ヤスナグラの「黒い聖母」 「芸術新潮 1999年10月号」 写真・塚原琢哉 より画像引用
「芸術新潮 1999年10月号 特集『黒い聖母』詣での旅」 より以下引用します。 ☆☆☆☆ 「母強し! ポーランドの『黒い聖母』 塚原琢哉(写真家) 8年の間につごう20回ほど通ったでしょうか。物に憑かれたというか、引くに引けないというか。あの聖母を撮りたい! ただその 一心で年に何度もポーランド行きの飛行機に飛び乗ったものです。 ポーランド語でチャルテ・マドンナ、「黒い聖母」。国民の90パーセント以上がカソリックの国、ポーランドで“国の守護聖女”“国民の 母”と慕われている黒い聖母は、首都ワルシャワの南西約200キロ、チェンストホーヴァという町のヤスナグラ修道院に祀られて います。フランスやスペインには木像の黒い聖母が数多く現存していますが、「ヤスナグラの黒い聖母」の特徴はイコン(画像)で あるということ。そして、このイコンこそがポーランド国民の信仰の原点となっているのです。 現ローマ法王、ヨハネ・パウロ2世(20年生れ)はポーランド出身ですが、彼が法王に就任した際に真っ先にヴァティカン内のプライ ヴェート・チャペルに飾ったのがこの黒い聖母の複製でした。81年、法王がヴァティカンのサン・ピエトロ広場で狙撃されるという事件 が起きました。テロリストによる2発の弾丸を浴びた法王は、臨終者のために行う終油の秘蹟まで施されたほどの重体でしたが、 奇蹟的に一命をとり止めます。これを、聖母の加護のおかげと確信したヨハネ・パウロ2世は2年後にヤスナグラ修道院を訪問、 弾丸で穴をうがたれたバンドを黒い聖母に捧げ、聖母への強い信仰の証としました。今日、ローマ・カトリック教会を中心にアメリカ 他、世界中でこれまでにないほどのマリア熱が高まっていますが、その源に存在するのが「ヤスナグラの黒い聖母」だともいえる のです。 ポーランドはまさに、“国をあげて”黒い聖母を信仰しています。国民の大半が、黒い聖母のおかげで祖国が護られたと信じている のです。では、なぜ人々はこれほどまでに黒い聖母を慕うのか? それを理解するためには、この国の歴史を知る必要があるで しょう。 969年、ポーランドはグニエズノ(現ポーランド中西部)にキリスト教国として建国されました。以来、いつの時代にも敬虔なカソリック 国でしたが、一方で他国の攻撃の嵐が次々とこの小国を襲います。特に18世紀のロシア、プロイセン、オーストリアによる三国 分裂はポーランドに建国以来の屈辱を与えました。国名が地図から消える・・・そんな悲しい時代が100年以上も続いたのです。 20世紀に入ると今度は、ボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党の一分派)による攻撃、ナチの恐怖、ソ連主導の共産党支配と、 これでもかこれでもかとばかりに次々と苦悩がこの国を襲います。そしてその度に人々は母にもすがるような思いで黒いマリアに 祖国安泰の祈りを捧げたのです。つまり、ポーランドにおける聖母信仰は愛国精神に支えられているのです。 私が初めてヤスナグラの黒い聖母を訪ねたのは1988年のことでした。あの日はポーランドを寒波が襲い気温はマイナス28度、 凍土のハイウェイをひたすら来るまで走ったのを覚えています。目指すヤスナグラ修道院はチェンストホーヴァの小高い丘の上に ありました。要塞のような厚い壁で囲われた広大な修道院です。その一部にレディース・チャペルと呼ばれる聖堂があり黒い聖母 はそこに祀られています。薄暗い聖堂内に一歩足を踏み入れると、そこは身動きもとれないほどの人、人、人。跪いて祈る者、 静かに頭を垂れる者、目を閉じて一心に拝む者。凍れる外界とは別世界。聖堂内は、巡礼たちの熱気で溢れていました。 聖母はどこにいるのだろう? 