シモーヌ・ウェーユ著「愛と死のパンセ」野口啓祐・訳 南窓社

野口啓祐



シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)の言葉








「重力と恩寵」 「真空とそれを埋めるもの」 「真空を受け入れよ」 「超脱」

「空想は真空を埋める」 「時間を捨てよ」 「対象なしに望め」 「自我」

「被造性をみずから剥ぎ取れ」 「自我の抹殺」 「必然性に服従せよ」 「迷妄」

「偶像崇拝」 「愛ということについて」 「悪とはなにか」 「不幸と苦しみ」 「暴力」 

「十字架の意味するもの」 「必然と善の間にはいかなる距(へだた)りがあるか」

「偶然は教える」 「愛さねばならぬ者は不在だ」 「無神論はわれわれを浄化する」

「待ち望むこと みずから意志すること」 「訓練せよ」 「知性と恩寵」

 「読み取ることとは・・・」 「宇宙はなにを意味している」 「メタクシュ あるいは『橋』」 

「美」 「代数学」
 「集団の烙印」 「巨大な怪獣」 

「イスラエル・・・あるいは全体主義国家」  「社会の調和」 「労働の神秘」




同じ文献「重力と恩寵」田辺 保 訳 講談社文庫 を参照されたし



 

本書「愛と死のパンセ」より引用


シモーヌ・ウェーユの生涯 .pdf

シモーヌ・ウェーユの思想 pdf

マルティン・ブーバーのウェーユ批判 あとがき pdf



 



本書「愛と死のパンセ」より抜粋引用


重力と恩寵



魂にもともとそなわっている自然なはたらきは、物理的な重力と同じ法則によって支配される。それにたい

するただ一つの例外といえば、恩寵だけである。



ある行為の目標と、その行為を実現するために必要な力(エネルギー)の高さとはおのおの別ものである。

いま、なにかしなければならないとする。その力をどこに求めたらよいか。徳の高い行為も、それと同じ高

さにある力をともなわなければ、かえってそのひとを低めることがある。



わが身を低くすること。それは精神的重力から見れば、上昇することである。精神的重力はわれわれを高い

ところへ下降させてくれる。








「真空とそれを埋めるもの」




だれかがわれわれに苦しみをあたえ、それによってわれわれが低められたならば、われわれはそのひとを

赦すことができない。けれどもそうはいうものの、その苦しみがわれわれを低めるのではなく、実はわれわれ

の本当の姿をはっきり思いしらせてくれるのだ、と考えるべきであろう。



他人に苦しみをあたえること、それは、他人からなにかを受けとることである。なにを受けるのか。苦しみを

あたえたら、いったいなにを受けるというのか。(そして、あとになってそのひとになにをお返ししなければなら

ないのか。)われわれは他人に苦しみをあたえるとえらくなったような気がする。いわば、われわれは膨張する

のである。それは他人を傷つけ他人に真空状態をつくることによって自分の真空を生めてしまうからにほかな

らない。



国を滅ぼされ、奴隷として連れてゆかれたものたちには、過去も未来もない。そうなったとき、かれらのここ

ろを満たすものはなんであろうか。うそか、あるいはもっとも卑しく、もっとも浅ましい欲望以外にはない。かつ

ては祖国を守ろうと戦いに生命を賭けたものも、いまでは一羽の鶏を盗むためにさらし首の危険さえおかす

ようになる。それは間違いのないことなのだ。さもなければ、あんなに恐ろしい拷問の責め道具が必要だった

はずはない。もしもかれらがこんな浅ましい状態に落ちこみたくなかったら、かれらはそのかわりこころの中の

真空状態に耐えるべきだったのである。われわれが不幸なときでも、自分の不幸を静かに思うことができるよ

うになるには、超自然の糧(パン)を必要とする。







真空を受け入れよ



“むくい”を求めること。自分があたえただけのものを返してみらいたいと願うこと。だが、もしもわれわれが

その願いを無理矢理押さえつけると、まるで空気が全部吸い上げられてしまったあとのように真空状態が生

じる。そして、そこに超自然のむくいが不意にやってくる。ただし、われわれがほかの人から報酬を受けたな

らば、それはやってこない。超自然のむくいを生み出すのはこの真空状態だけである。

それは借金の帳消しと同じことが。(帳消しにしてやるのは他人がわれわれに及ぼした害ばかりではない。

われわれが他人にしてやった善も同じだ。)それらを全部帳消しにすれば、われわれはまた自分のうちに

真空状態を受け入れることができるようになる。

自分のうちに真空状態を受け入れるということは、超自然的なことである。無償の行為をするとすれば、その

力(エネルギー)をどこに求めたらよいだろう。そうした力はどこかそとからわれわれにあたえられなければ

ならない。しかし、そのためにはわれわれは根ごとむしりとられ、なにかわれわれにとって絶望的なことが生

じ、それによって真空状態がつくられる必要がある。真空。それは暗い夜のことだ。

賞賛と憐れみ(特にこれら二つが混ざり合うと)現実の力(エネルギー)が生じる。しかし、こんな力はなくて

すますようにしなければならない。

われわれは自然のむくいにせよ超自然のむくいにせよ、とにかくむくいのない瞬間を味わわなければなら

ない。







超脱



たとえどのように特別な目的があるにせよ、そんなことはさておいて、いつも望みを真空状態に置け。真空

状態を望め。なぜなら、真空状態こそ、われわれが心の中で思い描くことも、その本質を定めることもできな

い善なのだから。まことに、真空状態こそ、完全に充実したものよりさらに充実したものなのだ。

真空状態にまで達するならば、それでもう人間は救われるだろう。なぜなら、神がその真空状態を埋めてくれ

るからである。これは今日用いられている意味での知的作用とはなんおかかわりもない。知性はなに一つ

見出すことができないのだ。それはただ、いらないものを片づける役目を果すだけである。つまり、知性は

卑しい仕事をするのに適しているだけなのである。

善はわれわれにとって無にひとしい。なぜなら、善というものは存在しないから。しかし、善は無だといっても、

その無は実在しないという意味ではない。それどころか、あらゆる存在(有)もこの無にくらべたなら、それこ

そないにひとしいのである。







空想は真空を埋める



われわれのうちなる真空状態を埋めようとする空想作用を絶えず停止させておくことだ。ごくわずかな真空

状態でも受け入れているひとは、どんなにひどい運命に見舞われても、宇宙への愛を失うことがない。その

とき、たとえなにごとが起こっても、「宇宙は満たされている」とわれわれは確信するのである。







時間を捨てよ



自分を清める一つの方法は神に祈りを捧げることである。しかも、たんに人知れずこっそりと祈るだけで

なく、「神は存在しない」と思いながら祈ることである。死者をうやまえ。何事をなすにも、存在していないもの

のためにすることだ。他人の死によってもたらされる精神的苦痛は真空状態、あるいは均衡の喪失が生み

出す苦しみによるのである。ひとが死ぬと、それからというものは努力の目標もなく、従ってむくいもなくなって

しまう。この場合、もしも空想がこの真空状態を埋めようとしたら、それこそ堕落の始まりである。「死人を葬る

ことは、死人に任せておくがよい」(マタイ八の二二、ルカ九の六○)というが、自分の死とて同じことではない

か。目標もむくいも未来にある。だから未来を取り去ってしまうがよい。そうすれば真空状態が生じ、均衡は

失われる。「哲学することは死を学ぶこと」となるのもそのためである。またそれゆえに「祈ることは死ぬこと

に似ている」のである。







対象なしに望め



みずから真空を求めてはならない。なぜなら、もし真空を埋めるために超自然の聖餅(パン)にたよるなら、

それは神をこころみることになるからだ。だが、真空を避けてはいけないこと・・・これも確かである。



キリストは人間の悲惨をすべて味わいつくされた。体験されなかったのはただ罪だけである。しかし、人間

に罪をおかさせるもととなるすべてのことは味わわれた。人間に罪をおかさせるもの、・・・それは真空である。

つまり、すべての罪は真空を埋めようとするこころみなのである。だから、どんなに汚れに染まっていようと、

このわたしの生もキリストのまったく清浄な生に近い。いや、同じことは多くのもっと卑しい生命についてさえ

いえるのである。わたしがひどく堕落したとしても、キリストとの距離がそう遠くなったわけではない。ただ、

わたしが堕落すると、もはやこの事実がわからなくなるだけのことである。




聖ペトロの否み 彼がキリストに向かって「わたしはあなたにたいしてつまづくことはありません」(マタイ二六

の三三)、と誓ったとき、かれはすでにキリストを否んでいたのだ。なぜなら、かれはキリストにたいする忠実

のみなもとを神の恩寵に求めず、自分のうちにある力を求めていたからである。幸いなことに、ペトロはキリ

ストによって特に「選ばれたもの」(マタイ一六の一七)であったから、ペトロのこの否みはかれ自身ばかりで

なくすべての人々にとってあきらかなものとなったのだが(マタイ二六の五七、六九〜七五)他にどれだけ多く

の人々が、ペトロと同じように大きなことをいって、しかも、それに少しも気づかずにいることだろう。キリストに

信実をつくすことはむずかしいことだった。それは真空にたいして信実をつくすことだったからである。



他人に哀願するということは、価値についての自分の考え方をかれの頭に無理矢理入れこもうと望む絶望

的なこころみにすぎない。ところが、神に祈願するのは、これと正反対である。なぜなら、それは自分の魂の

なかに神の価値を受け入れようとするこころみだからである。それは自分が執着している価値を夢中になって

考えるのとは大違いで、まさにその逆、つまり自分の内心に真空状態を止めておくことなのである。







自我



この世でわれわれが持っているものはない。ほんのちょっとしたはずみで、われわれは無一物になってしまう

のだから。ただ、われわれにあるのは「わたし」といえる力だけである。そして、この力こそ、われわれが神に

捧げるべきものなのだ。われわれは「自我」をほろぼさなければならない。それ以外に許された自由な行為

などまったくなに一つない。「自我」をほろぼす行為のほかには・・・。



罪をあがなうための苦しみ。もしもひとが恩寵の助けによって自己の内部における「自我」を徹底的に滅ぼ

し、完徳の域に達していながら、それでいて外部からの「自我」の破壊に相当するような不幸におちいったと

したら、そのときこそ、このひとは十字架の苦しみを完全に味わうことができるだろう。不幸はもはやかれの

うちなる「自我」をほろぼすことができない。なぜなら、今やかれのなかの「自我」はまったく消滅して、そのか

わりに神が在(いま)したもうことになるからである。しかし、完徳の域においても、なお不幸は外部からの

「自我」の壊滅と同じように徹底的にこのひとの魂を破滅する。そして、その結果として神の不在をもたらす。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七の四六、マルコ一五の三四)。

