Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)
現代に生きるダコタ族の老インディアンの言葉
毎晩横になる度に、年寄りや子供たちの姿が目に浮かぶ。ここや、 サンド・クリークや、今は忘れられた何百もの村々にいる彼らの姿が な。わしもじきに彼らのもとに行くことになる。わしはどうして彼らが逃 げまどいながら殺されなければならなかったのかを知りたいんじゃ。 どうしてわしらの土地が切り刻まれてばらばらにされたのか、なぜそ の土地や子供たちや年寄りを守るために白人にたてつくことも許さ れなかったのか。創造主がどうしてこんなことを起こしたのか。わし は今までずっと知りたいと思い続けてきた。
だが、わしもあんたと同じく、一人の人間にすぎん。自分の命の終 わりまでは見通せるが、そこから先のことはわからん。自分の土地 の端までは歩けても、その先には行けん。地平線の向こうまでは見 えないんじゃ。創造主はそういう風にわしらを造られたからな。だが わしも年をとった。違った声が聞こえてくるようになったんじゃ。こう 言う声じゃ。「土地は、愛ではなく血によって贖われる。わしらの民 が死なねばならなかったのは、この大地に真実をはぐくむためだ」 とな。聞く耳を持たぬ白人の心に入り込むために、わしらは大地に 帰っていかねばならなかったんだろう。やがてわしらは戻ってきて、 丘や谷間をわしらの歌声で満たす。そうはならんと、誰が言える?
わしらの真実以上に偉大な真実があるのだろう。創造主は地平 線の向こうまで耳を澄まし、目を凝らしておられるからな。わしは 自分の民のために涙を流し、歌を歌わなければならない。彼らが 常にあがめられ、けして死ぬことがないように。だが、創造主の 考えを知ろうとしても無駄じゃ。いつの日かわかるときが来るかも しれないし、だめかもしれない。ことによると新しい真実があるの かもしれない。ラコタ族にとっての真実よりも、すべてのインディ アンの民の真実よりも、あんたたちがこの土地にもたらした真実 よりも、すべての真実を合わせた真実よりも、ずっと大きな真実 が。もしそうならば、それを一緒に見つけようではないか。
わたしはこう思う。 もう戦っている場合ではない。わしらは怒りを忘れなければなら ならない。わしが自分の怒りを葬り去ることができなければ、子 供たちがその仕事を引き受ける。それでもだめなら、そのまた子 供たち、そのまた子供たちが引き継ぐ。わしらは心の囚人じゃ。 わしらを開放してくれるのは時だけなんじゃ。あんたたちは傲慢 な態度を改めなければならない。この地球上にいるのは、白人 だけではないし、白人のやり方が唯一でもない。世界のあらゆ る場所で、人々はそれぞれのやり方で創造主をあがめ、家族を 愛してきた。あんたたちもそのことを尊重するべきなんじゃ。 物質的な力があるのは、あんたたちの強みじゃ。ほかの民には 与えられなかった強みを持っているということじゃ。それをほかと 分かち合うか、それともさらに力を手に入れるためだけに使うか? 自分たちの力を分かち合う・・・・・・・それがあんたたちに課せら れた課題じゃ。その力は強いが同時に危険なものでもあるんだ からな。
白人の失敗を思い起こさせるように、インディアンは影となって 立ちはだかる。あんたたちを正しい道にとどめておくのは、わし らの記憶じゃ。わしらが存在しなかったような、あんたたちがわ しらを破滅させたのではない振りをするのは、あんたたちのた めにはならん。ここはわしらの土地じゃ。わしらは常にここにい る。わしらの記憶をこれ以上取り除くことはできない。目の前に 手をかざしても太陽を隠すことができないようにな。創造主が わしらを破滅させて、あんたたちに命を与えたことは悲しくてな らない。だが、考えようによってはそれほど悪いことではない のかもしれん。なぜなら、あんたたちの宗教では、創造主が イエスをそういう目にあわせたと教えているのだからな。わしら が肉体的な死を受け入れることができたのは、精神力のおか げなのだろう。その力ゆえに、創造主はわしらだけが唯一あん たたちを救えるとお考えになったのかもしれん。つまらないこ とをくよくよ考えるあんたたちをな。
わしらこそ、神の真の息子、娘なのかもしれん。あんたたちが 救われるように、恐怖や欲の十字架の上で死ななければなら なかった神の子じゃ。そんなにおかしな理屈かね? わしはそ うは思わん。ワカン・タンカ、大いなる謎、創造主、あんたたち の言う神は、わしらが人のためにいつでも喜んで死ぬことをご 存じじゃ。それはわしらの最高の名誉なんじゃ。中でも最高の 名誉は、わしらの民がすべての人類のために死ぬことができ たことかもしれん。ワカン・タンカだけがそれをご存じなんじゃ。
「忘れられた道」ケント・ナーバーン著 児玉敦子訳 講談社より引用
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