上を仰ぎ見た私はグロテスクな光景に一瞬足をすくわれました。壁一面に、義足や杖、義眼などが 所狭しと飾られているではありませんか。快癒を願って、あるいは快癒のお礼に巡礼たちが奉納したのでしょう。ハート型の銀製品 は心臓を病んだ人のものに違いありません。人々の息づかいが伝わってくるような生々しい奉納品の数々です。 突然、チャペル内にトランペットのファンファーレが鳴り響きました。巡礼たちの視線が一斉に聖堂内の奥深く、鉄柵のかなた 向こうの壁に向けられます。しかし、そこにはいまだ黒い聖母の姿はありません。ファンファーレが鳴りやみました。すると次の 瞬間、壁際に掛けられた黄金色の幕がするすると上がり聖母のイコンが格子越しに現れたのです。 「こんな聖母はみたことがない!」 私は惚けたように立ち尽くしていました。うつむき加減で焦点の定まらないマリアの視線、腕に抱くキリストの行く末を案じている ような悲しい表情。肌は浅黒く、しかも頬に二すじの切傷がくっきりと刻まれています。それは私が見てきたマリアたちとは全く異質 の聖母でした。 絵画様式でいうと典型的なビザンティンのホディギトリア・スタイル。聖母もキリストも共に正面を向き、聖母に抱かれたキリストは 右手で祝福のポーズをとり左手で福音書を抱えています。また言い伝えによれば、このイコンはマリアとキリスト。ヨセフの聖家族 が食卓に用いたテーブルに福音書記者の聖ルカが描いたもので、4世紀にコンスタンティヌス帝によってエルサレムから持ち出さ れコンスタンティノーブルを経てロシアに渡ったものとされています。明らかなのは1382年に当時のポーランド王、ヴフディスラスが ここに修道院を建てた際に寄進したということ。例の頬の切傷は15世紀に盗賊に略奪された際に付けられといわれています。 黒い聖母の威光がはじめて国中に轟いたのは17世紀、スウェーデン軍の侵攻時です。この時、ヤスナグラ修道院は激戦地と化し ましたが、ろくな武器を持たない修道士たちが敵の包囲攻撃を奇蹟的に撃退したのでした。これを“聖母の加護”と考えた当時の ポーランド国王は、翌年、正式に聖母をポーランドの女王とする旨を発表します。黒い聖母は以来、“国民の母”となったのです。 薄暗い聖堂で一心に聖母に祈りを捧げる人々に、私はポーランド国民の痛みを感じずにはいられませんでした。延々と繰り返され る戦争、その度に被害を受ける民衆、国民の悲しみを慰め、癒し、救い、幾度となく祖国を甦らせてくれた、愛の黒い聖母。私には、 マリアの頬の傷さえも聖なるものに映りました。 近年、この国の聖母信仰が熱狂的な盛り上がりをみせたのが社会主義政権末期の80年代です。 「私はマルクス・レーニン主義よりも、むしろ聖書から学ぶ」・・・自主管理労組組織「連帯」のリーダー、レフ・ワレサ(43年生れ)は こう明言していますが、彼は反政府運動の間、常に黒い聖母のバッジを襟にとめていました。連帯の活動を描いたアンジェイ・ワイダ の映画「鉄の男」(81年)にも、労働者がマリアの名を叫び続けるシーンが描かれています。黒い聖母は、連帯の女神、自由な信仰 の妨げとなった社会主義からの解放のシンボルとして労働者に勇気を与え続けたのです。 革命前夜の89年8月15日、聖母被昇天の祝日に私はヤスナグラを再訪しています。ヤスナグラ巡礼は18世紀以来の伝統があり ますが、この年は全国から50万もの信者が結集する一大ページェントとなりました。巡礼は、教区ごとに分かれ神父に導かれ、8月 15日のミサに間に合うようにヤスナグラへの道を歩き続けます。首都ワルシャワから約10日間の巡礼の旅です。 89年といえば、旧体制が行き詰まりポーランドの経済は危機的状況を迎えていました。スーパーの棚はからっぽ、カフェに入っても 砂糖もない、食物は闇ルートで流通し、物価は年に数千パーセントも上昇する。