未来をまもる子どもたちへ


魅せられたもの

1997.4.13




シモーヌ・ヴェイユ


さまざまとある正しい宗教の伝承は、すべて同一の真理の種々ことなった反映に

すぎず、おそらくその貴重さはひとしいのです。ところがこのことが理解されてい

ません。各人はこれらの伝承のひとつだけを生きており、他の伝承は外側からな

がめているからです。・・・シモーヌ・ヴェイユ・「ある修道士への手紙」より







この言葉を聞いて、いわゆる良識ある人々の多くはうなずくかもしれない。山頂は

同じでも、そこに至るまでの道はひとつではないという考えを良しとしている。

たぶんそれはそうなのだろう。しかし、この言葉を軽々しく使ってはならない。

真理が宿る山のふもとに腰をおろし、多くの登山道があるのではないかと、頭の

中で想像するしか出来ない者。つまり、一歩もこの山に登る決意もなしに、この

ような言葉をあやつる人々が如何に多いことか。このような人々には、シモーヌ・

ヴェイユが語ろうとしていることは、全く理解できないであろう。上の言葉に込め

られている深い意味に、傍観者は近づくことさえも出来ない。シモーヌ・ヴェイユ

は、多くの、ある意味で整備された登山道(既成宗教)を避け、ただ頂上に輝く

真理の光を唯一の指標としていばらの道を登った。それはヴェイユがいついか

なる時も、この世の中で最も虐げられている人と共にいたかったからである。

だからあれほど十字架のイエスに心奪われていたにもかかわらず、決して「洗

礼」を受けようとはしなかった。自分が「洗礼」を受けるということは、彼女にと

っては特権を身にまとうことであり、教会の外に生きている人々のことが頭から

離れなかったのである。実際に現代でも物理的な条件で聖書の言う福音に触れ

ることが出来ない人々がいる。そしてそれは遠い過去まで溯ると想像を絶する

人々が、この福音から、つまり自分の意志とは無関係な彼方に遠ざかっていた

という事実があるのだ。人は生まれた環境によって、信じる宗教が異なるのは

自然なことである。ここに一人のキリスト教徒がいる。果たして、この人はたとえ

自分がイスラムの国に生まれたとしても、キリスト教を信仰したであろうか。否、

そのようなことを断言できる者など誰もいない。しかし、彼は声高く宣言する。「

イエス・キリストこそ唯一の真理への道だ」と。私が高校時代に頭から離れなか

ったのはこのことだった。そんなつまらないことで悩む必要なんかないだろうと

思われるかも知れない。しかし、私には避けては通れないことだった。そんな

時、ヴェイユの言葉に触れた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




つねに、あらゆる場所で、真理を望む人ならば誰でもが自由にとることの

できるように、おかれていないものはすべて、真理とは別のものである。

「超自然的認識」より引用




ヴェイユが歩いた道は、絶対の光への道だった。だからこそ、彼女にとってキリ

スト教以外の宗教も持っているところの、この光の波動を深く身に感じたので

ある。1964年、ヴェイユが亡くなって21年後、カトリック教会は第二バチカン

公会議で、「神の民について」という重要な、そして画期的な宣言をするのだ

が、その一部分を紹介することにしたい。・・・・・・・・・・・・・・・




なお、神はすべての人に生命と恵みといっさいのものをお与えになり、また救い主は

すべての人が救われることを望みたもうのであるから、影と像のうちに知られざる神を

捜し求めている他の人々からも、神はけっして遠くはないのである。事実、本人のがわ

に落度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らずにいて、なおかつ誠

実な心をもって神を捜し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵

の働きのもとに、行動をもって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達する

ことができる。また本人のがわに落度がないままに、まだ神をはっきりと認めるには

至らないが、神の恩恵にささえられて正しい生活を身につけようと努力している人々

にも、神はその摂理に基づき救いに必要な助けを拒まれることはないのである。

第二バチカン公会議・教会憲章・中央出版社より引用




この公会議の指導的な神学者であったカール・ラーナーの「人間の未来と神学」中央新書

は、上の公会議の言葉を神学的に詳しく、そして真理に対して誠実な態度をもって書かれ

ている本である。ヴェイユがこの公会議で宣言されたことを生前に聞いたら、果たして洗礼

を受けたであろうか。否、そんなことは重要なことではない。たとえどのような態度をとろう

と、ヴェイユは絶対の光に忠実に生き、最も虐げられている人々と共に歩むだろう。文字

通りに「愛の狂気」を持って。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




ある事象が神に発していることを示す公準は、真理を宣言し正義を愛するという能力

こそ喪失しないが、それらが狂気の性格のいっさいを現しているということである。

「超自然的認識」より引用




ヴェイユは感じ取っていた。キリスト教に限らず、その他の多くのものに、真理の

、絶対の光の波動が存在することに。わたしたちは最もインド的な師であった

ラマナ・マハリシが、「神の探求は、遥かな昔からずっと続けられてきました。

究極の言葉は語られたでしょうか?」と問う弟子に、「沈黙」したことを思い出さ

ねばならない。ラマナ・マハリシにとって「沈黙」することは、神の自己であり、

「至高のブラフマンの真理は、沈黙の言葉によって現される」ものであることに。

ヴェイユが言及している「各人はこれらの伝承のひとつだけを生きており、他の

他の伝承は外側からながめているからです。」の「外側」の意味するところは、

絶対の光の波動を感じないところに立っていることであり、この真理の光は深い

沈黙の内に宿ることを忘れてはいけない。そして、真理が宿る山のふもとで、た

だ傍観者にしかない者は、決してその山の頂きに立つことはないということを。

(K.K)







