シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)の言葉



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ヴェイユの言葉は「愛と死のパンセ」でも紹介しています。








 ある事象が神に発していることを示す公準は、真理を宣言し正義を愛するという能力 

こそ喪失しないが、それらが狂気の性格のいっさいを現しているということである。



「超自然的認識」




 自分が死ぬ前には、十字架にかけられて、「わが神よ、どうしてわたしをお見捨てにな 

ったのですか」といわれたあのキリストと完全に同じ状態にされていたい。その特権を

うるためなら、わたしは天国と呼ばれるものは全部よろこんで捨て去ってしまおう。



「超自然的認識」




神がわれわれを愛したもうから、われわれは神を愛さねばならないというのではなく、

神がわれわれを愛したもうから、われわれは自分を愛さなければならないのである。こ

の動機がなかったなら、だれが自分を愛することができようか。こうした廻り道を経なけ

れば、人間は自分を愛することができないのである。


「愛と死のパンセ」

 




空想はいつも一つの欲望、すなわち一つの価値に結びついている。空想と結びついていないのは対象の

ない欲望だけである。空想というベールに蔽いかくされていないものだけに神が宿っているのだ。美はわれわれ

の欲望を取り押さえ、それから空想上の対象を取りのぞき、それに現実に存在する対象をあたえる。そして、

欲望が未来へつっ走ることを禁じる。純粋な愛の価値はここにある。



快楽を求めるこころは、すべて未来という幻想の世界そのものである。われわれがただひたすら愛するひとの

存在を望み、そのひとが存在するものなら、それ以外になにを望むことがあるだろうか。そのとき、自分の愛す

るものは未来の空想に蔽いかくされることなく、ありのままの姿でまぎれもなく実在するのである。



けちんぼが自分の宝を眺めるとき、それはかならず、かれの空想によってn乗された大きさで目にはいってくる。

われわれが事物をありのままに見るには、死ななければならないのだ。



結局、愛の清純さは、その欲望が未来に向けられているか、いないかによって決まるのである。この意味で、

死者にたいしていだく愛は、もはやわれわれが未来をにせの永遠不滅にでっち上げない限り、まったく純粋で

ある。なぜなら、死者への愛は、もうあたらしいものはなに一つあたえることができなくなってしまった、完了した

生命への愛だからである。われわれはいまはこの世に存在しないひとが存在してくれたらなあと思う。そうする

と、そのひとは存在したことになるのだ。



「愛と死のパンセ」

 




 神を否定する人の方が、おそらくは神により近い 



「ノート」




 たましいはただ、神の方にむかって、生命のパンに飢えていると泣き叫ぶだけで 

いい。一瞬のたえまもなく、疲れも知らずに、赤ん坊が泣き叫ぶように・・・。みじ

かくて終わりが定めなく、終わりが定めなくてみじかいこの地上での滞在のあい

だ、ただこのように叫ぶこと、そして無の中へと消えて行くこと、---それだけでい

いのではないか。それ以上何を求めることがあろう。・・・せめて、今から、死の瞬

間にいたるまで、わたしのたましいの中には、永遠の沈黙のうちにはてしなく叫ば

れるこの叫びのほかには、どんな言葉もなくなってしまえばいい。・・・・・・



「超自然的認識」




真実の愛は、真実の対象をもち、その真理を織り、その真理をあるがままに、

 その真理において愛することを欲する。真理への愛について語らず、愛に宿る 

真理の霊について語らなければならない。・・・・・・・・・・・・・・



「超自然的認識」




われわれが目指す対象は超自然の世界であってはならない。あくまでもこの世で

なければならない。超自然というものは、いわば光そのものである。光を対象とする

とわれわれはそれを低下させることになる。



「愛と死のパンセ」




 芸術においても、学問においても、優秀な作品、平凡な作品を問わず、二流の作品は自己の

拡大であるが、第一級の作品、すなわち創造は、自己の放棄である。この真理がもうひとつ

はっきりわかっていないのである。なぜなら、第一級の作品と、二流の作品の中でも優秀な

作品とは、どちらも栄光の輝きにつつまれて、いっしょくたにされ、区別がつきかねるからで

ある。どうかすると、二流の作品の方がすぐれているとみなされることさえある。



「神を待ちのぞむ」 より




 純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である。 



「重力と恩寵」

 