そんな苦難にあって人々はパンと水だけで歩き 続け、夜になると野にテントを張って眠り、早朝からまた歩き始めるのでした。車椅子に乗った病人や障害者を先頭に穀倉地帯を 黙々と、時には歌いながらの行進です。 祝日前夜ともなると、ヤスナグラ修道院周辺は全国から集まった巡礼たちで埋めつくされました。到着した人々は次々と森の小川 で身を清め、野原に急ごしらえの聖台をしつらえ野天のミサの準備に入ります。野が夕日に染まる頃、聖母被昇天の祝日前夜の ミサが開かれました。 「共産主義にポーランドを救うことは出来ない。苦難を乗り越えるために愛と結束を!」 神父が森の静寂を破って説教を始めます。子供を含めて誰ひとり私語をする者はありません。その厳粛たること! 説教の後、 少女たちの歌う賛美歌が森にこだましました。野原に立てられた十字架が緋色に光っていました。それは宗教の原点が凝縮され たような清楚で美しい光景でした。 15日当日、聖母と連帯の旗を掲げた巡礼たちの波が晴れやかに修道院に吸い込まれていく光景を眺めながら、私は黒い聖母の 限りないパワーを感じていました。連帯、解放、自由、祖国の平安。黒い聖母はポーランドの無血革命、そしてそれに続く世界規模 の共産圏崩壊の原動力となったと私は強く信じています。 ある時、私は教会のオーソリティに「なぜ、聖母は黒いのか?」と尋ねたことがあります。すると彼は「皆さんは“黒”に謎めいた 解答を求めるかもしれないが、これは長年の蝋燭の煤が原因。ただそれだけ」と淡白に答えたのでした。しかし、本当にそれだけ でしょうか? 確かに学術的には黒の謎は何ら解明されていません。 ただ私は思うのです。ポーランドは平野や畑が国土の大半を占める農業国です。巡礼の道は鼻にツーンとくる麦の匂いに満ちて いました。地平線まで広がる穀倉地帯を歩く巡礼たちの姿は農耕民族そのものです。その人々が大地を連想させる浅黒く日焼け した聖母を求めるのは自然なことでしょう。色白で審美的なマリアではとっつきにくい。ましてや理性と合理に支えられた父性的な キリスト教の神には甘えられない。しかし、浅黒く、悲しみの瞳をたたえた黒い聖母なら自分たちの痛みをわかってくれるはずだ。 農耕民族特有の永遠の母性を求める宗教観と、外来文化であるキリスト教が融合しポーランド独特の黒い聖母信仰を育んだの ではないでしょうか平和な時代には五穀豊穣を叶え、受難の時には母のごときやさしさで包み込んでくれる黒いマリア。愛と慈しみ のこの聖母に私は深い感銘を覚えるのです。 (談) ☆☆☆☆ |
「芸術新潮 1999年10月号 特集『黒い聖母』詣での旅」 より以下引用します。 ☆☆☆☆ なぜ黒いのか? 「黒い聖母」の起源と信仰 馬杉宗夫(武蔵野美術大学教授) フランス中央高地(マッシフ・サントラルは、「美し国フランス」というイメージとは裏腹に、冬は長くて厳しく、日が暮れるのも早い。 雪も多く、この時期に車で回ろうとすると、ひどい目にあう。しかし夏は涼しく、日が暮れるのも遅いので、この地方を回るには夏に 限る。いわゆる山岳気候の特徴なのである。 こうした事情を知らないまま、今から28年前の秋の深まった頃、友人の車で、パリからこの地方へやって来た。目的は、この地域の 中心をなすオーヴェルニュ地方の、中世ロマネスク聖堂を見て回ることであった。当時パリ大学で西欧中世美術史を研究していた 私には、実物を見て歩くことは絶対不可欠であり、機会を見付けては、聖堂めぐりをやっていた。 リオンというかなり大きな町から3キロ位離れた小村マルサに着いた時は、午後4時頃なのに、すでに日が暮れ始めていた。夕暮れ 時の冷気で、身体が震えるという思いであった。しかし、この震えに似た気持ちは、聖堂の中に入った途端に増幅してきたので ある。薄暗い聖堂の中で、不気味な女性が私を見つめていた。