1997.3.23
ラマナ・マハリシ著 山尾三省 訳 めるくまーる社
鳥獣からも慕われ、アシジの聖フランチェスコに比されるラマナ・マハリシは、しかし、 最もインド的なグル(師)であった。17歳にして死との葛藤を超克、精神の至高の座に 再生した彼は、南インドのティルヴァンナマライにあって、数年間の沈黙ののち、平易 な言葉で深い真理を語り始めた。没後30年余年、彼が瞑座したアルナチャラの赤い 山からは、今なお一筋の白い光がわれわれを射る---「私は誰か」・・・・・・・・・ 同著・帯文より引用
ラマナ・マハリシの言葉
言葉がどうやって起こってくるのか考えてみよう。抽象的な知識がある。だが、そこか らエゴが生じる。そのエゴはつづいて想いを生じさせ、想いは語られる言葉になる。言 葉はだから、原初の源の曾孫にあたる。そのような言葉が、ある効果を生み出しうるな らば、考えてもみよ、沈黙をとおして語ることは何層倍も強力なものではなかろうか! けれども人々は、この単純な裸の真理、彼らの日々の真理、つねにそこにあり永遠の経 験であるものを理解しない。この真理とは、自己の真理のことである。自己を知らない 人がどこにいよう。それなのに人々は、この真理を耳にすることさえ好まない。彼ら は、彼方にあるものや天国、地獄や再生については熱心に知りたがる。・・・・・・ 彼らは不思議を愛しており、真理を愛してはいないので、宗教は、結局は彼らを自己 の周辺に連れてゆく程度のものしか提供することができない。どのような方法を採るに せよ、あなたは結局は自己に帰ってゆかねばならない。そうであるなら、なぜここで 今、自己の内に住まないのか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どんな重荷がかかろうとも、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを 動かしてゆくのに、われわれはなぜその力に身をまかせないのだろうか。なぜわれわれ は、何をどうすべきかと思い悩み、何をどうすべきではないかを思い悩むのだろうか。 われわれは、汽車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。汽車に乗ってまで も、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心 しなさい。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人は、深い帰依の感覚なしに、ただ機械的に表面的に神の御名を使ってはならない。 神の御名を使うためには、人は熱望と率直な自己放棄をもって求めねばならない。 その放棄の後にのみ、神の御名がその人とともにある。・・・・・・・・・・・・
あなたの務めはは、在ることであり、これであったりあれであったりすることではない。 「私は私であるものである」ということが、すべての真理の要諦である。その方法は 「静かであること」に尽きる。では静寂とは何を意味するのだろうか。それは「あなた 自身を打ち壊す」ことを意味する。なぜなら、すべての名前と形が困難の原因だからで ある。「私-私」が自己である。「私はこれこれである」というのがエゴである。「私」が 「私」のみを保ちつづけるとき、それは自己である。それが突然に脇道にそれて「私 はこれであり、あれであり、これこれである」と言うとき、それはエゴである。・・
沈黙は最も力強い仕事の形である。聖典がどんなに広大で、どんなに力をこめて説い ているとしても、結果においてはその力は衰える。静寂であり恵みであるグル(師)は、 すべてに浸透する。この沈黙は、すべての聖典を集めたものより広大で、力強いもの である。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自己実現した霊の力は、すべてのオカルトの力より遥かに強力なものである。聖者 の内にエゴがなければないほど、彼にとって「他者」というものはない。あなたに与え られうる最高の利益とは何だろうか。それは幸福である。幸福は平和から生まれる。 平和は障害物のないところにだけ行きわたることができる。障害は、心の内に起こる 想いによって生じる。心そのものが空になるとき、完全な平和があるだろう。人は、そ の心を絶滅しないかぎり、平和を得ることも幸福を与えることは出来ない。心を持たな い聖者にとって「他者」というものはないにもかかわらず、彼の自己実現という事実そ のものが「他者」をじゅうぶんに幸福にするのは、そういう理由からである。・・・
これはまた、あなたのことでもある。本当は、あなたがみじめで不幸であるべき理由 な何もない。あなたは自分で、本来無限定の存在であるあなたの性質に制限を課し てしまっている。そして自分が限定された生きものにすぎないことを泣いている。あな たは、そのありもしない束縛を越えるために、どんな方法でもいいからサーダナ(修行 )をしなさい。けれども、あなたのサーダナそのものが束縛性を帯びているのなら、 束縛を越えることなどできるものではない。私がこう言うのだから、あなたは本当は無 限定の純粋な存在であり、絶対の自己であると知りなさい。あなたはつねにその 自己であり、自己以外の何ものでもない。それゆえに、あなたは、本当はけっして 自己について無知ではありえないのである。あなたの無知は、単なる形式上の無知 であり、いなくなった十人目の男についての十人の愚かな者と同じような無知である。 嘆きをもたらしたものは、この無知である。真実の知識とは、あなたに新しい存在を作 り出すのではなくて、ただあなたの「無知な無知」をぬぐい去ることであると知りなさい。 至福は、あなたの本性につけ加えられるものではない。それはただあなたの真実で 自然の状態として、永遠で不滅の状態として現われる。あなたの嘆きを乗り越える唯 一の道は、自己を知り自己であることである。どうしてこれが到達不可能なことだろうか。
マウナ(沈黙)はイシュワラ・スヴァルーパ(神の自己)である。それゆえ聖典は 「至高のブラフマンの真理は、沈黙の言葉によって現される」と言っている。
放棄そのものが、力強い祈りである。 あなたが、神はあなたがしてほしいことのすべてを為してくださると信じるなら、 あなた自身を彼に放棄せよ。さもなくば、神のことはさておき、あなた自身を知るがよい。
熟していない心が彼の恵みを感じないとしても、それは神の恵みがないことを 意味してはいない。なぜなら、神がときどき慈しみがなくなるということは、神で あることを中止することだからである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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この書を読み終わって、私は言葉をなくした。この書に解説など必要ない。あるのは 沈黙だけだ。私の心に様々な言葉が浮かんでは飛び交ったが、その愚行だけは避け ねばならない。インドの精神が遥か昔から自己を黙想することにより、自己の中に神 が住んでいることを悟った。この大宇宙から見れば、地球は小さな小さな星である。 しかし、地球と共に生きるそれぞれの民が「沈黙」の内に花咲かせた精神文化とい う花はなんと香しいのだろう。異なった色彩を持つがゆえに、なんとこの真理の花た ちは心ある人たちの目を歓喜で満たし、潤してくれるのだろうか。
「沈黙から祈りへと流れゆく聖なるもの」を参照されたし
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