こうして、極度の不幸が完徳の域にもたらした神の不在とはいったいなんであろうか。万人の罪をあがなう

ための苦しみとして知られているこの極度の不幸の価値は、いったいどこにあるのか。それは悪をできるだけ

完全にこの世にのさばらせるためだ。そして、その悪のもたらす苦しみをあがないの苦しみとするためだ。



罪をあがなうために苦しんだ今、神は極悪(十字架)のなかにも存在したもうようになった。なぜなら、この時

もたらされた神の不在とは、悪という姿をとって神が存在する、神のあり方に他ならないのだから。それは

われわれが感じ取ることのできる不在である。従って、自分のなかに神をもたないもの(神を完全に信じ切れ

ないもの)は、神の不在を感じることができない。神の不在は純粋な悪、完全な悪、充満した悪、そして深淵

そのもののごとき悪を意味する。これにくらべれば、地獄は偽の深淵にすぎない(ティボン)。地獄は薄っぺら

である。それは自惚れて、いかにも存在しているかのような錯覚をひとに起こさせるが、実は虚構にすぎない。



外部の力だけで「自我」がほろぼされるときの苦しみは、まさに地獄の苦しみである。この場合、愛の力に

よって、こうした外部からの「自我」の破壊にみずから成功するならば、その苦しみは自分の罪をつぐなうため

の苦しみと変るだろう。これにたいして、愛の力によって完全に「自我」を喪失した魂のうちに神の不在が生じ

るとき、その苦しみは他人の罪をつぐなうための苦しみとなるのだ。



完全な喜びは、喜びの感情さえ追い払ってしまうものだ。なぜなら、喜ばしい事柄でみたされた魂に「私」と

いう余地など少しも残ってはいないからである。このような喜びを知らないひとは、それを想像することができ

ない。だから、そうした喜びを求めようという気を起こさないのも当然である。







被造性をみずから剥ぎ取れ



創造は愛の業(わざ)、永遠に終りを知らぬもの。この一瞬一瞬に賭けるわれわれの存在は、まさにわれわ

れたいする神の愛の発露である。しかし、神は御みずからを愛することよりできない。われわれにたいする神

の愛は、神がわれわれを通して神御自身を愛することにすぎないのである。だから、われわれに存在をあた

えたもうた神は、「存在しないでもよい」というわれわれの決心を愛されるのだ。われわれの存在は、「存在し

ないでもよい」というわれわれの同意を神が待ち望むことによってのみ成り立っている。神は、われわれに

あたえたもうた存在を神にもどすよう絶えず願っておられる。神がわれわれに存在をあたえたもうたのは、

われわれにそれを返すよう乞い願われるためにほかならない。



放棄、神が創造に際してなされた放棄をまねること。神はある意味ですべてであることをやめられた。ゆえ

にわれわれもなにかであることを断念しなければならない。それがわれわれにできる唯一の善である。われ

われはいわば底なしの樽みたいなものだ。自分たちに底があると気づかないうちは・・・。



ひとが真に所有するものは、みずから捨て去ってしまったものだけである。われわれが捨てようとしないもの

は、かえってわれわれの手から離れてゆく。この意味からいえば、どんなものでも神を通じたものでなければ、

所有することができないのだ。



神は神性を捨てたもうた(ピリピ書三の七)。われわれも、もって生まれた偽(にせ)の神性を捨て去らねばなら

ない。ひとたび自分がなにものでもないということに気づけば、われわれのすべての努力の目標はひとえに無

になることとなろう。無になるためにこそ、ひとはすべてを諦めて、ただ苦しむのだ。そのためにこそ行為し、

そのためにこそ祈るのだ。わが神よ、わたしを無となしたまえ。わたしが無になるにつれて、神はわたしを通じ

て御みずからを愛したもうようになる。



肉体的な苦しみ(あるいは欠乏)は勇気ある人にとってしばしば忍耐と精神力をためす試練となる。しかし、

肉体的な苦しみをそれよりももっとよく生かして使う方法がある。少なくともわたしは肉体的な苦しみを、忍耐や

精神力をためす試練として用いたくない。あくまでそれを人間の悲惨の生々しい証(あかし)としたい。わたしは

どこまでも受身の姿勢でこの苦しみをしのんでゆきたい。たとえどんなことが起こっても、その不幸がひどすぎる

などと、どうしてわたしに思えるだろう。なぜなら、不幸がわたしに残した傷跡と、それによって当然起こる屈辱

とは、わたしに人間の真の悲惨を認識させてくれるからだ。そして、この認識こそすべての知恵への扉となるの

である。しかし、悦楽や幸福や繁栄も、もしもわれわれがそれらのうちに外部から(つまり偶然や環境によって)