その女性は、赤い衣を身にまとい、幼児を膝に抱き、静かに座って いた。私を驚かしたのは、その顔と大きな手であった。それは何と真黒に塗られていたのである。決して美しいとは言えない大きな 黒い顔は不気味さと同時に、不思議な霊気に似たもので、私をとらえた。金縛りにあったかのように、しばらくその女性の前から 動けなかった。それが、私と「黒い聖母」像との出会いだった。 「黒い聖母」像の存在を知り、その魅力にとりつかれたかのように、「黒い聖母」を求めて回ったのを覚えている。特にフランス中央 高地には、「黒い聖母」像が多く存在している。クレルモン・フェラン、モリアック、ル・ピュイ、ロカマドゥール、メイマックなど、枚挙に いとまのないほどである。 処女で懐妊したといわれる聖母マリアには、純潔無垢な白色が似つかわしい。それが、不吉な色・・・死、闇、夜の象徴ともいえる 黒が、聖母の肌の色に与えられているのはなぜか? 私はそこに、何か異教的なものを感じた。ところが中央高地を中心に、フラ ンスだけでも200体以上の「黒い聖母」像があったことが報告されている。さらにはスペイン、イタリアをはじめ、世界中に約450体も の像があることも知られている。それらは、すべてキリスト教を信仰している国々である(特にカトリック教国が多い)。黒い色を嫌っ た教会側は、黒の上に多彩色を塗ったこともある。しかしそれにも拘らず、「黒い聖母」は生き続けてきた。そこには「黒い聖母」 信仰を支えてきた地方の土着の人々の、「黒い聖母」に対する熱い想いがあった。彼らは「黒い聖母」に、安産、病気治癒、航海の 安全といった現世御利益的な力を期待していた。 キリスト教世界にありながら、一見異教的に見える黒く塗られた聖母像は、何を意味し、どんな象徴性を持っていたのであろうか。 又、それは、いつ頃から創作されはじめ、そこには、キリスト教以外の他の文明の影響はなかったのであろうか。このような疑問 が、次々とわいてきたのである。 「黒い聖母」の謎をとくにあたり、まずこれらの像が崇拝されていた場所を分類してみることが重要と思えた。なぜなら、その場所と いうのが、極めて特殊な所だからである。 ガリアの地(今のフランスが中心)がキリスト教化される4世紀以前、この地は、ケルト民族が信仰していたドリュイド教でおおわれて いた。ドリュイド教とは、ある種のアニミズム(霊魂崇拝)で、聖なるものは自然のなかに宿るとされた。特に彼らが崇拝したものは、 自然のなかに存在する聖樹(樫、ぶな、やどり木)、聖水(泉、河)、巨石(メンヒル、ドルメンなど)であった。そして、注目すべき点 は、「黒い聖母」像が存在している場所は、古くからドリュイド教のそれらの崇拝が行われていた場所と一致していることである。 以下、有名な「黒い聖母」像があるところを順次分析してみよう。 (中略) このように、「黒い聖母」像が信仰されてきた場所は、キリスト教以前、ケルト民族のドリュイド教時代の、聖石(巨石)、聖水(泉)など の崇拝があった場所であることは明白である。すなわち、、「黒い聖母」像がある場所は、古いドリュイド教の伝統と、新しいキリスト 教が同化した場所であることがわかる。だが、それにしてもなぜ、ドリュイド教の伝統の強い土地の聖母は黒く塗られたのであろう か。疑問はまだ残るのである。 「黒い聖母」と呼ばれる像の多くは、12世紀、いわゆるロマネスク時代に製作させている。その殆どは1メートル足らずの木製座像 で、膝には幼児キリストを抱いている。黒くない他の聖母像と同じように、写実主義を否定したロマネスク時代の美意識に従って 作られている。ロマネスクの時代の彫刻家たちは、自然や人間の外観をありのままに写すことはせず、外観に宿らない精神的な 美を追求した。精神が彫刻に宿るのは、それが自然の外観を否定した時である。