未来をまもる子どもたちへ



散文詩「時の彼方へ」

1993年3月に書き、俳句雑誌「多羅葉」に掲載。





APOD: 2014 August 2 - NGC 7023: The Iris Nebula (大きな画像)



「時の彼方へ」




我が血は何処より来たのか

我が骨は何処より来たのか



お前たちは気が遠くなるような果てし無い時空の中を

幾度も幾度も姿を変え 今この私の中に息づく

150億年というはるか昔

大宇宙のあらゆる粒子は一つの光輝く家族だった

それがやがて烈しい大爆発とともに

兄弟は離れ離れになり

それぞれの宿命を背負った

或るものは

生命溢れる緑の星を形作り

或るものは

慰めも与えられない虚無の宇宙空間を漂う

しかし この緑なる星も数十億年後

燃え盛る太陽の体内に吸いこまれ大爆発し

お前たちは再び暗黒の宇宙空間を彷徨うことだろう



我が血よ

我が骨よ



この体が大地に横たわり

その屍が朽ち果てるとも

いつかそれぞれの粒子は全く違う運命を背負ってゆくのだ

あらゆるものが生と死を永遠に繰り返してゆく

この大宇宙に思いを馳せる時

私はこの世に存在するすべてのものが

家族のように身近に感じられてならない

それぞれが150億年という時を生き抜いてきた

過去においても未来においても

何ひとつ無意味なものはなく

何ひとつ無関係なものはない



私はふと子供たちが私の膝に何気無く座り

その安堵に満ちた瞳を投げかけているのに気づいた

この子たちはどのような人生を送るのだろうか

彼らはまだ前途に荒波が打ち寄せてくるのを知らない

私は抱き締めたくなる気持ちを抑え

彼らの眼差しを受け容れた

私と全く異なる人間がそこにおり

彼らのまなこが私に語りかけてくる

「心配しないで私たちの人生は私たちの手で切り開くよ」と

外は銀世界に包まれていた

あらゆる扉が固く閉ざされ

生命あるものはじっと春を待ちのぞむ



私は北の大地を旅したことを想い出した

うららかな日差しのもと

一輪の花が喜び踊るように風にそよいでいるのを見た

花は崖の上に咲いていた

誰にも顧みられないだろう

しかしその花は命の尽き果てる迄

その炎を燃やし続けるだろう

どれ程の恐ろしい嵐が吹き荒れても

花は最期の一瞬まで与えられた使命の為に戦い続ける

何の不満も言うこと無く

何の疑問も感じること無く

私はこの時 偉大な詩人の魂に触れたのだ

あれから幾度 雪花は大地に舞ったのだろう

再びこの偉大な魂に巡り合ったのは一冊の本からであった

或る若い女性は自分が近いうちに死ぬことを知っていた

ここアウシュヴィッツ収容所では僅か五年の間に

三百万人もの命が飢餓・拷問・虐殺により露と消えた



  それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。

「私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝

していますわ。」と言葉どおりに彼女は私に言った。

「なぜかと言いますと、以前のブルジョア的生活で私は甘やか

されていましたし、本当に真剣に精神的な望みを追っていなか

ったからですの。」 その最後の日に彼女は全く内面の世界へと

向いていた。「あそこにある樹は一人ぽっちの私のただ一つの

お友達ですの。」と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。

外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の

寝台の所に屈んで外を見るとバラックの病舎の小さな窓を通し

て丁度二つの蝋燭のような花をつけた一本の緑の枝を見ること

ができた。「この樹とよくお話しますの。」と彼女は言った。

私は一寸まごついて彼女の言葉の意味が判らなかった。

彼女は譫妄状態で幻覚を起こしているだろうか? 不思議に 思っ

て私は彼女に訊いた。「樹はあなたに何か返事をしましたか?