2011.8.30 更新履歴より


随分昔から読まなければいけないと思いつつ手にとるも、どうしても読めない本があった。

それは「夜」ヴィーゼル著で、当時15歳の少年がアウシュヴィッツの体験を記した本である。

何故読めなかったのか、何を恐れていたのか、自分の中でも漠然としていたものが明るみに

出されてしまうのが怖かったのか、その想いは最近本書を読んだ後も変わらなかった。本書

が描き出す地獄絵図、自分が生きてきた尺度では想像することすらできない深い暗闇の底。

私はこの暗闇が自分にも潜んでいることを恐れていたのかも知れない。だから本書を前にし

ながらも開けようとはしなかったのだろう。今まで確かにユダヤ人虐殺(ホロコースト)の本は

何冊か読んできたが、熱心なユダヤ教の青年が 「私は原告であった。そして被告は神」と言

わしめた、その言葉に私自身耐えられるだろうかと怖れていたのかも知れない。そしてこの

証言を、証言を記録したこの文献を誰かに薦めようとは思わない。それ程、本書に描かれて

いる地獄絵図は読者一人一人が人間の本質を、自らの力で考え、そして答えを出さなければ

ならないことを暗に迫ってくるからだ。ただ自らが持つ暗闇、その暗闇から目を避けていては、

いつまでたってもこの世界は幻想であり、夢遊病者のように生きるしかない。シモーヌ・ヴェイユ

が言うように「純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である。」の言葉の真の重さを私の心が

受け止める日が来るのだろうか。



この暗闇に勝てるもの、それは私たちの身近にある「美」の再発見なのかも知れない。どんな

小さなことでもいい。いつも私たちの傍にいて、語りかけようとしている「美」の声を聞き、その

姿をありのまま見ること。それが唯一、暗闇からの解放をもたらしてくれるのかも知れない。

「美」が暗闇の本質を照らし、暗闇の真の姿をさらけだしていく。常に自らの心の鏡を磨き、

「美」がそのままの姿で映ることを願うこと。そしてこの願いは「祈り」そのものかも知れない。



 


2013年7月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)


純粋さとは何だろう。(写真はカトリック山手教会の近くにて)



