1997.2.9
「純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である」
シモーヌ・ヴェイユ 「重力と恩寵」より
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ユダヤ人の大量虐殺にも関することですが、人間は善と悪、二つの全く相反する異質なものがまる で背中を合わせた状態のようにあるということです。インディアンは良く「中庸」という言葉を使います が、キリスト教においても何よりも人間の自由意志というものを神は望んでいると言われています。 善と悪、そのどちらかを選ぶ決断は一人一人の自由な意思に任せられているのでしょう。ヴェイユ は「純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である」と言っていますが、私たちも自分の内面に潜む 「悪」を如何に自覚するのか、そしてその上で如何に中庸にその身を置くのかが問われているのか も知れません。そこに立ってこそ初めて自由意志で決断することが出来るのでしょう。現代には多 くの残虐な事件があり、それはこれからもっと増えていくことでしょう。その残虐性を社会的な拘束 力で強制的に封印することは一時的には有効であっても、封印されたものはいつまでも魂の奥底 でくすぶり続けており、封印が解かれた時にはより大きな災難がかれ自身にも、そして社会自身 にももたらされるのかも知れません。ただ中庸の道、それは私にとっても言葉で言えるほど簡単 な道ではありません。(2003年更新履歴より)
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