-しましたって!-では何て樹は言ったのですか?」  彼女は

答えた。

「あの樹はこう申しましたの。

私はここにいる-私は-ここに-いる。

私はいるのだ。永遠のいのちだ・・・・・・・。」

 (V・フランクル著「夜と霧」みすず書房刊)



あらゆる存在が150億年の時を生生流転してきた

しかし貴女が手にした真に在ることを見つめる眼差しは

尽き果てることの無い永遠なる命の泉を

清澄なる水光で湛えさせ

無数の人と共に焼却炉で焼かれた名もない貴女の魂は

光の証人として

永遠なる時の彼方に息づく




祈りの散文詩集

散文詩「遥かなる銀河」




2014年10月11日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。




(大きな画像)


10月8日の皆既月食と天王星(写真はNASAより引用)


右下に光る二つの星で明るい方が天王星です。



もし地球を6センチの饅頭に例えると、天王星はサッカーボールほどの大きさになり、その距離は地球という

饅頭から12.5キロもの先に位置します。



地球と天王星の間には、火星・小惑星帯・木星・土星だけがあることを想像すると、約40億年先の未来に

天の川銀河とアンドロメダ大銀河が衝突すると予想されても、星と星の衝突は殆どないのかも知れません。



40億年先、もちろん私たち現生人類は生きてはいないでしょうが、膨張する太陽から脱出した新たな人類が、

違う星の上に立っている。



このようなことを言うと笑われそうですが、新たな人類はもう誕生しているかも知れないと思うことがあります。



ネアンデルタール人、デニソワ人がそうであったように、私たち現生人類と姿かたちがあまり変わらない

新たな人類が、この地球のどこかで産声を上げているかも知れない。



そして、彼ら新しい人類は数万年先、私たち現生人類をどのように結論づけることになるのか。



ただ、たとえ人類が入れ替わったとしても、私たちが作ったいい風があるとしたら、彼らの中にも必ず

それが流れているのでしょう。



愛すべき月と星ぼしたち、その存在を通して、私たちは遥か太古と遥か未来を、これからも思い描いてゆく。



 



2011年8月30日 更新履歴より



随分昔から読まなければいけないと思いつつ手にとるも、どうしても読めない本があった。

それは「夜」ヴィーゼル著で、当時15歳の少年がアウシュヴィッツの体験を記した本である。

何故読めなかったのか、何を恐れていたのか、自分の中でも漠然としていたものが明るみに

出されてしまうのが怖かったのか、その想いは最近本書を読んだ後も変わらなかった。本書

が描き出す地獄絵図、自分が生きてきた尺度では想像することすらできない深い暗闇の底。

私はこの暗闇が自分にも潜んでいることを恐れていたのかも知れない。だから本書を前にし

ながらも開けようとはしなかったのだろう。今まで確かにユダヤ人虐殺(ホロコースト)の本は

何冊か読んできたが、熱心なユダヤ教の青年が 「私は原告であった。そして被告は神」と言

わしめた、その言葉に私自身耐えられるだろうかと怖れていたのかも知れない。そしてこの

証言を、証言を記録したこの文献を誰かに薦めようとは思わない。それ程、本書に描かれて

いる地獄絵図は読者一人一人が人間の本質を、自らの力で考え、そして答えを出さなければ

ならないことを暗に迫ってくるからだ。ただ自らが持つ暗闇、その暗闇から目を避けていては、

いつまでたってもこの世界は幻想であり、夢遊病者のように生きるしかない。シモーヌ・ヴェイユ

が言うように「純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である。」の言葉の真の重さを私の心が

受け止める日が来るのだろうか。



この暗闇に勝てるもの、それは私たちの身近にある「美」の再発見なのかも知れない。どんな

小さなことでもいい。いつも私たちの傍にいて、語りかけようとしている「美」の声を聞き、その

姿をありのまま見ること。それが唯一、暗闇からの解放をもたらしてくれるのかも知れない。

「美」が暗闇の本質を照らし、暗闇の真の姿をさらけだしていく。常に自らの心の鏡を磨き、

「美」がそのままの姿で映ることを願うこと。そしてこの願いは「祈り」そのものかも知れない。










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