未来をまもる子どもたちへ




魅せられたもの

1997.3.16








はじめて文明を見た南海の首長ツイアビの演説集

「パパラギ」 エーリッヒ・ショイルマン 編・岡崎照男 訳 立風書房


パパラギの言葉


おまえたち、明敏なわが兄弟よ、わたしたちはみな貧しい。太陽の下、私たちの国ほど貧し

い国はない。私たちのところには、箱いっぱいの丸い金属もなければ重たい紙もない。パパ

ラギ(白人)の考えからいえば、私たちはみじめな物乞いなのだ。だがしかし!おまえたちの

目を見、それを金持ちのアリイ(紳士・男)の目と比べるなら、彼らの目はかすみ、しぼみ、疲

れているが、おまえたちの目は大いなる光りのように輝いている。喜びに、力に、いのちに、

そして健康にあふれ、輝いている。おまえたちの目は、パパラギの国では子どもだけしか持

っていない。言葉も話せない、それゆえお金のことは、まだ何も知らない子どもだけしか。・・

大いなる心は、私たちをアイツウ(悪魔)から守ることによって、私たちを愛してくださった。お

金がアイツウである。その仕業はすべて悪であり、悪を生む。お金にさわったものは、その魔

力のとりことなり、それをほしがるものは、生きているかぎり、その力もすべての喜びもお金の

ために捧げねばならない。もてなしをしたからといって何かを要求したり、何かをしてやったか

らといってアローファ(贈り物・交換品)をほしがるような人間を、私たちは軽蔑する。という尊

いならわしを、私たちは大切にしよう。ひとりの人間が、他の人たちよりずっとたくさんの物を

持つとか、ひとりがうんとたくさん持っていて、他の人びとは無一物、というようなことを私たち

は許さない。そのならわしを大切にしよう。そうすれば私たちは、隣の兄弟が不幸を嘆いてい

るのに、それでも幸せでほがらかにしていられるあのパパラギのような心にならずにすむ。・・







時間というのは、ぬれた手の中の蛇のようなものだと思う。しっかりつかもうとすればするほ

ど、すべり出てしまう。自分で、かえって遠ざけてしまう。パパラギはいつも、伸ばした手で

時間のあとを追っかけて行き、時間に日なたぼっこのひまさえ与えない。時間はいつでも、

パパラギにくっついていなければならない。何か歌ったりしゃべったりしなければならない。

だが、時間は静かで平和を好み、安息を愛し、むしろの上にのびのびと横になるのが好き

だ。パパラギは時間がどういうものかを知らず、理解もしていない。それゆえ彼らの野蛮な

風習によって、時間を虐待している。・・・おお、おまえたち、愛する兄弟よ。私たちはまだ

一度も時間について不平を言ったことはなく、時の来るままに、時を愛してきた。時間を折

り畳もうとも、分解してばらばらにしようとしたこともない。時間が苦しみになったこともなけ

れば、悩みになったこともない。私たちの中に、時間がないというものがいたら、前に出る

がよい。私たちはだれもが、たくさんの時間を持っている。だれも時間に不満はない。私た

ちは今持っている、今じゅうぶんに時間を持っている。これ以上に必要とはしていない。私

たちは知っている。私たちの一生の終わりのときが来るまでには、まだまだじゅうぶんの

時間があることを。そしてそのとき、たとえ私たちが月の出た数を知らなくても、大いなる

心はその意志のまま、私たちを呼び寄せてくださることを。私たちは、哀れな、迷えるパパ

ラギを、狂気から救ってやらねばならない。時間を取りもどしてやらねばならない。私たち

は、パパラギの小さな丸い時間機械を打ちこわし、彼らに教えてやらねばならない。日の

でから日の入りまで、ひとりの人間には使い切れないほどたくさんの時間があることを。







おお、兄弟たちよ、こんな人間をどう思うか。サモアの一つの村なら村びと全部がはいれる

ほど大きな小屋を持ちながら、旅人にたった一夜の宿も貸さない人。こんな人間をどう思う

か。手にバナナの房を持ちながら、すぐ目の前の飢えた男に乞われても、ただの一本も分

けてやろうとしない人。私にはおまえたち(白人を指す)の目に怒り、唇には軽蔑の色の浮

かぶのが見える。そうなのだ、これがいつでもパパラギのすることなのだ。たとえ百枚のむ

しろを持っていても、持たないものに一枚もやろうとはしない。それどころか、その人がむし

ろを持っていない、と言って非難したり、むしろがないのを、持たない人のせいにしたりする

。たとえ小屋のてんじょうのいちばん高いところまで、あふれるほどの食物があり、彼とア

イガ(家族)が一年食べても食べきれないほどでも、食べるに物なく飢えて青ざめた人を探

しに行こうとはしない。しかもたくさんのパパラギが飢えて青ざめて、そこにいるのに。熟し

たヤシは、自然に葉を落とし実を落とす。パパラギは、葉も実も落とすまいとするヤシの木

のように生きている。「これはおれのものだ! 取っちゃいけない! 食べちゃいけない!」

どうすれば、ヤシは新しい実を結ぶか。ヤシはパパラギよりずっとかしこい。・・・・・・







兄弟よ、神さまの愛とおまえたちへの愛が、私の心に満ちている。だからこそ神さまは私に

小さな声を与えてくださり、これまでおまえたちに語ったようなことを、すべて私は語ることが

できた。そうすることでしっかりと私たちが踏みとどまり、すばやく動いて人をだますパパラギ