私が東京へ出てきて一人暮らしを始めた頃、誘われるまま統一教会の人達が共同生活しているところに

何度か足を運んだことがあった。原理講論が「人は誰でも幸福を追い求めている」で始まることに違和感

を感じつつも、彼らの親切さに心に安らぎを感じていた。



彼らはある意味とても純粋だった。その共同生活は和やかで美しいものと映っていたし、関心を持ってい

ることに耳を傾けてくれた。



現実の世界に疑問を抱き何かを希求する純粋さ、しかしこの純粋さが、いつの間にか変貌していく。



これは統一教会やオウム真理教などの新興宗教に留まらず、その他のことで私たちが日常的に経験して

いることかも知れない。



「この食べ物は癌に効く」と言われれば、私が癌だったら深く調べもせずに飛びつき、毎日のように食べる

だろう。「この運動は減量に最適」と言われれば、女性だったら同じように飛びつくかも知れない。



新興宗教の洗脳やマインド・コントロールに対して、私たちは何故そんな団体に簡単にひっかかってしまっ

たのかと疑問に思いがちだが、私も含めて多くの人は日常的に全く同じことを繰り返しているのかも知れ

ない。ただそれが、宗教か、それ以外かの違いだけなのだろう。



人間は常に不安や願望を抱き続け、そこに単純明快な方法がもたらされると、妄信してしまう傾向がある

ように思う。



純粋さとは何だろう。私にはわからない。



ただ私は「あるがまま」という言葉(禅に近い意味において)、弱さや醜さを含めて自分の全てを容れる

姿勢と同時に、ヴェイユの「純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である」にも惹かれてきた。



自己の内面だけでなく、虐げられている人びとから目を背けなかったヴェイユ。



たが私がそのような視点で生きているかと問われると、否としか言えない。







 地球の表面を覆った不幸は、わたしの心に取り憑いて離れません。わたしは 

自分の能力が駄目になってしまうほど打ちひしがれてしまいました。・・



モーリス・シューマンにあてた手紙より




 神は愛によって、愛のために創造なさった。神が創造なさったものは、ただ愛そのもの 

と、愛の手段のほかの何ものでもなかった。神は、できるかぎりの距離をおいて、方々

に、愛することのできる存在者を創造された。ほかの者にはだれもそんなことはできな

いので、神がご自身、最大限の距離をすすんで行かれた。このように神と神とのあいだ

の無限の距離こそ、最高の分裂、ほかの者には何人も近よることすらできない苦痛、

愛の驚異であり、それが十字架であった・・・。この分裂をこえて、かぎりない愛が崇高

な一致のきずなを渡しているのであるが、分裂のひびきは、つねに絶えることなく、世

界の中を、沈黙の底に、引き裂かれ、融合した二つの音のように、まことの諧調のよう

 に鳴っている。それがまさに、神のみ言葉である。






 神について考えようとするときに、何ひとつ捨てようとしない者は、自分の偶像の 

ひとつに、神の名をつけているにすぎない。このことにはどんな例外もない・・



「超自然的認識」






もしもわれわれが過去からも未来からも自分を切り離して、現在というこの一瞬から自分を眺めることができ

たら、われわれは清浄であろう。なぜなら、その瞬間、われわれはあるがままの自分でしかありえないからだ。

あらゆる進歩は持続の別名にほかならない。こうして、われわれがありのままの自分であるということは、この

瞬間における世界の秩序に適っていることなのである。このように、われわれが一瞬を時の流れから切り離す

ことができれば、それによってわれわれは赦しをえることができる。同時に一瞬を時の流れから切り離せば、

そこに超越が生じる。
 



「愛と死のパンセ」






時は流れるに従って地上的なものを擦りへらし、それらを無のうちへと押しやってしまう。だから永遠は流れゆ

く現在よりも、むしろ過去のうちに現われるといった方がよい。正しく解釈した歴史はプルーストにおける記憶と

その価値において似通ったところがある。このように、過去は、現実的でしかも同時にわれわれよりすぐれ、

また、われわれをもっと高いところへ引き上げてくれるなにものかを示す。そんなことは未来にはとてもできない

ことなのだ。




「愛と死のパンセ」




 神の恩寵は、しばしば不幸のさなかにおいてさえ、われわれに美を感じさせる。 

そのとき、ひとがそれまで知っていた美よりももっと純粋な美が啓示されるのだ。



「超自然的認識」




 子供のころから、わたしの共感は、社会階級の侮蔑されている層の味方をもって 

任じる集団のほうに向かっていました。すくなくとも、それらの集団がいっさいの

共感を打ちひしぐ性質のものであることを意識するまではそうでした。・・・



ベルナノスにあてた手紙より




 キリスト教は、普遍的なものである以上は、その内部に、例外のないすべての天の召使を

含むものでなくてはなりません。したがって教会もまた同様です。しかし、私の眼には、キリスト

教は律法的には正統ですが、事実においてはそうではないようにみえます。多くのもの、

私が愛し、捨てるに忍びないあれほど多くのもの、神の愛したまうあれほどの多くのものが

教会の外側に存在しています。なぜならそれらのものは、教会の外側でなければ存在し得な

いものなのですから。



「神を待ちのぞむ」 より




 神のご慈愛が輝いているのは不幸そのものの中です。その奥底、なぐさめることのできない

苦しみの中心なのです。たましいが「神よ、あなたはなぜ私を捨てられたのですか。」という

叫びを、もはや押さえきれなくなる状態まであくまで愛を貫き通して倒れるならば、あるいは、

そのような状態でも愛することを止めないならば、もはや不幸でもなくよろこびでもない、

中心的な、本質的な、純粋な、眼には見ない、よろこびにも苦しみにも共通の本質、神の愛