もたらされたにすぎない要素を悉く認識できたなら、これもやはり人間の惨さの証となるにちがいない。われわ

れはそれらもまた、人間の悲惨の認識に役立てなければならない。同じことは、人間にはっきりと感じられる

現象である限りは恩寵についてさえいえるのである・・・。われわれは全体の秩序のうちで、自分を正しい位置

に置くために無にならなければならない。



もしもわれわれが過去からも未来からも自分を切り離して、現在というこの一瞬から自分を眺めることができ

たら、われわれは清浄であろう。なぜなら、その瞬間、われわれはあるがままの自分でしかありえないからだ。

あらゆる進歩は持続の別名にほかならない。こうして、われわれがありのままの自分であるということは、この

瞬間における世界の秩序に適っていることなのである。このように、われわれが一瞬を時の流れから切り離す

ことができれば、それによってわれわれは赦しをえることができる。同時に一瞬を時の流れから切り離せば、

そこに超越が生じる。



人間が一生のうちで、まったく裸で純粋な姿をさらけ出すのは、生まれるときと死ぬときの二度しかない。

人間が人間のかたちをとったままの神を賛美し、しかも神性を汚さないですむのは生まれたばかりのときと

臨終のときだけである。



死後の救いを望んでいるひとたちは、神のうちに現実に喜びがあることを信じないひとたちである。



霊魂の不滅を信じることは有害である。なぜなら、魂も真に形体のないものと考えることはわれわれにはでき

ないことだからである。霊魂の不滅を信じることは、実は生命が無限に続くと信じることにほかならない。だが、

そう信じると、死というものの意味がなくなってしまう。



ヨブ、悪魔は神に向かって「ヨブはあなたに何も求めないでただあなたを愛しているのだろか」と尋ねた(ヨブ

記一の九)。ここで問題になっているのは、愛がいかなる水準にあるかということだ。その愛は羊や麦畑やある

いは沢山の子供たちとくらべることのできる程度のものなのか。それとも、ずっと高い第三次元の奥深い背後

にあるものなのか。しかし、この愛がどんなに激しいものであっても、かならずくじける瞬間がやってくる。この

瞬間にわれわれは形を変えられ、有限の世界から無限の世界へと連れ去られてしまう。そして、そうなったと

き、神にたいする魂の愛は魂そのものの中において超越的なものとなる。換言すれば、この瞬間に魂は死ぬ

のである。こうした魂の死より前に肉体の死に見舞われてしまうひとは気の毒とより言いようがない。魂が愛に

満たされないうちに死ぬのは、良い死に方とはいえないからだ。では、なぜこのような死が必然的にだれかかれ

の区別なくひとを襲うのか。事実、それはそうでなければならないのだ。あらゆることがだれかかれの区別なく

起こらなければならないのが必然的なことなのだ。







自我の抹殺



神はわたしに存在をあたえてくれた。しかし、それはわたしが存在を神にお返しできるようにするためである。

それはたとえていうと、お伽噺とか恩師から秘法を授けてもらうときの苦心を物語った昔話とかに出てくる、ひと

をためすためのワナによく似ている。というのは、もしも、われわれがこの恵みをそのまま有難く頂戴してしまっ

たら生命がなくなるほど飛んでもないことになるからである。この恵みの有難味は、それをわたしがいただかな

いことによってかえってあらわれるのだ。神はわたしが神のそとに存在することを許してくれる。けれど、わたし

としてはこのお許しをご遠慮申し上げなければいけない。まことに、謙虚とは神のそとに存在することを遠慮す

ることである。それこそ徳の女王ともいうべきであろう。



私は眼をつぶって、机を鉛筆の先で探る。童謡にキリストにとってわれわれがその鉛筆の先のようにならなけ

ればならない。われわれは神と、われわれにまかされた創造の一部分との間の仲介者となることができる。神

がわれわれを通して御自分の創られたものに触れられるには、われわれの同意が必要なのである。われわれ

の同意があってはじめて、神はこの素晴らしい御業を成し遂げられるのだ。そこで、もしもわたしが自分の魂か

ら身を引く方法を知っていれば、それだけでわたしの目の前にある机は神の御目に触れるという無上の光栄に

浴することができるのである。神が愛したもうのは、われわれがこうして身を引いて神に道をあげようとする。

この同意にほかならない。ちょうど、神が創造主としてわれわれを存在させるために、御みずから身を引きた

もうたと同じように・・・。愛の意味はまさにこの二重の作用をさしていうのである。それはたとえば、父親が子供

に小づかい銭をやり、子供はそれで父親のために父親の誕生日にプレゼントを買ってあげるのと同じことなの

である。神は愛そのものである。だから愛のほかはなにも創らなかった。



わたしには、神がわたしを愛さなければならないという必然性があるとはどうしても思えない。人間関係におい

てさえ、他人がわたしにたいしていだく愛情がとんだ見当違いである場合を、わたしはしばしばはっきり感じさせ

られるぐらいなのだから・・・。しかし、神がすべての被造物を、わたしが今いる所から眺められることを望んで

おられるのは、想像に難くない。ところが、わたしは神の邪魔をしているのである。だから、神がすべての被造物

をわたしの立場から御覧になることができるようにわたしは身を引かなければならない。



わたしは身を引かなければならない。わたしの行く手に偶然置かれており、しかも、神が愛したもうもののため

に・・・。わたしがそんなところにいるのは気がきかないことなのだ。ちょうど恋人同士や、親友同士の間に割り

込んでいる人間みたいに・・・。わたしはいいなずけを待っている娘ではない。婚約した男女の間に割り込んで

いる邪魔な第三者。かれらが本当に二人きりになることができるように立ち去らなければならない人間なので

ある。ただわたしが消え去ることさえできれば、わたしが踏みしめるこの大地や、わたしの耳に潮騒の歌を歌っ

てくれるあの海と神の間には愛の完全な結合が生じるであろうに・・・。わたしにどんな力や才能があっても、

それがいったいなんの役にたつのだろう。いや、そんなものにうんざりしているからこそ、わたしはいつでも消え

去ろうとしているのだ。







必然性に服従せよ



服従は素晴らしい徳である。必然性を愛さなければいけない。だが、個人にたいする必然性(たとえば、

束縛、強要、あるいは「つらい宿命」)はもっとも低級なものである。これに反して、宇宙の普遍的必然性はわれ

われをそうした低級な必然性から解放してくれる力を持っている。



もしわたしの永遠の救いがなにかの物体のようにこの机の上にのっているものであり、ただ手をのばしさえ

すれば、それをとらえることができるとしても、そうしてよいという許しがないうちは、わたしは手出しをすまい。



われわれはすべての行為を、その目的の面からではなく、その行為の推進力となったものから考えなければ

いけない。つまり問題は「なんのためか」ではなく、「その行為はどこからきたか」ということである。「わたしは裸

だった。あなたがわたしに着物を着せてくれた」(マタイ二五の三六)。こお施しは、ただそういう風に行為したも

のの心境を示すしるしにすぎない。かれらは飢えているものには食物をあたえ、裸のものには着物をやらずに

はいられなかったのである。キリストのためにそうしたのではなく、キリストと同じような憐れみの情がかれらの

うちにあったから、そうせずにはいられなかったのである。聖ニコラウスの場合もそうだった。かれはカッシアヌ

スと連れ立って神のみもとにゆくためにロシアの荒野を行く途中、約束の時間に遅れても、泥の中にはまりこん

でしまった農夫の車を引き出すために手を貸さずにはいられなかったのである。このように、思わず知らずなす

善、約束の時間に遅れるのを申しわけなく思い、恥ずかしく感じながら、しかもおのずとなさずにはいられない

善こそ、純粋である。完全に純粋な善はすべて人間の意志とは相容れないものである。善は超越的なもので

あり、神は「善」そのものである。



「わたしは空腹であった。あなたがたはわたしを助けてくれた」、「主よ、それはいつのことだったのですか」

(マタイ二五の三六〜三九)。事実、かれらはいつ救ったのかわからなかった。いや、われわれはいつそのよう

な行為をしたか知ってはいけないのだ。



キリストのために隣人を救ってはいけない。キリストを通し、キリストの力によって隣人を救うのだ。「自我」が

消滅し、キリストがわれわれの霊と肉とを通じて隣人を救うようにならなければならない。われわれは、哀れな

人を助けよと主人に命ぜられた、奴隷のごとくあらねばならない。助けるのは主人であり、その助けは苦しんで

いる人々のためにあるのだ。キリストは父なる御神のために苦しみたもうたのではなく、御父の御心に従い、

人間のために苦しみたもうたのである。言いつかって人を救いにゆく奴隷を、あの男は主人のためにそうする

のだ、などと考えてはいけない。奴隷とはなすべきこと以外になにもしないものである。たとえ、かれが苦しんで

いるひとを救いに行くために、釘の上をはだしで歩かなければならないとしても、かれはそれで苦痛を感じたと

ころで、別に大したことをしているわけではない。なぜなら、かれは奴隷だからである。



一般的にいって、「神のために」というのは間違った言い方である。神を「与格」に置いてはいけない。われわれ

は神のために隣人のところへおもむいてはならない。神によって隣人の方へしゃにむに推し進められてゆかね

ばならない。ちょうど、射手の放った矢が的に向かって飛んでゆくように・・・。



人間と神との正しい関係は、観想においては愛となり、行動においては隷属となる。ただし両者を混同しては

ならない。愛をもって観想し、奴隷として行動すること・・・。







迷妄



実際におこなわれた行為でありながら、しかもそれが実は空想の所産にすぎないことがある。一人の男が

自殺をはかり、未遂に終ったとしよう。はたしてかれは自殺する以前より、ものを達観して眺められるように

なったろうか。いや、そうではない。かれは以前とまったく同じである。つまり、彼の自殺は空想にすぎなかった

のだ。おそらく自殺というものは、つねにたんなる空想に過ぎないのかもしれない。自殺が禁じられているのは

そのためである。



厳密にいうならば、時間は存在しないと考えるべきだろう(現在と呼ばれる瞬間の範囲は別として・・・)。にも

かかわらず、われわれはその時間に従わなければならない。これがわれわれの実状である。われわれは存在

しないものに従属している。その時間が、肉体の苦しみとか、ひとに待たされる、失望させられる、後悔させら

れる、あるいは恐ろしい目にあわされるとかいうような、受動的に耐えしのばなければならない時間であれ、

他人に命令を下したり、将来の方法をたてたり、ひとになにかを無理にやらせたりするような、自分の思いの

ままに動かしうる時間であれ、どちらにせよ、われわれが従属している時間が存在していないことには変わりが

ない。だが、われわれが時間に従属していること、それ自体は現実的である。つまり、われわれが現実に存在

していない鎖で縛られているということは現実の事柄なのである。時間という非現実的なものが、われわれを

ひっくるめてすべてのものを非現実のベールのうちにおおっているのだ。



謙遜の目的は、精神的進歩から空想的な部分を取り去ることにある。自分は実際よりずっと進歩がおくれて

いると見ても、別に不都合なことはなにもない。そのために光の力が弱まるようなことはない。なぜなら、光の

みなもとは人間の考えのうちにはないからである。ところが、それとは逆に、実際より自分を買いかぶることは

非常に危険である。というのも、そうすると人間の考えがものをいうようになるからである。



つねに時間との関係が問題になる。われわれは時間を所有しているというような幻影を捨て去ってしまわな

ければならない。(恩寵がいつでも下るこのできるよう)すっぱだかの(無の)人間になること。われわれはどう

しても自分で自分をすっぱだかにしなければならない。なぜなら、そうでないと空想に邪魔されて恩寵がわれ

われの肉体から離れ去ってしまうからだ。悪魔の贈りもの・・・それは空想である。



十字架の聖ヨハネに見られる神へのおそれ。それは、神を思うにふさわしくない人間が神を思うことの恐ろ

しさではないだろうか。神を人間と同じように考えて、神を汚しはしないかというおそれではないだろうか。こう

いうおそれを抱いたとき、はじめてわれわれのうちなる低級な部分は神から遠ざかる。



偏見を破ろうとする意志が、逆に偏見がしみこんでいる証拠となるのはなぜか。それはそういう意志が必然的

に一つの固定観念より発しているからである。偏見から脱しようとするこの意志がまったく空しい努力に終って

しまうのはこのためである。それにたいして有効なのは、みずから動かず気をくばって待つという注意力の光だ

けである。そしてこれは論争しようという意志とはまったく相容れないものなのである。



フロイトの金字塔はまったく偏見におちいっている。それは、「性に関するものはすべて卑しい」という偏見を破る

ことをもって自己の使命とするという偏見におかされているのである。人間の生涯の基礎である性のエネルギー

を含んだ欲望と愛の機能を神の方へと向ける神秘家と、その機能の自然的傾向を変えずにそのままにしてお

いて、しかもそれに空想の所産である目的をあたえ、この目的に神の名をかぶせようとこころみるにせの神秘

家との間には本質的な相違がある。この二つを区別することは非常にむずかしい。しかし、不可能というわけで

はない。それにしても、後のような神秘家は道楽者よりはるかにたちが悪い。



神と超自然は宇宙においては形もなく、人目からはかくされている。が、それらが魂のなかで名もなくかくれて

いるということは素晴らしいことである。そうでないと、人間は神と思いながら、その実、空想の産物を手にする

危険がないとも限らないからである。(キリストに食物や衣服をあたえた人達は、それがキリストであるとは知ら

なかった〔マタイ二六の三七〕。) キリスト教以前におけるさまざまな神秘の意味はここにある。キリスト教は

(カトリックもプロテスタントも)神聖な事柄をあまり口に出しすぎる。



われわれを神に導かないような学問は価値がない。だが、われわれを間違った方法で神に導く学問は・・・

つまり、空想上の所産である神にわれわれを導く学問は・・・それよりさらに悪質である。



(最高の聖者と天才は別として)人間においてまことしやかな印象をあたえるものは、ほとんど必ずといって

よいほど嘘であり、反対に、真実なものはかえって嘘という印象をあたえるといってよい。真実を表現するには

