは1960年、日本は高度経済成長にむけて加速度をつけ、町のいたる

ところで槌音が響いていた時期である。道路は次々と舗装され、流したばかりの熱いアス

ファルトに雨が降って白い湯気が立ちのぼるなかを学校に通った。家の周囲の土道がす

べて消えたのは、小学校4・5年のころだったと思う。水溜りに入り、ぬかるみに足跡をつ

け、ぺんぺん草をつついたりしてぶらぶら道草をすることもなくなったが、子どもの私はさ

して寂しいとは感じなかった。自分の住む町が、どんどん新しくなっていく。でこぼこの土道

を見つけると、早く舗装してくれればいいのに、と呟いていたことを思い出す。


あの時代、日本中の都市という都市は、地表をアスファルトで覆うことに躍起になっていた。

おそらくあのころを境に、子どもは大人のように前だけを見つめてまっすぐ歩くようになり、

誰もがしなやかな土の上に生息しているという事実を忘れるようになったのである。この本を

書き終えてみて初めて、自分が無意識に、土と再び出会うことを願っていたことに気がつい

た。



同じ著者による「インディアンの夢のあと」を参照されたし

「母なる大地の声 アメリカ・サウスウェスト プエブロ・インディアンの美術」
名古屋ボストン美術館 を参照されたし


 


目次

第一章 大地の作物

記憶の彼方から プロローグ

プエブロ

土を狩る

パンケーキのように

キッチン交響曲

朝焼けの火

精神と仕事


第二章 粘土の女

ホピ

デキストラ

粘土は生きている


第三章 生死を見とる器

砂漠の雨

シキヤキ

マイグレーション

アナサジ

アワトビ

ミンブレス

土器に始まり土器に終わる


第四章 漂流する器

ホワイト・マン

ストーリー・テラー

マリア

使えない器

コマーシャル・ウェイ


第五章 祈りの大地

緑の超太陽

ウラン旋風

グラッディ

手紙 エピローグ

あとがき

地図

参考文献








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