ですらある何ものかについて触れるのです。



「神を待ちのぞむ」 より




 「ギリシャ、エジプト、古代印度、古代中国、世界の美、芸術・科学におけるこの美の純粋にして正しい

さまざまの反映、宗教的信条を持たない人間の心のひだの光景、これらすべてのものは、明らかに

キリスト教的なものと同じくらい、私をキリストの手にゆだねるために貢献したという私の言葉も信じて

いただいてよいと思います。より多く貢献したと申してもよいとすら思うのです。眼に見えるキリスト教

の外側にあるこれらのものを愛することが、私を教会の外側に引き留めるのです。」



「神を待ちのぞむ」 より




 理想国家、それは群棲体とはちがう。呼吸する空気によってしか意識し得ぬ 

人間的環境のことである。自然や過去や伝統と交わっている状態である。

根をおろしている状態とは、群棲体とは別のものである。



「雑記帳第二巻」より




 戦争の原因、それはどの人間も、またどの集団も、自分、もしくは自分たちだけが正等でかつ合法的な宇宙

の支配者であり、所有者であると思っているところから生じる。しかし、所有ということについてのこうした解釈は

間違っている。というのは、だれもがこの世に生を受けた人間に可能な範囲で、それぞれ自分の肉体を媒介と

して宇宙と結びついているという事実を知らないからである。アレキサンダー大王も一介の地主とこの点で変り

がないのは、ドン・ファンも幸福な結婚生活を送っている平凡な家庭の夫と変りがないのと同じである。



「愛と死のパンセ」




 私は来世というものを考えることをいつも自分に禁じて来ましたが、死の瞬間が 

生の規範であり、目標であることをいつも信じてきました。それは、正しく生き

る者にとっては、純粋であらわで確実で永遠的な真理が魂の中にはいる瞬間

なのだと考えていました。これ以外の幸福は自分のために願ったことは一度

もないと云うことができます。



ペラン神父への手紙より




 あわれみと感謝は、神からくだってくる。そして、あわれみと感謝が 

ふと視線を交わすとき、その視線がであう点に神が臨在したもう



「神を待ちのぞむ」




 人間が神の方へ向かっていくのではない。神が人間の方へ来てくださ 

るのである。人間はただ、じっと見つめ、待ちのぞむだけしかない。



「ノート」




 神は、その御力を使い果たしてまでも、時空という無限に厚い壁を突き破って、われわれの魂に達し、それを

とらえようとなさる。そして、もしもわれわれの魂が、たとえ閃く稲妻のように一瞬たりとも神の求めに純粋な、ま

た完全な同意を与えるなら、とたんに神はその魂を征服してしまう。だが、魂が完全に神のものとなるや、神は

魂を見捨て、完全な孤独に取り残してしまう。そこで、今度は魂の方が自分の愛する御方を求めて、時空の無限

に厚い壁を手探りで踏み越えてゆかなければならなくなる。こうして、われわれの魂は、神が自分の魂の方へ

向かって来たと同じ旅を、反対の側から神の方に向かって始めるのだ。これがまさに十字架の意味なのである。



「愛と死のパンセ」




 神は完全なものとして、ご自身をつくられ、ご自身を認識される。わたしたちが、自分の外側で、ものを

生み出し、ものを認識しても、所詮はみじめな形でしかできないのに反して。ところで、神は、何にもまして、

愛であられる。何にもまして、神はご自身を愛される。この愛、神のうちなるこの友情関係こそ、三位一体

の神である。この神の愛の関係によって、それぞれの項がつなぎ合わされ、そこには近さというより以上の

ものが存在する。無限の近さ、同一性が存在する。しかもまた、創造、受肉、受難のゆえに、無限への

へだたりも存在する。空間全体、時間全体が、あいだに大きくはいりこんで、神と神との間に無限の距離を

つくり出す。



「神を待ちのぞむ」 より




神の子らは、過去、現在、未来にわたって宇宙に存在するすべての道理をわきまえた被創造物を含めて、

宇宙それ自体以外のいかなる祖国をもこの地上において持つべきではありません。宇宙にこそ、われわれの

愛を要求する権利のある古里の国があるのです。



宇宙ほど大きくないもの(その中へ教会が属しています)が、いくらでも拡大されうる諸義務を課すのですが、

その中に愛する義務は見当たりません。少なくとも私はそう信じます。知性と関連のあるいかなる義務もそこに

はないと私は深く信じています。



われわれの愛は全空間を通して太陽と同じひろがりを持ち、空間のあらゆる部分において太陽の光と同じ

均等性を持たなければなりません。光が差別なしに配分されているさまを模倣することによって、天なるわれ

われの父の完全さに到達するよう、キリストはわれわれに命令されました。われわれの知性もまた、この完全

な公平さを持たなければなりません。



存在するものすべては、その存在の中で、神の創造の愛によってひとしく支えられています。神の友は、この世

のものに対して、自分達の愛を神の愛と混同するところまで神を愛さなければなりません。



たましいが全宇宙をひとしく満たすような愛に到達いたしましたなら、この愛は地上の世界という卵を突き破って

出てくる金の翼をもった雛鳥となるのです。それから、この雛鳥は、宇宙の内側からではなく外側から、一番初め

に生まれたわれわれの長兄である神の知恵が宿る場所から、宇宙を愛するのです。このような愛は、神において

ではなく、神のみもとからでてきたかのように存在やものを愛するのです。その愛は、神の側にあって、その場所

から、神の視線と混合した視線を下して、すべての存在やものの上に注ぐのです。



「神を待ちのぞむ」 より




ところで、宗教的な感情が、真理の霊から発したものとなるためには、宗教が真理以外

 のものになっている場合には、たといそのために生きて行く理由を失わねばならないとし 

ても、敢然として自分の宗教を捨てる覚悟ができていなければならないだろう・・・・・



「根をもつこと」




