Marcantonio Franceschini | The Last Communion of Saint Mary of Egypt | The Met
「Mary of Egypt」Pinterest エジプトの聖マリア カトリックでの記憶日は4月3日 罪の償いのために荒野で修行・・・聖マリア(エジプト) 「聖者伝説 365日、あなたを守護する聖人たちのものがたり」茅真為 著 学習研究社 より引用 4世紀ごろのことです。ゾジムという老修道士が、修行のためにヨルダン河の近くの砂漠の奥地に分け入っていくと、やせこけた 白髪の老女と出会いました。老女はほとんど身につけるものさえない状態です。ゾジムが老女に上着を投げてやると、老女は その上着で身を隠し、ぽつりぽつりと自らの過去について語りはじめたのです。 「わたくしはエジプトの生まれで、名をマリアと申します。12か13歳のころに親を亡くし、そのあとアレキサンドリアにまいりました。 そこで、遊び女となって身を持ちくずし、春をひさいでおりますうちに、17年という歳月が流れました。 そんなある日、港に出てみますと、エルサレムに詣でる巡礼者の一団が、ちょうど船に乗り込むところでございました。ふとした できごころから、わたしはその一団にまぎれて船に乗り込みました。 もちろん、殊勝に聖地を詣でようなどという心がけからではありません。信者も人の子、誘惑には弱いものでございます。エルサ レムに着いてからも、わたくしは不品行を改めはいたしませんでした。 ところが、聖十字架発見のご祝日のことでございました。巡礼のあとについて、わたくしも御聖堂に入ろうとすると、どうしたわけか 一歩も先へ進めなくなってしまったのです。そのとき、ふと御聖堂内のマリア様のご像が目に入りました。 わたくしはにわかに自分の罪の深さを悟り、必死の思いでマリア様におすがりしました。そして、これからは一生かけて罪を償い、 正しい道を歩みますと誓ったのです。そういたしますと、マリア様のご慈悲でございましょう。足が動くようになり、ようやく御聖堂に 入って十字架を拝ませていただくことができました。 そのあと、わたしはすぐさま司祭様の前で長年の罪を告白し、ご聖体の秘跡を授けていただきました。それから、ヨルダン河を 渡って砂漠の荒れ野に入ったのでございます。 あれからもう、50年近くがたっております。その前、だれとも会うことなく、こうして年を重ねてまいりました。はじめのうちは元の 罪深い生活に戻ろうかという誘惑に悩まされましたが、つねに聖母におすがりし、お取りつぎを願って祈っておりますうちに、よう よう誘惑に打ち勝つ力を得ることができるようになってまいりました」 そう語り終えると、老女はゾジムに次の復活祭の前の聖木曜日に、この同じ場所に聖体を授けにきてくださいといい残して、 ふたたび荒野の奥地に去ってゆきました。 ゾジムは老女との約束を果たし、聖木曜日にふたたびこの場所を訪れ、老女に聖体を授けました。すると、老女は来年もまた おいでくださるようにと頼んで、荒野に姿を消しました。 翌年もまたゾジムは老女と出会った場所に聖体を運んでゆきました。ところが、いつまでたっても老女は現れません。そこで あたりを見まわすと、老女の死体が見つかりました。遺体の傍らには、「この卑しい身をここに埋めて、わたくしのために祈って ください」と記してあったということです。 |
Lenten Evangelism #9: The Journey of Mary of Egypt to the Cross ? Roads from Emmaus エジプトの聖マリア エジプトのマリア - Wikipedia より抜粋引用 エジプトの聖マリア(エジプトのせいマリアは、東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会のいずれでも崇敬される キリスト教の聖人。 特に正教会で、第一の聖人たる生神女マリヤ(聖母マリア)に次ぐ第二の聖人とも呼ばれ、極めて篤く崇敬されている。 