「Newton ニュートン メシエ天体のすべて」夜空に光るM1からM110まで

ニュートン・ムック別冊 より引用







「M31のように頭にMを付けた天体名をよく聞きます。これはフランスの天文学者

メシエがリストアップした「メシエ天体」とよばれる天体のことで、Mはメシエの頭文字

です。かに星雲やアンドロメダ銀河、オリオン大星雲など有名で観測しやすい天体は、

ほとんど網羅されています。

(本書より引用)



 

 


大天体カタログをつくった観測天文学者シャルル・メシエ (本書より引用)



クルニー天文台にて



1751年9月23日、フランスの僧院オテル・ド・クルニーの天文学者ジョゼッペ・ニコラ・ドリールは、

ロレーヌ地方のサルム公国からやってきた天文学者見習い候補の青年に面接していました。

このクルニー天文台はフランス海軍の天文官ドリールが僧院の中に自分で組み立てたもので、

ドリールは当時名のある天文学者でした。「この青年は筆跡がきれいだし、根気もありそうだ。

星図づくりをまかせられるかもしれない」。そう判断したドリールはこの僧院の一室をこの青年に

与え、雇うことにしたのです。この青年がシャルル・メシエでした。それから3年間、天文学の初歩

をみっちりドリールに、丁寧な記録の取り方をドリールの秘書リボーにしこまれたメシエ青年は、

1754年、フランス海軍の天文事務官として正式に雇われることになりました。



メシエの生い立ち



シャルル・メシエは1730年6月23日、フランスのロレーヌ地方のサルム公国(フランスに最も遅く

併合された地域、現在のムルト・エ・モゼル県にあたる)の主要都市バドンヴィレで生まれました。

父親はサルム公国の執務員で、彼は12人兄弟の10番目だったそうです。物心つく以前に兄弟の

半分を失い、メシエが11歳のときには父も失い、それからは長男が家督を継いで公国の役人と

なり、メシエの教育にもあたったといいます。ところが1751年、フランスのお家事情により、サルム

公国の割譲が決定され、長男はサルム公に忠誠を示し、バドンヴィレを去ることになります。こう

して、21歳の青年メシエはパリへ、天文学者ドリールの元へと向かうことになったのでした。



メシエ、彗星を発見



1758年のある日、ドリールはメシエに、自分の計算したハレー彗星の軌道を「星図にかき、その

軌道を観測するように」いいつけました。当時、ハレー彗星が現れるころだとは推測されていまし

た。しかしそれは、机上の計算にもとづくただの推測でしかありませんでした。見つけることができ

れば、大きな名誉です。メシエは立派な図をえがき、毎夜望遠鏡で観察をつづけましたが、一向に

ハレー彗星は現れません。しかし、別の彗星を見つけ8月14日から11月2日まで観察することがで

きました。その彗星はデ・ラ・ヌックスが1758年5月26日に発見したものでした。



パリッチュに先を越されて



尊敬する雇い主ドリールのいいつけで観測をつづけていたメシエでしたが、軌道計算が変なのでは

と疑いはじめた1759年1月21日、別の場所でたまたま動く星を見つけました。それがハレー彗星だっ

たのです。メシエはこのことをドリールに報告しますが、なぜかドリールは認めず、他言せぬようにと

メシエに口止めをしました。実はこのときのハレー彗星は、すでに1758年12月にドイツのアマチュア

天文家ヨハン・ゲオルグ・パリッチュが発見していました。メシエの発見はこの4週間ほど後のことで

した。パリッチュに先を越されてしまったのです。メシエの発見したハレー彗星は太陽をまわってきた

後だったのでした。それでもメシエのこの発見記録には価値があります。そして、ドリールもさすがに

このことをだまっているわけにはいかなかったのでしょう。学会に発表します。ところが、発表の日は

4月1日でした。エイプリルフールだと学会では信じてもらえなかったそうです。このことがメシエにどん

な影響をあたえたかはわかりません。しかし、それからというもの、メシエは精力的に彗星探しをする

ようになっていきました。



邪魔ものをカタログしはじめる



そんな彗星探しの中、メシエは彗星に似たまぎらわしい天体を発見しました。彼はその邪魔な天体に

自分の名前の頭文字を与え、番号を振って集めていこうと思いたったのです。そうすれば、彗星探し

の効率化がはかれます。この邪魔ものリスト、これが現在のメシエカタログとよばれる、星雲・星団・

銀河のリストです。(ただし、不明な天体や二重星、同じものの再録などもあり、110個とされているわ

