
Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)
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ダコタ語で「足がなえた鹿」という名前を持つスー族の偉大な
一つとして同じものはなかった。地上にはきっかり同じかたちの葉は二つと ない。「大いなる精霊」はそのようであることがお好きなのである。地上の 生物は大まかには一つのデザインに従ってつくることがお好みであって、 そのおかげがあるから、生命のとおる道筋を辿ることができるのである。 この道筋を辿ることによって、生物はどこに行くのか、どういう目標をめざ すかを示すいっぽう、目標に至る経路のほうは自由に選べるようにしてあ る。生物たちがその本性に従い、その持ち前の衝動に従って行動するこ とを精霊は望んでおられる。
ワカン・タンカは、草木も鳥獣も、もっとも見栄えのしないネズミ、シラミの たぐいに至るまで、そうあるべきように望みたもうているとすれば、まして、 人間が、同じ仕事をし、同じ時間に起き、同じ型の既製服を着て、同じ地下 鉄で移動し、同じ時計に眼をやり、そしてこれが最低のことだが、一日中 おおむね同じことを考えていなければならないのだろうか。
すべての生物はその存在理由を持っている。一匹のアリでさえその存在 理由があって、アリはアリなりの仕方でそれを知っている。まあ、脳を使っ て知っているのではないかもしれないが。ただ人間だけがなぜ自分が存 在しているのかがわからなくなる地点まで達したのである。人間は、もは やその脳を自分の役に立てておらず、自分の身体の、感覚の、夢の内密 の知を忘れている。人間は、精神が人間の中に蓄えておいた知識を活用 しておらず、そのことを意識さえしていない。人間は目をつぶったままで、 どこにも行き着かない道を前進している。広い砕石道を、技師たちが機械 で砕いてさらに滑らかにして、人間を飲み込もうと無の穴が待っている、 そのはてに向かって進んでいる。
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