あなたがこの大地のうえで暮らしていて、

この大地で眠っている祖先をもっているなら、

あなたはこの大地のネイティブであると言ってもいいだろう。

ネイティブであるかないかには、

肌の色はまったく関係ない。

わたしは人間を

人種で差別するようには育てられてはいない。

われわれはみな、グレイト・スピリットの庭に咲く花なのであると、

わたしは教えられた。

われわれは同じ根っこをわけあっていると。

その根とは、母なる大地のことなのだ。

その庭が美しいのは、さまざまな色があるからだ。

そしてそれぞれの色は、

さまざまに異なる伝統や文化的な背景をあらわしている。


オー・シンナ(アメリカ先住民)

北山耕平訳 北山耕平さんのホームページ「Whole Life Catalog」より引用





キリストを愛するとは、すべてを愛することである。彼とともにすべてを愛するのでなければ、イエス・

キリストを愛しているとは言えない。私たちはブッダを愛する。この人の誠実さはキリスト教的だから。

マホメットもまたしかり。いのちと愛の足跡を見いだすところなら、どこにおいても人は安らぎを感じる

であろう。なぜなら、そこで神に出会うからだ。


「沈黙を聴く」

現代の神秘家 モーリス・ズンデルの人と霊性

福岡カルメル会 編訳 女子パウロ会 より

モーリス・ズンデル神父(1897-1975)

1897年 スイスに生まれる。

1919年 司祭に叙階される。

以後、そのユニークな思想のために教区を追われ、

長年、フランス、イギリス、エジプトなどを転々とする。

1946年 スイスに帰り、ローザンヌの小教区の助任司祭。

1972年 教皇パウロ6世により、ヴァチカンの黙想指導に招かれる。

1975年 ローザンヌで没する。





創造主がホピ族(インディアン)に語った預言・警告・教示を綴った

「テククワ・イカチ」より抜粋


バハナ(白人)がこの大地に現れるはるか昔、われらが古代の父祖たちは、あらゆる

霊的知識の達人であった。大霊と、大創造主の掟に人生を捧げていたからである。

彼らの心身は、隅々まで知恵と真理に照らされていた。彼らは大地と自然と生命のバ

ランスを知り、理解していた。人々の心の中を見透かし、人類の未来を予知し、地上

の体と天上の体の働き、生命と自然との関係を司る力を熟知していた。自然の大周

期が繁栄か災害かを生むのを決定するほど、人間の行動に力があることを知ってい

た。そこで何千年ものあいだ、われわれは平和に生き、正しい生き方を損うものを執

拗に避けてきたのだ。たしかに、われらの古代の父祖たちは、あらゆる霊的知識と

判断の主人であった。われらが大創造主の息によって、そう定められたのだ。万物

の上に立つ唯一の御方の名において、大いなる秩序と教えをもたらすためである。

その御方から、地上で生きるための指導書として、われわれに預言と教示が代々

伝授されてきた。ただ一人の大いなる霊、創造主がおられ、われわれはその子供

たちとしてひとつの幸せな家族でいなければならない。だが、平等の代わりに、人類

はカースト制度と階級闘争をつくり、互いをよこしまな目で見るようになった。ほとん

どの宗教集団は、おのれの制度が一番優れていると思い込み、父祖伝来の信仰を

通して平和に生きようとしている者たちを支配し、その領土を奪わんと、彼らを蔑視

し滅ぼそうとしてきた。だが、唯一、真の大霊は、多くの異なる名前と、地上の土地

と同じほどいろいろな性質の象徴をもって崇拝されているのである。人はこの方法

によって大霊から祝福され強められるのだ。われわれはまた、地上はまだらの小鹿

のようなものであるともいってきた。まだらは特定の力と目的を持つ地域である。

われわれの誰もが、大霊と交わるために設けられた各種の波長を授けられている。

それぞれの習慣的な方法に準じて、生命を支える特定の自然法則の働きを実現す

るためである。われわれはこの知識を知っているので、大霊の言葉を捨てる気持ち

など、さらさらない。最初の宣教使節が到来したときに、ホピは尊敬すべき民であり、

相手の宗教に介入しようとはしなかった。われわれは、彼らが知恵という武具を帯び

て到来したのだと信じ、ホピの宗教に介入することなく、かえって同様な敬意を払う

ものと信じていた。だが、長老たちの預言していた通り、そうではなかった。罪人は

原初の信仰を捨て、魂を清めて天国へ行くために他宗教に加わり、こうして死後に

ホピの地底を逃れるのだといわれた。だが、われわれは創造の初めより、大霊から

原初の道を独自に与えられているのだから、これは無意味である。ホピは他の群れ

に加わることに同調したりはしない。宣教師はわれわれの文化と霊的な道を理解す

る時間を取ろうとはしなかった。そうしていれば、ホピが唯一の大霊の存在を信じて

いることが、彼らにもわかったはずである。それどころか、彼らはわれらの民を改宗

させ、父祖伝来の道を捨てさせようとした。改宗がついには全人類の破滅を呼びか

ねない。ほとんどのホピは長老たちから終わりの日の預言を学んでいる。われわれ

が異質な他宗教に改宗するときに、大海がわれわれを呑み込むであろうといわれ

ているのだ。


「ホピ 神との契約」 この惑星を救うテククワ・イカチという生き方

トーマス・E・マイルス+ホピ最長老 ダン・エヴェヘマ著より引用


 


シモーヌ・ヴェイユ( Simone Weil )

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