わたしたちのうちに現存したもう神だけが、不幸な者にも人間的な美質があることを

 みとめ、品物を見るような眼でない眼をもって、彼らを正しく見つめ、真に一つの発言 

に耳をかたむけるような態度で、その声に真に聞き入りたもうことができる。不幸な者

たちの方も、そのとき自分たちも声をもつことに気づくのである。・・・・・・・・・



「神を待ちのぞむ」




キリスト教思想においても、世界の美しさがいかなる位置を占めうるかを、聖フラン

チェスコの例が明らかに示している。かれの詩は、詩として完全であったばかりで

なく、かれの生涯全部がいわば生きた完全な詩だった。たとえば、かれが独りで、

 心霊修行をするために、また、修道院を建設するためにどのような場所をえらんで 

いるかということも、それ自体もっとも美しい詩であった。放浪も、貧乏も、かれに

おいては詩となった。・・・・・・・・・・・・・「神への暗黙的な愛の種々相」






とりわけ無神論的な思想とすべきは進歩の観念である。この観念は、実験済みの

 存在論的証明の否定である。すなわちこの観念は、凡庸なものがみずから最良の 

ものを生み出すということを意味しているのだ。・・・・・・・・・「ノート」






外的な成功を得られないことを残念に思っていたのではなく、本当に偉大な人間だけが

はいることのできる、真理の住む超越的なこの王国に接近することがどうしてもできない

ということを、くやしく思っていたのでした。真理のない人生を生きるよりは死ぬ方がよ

いと思っておりました。数ヶ月にわたる地獄のような心の苦しみを経たあとで、突然、し

 かも永遠に、いかなる人間であれ、たとえその天賦の才能がほとんど無にひとしい者であ 

っても、もしその人間が真理を欲し、真理に達すべくたえず注意をこめて努力するならば

、天才にだけ予約されているあの真理の王国にはいれるのだという確信を抱いたのです。

たとえ才能がないために、外見的にはこの素質が人の目には見えないことがあっても、こ

の人もまた、こうして一人の天才となるのです。・・・・・・・・・「神を待ちのぞむ」




ヴェイユが14歳のころを述懐したもの・兄の異常な天賦

の才能に対して自分の凡庸さを意識せざる得なかった。




さまざまとある正しい宗教の伝承は、すべて同一の真理の種々ことなった反映に

 すぎず、おそらくその貴重さはひとしいのです。ところがこのことが理解されていま 

せん。各人はこれらの伝承のひとつだけを生きており、他の伝承は外側からなが

めているからです。・・・・・・・・・・・・・「ある修道士への手紙」より



 


2011年12月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





「ケンブルの滝」と呼ばれる星の並びです。



この滝はペルセウス座とカシオペア座の近くにある「きりん座」の中に位置しています。写真では

左下から右上にかけて直線状に伸びているのがわかると思いますが、この写真は他のサイトか

ら引用させていただきました。



皆さんは、「望遠鏡だとこんなに美しく見えるんだ」と思うかも知れません。でも実はこのケンブル

の滝は双眼鏡でしか全体像を見ることができないんです。何故ならこの滝の長さは満月5個分に

相当する長さなので、望遠鏡では滝の一部しか視界に入らなくなってしまうからです。



この滝の存在は、フランシスコ会の修道士で、アマチュアの天文学者でもあったケンブル神父

が小さな双眼鏡(口径3.5cm、倍率7倍)で見つけたものです。「え?、そんなに小さな双眼鏡で

星が見えるの?」と思われるかも知れませんが、夜空には望遠鏡よりも双眼鏡の方が適してい

る天体もあるんですよ。



「私たちはこの社会の多忙さにより、小さな美さえ気づかないでいる。」ケンブル神父



もう直ぐクリスマスですね。



少し話がそれますが、私が感銘を受けた本「沈黙を聴く」の中で紹介されたモーリス・ズンデル神

父はそのユニークな思想のため教区を追われ、各地を転々とさせられます。ようやくズンデル神

父の価値が認められたのは彼が亡くなる3年前(1972年)のことで、時の教皇パウロ6世により

ヴァチカンの黙想指導に招かれています。



このズンデル神父の言葉を紹介しようと思います。「キリスト教の話なんて聴きたくないよ」と思わ

れる方もいるかも知れませんが、クリスマスということで許してください。



☆☆☆☆



「キリストを愛するとは、すべてを愛することである。

彼とともにすべてを愛するのでなければ、イエス・キリストを愛しているとは言え

ない。私たちはブッダを愛する。この人の誠実さはキリスト教的だから。マホメット

もまたしかり。いのちと愛の足跡を見いだすところなら、どこにおいても人は安ら

ぎを感じるだろう。なぜなら、そこで神に出会うからだ。」



☆☆☆☆



ケンブルの滝、20個以上集まるこの滝の先端に散開星団「NGC1502」(写真では左端やや下

に映っています)があります。この星団までの距離は2680光年。つまり2680年前船出したこの

星団の光がやっと今、地球に到達しているんですね。この地球で2680年前頃というと「ソロン、

釈迦孔子」が誕生しています。



こんな昔のことを思い浮かべながら夜空の星を見上げるのもいいかも知れませんね。

皆さん、いいクリスマスを。



(K.K)


 




 つねに、あらゆる場所で、真理を望む人ならば誰でもが自由にとることのできるように、 

おかれていないものはすべて、真理とは別のものである。・・・・「超自然的認識」より






 純粋に愛することは、へだたりへの同意である。自分と、愛するものとのあいだにある 

へだたりを何より尊重することである。・・・・・・・・・・・・「重力と恩寵」より




2016年5月8日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




(大きな画像)