多くの努力が必要であり、真実を受け取る側にも努力が要る。これに反して、嘘を・・・あるいは少なくとも浅薄

皮相な事柄を・・・表現したり受け取ったりするには苦労が要らない。だが、真実が嘘と同じようにまことしやかな

ものに見えたら、それこそ聖性か天才の勝利なのである。聖フランシスコは安っぽい芝居がかった説教師の

ように聴衆を泣かせた。



わたしのおかした罪をすべて神の恵みだと考えること。それはわたしの心の奥深くに隠されていた本質的な

不完全さが、ある日、ある時、ある状況のもとで、一部分わたしの目の前にはっきり示されるという恵みなので

ある。わたしは、わたしの不完全さがすべて明らかにされて欲しいと切に祈り、かつ願う。わたしはそれを、人間

にあたえられている思考のまなざしでとらえることができる限り見たいのだ。それはわたしの不完全さを矯正す

るためではない。たとえそれをなおすことができなくても、それでもわたしは見たい。わたしが真理のなかにいら

れるように・・・。



善に近づこうとする努力をわれわれがしたがらないのは、肉体のせいである。しかし、肉体は努力することを

嫌うのではなく、善をすることを嫌うのである。そのかわり、肉体はそれをしても死を招くようなことがないとわか

りさえすれば、ある程度強い刺激をあたえられると悪いことならなんでも労をいちわずやってのける。死そのもの

でさえ、われわれがなにか悪いことのために死なねばならぬ場合には、魂の肉的な部分にとって真の死とは

ならない。魂の肉的な部分を死に至らせるのは、まことに神と向き合うときだけである。だから、われわれは

自分の内面に真空状態があることを嫌うのである。神がそこにすべり込んできてはたまらないからであす。



快楽を求めたり、努力を嫌ったりすることが、あながち罪の原因となるわけではない。神を怖れることが罪を

生むのである。われわれはまともに神と向き合ったら死んでしまうことを知っている。だが、われわれは死にたく

ない。そればかりでなく、われわれは、まともに神と向き合わないですむようわれわれをもっとも確実に守って

くれているのが罪だということも知っている。快楽や苦しみは、罪を冒すのにささやかながら欠かすことのでき

ない刺激をあたえ、とりわけなんとしても欠かすことのできない罪の口実をもたらし、アリバイ(つまり神の御前

にいないでよいという口実)をつくる。不当な戦争に口実が必要なように、罪をおかすにも偽の善が必要である。

なぜなら、われわれは自分が悪の方へ向かっていると考えることには耐えられないからである。神からわれわ

れを遠ざけるのは肉体ではない。肉体はわれわれが神から自分をかくすために用いるベールなのである。



しkしそうなるのは、一定のところまでいってからの話である。洞窟のたとえがそれをよく教えているように思わ

れる。まず、身体を洞窟の出口の方へ動かすと身体が痛み始める。やっとのことで、出口に達すると、今度は

光がわれわれを痛めつける。光は目をくらませるばかりではない。それを傷つける。両眼は光から逃れようと

努める。この瞬間から、人間は死に至る罪だけおかすようになる、というのは真実ではないだろうか。光から

身をかくすために肉体を利用する。それこそ死に至る罪ではないか。実に恐ろしい考えだ。らい病こそ望ましい。







偶像崇拝



偶像崇拝はなぜ生まれるか。絶対善を渇望しながら、しかも超自然についての落ち着いた観想もせず、また

そうした気持ちが湧き上がってくるのを待とうとする忍耐力も持ち合わせないからである。



思考は情熱や空想や疲労によって非常に変りやすい。ところが、行動は毎日、長時間にわたってつづけて

なさればならない。だから、行動の動機となるものは、思考とはかかわりのないものでなければならない。換言

すれば他のものとの関係から隔絶したものでなければならない。そこに偶像が生じる余地がある。







愛ということについて



神がわれわれを愛したもうから、われわれは神を愛さねばならないというのではなく、神がわれわれを愛した

もうから、われわれは自分を愛さなければならないのである。この動機がなかったなら、だれが自分を愛する

ことができようか。こうした廻り道を経なければ、人間は自分を愛することができないのである。



神への愛は、われわれが喜んでいるときも苦しんでいるときも同じように深い感謝の念をいだくとき、はじめて

純粋となる。



幸福なものが抱く愛とは、自分の愛するものが不幸におちいっている有様を見て、その苦しみを分かとうと

望む愛のことである。不幸なものが抱く愛とは、自分の愛するものが幸福であることを知っても心から喜べず、

愛するものの幸福に自分もあずかろうとしたり、またそう望むことさえいさぎよしとしないことである。



他人の存在をあるがままに信じるということ、それが愛である。



人間の精神はなにかの存在を信じるよう強制されていない、(たとえば、主観主義、絶対的観念論、唯我論、

懐疑論などを見よ。ところが、これに反して、ウパニシャッド、道教あるいはプラトンはそれぞれみな浄化のため

になにかしら存在を信じるような哲学的態度をとっている。) こうした人間精神の性質のゆえに存在と触れ合う

唯一の器官は受容となり、愛となり、さらに、美と実在とは一つになり、歓喜と実在感とは同じものになる。



自分の愛する人々に、芸術作品があたえてくれる以上の慰めを求めたり、また自分もかれらにそんなとてつ

もない慰めをあたえようとするのは、一種の卑怯というものである。芸術作品は存在しているという、ただそれ

だけの事実によってわれわれの力になるのだ。愛すること、あるいは愛されるということは、こうした存在をより

具体的に、より恒常的に心のなかに植えつけることなのである。しかし、この存在を思考の対象とするのでは

なく、かえって、この存在から思考が湧き出てくるようにしなければならない。他人から理解されたいと望むこと

に理由があるとすれば、それは実は自分のためではなく、他人のためなのである。その他人にとって自分が

実在するものとなるためである。



われわれのうちにひそむ卑しく凡庸なものはすべて、純粋性に歯向かい、また、みずから生き延びんがため

に純粋性を汚す。汚すということは変化させるということであり、触れるということである。美は人間が変化させ

ようと思うことのできないものだ。これに反して、なにかを自分の好きなように支配することは、汚すことである。

所有することも汚すことであr。純粋な愛を抱くということは距離を受け入れることであり、自分と自分が愛する

ものとの間の距離を喜ぶことである。



空想はいつも一つの欲望、すなわち一つの価値に結びついている。空想と結びついていないのは対象の

ない欲望だけである。空想というベールに蔽いかくされていないものだけに神が宿っているのだ。美はわれわれ

の欲望を取り押さえ、それから空想上の対象を取りのぞき、それに現実に存在する対象をあたえる。そして、

欲望が未来へつっ走ることを禁じる。純粋な愛の価値はここにある。快楽を求めるこころは、すべて未来という

幻想の世界そのものである。われわれがただひたすら愛するひとの存在を望み、そのひとが存在するもの

なら、それ以外になにを望むことがあるだろうか。そのとき、自分の愛するものは未来の空想に蔽いかくされる

ことなく、ありのままの姿でまぎれもなく実在するのである。けちんぼが自分の宝を眺めるとき、それはかなら

ず、かれの空想によってn乗された大きさで目にはいってくる。われわれが事物をありのままに見るには、死な

なければならないのだ。結局、愛の清純さは、その欲望が未来に向けられているか、いないかによって決まる

のである。この意味で、死者にたいしていだく愛は、もはやわれわれが未来をにせの永遠不滅にでっち上げ

ない限り、まったく純粋である。なぜなら、死者への愛は、もうあたらしいものはなに一つあたえることができ

なくなってしまった、完了した生命への愛だからである。われわれはいまはこの世に存在しないひとが存在して

くれたらなあと思う。そうすると、そのひとは存在したことになるのだ。







悪とはなにか



悪 それは放縦と等しい。だから、退屈なのだ。というのは、なにをしょうと、すべては自分のなかにあるもの

を引き出してくることになってしまうからだ。生憎人間にはみずから創造する力などあたえられていない。だから、

神を真似るへたな試みになってしまう。人間は創造が不可能であるということも認めもせず受け入れもしない。

これが、多くの誤りのもととなるのである。われわれは創造という行為を模倣するより仕方がないのだ。ところ

が、模倣には二つの種類がある。一つは本当の模倣、他は見せかけの模倣である。前者はものをあるがままに

保つという模倣の仕方、後者はこれを破壊してなにかをつくり出そうとする仕方。ものを保ってゆく模倣には「我」

の影はないが、破壊する模倣には「我」がひそんでいる。つまり、破壊によって「我」はこの世にその痕を残す

のだ。



もしだれかがわたしに悪をなしたとしても、わたしはその悪によって自分が堕落しないように望まなければなら

ない。それは(自分のためではなく)わたしに悪をなしたものを愛するがためである。かれがわたしにたいして

なした悪が本当の悪にならないようにするためなのである。



聖人(あるいは聖人に近いひとたち)はほかのひとよりもはるかに悪魔の誘惑に身をさらしている。なぜなら、

かれらは自分の惨めさを本当に知っているだけに、光をほとんど耐え難いように感じるからである。



「カラマーゾフの兄弟」のイワンの言葉。「たとえこの広大無辺の世界がどんなに素晴らしい数々の奇跡に満ち

ていようとも、それが一人の子供の、つぐなわれることのない一滴の涙にも価しないなら、わたしはそんな世界

はお断りする。」 わたしはこの考えにまったく同感である。この子供の涙をつぐなおうとしてどんな理屈を並べ

立てようとも、この子が涙を流した理由をわたしに納得させることはできない。人間の頭で理解できる理由は

絶対なに一つない。いや、ただ一つある。それは「神がそう望みたもうた」という理由だ。これは超自然的な愛に

よってはじめて理解できることなのであるが、この理由のためならば、わたしは子供の一滴の涙ばかりか、悪

以外のなにものでもないようなこの世さえ喜んで受け入れることにしよう。







不幸と苦しみ



苦しみ 人間は苦しむという点において神よりまさっている。神がひととなってこの世に降りたもうたのは、神

よりまさっているということが人間にとって躓きの石とならないためである。



わたしの苦しみがなにかの訳に立つからといって、苦しみを愛してはならない。わたしは、苦しみが実在する

から苦しみを苦しみとしてあるがままに愛さなければならない。



苦しみを避けようとしたり、あるいは、なるべく苦しみを軽くすませようとしてはならない。大事なのは、苦しみに

よってまどわされ、自分を貶(おと)しめないことだ。



キリスト教のもっとも偉大な点は、苦しみを癒す超自然の薬を求めず、かえって苦しみに超自然的な効用を

求めることにある。



知識のみなもととしての苦しみと楽しみ。蛇はアダムとエヴァに知恵をあたえたし、セイレーンはオデュッセイに

知識をあたえた。これらの物語は、魂が快楽に知識を求めるとおのれを失ってしまうことを教えている。これは

なぜだろうか・・・。恐らく快楽は、われわれがそこから知識を引き出そうとしない限り罪のないものにちがいない

のだが・・・。知識は苦しみの中にだけ求めなければならないものである。



人間のうちに宿る無限はほんの一枚の鉄片(剣)によってどうにでもなってしまうものだ。これが人間のおかれ

ている状況である。空間と時間がこの状況の原因をなしている。鉄片に手を触れさえすれば、かならず人間の

うちに宿る無限は突如として胸を裂くような痛みとともに剣の切っ先の一点か、さもなければ柄の一点に変えら

れてしまう。そして、一瞬のうちに〈自分の〉存在全体が音をたてて崩れてしまう。こうなってはもはや、神のはい

り来るところなどどこにもなくなってしまおう。キリストにおいてさえ、神についての考えは、「神がいなくなってし

まった」という形でしか残らなかったではないか。このどんづまりまでいって、はじめて受肉の秘儀は成就したの

だ。同じように、われわれもその存在のすみずみまで神を見失ってしまうことだ。そうなったら、その先どうやって

行くことができるだろう。それからさきは復活があるのみなのだ。われわれがこの境地に到達するには、どうして

もさやを離れたつめたい鋼(はがね)に身体を押しあててみなければならない。この鋼に触れたときには、自分

もキリストと同様、神から見離されたように感じるだろう。そう感じなければ、その神は別の神だ。多くの殉教者は

神から見捨てられたなどとは到底感じないままに死んでいったが、そのときかれらが生命を捧げた神は別の神

だったのだ。それぐらいなら、殉教しなかった方がましだったろうに・・・。殉教者たちが拷問や死に際して喜びを

見出すことができた神とは、ローマ帝国が国教と認め、やがてそれを信じないものを皆殺しにしたあの神と大し

た違いはないのである。



この世にはなんの価値もない、人生になんの意義もないなどといったり、その証拠にこの世は悪で満ちている

ではないかと説いたりすることは馬鹿げている。なぜなら、もしもこの世や人生になんの価値もないならば、悪は

それからなに一つ奪うことができない筈ではないか。だから、満ちあふれる喜びを理解することができればでき

るほど、不幸に宿る苦しみと、他人に寄せる同情の念はより純粋で強靭なものとなってゆく。苦しみは、喜びを

知らないものからなにを奪うことができるだろうか。



そして満ちあふれた喜びを理解すればするほど、飢えたときに食物が必要なように、苦しみには喜びが欠かせ

ないことを知るだろう。苦しみによって現実を知るためには、まず喜びを通して現実にたいし目を開いておくこと

が必要である。そうでなければ、人生というものは多かれすくなかれ悪夢でしかなくなってしまう。われわれは

なにもないからっぽの苦しみのうちに、かえってより充実した現実がひそんでいることをさとる境地にまで到達し

なければならない。同様に、死をもっとはげしく愛することができるようになるためには、まず生を深く愛さなけ

ればならない。







暴力



戦争の原因、それはどの人間も、またどの集団も、自分、もしくは自分たちだけが正等でかつ合法的な宇宙

の支配者であり、所有者であると思っているところから生じる。しかし、所有ということについてのこうした解釈は

間違っている。というのは、だれもがこの世に生を受けた人間に可能な範囲で、それぞれ自分の肉体を媒介と

して宇宙と結びついているという事実を知らないからである。アレキサンダー大王も一介の地主とこの点で変り