けではありません)。メシエカタログの中にはメシエ本人が発見したものがありますが、メシエが先行

の位置を観測し、再確認して掲載したものもあります。メシエの時代に至るまでの総集編ともいうべき

大カタログを意図したからです。そして、このカタログはイギリスの望遠鏡製作者でもあり、観測天文

学者ウィリアム・ハーシェルに大きな影響を与え、ハーシェルのつくるさらに大きなカタログへとつな

がっていったのです。



学士院会員に選ばれる



先に記したようにメシエは大きな天体カタログをつくり、発表しましたが、彗星ハンターとしても13個を

発見するなど、大きな業績を残しています。ドリールはその後、メシエには好きなだけ観測できるよう、

天文台を自由に使わせてくれるようになりました。ドリールが「高齢になり、自分では観測が思うように

できなくなったから」という説もありますが、メシエが自分の後継者として有能であることをおおやけに

認めたからでもあるのでしょう。1765年ドリールは退職します。さて、フランス学士院の会員になれば、

地位と名声が約束されます。しかし、多少の業績では会員になることはできません。メシエはとリール

に天文台をまかされたこrから積極的に観測を進め、ハレー彗星発見から4年後の1763年、その学士

院候補になります。しかし、このときは惜しくも選ばれませんでした。このころからメシエは1764年の

ハーレン(オランダ)の学会会員を皮切りに、同年ロンドン王立科学学会(イギリス)、1765年にはオク

セールの学会(フランス・ブルゴーニュ地方)、ボローニャ研究所員(イタリア)と、さまざまな学会や外国

の科学院の会員になっていきます。外国の研究者たちのネットワークをつくって交流を深めたのです。

そして、ついに1770年、メシエが40歳のとき、やっとフランス学士院はその扉を開き、メシエを学士院

会員として選定しました。



結婚、それにつづく不幸



メシエは学士院会員になったその年の秋も深まった11月26日、結婚します。そして、それにつづく妻の

妊娠、1772年3月15日に長男アントワープ誕生。幸せな暮しが待っているはずでした。しかし、その幸せ

は一瞬でした。3月23日、妻が亡くなり、3日後の26日には長男も失ってしまったのです。この年の秋、

メシエは休みをとって故郷のロレーヌ地方に出かけています。



ピエール・メシャンとの出会い



1774年ころメシエは、以後共同で作業をすることになるピエール・メシャンと知り合います。ピエール・メ

シャンはメシエより14歳年下で、同じように天文観測への情熱に燃えていました。メシエの13個には及ば

ないものの、8個の彗星を発見しています。メシエカタログ中、メシャンが発見したメシエ天体は24個にも

及びます。メシエ本人が発見したのは46個です。44歳のメシエにとってはよきライバルでもあり、よき友人

でもあったのでしょう。カタログ中の疑わしい天体のうち、M101とM102についてメシャンがその後、「自

分がM101を再観測してM102にしてしまった。M101とM102は同じものだった」と外国の天文学者あ

てに書簡で伝えた記録が残っています。メシャンは1804年スペインで黄熱病のため亡くなりました。一方、

71歳になった1801年の7月12日に発見した彗星を最後に、メシエの活躍も見られなくなります。1817年4月

11日から12日にかけての深夜、メシエはパリの自宅で亡くなりました。享年87歳の生涯でした。


 


目次

1 シャルル・メシエとメシエ天体

大天体カタログをつくった観測天文学者シャルル・メシエ

メシエ天体の分類について



2 メシエ天体全カタログ

M1〜M30
かに星雲、ちょう星団 わし星雲 三裂星雲など

M31〜M60
アンドロメダ銀河、オリオン大星雲、プレセペなど

M61〜M90
ひまわり銀河、黒目銀河など

M91〜M110
ふくろう星雲、回転花火銀河、ソンブレロ銀河など

コラム・星の一生

コラム・星の誕生とメシエ天体

コラム・星の死とメシエ天体



3 資料編

メシエ天体一覧

星座とメシエ天体

メシエ天体はどう見える?

メシエ天体発見者一覧

各天体のデータについて

コラム・一晩で全天体を制覇する「メシエマラソン」



天空の果実 に戻る







双眼鏡で見る春の星空 双眼鏡で見る夏の星空

双眼鏡で見る秋の星空 双眼鏡で見る冬の星空

天体観測に適した小・中口径の双眼鏡

天体観測に適した大口径の双眼鏡

(映し出されるまで時間がかかる場合があります)

いい双眼鏡とはどんなもの

雑記帳(魅せられたもの)

神を待ちのぞむ

天空の果実


「天空の果実」に戻る