そこにロマネスク美術の面白さがある。 だが黒い色彩については、それが12世紀の製作当初から塗られていたということに、疑問を投げかける人々がいる。長年の蝋燭の 煤によって黒くなったとか、かって銀箔が張られていたゆえに、その酸化作用によって黒ずんだとか、土の中に埋められていたため に黒くなったとか、色々な理由があげられた。しかし、これらの理由では、なぜ着ている衣は黒ずんでいらいのかを説明することは 出来ない。その上、同様の状況下にあった他の聖人像などが黒ずんでいない理由も説明不可能である。それゆえ、何らかの意図 により、ある時から黒く塗られ、そのままの姿で現在まで崇拝されてきたことだけは確かであろう。とはいえ、12世紀に「黒い聖母」 像があったことを伝える記録や文献は残されていない。聖書にも「黒い聖母」すなわち黒色を正当化するような文章はない。あえて あげれば、「エルサレムのおとめたちよ、わたしは黒いけれども愛らしい。ケダルの天幕、ソロモンの幕屋のように」という旧約聖書 「雅歌」1章5節の文章がある。これに従い、当時の彫刻家たちが、パレスチナの人々は色が黒いと考えていたからとする説もある。 しかし、この記述によって、聖母マリアの肌を黒く塗ったとは思えない。私には、聖母の黒い姿のなかに、何か異教的なものの臭い がかぎとれるのである。 実際、キリスト教において不吉な、忌み嫌われるべき色彩である黒は、キリスト教以前の他の文明においては、意外とそうでも なかった。古代エジプト神話には、イシスという女神が登場する。彼女は大地の女神で、太陽神ホルスの母親である。女神イシス が息子ホルスを抱いている姿に、キリスト教の聖母子像の起源を求める学者もいる。この大地の女神イシスが、しばしば黒く表現 されるのである。 また、聖母マリアに、神の母(テオトコス)としての神性を認める会議(431年)が開かれた地、小アジアのエフェソス(トルコ西部)に あるアルテミス神殿では、太陽神アポロンの双子の妹にあたるアルテミスの黒い像が崇拝されていた。アルテミスも、古くは先住民族 の大地の女神であった。大地の女神こそ、暗黒の大地から生命を生み出す根源である。これらの像が黒く塗られていたことは、 「黒い聖母」の謎にせまる時、無視できない事実であろう。 キリスト教がガリアの地に浸透した4世紀以降もなお、ドリュイド教の伝統すなわち聖石、聖水、聖樹崇拝は、根強く残っていた。 アルルの公会議(452年)から、カール大帝によってアーヘンで公布された法令(789年)に至るまで、キリスト教は繰り返し樹木、 泉、巨石などを崇拝することを禁じている。ドリュイド教の伝統は、キリスト教側にとって無視できない現実だった。」それゆえ、 キリスト教徒たちが、ドリュイド教の聖地を自分たちの聖地として、そこに聖堂を建てた時、土着の民間信仰との衝突を避けねば ならなかったのは当然である。聖母マリアが黒く塗られていたのは、元元その地で信仰されていたケルトの、豊饒な、母なる大地 の女神、又は、奇跡の黒い石などの信仰と結びついたからではなかろうか。 黒は大地を象徴する色である。それは、無の色である。しかし大地は、暗黒の地中から、植物をはじめ、あらゆる生命体を生んで いく。すなわち黒は、物質界の根源を象徴する色であり、産み出す力、母性を象徴する色なのである。 人々は、キリストの母なる聖母マリアと、土着の地母神との一致を求め、あえて純潔無垢なる聖母マリアを黒く塗ったのであろう。 そこには原始キリスト教的な、土着の現世御利益的な信仰、すなわち安産、病気治癒などを期待した人々の信仰があったことは 否定できない。まさにそこに、「黒い聖母」の謎が潜んでいるように思えるのである。 |
Visita del papa a Polonia en la JMJ | 23