生没年がはっきりしておらず、6世紀初め頃の聖人と正教会では伝えられているが、カトリック教会では5世紀初め頃の 聖人と伝えられており、東西教会間で伝承される年代に相違がある。ただし東西教会の分裂がはっきりする前の時期 の聖人である事はいずれの年代によっても確実であるという事もあり、東西両教派のいずれの聖伝・伝承においても、 伝えられている彼女の生涯に関する内容(淫蕩の生活から、修行と苦難を経て高徳の聖人へ)は共通している。 その波乱に満ちた生涯は、古くから現代に至るまで、様々な藝術作品・文学・音楽作品に用いられる題材となっている。 ゾシマと修業女との出会い パレスチナの聖ゾシマは修道士として修道院で修行を積んでいたが、天使の告げに従い、より厳しい斎 (ものいみ)を行う為、 また偉大な長老に会う事を求めて、ヨルダン川の傍にある修道院に移った。この修道院では大斎(おおものいみ…復活大祭 前の、食品制限を伴う心身の修養期間)が始まると、修道士達が互いに罪を赦し合った後に荒野・砂漠に出かけて行き、 復活大祭まで孤独に祈り、修行を行う習慣があった。食物は最低限のものだけを持ち、それが尽きると野原の食べ物(木や根) を食べる者も居たという。 こうした修行をするにあたって、修道士達は互いの修行内容の詳細を尋ね合わないしきたりであった。修行内容を誇って傲慢 に陥ったり、他者の緩い修行内容を咎めるという他者の罪を論うという罪に陥ったり、自分の修行内容を他者と比較する事で 傲慢もしくは卑屈になったりするという、そうした様々な弊害を生まないためであった。 多くの年がそれから過ぎたある年もまた同様のしきたりに従い、老いたゾシマは荒野に出ていた。ゾシマは荒野の奥深くに まで足を伸ばせば、より偉大な長老に会えるだろうという期待をしていた。荒野に出て20日目に、涸れた小川の傍で第六時課 (修道院における昼の奉神礼)の聖詠と祈祷文を詠んでいると、右の方に人影がある事にゾシマは気付いた。悪魔かと思い 恐怖に耐えつつ祈祷文を最後まで詠み終えてから人影の方をよく見ると、砂漠の灼熱の太陽によって肌は黒ずみ髪は白く なっては居たが、それは裸の人間であった。 ヨルダン川と荒野 20日間も生き物を見ていなかったゾシマは喜んでその人間の元に走って近寄ろうとしたが、彼方の裸の人間は逃げ出した。 しばらく老いも忘れてゾシマは追いかけたが、この人物にゾシマは追いつけなかった。息の切れたゾシマが「罪深い修道士 (である私)からなぜ逃げるのですか。主の為にあなたの祈りと祝福を与えて下さい」と呼び掛けると、彼方の人物は「ゾシマ 長老よ」と言い、自らが裸の女である事を告げ、裸であるが為にそのままでは近寄ることが出来ないので、自らの為に祈って くれるのならば上着を与えて欲しいと答えた。ゾシマは名乗っていないのに自分の名を彼女が知っていた事に驚き、「この修業 女は主から洞察力を得ているに違いない」と考え、上着を遠くから投げ、修業女に与えた。 その後、互いに謙遜する言葉を述べ合いながら、祝福を相手から得ようとする問答が長い間続いた。やがて彼女がゾシマが 司祭職にある事を述べ、ゾシマが彼女を祝福すべきであると言った。それに対しゾシマは、名乗っていないのに自らの名を 知っており、自らが司祭である事まで知っていた彼女こそが自らを祝福すべきであると譲らなかったので、彼女はゾシマを 祝福した。 彼女は祈る際に地面から50センチメートルほど浮き上がっていたという奇蹟を、教会の聖伝は伝えている。 修業女の話 エジプトの聖マリアのイコン これまでの修行に至る経緯を強く知りたがるゾシマに対し、初めは教えなかった彼女も自らの生涯について非常に謙遜しつつ 話した。 エジプトに生まれ、12歳で両親の元を離れた彼女はアレクサンドリアに赴き、以降17年間、淫蕩の生活におぼれたという。それは 売春によるものではなく、糸紡ぎという職を持ちつつも、肉欲目当てで無報酬で男達と寝ているというものであり、結果として貧しい 生活をしていた。