森を、そして結果的に、そこに生きるものたちの調和あふれる世界を創ってきたオオカミ。



しかし彼らオオカミの存在は、人間にとって自らの獰猛性を葬り去るための身代わりでしかありませんでした。



世界各地の先住民もオオカミも、西欧人にとって自身の「真の姿を映す鏡」だったが故に、そして自身のおぞましい

姿を見せつけてくるが故に、この鏡を叩き壊さなければいけないものだったのかも知れません。



オオカミは森の、そしてそこに生きるものたちに必要不可欠な存在だけでなく、私たち自身は何者かと問う存在

なのだと思います。



☆☆☆



2年前に上の文章をサイトに書きましたが、今でもその想いはあまり変化しておりません。



オオカミ自身が、人間の持つ残虐性を敏感に感じ取っているからこそ、逆に人間を恐れているのかも知れません。



熊や大型犬が人間を襲ったことが時々ニュースに出ますが、オオカミが人間を襲うことなど、それらに比べると

限りなく低いのです。



また、丹沢の山中でを見ていたとき、鹿の足音がすぐ近くに聞こえておりましたが、増えすぎた鹿のため山が

死にかけています。



生態系をあるべき姿に戻すという意味に限らず、人間自身が「何者か」と、オオカミを通して問われている

気がします。



写真(他のサイトより引用)は「ロミオと呼ばれたオオカミ」、アラスカ・ジュノー町の多くの人々に愛された野生の

オオカミは、「町の人々の嘆き悲しむ姿が見たい」という理由で2人のハンターに殺されます。



誰しもが持っている残虐性、ヴェイユは「純粋に愛することは、へだたりへの同意である」と言いますが、

「へだたり」の重さに耐え切れないところから、残虐性は生まれてくるのかもしれません。



オオカミの肖像



2013年1月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(写真は他のサイトより引用)



1991年に刊行された柳澤さんの「意識の進化とDNA」を最近読みました。2004年に生命科学者としての

視点を踏まえながら般若心経に迫った「生きて死ぬ智慧」は注目を集めましたが、土台はその十数年前

に芽生えていたのですね。



柳澤桂子さんは前途有望な生命科学者でしたが、その後原因不明の病気で、36年間闘病生活を強いら

れます。生命科学者としての目、そして自殺も考えた心の痛み、この2つが彼女の死生観の根底にある

と思います。



「意識の進化とDNA」は彼女の専門分野の遺伝子に限らず、心理学、哲学、芸術などの底流にある関連

性について、二人の男女の会話を通して小説風に書かれた読みやすい本です。



彼女は言います。「36億年の歴史をもつDNAが本来の自己である」と。そして意識の進化は「自己を否定

して、宇宙と一体になる。これが“悟り”すなわち宗教の世界である」と考えます。



私自身、“悟り”がどのようなものかわかりませんが、彼女の言う意識の進化は、必ずしも生命に多くの美

を宿すことにつながっていないような気がします。



私たち日本人の基層として位置づけられるアイヌの人々、彼らは縄文時代の世界観を受け継いだ人々

でした。果たして昔のアイヌの人々と現代人、どちらが多くの美を宿しているのでしょう。



美、あるいは美を感じる心とは何でしょう。それは、私と他者(物)との「へだたり」への暗黙の、そして完全

な同意から産まれるものと感じますし、「純粋に愛することは、へだたりへの同意である」と言うヴェイユ

眼差しに共鳴してしまいます。



動物や植物、太陽や月、天の川と星ぼしたち。



現代の私たちは科学の進歩により、この「へだたり」を狭くしてきました。しかし、その一方で峡谷は逆に深

くなり、底が見えなくなっているのかも知れません。それはこの世界の混沌とした状況によく似ています。



世界屈指の古人類学者のアルスアガは、「死の自覚」が今から40万〜35万年前のヒト族(現生人類では

ありません)に芽生えたと推察していますが、「死」という隔たりを自覚したヒト属にどんな美が宿っていた

のでしょう。



私は星を見るとき、あの星団はネアンデルターレンシスが生きていた時代に船出した光、あの星は大好き

な上杉謙信が生きていた時代、などと時々思い浮かべながら見るのが好きです。



そこで感じるのは、柳澤さんが問いかけている「36億年の歴史をもつDNAが本来の自己」に近い不思議な

感覚でした。



意識の進化にはいろいろ議論はあるかも知れませんが、柳澤さんの眼差しには宇宙創世からの大きな時

の流れそのものを感じてなりませんでした。





2012年11月7日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。



「動物はすべてを知っている」J.アレン・ブーン著 SB文庫

写真はこの本で紹介されたストロングハート(1917〜1929)である(写真は他のサイトより引用)。



「ハリウッドの聖人」「銀幕王国の聖フランシスコ」と呼ばれた著者のアレン・ブーン(1882〜1965)

は、映画の製作者で1965年に83歳で亡くなるが、この文献の中でストロングハートという犬に留

まらず、ヘビ、スカンク、ハエやアリも「沈黙のことば」で分かり合えることを事例を挙げながら語っ

ている。



またこの文献の特色として、人間やそれ以外の存在、その存在そのものを問う哲学的・宗教的な

洞察も語られているところにあるが、日本及び外国においてこの文献は高く評価され続けており、

その内容に懐疑的な意見はあまり聞かれない。



私個人はというと、そのような経験がないからか正直わからないというしかないが、このアレン・

ブーンとほぼ同じ時代に生きた「シートン動物記」で有名なアーネスト・シートン(1860年〜1946年)