がないのは、ドン・ファンも幸福な結婚生活を送っている平凡な家庭の夫と変りがないのと同じである。







十字架の意味するもの



キリストは病むものを癒し、死せるものをよみがえらせた。こんなことはかれの使命の、いわば瑣末で、人間

的で、そして低級とさえいえる部分である。その超自然の部分は、かれが流した血の汗であり、人間の愛にたい

する潤おされることのなかった渇きであり、苦しみを免がれさせたまえとの祈りであり、そして神によって見捨て

られたという感じである。



「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」 この言葉にこそ、キリスト教が真に神的な

なにものかであることを示す正しい証が見出される。



アダムとエヴァは木と木の実という、生命のエネルギーに「神的なもの」を求めた。しかし、われわれのために

用意されている「神的なもの」は、真四角に切り込まれた、死んだ角材と、そこにつるされている一人の男の死体

だけである。われわれは、神とわれわれとの関係の秘密を、われわれが死すべき存在であるという事実に求め

なければならない。



神は、その御力を使い果たしてまでも、時空という無限に厚い壁を突き破って、われわれの魂に達し、それを

とらえようとなさる。そして、もしもわれわれの魂が、たとえ閃く稲妻のように一瞬たりとも神の求めに純粋な、ま

た完全な同意を与えるなら、とたんに神はその魂を征服してしまう。だが、魂が完全に神のものとなるや、神は

魂を見捨て、完全な孤独に取り残してしまう。そこで、今度は魂の方が自分の愛する御方を求めて、時空の無限

に厚い壁を手探りで踏み越えてゆかなければならなくなる。こうして、われわれの魂は、神が自分の魂の方へ

向かって来たと同じ旅を、反対の側から神の方に向かって始めるのだ。これがまさに十字架の意味なのである。



われわれは時間と空間という無限に厚い壁を突き破ってゆかなければならない。だが、最初にそれをしなけれ

ばならないのは神の方である。まずはじめに、神がわれわれのもとへ来られるのである。神と人間を結ぶものの

うちもっとも偉大なのは愛である。その愛は、越えなければならない神と人間との距りと同じように広大である。

愛ができるだけ大きくなるためには、神と人間の距離もまたできるだけ大きくなければならない。だからこそ、悪

はその極限にまで達することが許されているのである。それを一歩でも越したら、悪の可能性さえ消滅してしま

うような極限にまで・・・。悪はこの限界に達することができるばかりでなく、時としてこの限界を飛び越えてしまう

ように思われることさえある。これはある意味でライプニッツの考えとは正反対だが、こう考えた方が神の偉大

さをよりよく証することになるであろう。なぜなら、もしも(ライプニッツのいうように)神が能うる限り最上の世界を

お創りになったとするなら、神はあまり大したことのできないお方になってしまうだろうから・・・。



清浄であるということ、それは全宇宙の重みに耐えることであり、その重みを支えようとする自分の重みを捨て

去ることである。







必然と善の間にはいかなる距(へだた)りがあるか



限界があるのは、神がわれわれを愛している証拠である。



「世の終りは間近い」という考えは初期キリスト教徒の行動の基礎的観念になってしまった。この終末の信仰

こそ、「必然と善を距てている無限の距離をかれらの念頭から忘れ去られた」当の原因である。







偶然は教える



わたしが愛するもの、それは被造物である。かれらは偶然に生まれた。わたしとかれらとが出会ったのもやは

り一つの偶然である。かれらはやがて死ぬであろう。かれらの考えること、感じること、すること、それらはことご

とく限られたものであり、善悪の混ざり合ったものである。わたしは全身全霊を注ぎ込んでこの有限性を理解し、

理解することによって、ないいっそうかれらを愛さなければならない。わたしは、有限なものを有限なるがゆえに

無限に愛したもう神にならわなければならない。



満天の星と爛漫の花競う果樹。完全な恒久性とこの上ないはかなさとは同じように永遠の感じをわれわれに

いだかせる。



トロイアの崩壊 繚乱と咲き乱れる果樹の枝からつぎつぎに花びらが散り落ちる。もっとも貴いものは存在の

なかに根づいていないことを知ろう。・・・それにしてもそれは美しいことだ。なぜだろう。それは魂を時間のそと

へ投げ出してくれるから・・・。







愛さねばならぬ者は不在だ



自分の生命を神への信仰に投じるものは、信仰を失うこともあろう。しかし、自分の生命を神御自身に投じる

ものは、けっして自分の生命を失わない。われわれが絶対に触れることのできないもののなかに、自分の生命

を投ずること。それは不可能である。それは死を意味する。だが、求められているのは、まさにこのことなのだ。



もしも、わたしが背負っている苦しみは神がその御旨により、わたしに善かれと思っておのせになったものだ

などと考えるなら、わたしは自分のことをなにか価値あるものと思いこみ、その結果、苦しみの重要な効用を忘

れてしまうにちがいない。つまり、わたしはなんの価値もないものだということをわたしに教えてくれる苦しみの

効用を忘れてしまうことになるのだ。だから、神が苦しみを自分にだけ特別にあたえてくれたなどとけっして考え

てはいけない。むしろ苦しみを通して神への愛に達しなければならない。われわれは自分がなにものでもない、

という現実を愛さなければならない。仮に、自分がなにものかであったとしたら、なんと怖ろしいことであろう。だ

がわたしは自分の無を・・・この世のとばりの向こう側に部分で愛さなければならない。なぜなら、魂のううちでも

意識で感じられる部分は無を愛することができず、むしろ無に恐怖を感じるであろうから。また、もしこの部分が

無を愛しえたと思いこんだら・・・それこそ、それは実は他のものを愛しているにすぎないのである。



「神は罪なきものの苦しみを笑い見たもう」(ヨブ記九の二三)。神の沈黙。この世の騒ぎは神の沈黙に似てい

る。つまりこの世の騒ぎはなんの意味ももっていないのである。われわれが魂の奥底からなにか意味のある物

音を望み、なにか応答をえようとして叫ぶのに、答が一向にえられないとき、はじめてわれわれは神の沈黙に

触れるのである。大抵の場合、われわれは想像をはたらかして単語に勝手な意味を与え、それを口にして楽し

む。丁度われわれがのんびりと煙草の煙を輪にして眺めながら、そこにさまざまなものの形を思い浮かべて

たわむれるように・・・。ところが、われわれが疲れ果ててしまって、そんな遊びをする元気さえなくなったとき・・・

そのときこそ、本当の言葉が必要になるのだ。われわれはそれを手に入れようと叫び、その叫びはわれわれの

腸(はらわた)を引きちぎるほど悲痛なものとなる。しかし、それによってわれわれがえるものといえば、ただ沈黙

だけである。このような経験をすると、あるものは狂人のように独言をいうようになる。そうなってからは、かれら

がなにをしようとも、われわれはただかれらをいたわってだけやるがよい。しかし、他のものは少数ながら、この

沈黙に自分の心を捧げ尽くすに違いない。







無神論はわれわれを浄化する



現代のさまざまな過ちはすべて、超自然的なものを失ったキリスト教から生じてきている。その原因となった

もの、それは宗教の俗化であり・・・なによりもまず人間中心主義である。



ある男が自分の家族をみな拷問のために失い、自分もまた長い間捕虜収容所にいれられて虐殺されたと

しよう。あるいは、十六世紀のあるインディアンが、自分の同胞は皆殺しにされたのに、たった一人だけ生き

残ったとしよう。こういう人達は前には信じていた神の慈悲をもう信じなくなってしまうか、あるいは、以前とは

まったく異なった神の考え方をするようになる。わたしにはそういう経験がない。けれどもそういう経験を経た

人達がいるということを、はっきり知っている。それならば、わたしとかれらとはどこが違うというのか。どんな

場合に当っても決してゆるぐことのない考え方、神の慈悲についてはそんな考え方を持てるようわたしは、

努力しなければならない。運命がどう変ろうと、その考え方を少しも変えず、そしてどんな人にも話して聞かせ

るように努めなければいけない。



極度に張りつめた注意力、それは、人間の創造力のもととなる。そればかりでなく、そのような注意力はかな

らず宗教的になる。だから、ある時代の創造力の大きさは、まさにその時代がどれほど注意力を張りつめてい

たかに比例し、従ってまたその時代の宗教がどれほど純粋であったかによってきまる。



われわれは善にも悪にもこころを動かさずにいなければならない。心を動かさないでいると、つまり、これら

二つのものに等しく注意の光をあてていると、善の方がひとりでに勝をおさめる。放っておいてもかならずそう

なるのである。そこにこそ、恩寵がはたらいているのだ。善とはまさにそのようなものであり、また逆にいえば、

そのようになるものこそ善なのである。もしもわれわれが拒んだり、注意をそらしたりさえしなければ、神の霊

感は、どんなことをしようと間違いなくわれわれを訪ねてくれる。それ以外に自分でこの恵みを選び取ることな

どできはしない。ただ、神の霊感が存在することを拒みさえしなけらば、それで十分なのである。



物の数(表象)などを理解する方法、それらを自分で解釈しようとしてはならない。それらが自然に光を放ち

はじめるまでじっとみつめることだ。一般的にいうと、知性をはたらかせる方法は、まず、ものをじっと見つめる

訓練にある。この方法は、実在するものと空想の産物とを区別する際にははなはだ有効である。感覚の世界

では、もし自分の見ているものに確信が持てないときには、自分の空間的な位置を変えてなお対象をじっと

みつめていると、そこに現実があらわれてくる。ところが、こころのなかの世界では、時間が空間のかわりを

することになる。つまり、時々刻々移り変わるにつれて、われわれのこころのなかには変化が生じるが、それに

まどわされることなくわれわれがずっと一つのものを凝視しつづけるなら、ついには錯覚は雲散霧消し、やがて

現実が顔を覗かせることになろう。ただし、その現実を見るこころの目はあくまでも虚心坦懐でなければならな

い。そのこころの目に執着という曇りがかかってはならないのである。







待ち望むこと みずから意志すること



極度に張りつめた注意力、それは、人間の創造力のもととなる。そればかりでなく、そのような注意力はかな

らず宗教的になる。だから、ある時代の創造力の大きさは、まさにその時代がどれほど注意力を張りつめてい

たかに比例し、従ってまたその時代の宗教がどれほど純粋であったかによってきまる。



われわれは善にも悪にもこころを動かさずにいなければならない。心を動かさないでいると、つまり、これら

二つのものに等しく注意の光をあてていると、善の方がひとりでに勝をおさめる。放っておいてもかならずそう

なるのである。そこにこそ、恩寵がはたらいているのだ。善とはまさにそのようになるものであり、また逆にいえ

ば、そのようになるものこそ善なのである。もしもわれわれが拒んだり、注意をそらしたりさえしなければ、神の

霊感は、どんなことをしようと間違いなくわれわれを訪れてくれる。それ以外に自分でこの恵みを選び取ること

などできはしない。ただ、神の霊感が存在することを拒みさえしなければ、それで十分なのである。



物の姿(表象)や象徴(シンボル)などを理解する方法。それらを自分で解釈しようとしてはならない。それらが

自然に光を放ちはじめるまでじっとみつめることだ。一般的にいうと、知性をはたらかせる方法は、まず、ものを

じっと見つめる訓練にある。この方法は、実在するものと空想の産物とを区別する際にはなはだ有効である。

感覚の世界では、もし自分の見ているものに確信が持てないときには、自分の空間的な位置を変えてなお対象

をじっとみつめていると、そこに現実があらわれてくる。ところが、こころのなかの世界では、時間が空間のかわ

りをすることになる。つまり、時々刻々移り変わるにつれて、われわれのこころのなかには変化が生じるが、それ

にまどわされることなくわれわれがずっと一つのものを凝視しつづけるなら、ついには錯覚は雲散霧消し、やが

て現実が顔を覗かせることになろう。ただし、その現実を見るこころの目はあくまでも虚心坦懐でなければなら

ない。そのこころの目に執着という曇がかかってはならないのである。



純粋さとは穢(けが)れをじっとみつめる力のことをいう。







訓練せよ



「山よ、岩よ、なんじらわれらの上に落ちて、子羊(キリスト)の御怒りを避けしめよ」(ヨハネ黙示録六の一六)。

いまこの瞬間、わたしはこの怒りを受けるにふさわしい。十字架の聖ヨハネがいうように、なし易くて、ささやかな

義務さえ果すのを怠れとさそいかけるような魂のささやきはすべて、悪から生じるということをわたしは忘れては

ならない。義務は自我を殺すためにわれわれにあたえられたものだ。それなのに、わたしはこんなに貴重な道具

を錆びるにまかせている。自分の外に拡がる世界の現実性を信じるためには、この義務を、命じられたときに

果さなければならない。



時間の実在性を信じなければならない。さもなければ、われわれは夢を見ていることになる。わたしが自分の

この欠点に気づき、その重大さを知ってから、もう何年にもなる。それなのに、その間ずっと、この欠点を追い

出そうともしなかったどんな弁解の余地があるというのだ。その欠点は大きく育って、わたしが生きている間には

改めることができなくなってしまっても、そのためにわたしが完徳に達することができないとしても、わたしはその

状態をあるがままに、愛をもって受け入れよう。わたしにそういう欠点があり、それが悪であり、また同時にそれ

にも限りがあり終りがある、ということを自分で本当に知っていさえすれば、それで充分である。しかしこれら三つ

の事例のうちどれか一つを、あるいは三つとも一緒に真底気づくなら、どうしてもこの欠点をなくそうとし始め、

また、なくす方向に向かって休みなく努力をつづけてゆくことになるであろう。もし、そうならないようなら、わたし

はいまこうしてこのように書いてはいても、実際にはその欠点に気づいていない証拠なのだ。



わたしの身体のなかには、こうした欠点を改めるに必要なだけのエネルギーが宿っている。なぜなら、わたしは

そのエネルギーのおかげで生きていられるのだから。だが、(この欠点を改めるために)無理にでもその宿って

いるエネルギーを自分のなかから引き出さなければならない。たとえ、そのためにわたしが死んだとしても・・・。