の舌に、私たちが打ち負かされることのないように。もし白人が近づいて来たら、これからは

手を前に伸ばしてこう言ってやろうではないか。「大きな声を出さないでおくれ。おまえの言葉

は、くだける波の音、ヤシの葉ずれのざわざわだ。おまえの顔が喜びと強さにあふれ、おま

えの目が輝かないかぎり、そしておまえの姿から、神さまのお姿が太陽のように射して来な

いかぎり、おまえのおしゃべりはもうたくさんだ」 ・・・私たちはさらに誓いを立て、彼らに呼び

かけよう。私たちに近づくな。おまえたちの喜びと快楽を持って私たちに近づくな。腕にも、

頭にも富を求め、かき集めてきた野蛮な略奪物を持って私たちに近づくな。兄弟よりも豊か

であろうとする貪欲さ、たくさんの無意味な行ない、むやみやたらに手を動かす物作り、好

奇心だけでものを考えて、なんにも知らない知識、そういうがらくたを持って私たちに近寄る

な。むしろの上のおまえたちを、安らかに眠らせることさえしないあらゆる馬鹿馬鹿しい行

ない。そういうものを、私たちはいっさい必要としない。私たちは神さまからたっぷりといた

だいた、気高く美しい喜びでじゅうぶん満足できる。私たちが神の光に目がくらみ、迷路へ

こんでしまわないように、そうではなくて、、神の光があらゆる道を照らし、私たちが光の

中を歩めるよう、自分たちの心の底で、神の光を受け止めるよう、神さまがどうか、私たち

を助けてくださるように。神さまの光り、そう、それはたがいに愛し合い、心にいっぱいのタ

ロファ(あいさつ)を作ること。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 
 


パパラギとは白人のことである。南海の島に住む酋長が自分の島の人々に白人の世界

はどのようなものなのかを、聞かせる形でこの本は始まる。この本を読みおわって、様々

なことが私の頭を過ぎった。それは南の島の一年中温暖な、そして外界からある程度閉

ざされた風土に芽生えた豊かな精神文化の薫り高い歌姫であるということ。しかし、また

一方で彼らとは正反対の不毛の土地を放浪しながら、現在の地に居を構えたイスラエル

の人々。イスラエルの人にとって、そのような環境にあるということは、自然というものは

人間が乗り越えてゆくものであり、人間が支配しなければならないものだった。このように

南の島の独特な風土とは全く異なるものに置かれている民族にとっては、それぞれ生れ

育つ精神文化は別の形を取るということをまず踏まえなければならない。しかし、本書を

「南海の楽園にこそ咲いた豊かな精神文化」とは、決して片づけられないことに気づく。



アメリカ・インディアンの最古の民族と言われているホピ族は、かなり昔からグランドキャ

ニオンの近くに生活している。そこは決して肥沃な土地ではなく、イスラエルの放浪した

民と同じような風土に耐えている。しかし、ホピ族にとっては、自然は乗り越えるものでも

なく、まして支配しなければならないものでもない。「聖なる輪」という言葉に象徴される

ように、共に大地に生きるものであり、人間は多くのほかの命に対して責任を負っている

ということだ。このホピ族とイスラエルの民との視点の違いはどこから来るのだろう。厳密

に言えば、両者の風土は全く同じはずではなく、そこに生まれる精神文化も異なると言

えよう。しかし、自然界に対して、他の生命あるものに対する歴然としたこの差は何故な

のか。あのイスラエルの民にとって心の支え、行動規範は聖書であったことは事実であ

る。聖書には創世記から最後の審判までが直線として描かれている。そしてそれぞれの

時代において当然のように終末的な予感が頭をかすめてゆく。そこには、リンダ・ホーガン

が指摘するところの「この星の未来への責任」とか「子々孫々に何を残してゆかねばなら

ないのか」という視点が欠如している。ここにこそ直線で描かれるものと、輪となって回り

続けるものとの決定的な差があるのではなかろうか。私自身、風土に応じて精神文化が

どのように形で生まれ出でるのかの勉強はしたことがないし、上の私の推察も見当はず

れなのかもしれない。しかし、この二千年の間、地球に共に生きる生命に対して言うとこ

ろの「未来への責任」という視点が殆ど顧みられなかったことは事実であろう。私の知っ

ている限りでは、アッシジの聖フランシスコは違った。シモーヌ・ヴェイユが次の言葉を投

げかけたのは当然のことのように思えてならない。「アッシジの聖フランシスコを除いて、

キリスト教は自然界の美をほとんど失いかけている。」・・・・・・・・・・・・・・



話が「パパラギ」から随分と横にそれてしまったが、たとえ南海の豊かな風土とは異なる

所に生きる者でも、本書の叡智に満ちた言葉を「楽園に生きる者特有の精神文化」として

位置づけることは許されない。それは、アメリカ・インディアン、エスキモー、アイヌの方達

がすでに指し示しているのではないだろうか。ギブ・アウェイ・「与え尽くし」に徹する彼ら

の精神文化の源を、我われ現代文明の下で生きる者は学ばなければならないのだろう。

そこにこそ「パパラギ」が指摘するところの現代文明の危機と不毛を救う唯一の指標があ

るような気がしてならない。未来に対して我々はどのような責任を持っているのだろうか。

(K.K)



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