と重ね合わせてしまう。



シートンはアメリカ先住民の世界に触れて、「レッドマンのこころ」(1937)の出版など彼ら先住民

の世界観を世に広める活動をしてきた人物でもあるが、ブーンはシートンよりも22年遅く生まれ

ながらも、二人はアメリカ先住民が白人より劣った消えゆく民族であるとの目が支配していた

時代に生きていた。



ブーンもこの本の中でアメリカ先住民やアラブ系の遊牧民ベドウィン族との触れ合いから教えら

れたことを紹介しているが、二人は「沈黙のことば」「沈黙」の真の姿を垣間見た数少ない白人

だったのかも知れない。また二人は出会ったことはないかも知れないが、互いの存在に気づい

ていた可能性はあるのではと思う。



ただ、シートンが自分とは反対の証言を紹介しながら観察事実を基に博物学者・科学者として

の冷徹な視点を保ちながらも、動物に対する畏敬の念を抱いていたのに対し、ブーンの「動物

はすべてを知っている」はこの視点があまり感じらない。



別な言い方が可能なら、シートンが人間と動物の種に横たわる断崖を受け入れるの対し、ブー

ンはその断崖を埋めようとする、或いはその断崖を跳躍しようとする姿勢を感じたのも事実で

ある。



フランスの哲学者であり戦士、神秘家であったシモーヌ・ヴェイユ(1909〜1943)は「重力と恩寵」

の中で次のように記している。



「純粋に愛することは、へだたりへの同意である。自分と、愛するものとのあいだにあるへだたり

を何より尊重することである。」



私自身この言葉の意味を真に理解したものではないので偉そうなことは言えないが、種と種の

間に横たわる断崖、その隔たり、これは人間同士の間、人間と創造主との間にも横たわって

いるものものかも知れない。



アレン・ブーンが訴えかけているような、実際に動物や昆虫と沈黙を通して意志の完全な疎通

を、私は経験したことはない。



ただ私自身が経験したことがないと言って全て否定することは傲慢であるし、私が経験したこと

がない、或いは私が気づいていない何かが、この世界に横たわっているのだろう。



それは世界の先住民の文献を読んでいて常にそう思うし、「沈黙」が語りかけるものを先住民に

限らずキリスト教や仏教でも重視してきた。



写真のストロングハートの目を見ると、人間界のブッダ、キリストのような光が犬の世界でも僅か

なものに現われ、その光を目の前にして初めて、アレン・ブーンはそれが多くの動物の中にも

宿っていることに気づいたのだろうか。



「私も裸にならなければ、動物たちは心を開かないわ」、これは象、ライオンや豹などの多くの

動物といとも簡単に心を通わせることができたアフリカで育まれた少女ティッピの言葉である。

しかし、アフリカからヨーロッパに戻ったティッピは、この不思議な能力が少しずつ消えていく

のを感じた。



本書で語られている内容の真偽、アレン・ブーンが亡くなって50年近く経った今となっては、

もうわからないかも知れない。



最後に今から100年以上前に書かれた「シートン動物誌」の中から、オオカミに関するシートン

の想いを引用します。イヌはオオカミが飼い馴らされて家畜化したものと考えられていますの

で本書とも関係があるかと思います。長い間オオカミは誤ったとらえ方が横行し、人間の手に

よってニホンオオカミも100年以上前に絶滅しました。今、このオオカミを森の再生のため山

に放そうとする運動が世界中で起きていますが、私自身この問題をもっと勉強していつか書く

ことが出来ればと願っています。



☆☆☆☆



オオカミの真実の姿を描き出す・「シートン動物誌2」紀伊国屋書店より以下引用



この章で私は、オオカミの勇敢さ、騎士道精神、強さ、遊び好きな性格、忠誠心、獰猛さ、親し

みやすさ、思いやり、英雄的な態度、それにやさしさなどについて、さまざまな証拠をあげな

がら論じてきた。



悪意に満ちた人間社会のうわさ話に終止符を打ち、この動物の誠実で勇敢な姿を読者に示

したいというのが、私の願いだった。



私はまるでごみ箱を引っかきまわし、なかからほんのひとかけらの金片を見つけ出そうとする

かのように、猟師たちから根堀り葉堀り聞き出し、小さな真実のかけらを見つけ、つなぎあわ

せようとしてきた。



そうしたなかから読者に、この野生動物の本当の姿、本当の生活を少しでも察知してもらう

ことができただろうか。



こうして山と積んだすべての証拠を見て、望むならさらに手に入れることのできる大量の証拠

があること、それに「ロボ・・・カランポーの王様」の物語(基本的に事実にもとづいている)に

書かれたことを思い起こしていただければ、わかってもらえるのではないだろうか。



私がオオカミを心の底から愛していること、そして、私がオオカミこそは真の高潔さ、すなわち、

輝かしい動物界の英雄にふさわしい性格のもち主だと信じて疑わないことを。



☆☆☆☆








他人の存在をあるがままに信じるということ、それが愛である。


「愛と死のパンセ」より




 苦痛や極度の疲労がこうじて、たましいの中にこれは果てしなく続くのではないかとの感じが 