純粋な霊の世界においては、善はかならず善を生み、悪はかならず悪を生ずる。しかし、これとは反対に、

自然の世界では(心理の世界を含めて)善は悪を生み、悪は善を生ずる。われわれが霊の世界に至るまで

けっして平安を得ることができないのは、まさにこのためである。霊の世界・・・そこでは、われわれの力では

なに一つ生みだすことができず、ただ、すべてが自分以外のところからやってくるのをひたすら待ち望まなけ

ばならない。







知性と恩寵



信仰 それは愛の光によって知性が照らし出されるのを体験することである。ただ、知性は証明と検証という

知性独自の方法によって、愛の素晴らしさを認識しなければならない。わけもなく、知性が愛に盲従するのは

まちがいである。そのためには、知性はまず自分が愛に従う理由を証明しなければならない。しかも、一分の

誤りもないように、しっかりと、そしてはっきりと・・・。もしも知性がそれを怠ったら、愛への服従は誤りとなろう。

知性が服従を誓ったものは、超自然の愛とはまったく別物になるであろう。たとえば集団社会の影響力のよう

なものに。



知性の世界では、注意を怠らず待ち望むことができるということこそ、謙譲の美徳に当るのである。



バッハやグレゴリオ聖歌の旋律を聞いているとき、わたしの魂のすべてのはたらきは、それぞれの仕方で、

このなんともいえず美しい音楽を理解するために緊張し、そして沈黙する。その魂のはたらきのなかでも、知性

のはたらきは特に素晴らしい。知性は自分が耳を傾けている美しい音楽の是非を問うことを一切止めて、ただ

ひたすらそれを受け取り、自らを豊かにしようとする。信仰はこのような無心の服従であるべきではないだろう

か。信仰の神秘を諾否の対象にすることは、神秘そのものをその座から引きずりおろしてしまうことになる。

神秘は無心の観想の対象でしかない。



まことの愛において知性がすぐれたはたらきをすることができるのは、知性が知性本来の役割を果たしてし

まおうとみずから消え去ってしまうという、その持前の性質によるのだ。私は真理を発見しようと努力するはで

きる。しかし、いったん真理が発見されると、そこに厳として存在するのは真理だけであって、わたしなど、もう

どうでもよいものになってしまうのだ。この意味で、知性ほど真の謙譲に近いものはあるまい。知性を真にはた

らかせている最中に、その知性を誇るなどということは考えられないことである。しかも、そうやって知性をはた

らかせているとき、われわれは知性にいささかの執着も残していない。なぜなら、たとえ一瞬の後に阿呆になり

果て、そのまま一生を過ごすとしても、そのほんの一瞬前に真理を獲得していたなら、その真理がいつまでたっ

ても真理に変わりないことを自分は承知しているからである。



カトリックの信仰の秘儀は、魂のすべての部分によって信じられるようなものではない。ホスチアのなかに

キリストがおいでになるのと、パウロの魂がパウロの肉体に宿っているのとでは、その在り方が全然違う。(どち

らの在り方も完全には理解し難いことではあるが、しかし、その理解し難さもそれぞれに違っているのである)。

だから、聖体の秘跡は、私の魂のうちでも事実の理解を専門とする部分が信じるものではない。この点では

プロテスタントの精神は正しい。しかし、ホスチアのなかにキリストが現存するというのは、けっしてたんなる象徴

ではない。なぜなら、象徴とは抽象と形象の結びつきにすぎず、われわれの知性によって理解されうるもので

あって超自然的なものではないからである。この点についてはプロテスタントよりもカトリックの方に理があると

いえる。だから、われわれがこれらの秘儀をこころから受け入れるには、魂のなかでもただ超自然的なものに

向かう部分をもってしなければならない。



知性の役割(つまり魂のなかでも是非を問うたり、意見を出したりする部分の役割)は、ただ服従することだけ

にある。わたしが「真実として理解するもの」は、実はわたしが「真実として把えることができないながらも、ただ

ひたすらに愛しつづけているもの」よりずっと真実味にとぼしいものなのである。十字架の聖ヨハネは信仰を夜

にたとえた。キリスト教の教育を受けた人々のなかには、魂のより低い部分でもって、それには不釣合いな秘儀

を把えようとするものがいる。だからこそ、かれらは、十字架の聖ヨハネが描いているようなさまざまな段階の

浄化を受けなければならないのである。浄化といえば、無神論や無信仰もこのような手合いにとって、これと

同じような浄化のはたらきをする。



われわれが目指す対象は超自然の世界であってはならない。あくまでもこの世でなければならない。超自然

というものは、いわば光そのものである。光を対象とするとわれわれはそれを低下させることになる。



デカルトのいう合理性・・・つまり人間によって証明することの出来る機械的法則とか必然性・・・は、それを

考えつくことができるところではどこでも考えてみなければならない。そうすることによってはじめて、合理的な

考えでは及ばないものをあかるみに引き出すことができるのである。理性をはたらかすと、事物はわれわれの

こころにとって透明なものになる。しかし、透明なものを見ることはできない。われわれは透明なものを通して

不透明なものを見るのだ。その不透明なものは、透明であるべき筈のものが不透明であったとき、その不透明

ななかにかくされていたのである。われわれの目にはガラスを一面におおったほこりが見えるか、ガラスの向こ

うに拡がる景色が見えるかのどちらかである。しかし、ガラスそのものを見ることはできない。もしもほこりを拭き

とるなら、ほこりに代わって景色が見えるようになるであろう。理性はただ真の神秘、あるいは本当に証明不可

能なもの・・・つまり真の実在者・・・にわれわれを導いてくれるよう用いればそれでよいのだ。われわれが理解

できるのに理解しないで放っておくものがあると、そのなかに理性では本当に理解できないものまでかくされて

しまう。だから、そのようにして放っておかれてあるものは全部なくしてしまわなければならない。



現代の科学は科学を超えたものから霊感を求めるか、さもなければ滅んでしまうかのどちらかであろう。科学

が人類にもたらす効用は三つある。第一に技術の応用、第二にチェスの勝負、そして第三に神への道である。

(チェスの勝負は試合と賞品とメダルとでいっそう面白くなる)。



ピュタゴラス 幾何学を神秘的な学問と考えたからこそ、この学問を始めるのに必要なほどにゆたかな注意力

も生じえたのである。ほかにもそういった例がないわけではない。天文学が占星術から、そして科学が錬金術か

ら生まれたのは周知のことではないか。われわれはこの派生というつながりを進歩と解釈しているが、実はそれ

とは反対に、あたらしい学問では注意力がそのゆたかさを失いかけている。超越的なものを研究の対象とした

占星術や錬金術は、天体あるいは諸物質の結合が示す象徴のうちに、永遠の真理を読み取ろうとした。これに

反して、天文学にしても科学にしても、占星術や錬金術の堕落した形にすぎないし、占星術も錬金術も一つの

魔術となったとき、それは天文学や科学よりもさらに堕落したものとなるのだ。注意力がそのもっとも充満した

形で現われるのは、宗教的な領域のほかにはない。



ガリレオ 近代科学はその原理を無限な直線運動ととり、もはや円環運動とはとらなくなった。近代科学が、

われわれを神へと導く「橋」になれなくなったのは、そのためである。



カトリックの信仰を哲学の力で整理するという仕事をしたものはかつてない。それをするには、内に身を置くと

同時に外に立つということがどうしても必要なのだ。







読み取ることとは・・・



他人 各々の人間を(自分の姿の投影だと思い)、中に囚人がつながれている一つの牢獄と見ることだ。そし

て、この牢獄は全宇宙のふところにすっぽりと包まれている。



権力者を父とする姫から奴隷の身に堕ち、わずかに弟に一縷の望みをかけたエレクトラ。その彼女がある

若者に出会い、弟の死を知らされる。しかし、悲嘆のどん底にうち沈んだとき、この若者こそ自分の弟だという

ことが知れる。「マリアはそのひとを園の番人だと思って・・・」(マルコ一六の九、ヨハネ二○の一五)。見知らぬ

もののなかに兄弟を見出し、宇宙に神を見出すこと、それが大切だ。



正義 自分の目の前にいる(あるいはいま自分が考えている)他人は自分が「読み取っているもの」とまったく

違ったものだ、ということをつねに認める心構えがなければならない。というよりは、かれは自分が「読み取って

いるもの」とは確かに異なっている。いやいやことによったら完全に別物だ、ということを「読み取らなければ」

ならない。どんなものも別の読み取り方をされたいと無言の叫びをあげているのだ。



われわれは他人を読み取ると同時に、他人からも読み取られている。このお互いの読み取りあいを妨げるも

の、それは一つに、自分が読み取っているあるひとの姿を、そのひと自身にも読み取らせようと強いることだ

(相手に奴隷だと認めさせること)。あるいはまた、自分が読み取っている自分の姿を他人にも読み取らせようと

強いることだ(相手を征服ししまうこと)。いかにも機械のような仕掛けだ。そうなれば大抵の場合、それはつんぼ

同士の対話に終る。



読み取ること それは・・・ある種の注意力を伴っていない限り・・・重力に従わざるをえない。われわれはなに

かを読み取るとき、重力に示された通りの読み取り方をするものだ。(あれこれの人や出来事に対する幾通りも

の判断のなかで、自分の情念や社会的な通念がはたらいて、より重くなった方を読み取っているいるわけであ

る。) これにたいして、注意力がより高尚な性質を帯びれば、われわれは重力そのものを読み取ることもでき

る。さらにまた、その重力に対しほかにも様々な平衡のとり方が可能であることも読み取ることができる。



「人を裁くな」(マタイ七の一)。キリストはけっしてひとを裁かなかった。かれは「裁く」ということの本質を示して

いる。身は清浄にして、しかも苦しむ・・・これこそ「裁き」の本質を測るものさしなのだ。裁くということ・・・それは

絵画でいえば透視画法と同じだ。その意味では、どんな裁きも、裁き手自身を裁くことになる。裁いてはいけな

い。ということは無関心になれということでもなければ、裁くのを避けよということでもない。裁かないことこそ超

自然の裁きであり、われわれには不可能な神の裁きに倣うことになるのである。







宇宙はなにを意味している



自分と同じように隣人を愛しなさいということは、万人を平等に愛しなさいという意味ではない。なぜなら、わた

しは自分自身の一日中の生活状態を平等に愛しているわけではないからだ。(気持ちのよいときもあれば悪い

ときもある。自分の生活が気に入っているときもあれば、そうでないときもある。)同じようにまた、どんな場合で

も他人を苦しめてはいけないということでもない。なぜなら、わたし自身、自分を苦しめることを拒む積りはない

からである。ただ、他人と自分との関係は、たとえていえばある姿をとった宇宙と別の姿をとった宇宙との交わり

合いといったように見做すべきであって、宇宙の単なる一部分との関係のように見做すべきではない。



完全な喜びは永遠に神のものなのだ。それなら、わたしに少しの喜びさえあたえられていないとしても、それ

がなんだろう。美、知性、その他のあらゆるものについても同じことがいえる。



自分の救いを望むのは間違っている。といっても、救いを望むことが利己的だからというわけではない。(なぜ

なら、エゴイストになることは人間には不可能なことだから。) そうではなく自分の救いを望むと、魂はただ個的

で偶然にすぎない可能性を求めるあまり、全存在に向かうこと、無条件にそこに在る絶対善に向かうことを忘れ

るからである。



牛乳は牝牛の乳房からしかしぼれない。けれども、牛乳を生みだすのは牝牛の全身である。同様に、神聖に

して清浄なものを生みだすのもこの世の中そのものなのである。







メタクシュ あるいは「橋」 ※メタクシュ、ギリシャ語で「中間的な存在」の意味



すべて創造されたものは、わたしの目的となることを拒んでいる。これは神がわたしにあたえてくれたもっとも

大いなる恵みである。そして、同時にこれこそ、悪の本質をなすものである。悪とは神の恵みがこの世において

おった姿にほかならない。



被造物の本質は、ものとものとの仲介になることである。それらは一つのものから他のものへと順繰りに仲介

し合っていって、どこまでいっても終りがない。しかし、それらがわれわれを神に導いてくれるなかだちであること

は確かである。われわれは被造物をそういったものとしてとらえなければならない。



欲望は悪であり、まぼろしである。それでいて、もしも欲望がなければ、我々は真に絶対的なものも、真に無限

なものも追い求めようとはしないだろう。だから、どうしても一度は欲望を通過しなければならない。ところで、こ

の欲望の源である余分のエネルギーを、疲労によってすべて使い果たしてしまった人々は不幸である。その

反対に、また、欲望のために盲いた人々も不幸といえよう。我々は欲望をこれら両極の中軸に固定させておか

ねばならない。











美とは必然性が他のものに従うことなく、それ自身の法則をまっとうし、しかもそれがそのまま善に従うことに

通じているといった場合にとる必然性の姿である。



学問の対象は人間の感覚を越えた必然性の美である。秩序、均衡、調和がこれである。これにたいして、

芸術の対象は感覚的で偶発的で、悪と偶然のあみ目を通してとらえられた美といえよう。



一個の芸術作品には作者がある。しかし、その作品が完全なものであるなら、そこにはなにか本質的に作者

の名をかくしてしまう非個人的なものがあるはずである。それは神の御業の表立たぬ、かくれた性質に倣ってい

るのだ。同様に、この世の美は、神が人格的であると同時に非人格的であり、そのどちらか一方ではけっして

ありえないというそのあり方を示しているのである。



美は、われわれを惹きつけながら、しかも近づけようとはせず、どうしても近づくことを諦めさせてしまう官能的

な力を有している。それは、われわれのこころのもっとも内奥にひそむ想像力にさえ近づくことを諦めさせる力を

持っているのだ。われわれは欲望の対象となるものなら、なんでも食べたいと思う。が、美だけは例外だ。美は

われわれがただ追い求めるものであって、食べてしまおうという気にはならない。つまり、われわれは美にたい

しては、ただそれがあることだけを望むのである。



美が物質のなかにまことに宿りたもうた神の証であり、この美との触れ合いが、その言葉の完全な意味で

まさに秘跡そのものだというのに、どうしてこんなにも多くのひねくれた耽美主義者がいるのだろうか。ネロ そ