生じるまでになったとき、その果てしなさを素直に受け入れ、愛しつつ、それをじっと見つめ

つづけるならば、人は、この世からもぎ離されて、永遠にいたる。・・・「重力と恩寵」より






この世にはなんの価値もない、人生になんの意義もないなどといったり、その証拠にこの世は悪で満ちている

ではないかと説いたりすることは馬鹿げている。なぜなら、もしもこの世や人生になんの価値もないならば、悪は

それからなに一つ奪うことができない筈ではないか。だから、満ちあふれる喜びを理解することができればでき

るほど、不幸に宿る苦しみと、他人に寄せる同情の念はより純粋で強靭なものとなってゆく。苦しみは、喜びを

知らないものからなにを奪うことができるだろうか。



そして満ちあふれた喜びを理解すればするほど、飢えたときに食物が必要なように、苦しみには喜びが欠かせ

ないことを知るだろう。苦しみによって現実を知るためには、まず喜びを通して現実にたいし目を開いておくこと

が必要である。そうでなければ、人生というものは多かれすくなかれ悪夢でしかなくなってしまう。われわれは

なにもないからっぽの苦しみのうちに、かえってより充実した現実がひそんでいることをさとる境地にまで到達し

なければならない。同様に、死をもっとはげしく愛することができるようになるためには、まず生を深く愛さなけ

ればならない。


「愛と死のパンセ」より




わたしの苦しみがなにかの訳に立つからといって、苦しみを愛してはならない。わたしは、

苦しみが実在するから苦しみを苦しみとしてあるがままに愛さなければならない。


「愛と死のパンセ」より




 アッシジの聖フランシスコを除いて、キリスト教は自然界の美をほとんど失いかけている。 



ペラン神父への手紙より




このような精神状態と、悲惨な肉体的状況にあったわたしが、ああ、これもまた極めて

 悲惨な状態にあったこのポルトガルの小村に、ただひとり、満月の下を、土地の守護聖人 

の祭りの当日に、はいって行ったのでした。この村は海辺にありました。漁師の女たちは

、ろうそくを持ち、列をなして小舟のまわりを廻っていました。そして、定めし非常に古い聖

歌を、胸も引き裂けんばかり悲しげに歌っておりました。何が歌われていたかはわかりま

せん。ヴォルガの舟人たちの歌を除けば、あれほど胸にしみとおる歌を聞いたことはあり

ませんでした。このとき、突然、わたしは、キリスト教とはすぐれて奴隷たちの宗教である

ことを知り、そして奴隷たちは、とりわけこのわたしは、それに身を寄せないではおられな

いのだという確信を得たのでした。・・・・・・・・・・・・・ペラン神父への手紙より






詩というものは、別の社会的地位にある人々にとってはぜいたく品である。 

 民衆はパンと同じように詩を必要としている。それは言葉の中に閉じ込め 

られた詩ではない。そういう詩は民衆にとって何の役にも立たない。日々

の生活の実体そのものが詩であることを民衆は必要としている。このよう

な詩は、ただ一つの源泉しか持っていない。その源泉は神である。このよ

うな詩とは宗教にほかならない。





奴隷であるということは、永遠の光りが一すじすらもさしこんでこない労働、詩のない労働、宗教のない労働に

従事するということである。永遠の光よ、人間がなぜ生きるのか、なぜ働くのか、その理由はなんでもよい、そん

なことの詮索をしないですむような生の充実感をあたえ給え。そうでないと、われわれを労働に駆りたてる刺激

は、ただ強制か、さもなければ利欲だけになってしまう。強制は民衆を抑圧の虜とし、利欲はかれらを頽廃に

追いやる。


「愛と死のパンセ」より




徒労に見合う喜び、それは感覚的な喜びだ。たとえば、食べること、休むこと、日曜日の楽しみの数々、だが

金銭はけっしてそこにはいらない。大衆を主題にした詩で疲労がうたわれていなければ、また疲労から生じる

飢えと渇きとがうたわれていなければ、それは本物の詩とはいえない。


「愛と死のパンセ」より




卵が閉じこめている暗闇から真理の明るさの中に飛び出すにあたって、あなたはもはや

 殻を突き破ればそれでよいのです。あなたはすでに、その殻をつっつきはじめています。 

卵とはこの可視的世界です。ひよことは愛です。愛とは神御自身であり、最初は目に見

えない萌芽として、すべての人間の内奥に宿っています。殻が突き破られて、存在がそ

とに現れても、対象となるのはやはりこの世界なのです。・・・・・・・・・・・・・



ジョー・ブスケへの手紙より




 おふたりがご健康でいらっしゃり、お金のご心配もないようでしたら、 

どうか青い空や、日の出や、夕日や、星や、牧場や、花が咲き、

葉がのび、赤ん坊が育つのを、心から存分に味わい、たのしみつ

くしてくださったらいいのに、と、何よりも願っています。一つでも美

しいものがあるところにはどこにでも、このわたしも一しょにいるの

だとお思いになってください・・・・・・・・・・・・・・・・




死の数ヶ月前に、両親に書いた手紙

「純粋さのきわみの死」 田辺 保 著 北洋社より







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