れは、悪魔を称えるために「黒ミサ」に出掛ける連中がホスチアを渇望するのに似てはいないだろうか。さらに

また考えられることは、こういった耽美主義者が多いのは、かれらが本当の美にこころを奪われているのでは

なく、実は偽りの美にとりつかれているからではないだろうか、ということである。神の芸術があると同じように、

悪魔の芸術もある筈だ。ネロが愛したのは疑いもなくこの悪魔の芸術だったのだ。そして、現代の芸術の大部

分もまた悪魔の芸術なのである。音楽気狂いが耽美的なひねくれものになる危険性は多分にある。しかし、

グレゴリオ聖歌をこころからあこがれるものが耽美家になるとは信じられない。



われわれは自分のおかした罪によってわれとわが身を呪われた存在にしてしまったに相違ない。なぜなら、

われわれは宇宙が高らかに歌い上げる詩をことごとく失ってしまったのだから。



今日の芸術にはほんのわずかの将来性もない。なぜなら、芸術というものは、もともとすべて共同的なものな

のに、いまでは共同生活などありえないものとなってしまったからである(いまあるのは、ただ生命の通っていな

い人間の集団だけである)。そればかりではない。もう一つの理由は、人間の霊と肉の完全なむすびつきがぷっ

つりと跡切れてしまったことによる。ギリシャの芸術は幾何学の成立と運動競技の隆盛と時を同じうして生まれ、

中世の芸術は手工業ギルドの勃興と共に生じた。さらに、ルネッサンスの芸術は技術の誕生と機を同じくして

生まれでた・・・。だが、第一次世界大戦が始まった1914年以来、今日まで、芸術はそれらの伝統から完全に断

ち切られている。今日では、喜劇さえほとんど不可能だ。そこには皮肉やあてこすりがはいる余地しかなくなって

いるのだ。(ユウェナリウスのいっていることが今日ほど理解できる時代がいままでにあったであろうか。) こう

なっては、芸術は大きな混沌状態から生まれ変ってくるよりほかないだろう。それはかならず叙情詩になるに

違いない。なぜなら、あたらしい芸術が生まれるまでに、苦しみは多くのことを単純化してくれるだろうから・・・。

だから、なにもダ・ヴィンチやバッハを羨むことはない。われわれの時代の偉大さは、かれらとはまた別の道を

とらなければならないのだ。その道は孤独で、暗く、その上、叫んでもこだまの返ってこないものであろう・・・。

(しかし、こだまの返ってこないところに芸術はないのだが・・・)。







代数学



現代の特色のうちでも特に忘れられてならないことは、われわれの努力と、その努力の結果との間の関係を

具体的に考えることができなくなっているということである。それは、今日では両者の中間に立つものが余りにも

多すぎるからである。しかも、努力とその結果の関係は、他の場合と同じように、けっして人間の思考には存在

せず、まさに「金」というただ一つのもののうちにのみ存在するようになってしまっている。



集団社会の人々の思考は思考としては存在しえないから、それは必然的に記号とか機械とかいうもののなか

にはいりこむ。そこで生じたのが「思考するのはものであり、ものとなったのは人間だ」という逆説である。



現代文明の悪弊をえぐり出し、それを批判するということは、いったいどうすることなのか。それはわれわれ

人間を、自分の手で作った機械の奴隷にと落ち込ませる罠がなんであったか正確に捉えることだ。それにして

も、いったいどうやって方法的な思惟や行為に無意識がもぐりこんできたのだろう。この問題の解決策だといっ

て、原初的な生活に逃避するのは怠けもののやることだ。われわれがいまその一部分を担いつつ生きている

現代文明の真っ只中で、人間精神と世界の本質的な結ぶつきを発見し直すこと・・・これこそなさねばならない

ことなのである。だが、われわれの生命は短かく、また各自が協力し合うことも、仕事を受け継いでゆくことも、

どちらもできない今日の現状からいって、これは到底われわれの力の及ぶところではない。けれど、だからと

いって、この仕事を引き受けないでいいということにはならない。われわれは一人残らず、牢獄につながれて

死を待ちながら竪琴の弾き方を習いはじめたソクラテスと同じ立場におかれているのだ・・・。ソクラテスになら

えば、少なくとも死が来るまでは精一杯生きたことになるだろう・・・。



資本主義は集団という形で自然から人間を解放した。しかし今度はこの集団が個人に対して、以前に自然が

果していたと同じ抑圧的な役割をするようになっている。同じことは物質についてもいえる。火や水など、すべて

自然の力は集団の手に握られてしまった。そこで問題が生ずる。それはつまり、集団が勝ちとったこの解放を

今度は個人の手に渡すことができるかどうか、ということである。







集団の烙印



行為とその結果、努力とその成果との間に、自分とは無関係な意志の力が介在している限り、われわれは

奴隷である。今日、このことは従属するものにとってばかりでなく、支配するものにとっても同じようにあてはま

る。われわれには、自分自身の行動の条件と自分とが直接まともに向かい合うということなど、夢にも考えられ

なくなってしまった。なぜなら、集団社会が自然とわれわれの間に立ちふさがっているからだ。



奴隷と市民の相違(たとえばモンテスキューやルソーの説くような・・・)。奴隷は自分の主人に従い、市民は

法に従う。たまたま主人は非常に優しく、法は非常に厳しいことがあるかもしれない。しかし、だからといって、

それで変るところはなに一つない。万事は人間の気まぐれと法の規則の間の距りのうちにある。他人の気まぐ

れに支配されることがなぜ隷属なのだろう。その根本的理由は魂と時間との関係にある。他人の「気まぐれ」に

隷属させられているものは、時という細い糸によって宙づりの状態に置かれている。かれは、次の瞬間、自分の

身がなにが襲うか、ただそれを待っていなければならない(これ以上屈辱的な状態があるだろうか・・・)。かれは

自分の瞬間を自由にすることができないのだ。かれにとって現在はもはやてことはなりえない。もしそれがてこと

なったら、現在に加えられた重圧をそのまま未来にはねとばすこともできるのに・・・。



抑圧が一定の限度を越すと、必然的に権力者はかれらの奴隷から崇拝されるようになる。なぜなら、自分の

ことを、他人に完全に束縛され、他人の思いのままになる道具と考えることなど。人間にとって到底我慢のなら

ないことだからだ。だから、もし抑圧から逃れる手段が一つ残らず奪われてしまったら、かれとしては、仕事が

自分に容赦なく課されているものであるにもかかわらず、そうとは考えず、かえって自分から進んでそれを行う

のだと思いこむよりほかに手はなくなる。つまり、服従を献身によってすりかえるより仕方がなくなるのである。

だから時によると、奴隷は主人に命ぜられた以上のことをしようと努めることさえあるのだ。しかも、それがそれ

ほど苦にならないのは、丁度、子供たちが、罰として課されたときには耐えられないほど嫌な肉体的苦痛も、

自分で遊んでいる時あやまって受けた場合には平気で笑っていられるのと同じことなのだ。屈従が人間の魂を

卑しめるのは、屈従がこのようにひとの心をねじまげてしまうからである。実際、この種の献身はまさに偽装に

すぎない。なぜ主人にそんな献身をするのか、その理由をちょっとでも調べてみれば、それがインチキなのは

すぐにわかる筈である。(この点からすれば、カトリックの従順の教えは、実は信者の魂を解放してくれる教え

とでもいうべきものであり、これに反してプロテスタントの教えは、却って信者の犠牲と献身にもとづいていると

いえるだろう)。本当の救いは人間にとって耐え難い「強制」という幻想によって置き換えたところで到底得られ

るものではない。それどころか、救いは、その「強制」を「必然性」として理解することによって、つまり「強制」を

「必然性」に置き換えることによってはじめて得られるのである。これに対して、強制への反応は、迅速に、また

明解かつ効果的に行わなければ、反対の結果に終わってしまうのが常である。なぜなら、もしも反抗がただちに

いくらかでも効果をもたらさなかったら、われわれは自分の無力さを痛感し、それによってますます卑屈になって

しまうからだ。言いかえれば、奴隷たちの無力な反抗こそ、却って圧制者の地位を確保不抜のものにしてしまう

のである。ナポレオン麾下の一平卒を主題にして、こういった観点から小説を書くこともできないことではないだ

ろう。なお、付け加えておかねばならないことは、嘘の献身によって欺かれるのは、当人ばかりでない。主人も

同じだということである。



権力を握る人間を「危険なもの」といつも考えること。われわれは権力者から逃げることによって自尊心を

傷つけない範囲内で、できるだけかれらを避けるがよい。また、もし卑怯者の汚名をきたくないために、どうして

もかれらの権力にぶつかってゆかなければならないときが訪れ、その結果かれらの力によってひとたまりもなく

踏みつぶされていまったとしたら、「自分は人間によって征服されたのではなく、自然の成行きに勝てなかった

のだ」と思うことだ。ひとは真暗な土牢の中にぶちこまれて手鎖、足鎖につながれ、身の自由を奪われることも

あろうが、また病気のために失明したり、中気になって身動きできなくなることだってある。どちらも苦しみに従う

ことに変りはないのだ。服従を強制され、しかも自己の品位をおとさぬ唯一の手段・・・それは、支配者をあくま

でもものと思うことだ。どんな人間だって必然性にはかなわない。しかし、そのことを知っている奴隷は主人より

もはるかにすぐれているというべきであろう。



われわれは社会生活から、できるだけ苦しみを取り除かなければならない。なぜなら、苦しみは恩寵に役立つ

ためにのみあるものであるが、この社会は、選ばれて恩寵をあたえられる筈になっているものだけの社会では

ないからだ。だが、選ばれたものにはつねに充分な苦しみがあたえられるに違いない。







巨大な怪獣



善には二種類ある。それらはいずれも善という名で呼ばれているが、内容は根本的に違っている。その一つ

は悪に対する意味での善であり、また他の一つは絶対的な善である。絶対は文字通り対立を許さない。だから、

相対善はけっして絶対善の対立物としてあるのではない。確かに相対善も絶対善から派生してきたものだから、

もとは同じだけれど、そうかといって絶対善と相対善とを交換することはできない。われわれが望んでいるのは

絶対善である。だが、われわれの手の届くところにあるのは悪と相対的な関係にある相対善なのだ。われわれ

はそれこそわれわれの望む善だと勘違いして相対善の方に行ってしまう。まるで国王が王妃の代りに間違って

召使いの女を愛そうとするように・・・。間違いのもととなるのは衣装である。集団は相対的なものに絶対的であ

るかのような衣装をまとわせる。この間違いを改めるには「関係」あるいは「交わり」の考えをうち立てるほかな

い。あるものと「関係」を結ぶためには、われわれは、はげしい力をもって集団から脱出しなければならない。

関係こそ個人としての人間ででなければ心ゆくまで楽しむことのできないものだからである。いうなれば集団は

洞窟だ。そこから脱出する道は孤独となるよりほかない。「関係を結ぶ」ことは孤独な精神の持ち主だけにでき

ることなのである。集団は関係を思い浮かべることすらできない。「これは誰々との関係から考えてみると善で

ある、あるいは悪である」とか「これは誰々に限っては善である、あるいは悪である・・・」などということは、集団

には到底とらえられないことなのである。集団にはあれこれのものを結び合わせる力などないのだ。集団生活を

超越している人間は、自分の好きなときに集団のなかへ帰ってゆくことができる。だが、集団生活に従属してい

る人間にはそれができない。同じことは万事についてもいえる。良いものと良くないものとは、お取り換えのきか

ない関係にあるのだ。



超自然ならざる世界において、丁度柵でも廻らすようにして悪(その種のある形態)の侵入をふせいでくれるの

は集団社会である。だが、悪にはまりこんだ悪人たちの集まりは(たとえ社会全体からすればほんの一掴みに

すぎないものであっても)この柵をとり払ってしまうのだ。ところで、ひとがこんな悪人の集まりに引き込まれてし

まうのは、一体なんによるのであろうか。それは必然性、軽はずみ、あるいは・・・これがいちばん普通なことだが

・・・これら二つの結合によるのである。ところが、これらの人々は、まさか自分たちがこうした集まりにはまりこん

でいるとは思ってもいない。なぜなら、人間の陥りやすい、もっとも恐ろしい悪徳や罪からかれらを守ってくれる

のは、超自然の力を別として、集団社会のほかにはないということを知らないからだ。かれらは自分がいまのい

ま、まったく違った別人になりつつあるのに気づいていない。というのも、かれらは、環境の変化に応じて変って

ゆく可能性のある領域が自分のうちにどれほど多くあるかを知らないからだ。かれらはいつも自分で気づかなぬ

ままに、あれこれのものに巻き込まれているのに・・・。



ローマ それは無神論と唯物主義によって生み出され、ひたすら自己崇拝に耽ける巨大な怪獣以外のなにも

のでもない。イスラエル。これはまさに宗教が生んだ巨大な怪獣である。ローマもイスラエルもわたしが好きにな

れるような代物ではない。巨大な怪獣、それはつねに嫌悪の情をもよおさせるだけだ。



今日ひとが、敵方のうちでもあるものは善のために尽くしていると信じるなら、それはかれが同時に、敵方こそ

きっと勝つに違いないと信じているからにほかならない(勝てば官軍)。昔は善は善として愛されていた。ところ

が、今日では善は、いわばさしせまる物事の成行によっては非とされることさえある(負ければ賊軍)。こんな有

様を眺めるのはたまらなく辛いことだ。いまはもう失われてしまったものが実は善であったかもしれないと考える

のも、耐えがたい苦しみである。だから、われわれはそんな考えをことごとく払いのけてしまう。だが、これこそ、

巨大な怪獣に屈従することにほかならないのだ。共産主義者たちの旺盛な精神力は、かれらが善と信じている

ものの方向に前進しているだけでなく、やがて間もなくその善がこの世に実現されると確信しているところから

生じる。だから、かれらは聖人もないのに(聖人などとはとんでもない)、本来、聖人だけが、それも義を護る場合

にのみ耐え忍ぶことができるような危険や苦しみに耐えることができるのだ。ある点で、共産主義者の精神状態

は原始キリスト教時代の信者のそれとよく似通っている。原始キリスト教においてもマルキシズムにおいても「世

の終りは近し。人々はみな悔い改めよ」という教えもさかんにP・Rした。これを見ても、初期のキリスト教信者達

がどうしてあんなにまで迫害に耐えたかそのわけがよくわかる。



あらゆる国において、個人の霊的発展の条件となるすべてのものは、寛くして偏ることのない愛徳の対象となる

ことができる。また、そうならなければならない。では個人の霊的発展の条件になるものとはなんだろうか。一つ

には社会秩序がある。それはたとえよくなくても無秩序よりはましだ。二つには国語や宗教上の祭式や慣習な

ど、美を宿しているすべてのものがあり、さらには、国土に根ざした生活を優しくつつむすべての詩もある。しか

し、国家となると超自然的な愛の対象となることはできない。なぜなら、国家には魂がないからだ。国家は巨大な

怪獣にほかならないからである。



とはいうものの国土・・・は。けれども国土は集団ではない。それは、われわれが呼吸する空気と同様、まった

く気づかれぬままに、われわれの周囲に拡がっている人間の環境である。それは自然や過去や伝統と交わって

いる状態である・・・。根をおろすこと、それは集団とは別のところにある。







イスラエル・・・あるいは全体主義国家



エジプトが霊魂の永遠の救いを求めていたその時代に、イスラエルの神はモーセとヨシュアに、かれらの住む

べき国を与えるという完全に地上的な約束をした。ユダヤ人がエジプト人の啓示と宗教を否定して得た神は、卑

しいかれらに似合いの神・・・ヤーウェの神であった。その神は肉欲的な、集団の神であって、ついにユダヤ人の

四散のときに至るまで、人間の魂に語りかけたことはなかった。(その唯一の例外は詩篇である・・・)。実に旧約

聖書に出てくる人物のなかで、純粋なのはアベルとエノクとノアとメルキゼデクとヨブとダニエルだけである。もっ

とも、かれらユダヤ人がエジプトから逃亡した奴隷であってみれば・・・いや、逃亡奴隷の子孫であってみれば・・・

温和な気候に恵まれた、楽園のように豊穣な国・・・かれらがこれっぽちの貢献もしなかったのに、他民族のさま

ざまな文明の盛えによって富んでいた国・・・を幾度となく荒し廻って、原住民を虐殺し、その文明をたたき潰して

しまったとて別に不思議はあるまい。さらにまた、かれらがなんら良いものを生み出すことができなかったのも

当然であろう。とにかくこんな民族について「教える神」のことを語ることなど、冗談もはなはだしいというところで

あろう。



こうした恐ろしい虚偽のためにこの文明・・・われわれの文明・・・はその根もとからくさり、その霊感はすっかり

穢されてしまっているのだから、われわれの目に映る文明の姿がこんなにも悪にむしばまれていたからといっ

て、今さらなんで驚くことがあるだろうか。イスラエルの呪いは重くキリスト教世界の上にのしかかっているのだ。

キリスト教徒が自分達の神を信じようとしない人々にあれほど残酷な刑を課し、異端者を審問し、あげくのはて

は皆殺しにしてしまったというのも、みんなイスラエルの呪いのためだ。資本主義・・・これからもイスラエルの顔

が覗いている。(今日でもイスラエルの力はそこで並々ならぬ力をふるっている)。とりわけユダヤ人を目の敵と

している人々の全体主義は、まさに他ならぬイスラエルの産物である。



人間と神との間には、ひととなりたもうた神である仲介者キリストがない限り、人格的な交わりはありえない。この

仲介者を抜きにすると、人間にたいする神の存在は必然的に集団的かつ民族主義的なものとならざるをえない

のだ。ところで、イスラエルは民族主義的な神を選ぶと同時に、仲介者たるキリストを拒否した。イスラエルも時

には真実の一神論に傾こうとしたこともあった。けれど、いつもかれらはヤハウェという古代イスラエルの民族神

の許に戻ってしまった。かれらはそうした正しい運動がある度ごとに、民族神へ舞い戻ってしまわないではいられ

なかったのである。







社会の調和



円と直線とが触れあう一点(つまり接点) これこそ、すぐれた秩序のものが劣った秩序のなかに宿っている

ときにとる無限に小さな姿を表している。キリストはまさに人間と神との接点である。



謙虚さ、これこそ純粋な善がこの世でとった無限に小さな姿だ・・・。



力を弱め、これを無にすることができるのは均衡だけである。なにが社会に不均衡をもたらすかがわかった

ら、たとえ、そのおもりが悪であっても、社会の均衡を保つためにそれを用いるなら、恐らくその悪によってわれ

われが穢されることはないだろう。ただし、それには、自分の頭にこの均衡という考えをしっかりと刻み込んでお

いて、いつでも素早く、どちらの側にもつくことができるよう用意していなければならない。正義の女神とはこのよ

うに「勝った側からはいち早く立ち去るもの」なのだ。



(超自然のこの世におけるあらわれともいうべき)合法性の光に照らされていないような権威に服従すること

は、つまりは夢魔になやまされることだ。



純粋な合法性・・・すなわち、この、まったく暴力というものに縁のない純粋な一つの理念・・・を最高の権威に

までなす唯一のものは「それはこれまでそうであった。これから先もそうであろう」という考えに他ならない。だか

らこそ、なにか改革が起こる時はいつでも、その改革は、いままで朽ちるにまかせていた過去への復帰という形

をとるか、さもなければ、現在の制度をあたらしい条件に適応させる形をとるか、いずれかになる。しかし、誤っ

てはいけない。後の場合、あたらしい条件への適応とは、けっして変化を求めておこなわれるのではなく、その

反対にいまと変らぬ関係を維持したいがためになされるのである。例えば、ここに四分の十二という分数関係が

あり、いまその四が五に入れかわったとする。このとき、本当に保守的なひとなら、分子の十二をそのまま十二

にしておかず、分子も分母の変化に応じて十二から十五にかえ、五分の十五を望むであろう。



マスクす主義者、および十九世紀全体がおかした大きなあやまちは、ただ前へ前へと真直ぐに歩いていったら

やがて天空高くのぼってゆけると信じていたことだ。



無神論的思想でも特にきわだっているのは進歩の観念である。この思想は、われわれの経験にもとづく存在

論的な証明さえ否定してしまう。なぜなら、進歩の観念によれば、もっとも凡庸なものでさえ、ひとりでに最善な

ものを生みだせることになるのだからである。だが、近代科学はいずれもこうした考え方を否定している。たとえ

ばダーウィンがラマルクに見られる内的進歩の思想を打ち砕き、さらに、その後突然変異説が主張されて以来、

進化の主因は偶然と淘汰しかないと考えられてきている。またエネルゲーティクの基礎をなす仮説によれば、

エネルギーは低下するばかりでけっして二度と高まらないという。このことは、植物界や動物界についてさえいえ

るというのである。心理学や社会学が真の科学となるためには、こうしたエネルギー論と同じような考え方を適用

しなければならない。つまり、進歩を意味するようなものはどんなものも受けつけないような態度を導き入れなけ

ればならないというのである。そうなったときはじめて、心理学と社会学は真に信仰の光を放つことができるよう

になるのであろう。



時は流れるに従って地上的なものを擦りへらし、それらを無のうちへと押しやってしまう。だから永遠は流れゆ

く現在よりも、むしろ過去のうちに現われるといった方がよい。正しく解釈した歴史はプルーストにおける記憶と

その価値において似通ったところがある。このように、過去は、現実的でしかも同時にわれわれよりすぐれ、

また、われわれをもっと高いところへ引き上げてくれるなにものかを示す。そんなことは未来にはとてもできない

ことなのだ。



過去 それはなにかしら現実的なものである。しかし、過去はわれわれの手の絶対に届かないところにあるの

だ。われわれは過去の方に一歩ももどることができない。できることといえば、ただ過去から発せられる一条の

光を受けとめるために、そちらの方へ全身全霊を向けることだけである。この点からいえば、過去は永遠にして

超自然な実在をこの上なく忠実に反映している似姿なのである。思い出のなかに喜びと美しさとが宿っているの

はそのためなのであろうか。



革命に絶えずつきまとっている幻想・・・それは、権力の犠牲になった人々は、罪もないのに権力に泣かされて

いるのだから、もしもかれらの手に権力がゆだねられたら、きっとかれらはそれを正しく行使するだろう、と信じ

込むことだ。ところが実際をいうと、聖人と同じような魂の持ち主は別として、権力の犠牲者たちは、かれらを

虐待したものと同様、権力によって魂を穢されている。別の柄にある悪は切先にも移ってゆくのだ。だから、権力

の犠牲者たちがひとたび権力を掌中におさめるや、一転した状況の変化に酔い痴れて、かつて自分たちを虐げ

た人々に劣らぬばかりか、場合によってはそれ以上の悪をおこない、やがて元の状態に転落してしまうのが

おきまりだ。



社会主義は善を被征服者のためのものと考え、民族主義はそれを征服者のものと考える。しかし、社会主義

革命を実現する一翼は、生まれは卑しいけれども征服者としての天性と資質を持ちあわせている人々を自分達

の目的の実現に利用する。だから、社会主義革命もとどのつまりは民族主義と同じような論理を打ちたてること

で幕を閉じるのである。



世俗主義やフリーメイスンの思想が、その源を遡れがルネッサンス期の人間中心主義と結びつくように、現代

の全体主義は十二世紀におけるカトリック教会の全体主義に一脈相通じるところがある。振り子が揺れるたび

に、人間は堕落してゆく。一体どこまで堕落するのだろうか。



われわれの文明が崩壊したのちに辿る道は、つぎの二つのうちのどちらかに違いない。一つは、それが古代

文明のように完全に滅び去ってしまうか、もう一つは、それとも中心を失って「ばらばら」に散らばった世界に適応

してゆくかであr。中央集権を断ち切る必要はない(なぜなら、中央集権は自動的に雪ダルマのように大きくなっ

ていって、ついには文明そのものを破局に追い込むことになるのだから)。むしろ、未来に備えることだ。これこ

そひとえにわれわれにかかっている問題なのだ。







労働の神秘



人間の条件にひそむ秘密とはなにか。それは、人間と人間を取り巻く自然の諸力との間に均衡がないことだ。

人間がなにもしていないとき、大自然の力は人間を無限に超越している。均衡は人間が労働するときにしか得

られない。労働したときはじめて、人間は労働のうちに、自分自身の生を創造し直してゆくのである。



人間の偉大さは@自分の生を創造し直してゆくこと、A自分にあたえられているものをますますのばしてゆく

こと、B自分に課せられたものを鍛えることにある。さらにまた、人間の偉大さは@労働によって自己本来の

生活をつくり上げ、A科学により、象徴という手段を通じて宇宙を創造し直し、B芸術によって人間の肉体と魂の

結びつきを再創造することにある。(『ユーパリノス』のなかのかれの言葉を参照のこと)。ただ注意しておかなけ

ればならないのは、この三つがいずれもそれだけ一つで孤立し、他の二つのものとつながりを持たない場合に

は、それぞれ貧しく空虚なもの、空しいものにすぎなくなってしまうということである。これら三つのものが結び

合ったときにはじめて、労働者の文化が生じるであろう。(まだしばらくそうはなるまいが、期待していいと思う)

・・・。プラトンでさえ一人の先駆者でしかない。ギリシャ人は芸術もスポーツ競技も知っていた。だが、かれらは

労働ということを知らなかった。奴隷が主人をこしらえるものであってみれば、主人は奴隷のそのまた奴隷に

すぎないといってもよいだろう。



肉体労働が非常に苦痛なのは、ただ生きてゆくという、それだけのために、そんなにも長時間にわたって労苦

を強いられているからなのである。奴隷とは、その疲労によって得るものが生存することだけでしかなく、それ

以外に、益となるものはなに一つ約束されていないものをさしていう。従って、こういった種類の人間は、この世

のすべてのものにたいする執着をみずから捨てるか、それとも植物的で無自覚な、ただ生きているだけという

状態をつづけるかのどちらかとなる。



地上にあるどんな目的も、労働者と神との結びつきを断つことができない。神にたいしてこのような関係にある

ものは労働者だけである。他の階級のものは、みなそれぞれになにかしら特殊な目的を持っており、それがかれ

らと純粋善(神)との間を裂く障害物となる。だが、労働者にはこのような障害物は存在しない。なぜなら、かれら

は、自分から剥ぎ取らなければならないような余分なものは、なに一つ持っていないからである。



必然性に押されて努力すること・・・なにかの善に引き寄せられるというのではなく、やむない力に無理矢理

うしろから押されて・・・それもただ現実の暮しをつづけてゆくために努力すること、これは、つねに隷属を意味

する。この意味では、肉体労働者の隷属状態はいかんともしがたい事実である。それは目的のない努力とでも

いおうか。だが、もしも、その目的のない努力が永遠の目的であるとしたら、それは怖ろしい・・・あるいはなによ

りも美しい・・・ことだといえよう。美しいことだけがわれわれをいま在るものに満足させてくれるのだから・・・。

労働者に必要なものは詩であってパンではない。かれらは自分の生活そのものを一篇の詩にすることが必要

なのだ。かれらは永遠から射し込んでくる光を必要としているのだ。この詩の源となりうるもの、それは宗教だけ

である。民衆の阿片は宗教ではない、革命だ。労働者からこの詩が奪われているからこそ、あらゆる種類の

堕落が生じているのだ。



奴隷であるということは、永遠の光りが一すじすらもさしこんでこない労働、詩のない労働、宗教のない労働に

従事するということである。永遠の光よ、人間がなぜ生きるのか、なぜ働くのか、その理由はなんでもよい、そん

なことの詮索をしないですむような生の充実感をあたえ給え。そうでないと、われわれを労働に駆りたてる刺激

は、ただ強制か、さもなければ利欲だけになってしまう。強制は民衆を抑圧の虜とし、利欲はかれらを頽廃に

追いやる。



徒労に見合う喜び、それは感覚的な喜びだ。たとえば、食べること、休むこと、日曜日の楽しみの数々、だが

金銭はけっしてそこにはいらない。大衆を主題にした詩で疲労がうたわれていなければ、また疲労から生じる

飢えと渇きとがうたわれていなければ、それは本物の詩とはいえない。








シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)の言葉







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美に共鳴しあう生命

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