ある時、十字架挙栄祭(正教会の十二大祭の一つで、ハリストスが実際に磔にされた十字架が土中から発見さ れた事を祝う祭)のためにエルサレムに向けて海を渡って行く人々を見た彼女は、誰か男と寝ようと考えて船に同乗した。船の中 でも、エルサレムに到着してから十字架挙栄祭の日に至るまでも、淫蕩の日々を過ごしていた。 十字架挙栄祭の日、主の十字架(この時代、イイスス・ハリストス(イエス・キリストのギリシャ語読み)が実際に磔にされたものと 伝えられる十字架がエルサレムの至宝となっていた。現在はその一部とされる遺品が各地に遺されている。)を見ようとして彼女 は聖堂に入ろうとしたが、見えざる力によって押し返された。その時彼女は自らの淫蕩という罪を自覚し、涙を流して生神女の 庇護を願う祈りを捧げ、十字架を見る事が出来るのならばこれ以降、淫蕩を止めるという祈りを捧げた。すると彼女は聖堂に 入る事が出来、十字架も目にする事が出来たという。 その直後、ヨルダン川の向こう岸に行けば平安を得られるであろうとの啓示を得た彼女は、ヨルダン川に赴いて顔と手を洗い、 丸木舟でヨルダン川の向こう岸に渡った。その後47年間、荒野で修行生活をしていた。着物は擦り切れて失われ、食物は 荒れ野の貧しい食べ物に頼っていた。情欲にも焦がされたが、それらとも精神的に闘っていた。 これらの話に彼女が聖書の句を引用しながら話すのを聞き、ゾシマが「母よ、どこでそのような言葉を学ばれたのですか」と 尋ねると、彼女は一切それらの言葉を学んだことも聞いた事は無いと答え、ただ全知全能の神は人にあらゆる事を教えられます、 と微笑んで答えた。 領聖 ヨルダン川。このようにヨルダン川は、場所と時期によっては水量も多く、川幅も広い。 修業女はゾシマに対し、来年は大斎になっても修道院から出ずにとどまり、機密制定の晩餐の聖体礼儀で聖変化した聖体尊血 (パンと葡萄酒)を領聖のためにヨルダン川の修道院側の岸まで持って来てくれるように頼んだ。機密制定の晩餐の聖体礼儀は 大斎の受難週間に行われるものであり、修道院にとどまっていなければ参加出来ないものだったのである。修業女はまた、 ゾシマが来年は修道院からその時期に出たくても出られないであろう事も預言した。 翌年の大斎に、果たして修業女の預言通り、ゾシマは病を得、荒野に出ずに修道院にとどまらざるを得なかった。数日経って 回復したが、ゾシマは受難週まで修道院に残った。 機密制定の晩餐の記憶の時間が近付くと、ゾシマは聖体尊血を器に入れ、夕刻遅くに修道院を出てヨルダン川の岸辺で待った。 修業女はなかなか来なかったが、ゾシマは待ち続けた。やがて修業女が河の向こう側に現れると、ゾシマは喜んで神を讃美した が、舟も無いのにどのようにして修業女が川を渡って来られるだろうかと考えた。すると修業女は十字を画いて祈ると、川面を 素早く歩いて渡り始めた。ゾシマが彼女に伏拝(土下座する拝礼の仕方)しようとすると、彼女は川の真ん中から「師父(しふ)よ、 何をしようとするのですか。貴方は聖体を持つ司祭ではないですか」と叫んで止めた。 川を渡り終えると修業女はゾシマに「神父よ、福をくだせ」と言い、祝福を求めた。ゾシマは示された奇蹟に戦き(おののき)なが ら、震える声で祈祷と祝福を行った。その後、修業女は領聖し涙を流した。修業女は、最初に会った涸れた小川の所に来年に 来るようにゾシマに頼んだ。 帰途、修業女の名をこれまで尋ねてこなかった事をゾシマは後悔したが、来年になれば名を知る事も出来るだろうとの望みを 抱いた。 永眠と埋葬、その後 一年経ち、ゾシマは言われた通り涸れた小川の傍まで来て見ると、その東側に東方を向いて腕を胸の上で組んだまま永眠して いる修業女の姿を見つけた。長い間泣いてから埋葬式の祈りを唱えた後、埋葬すべきかどうか迷っていると、修業女の頭の傍に、 「師ゾシマよ、この場所に神の婢(ひ)マリアを埋葬し、肉体を土に帰して下さい。四月の第一日(ユリウス暦)、機密制定の晩餐の 聖体に預り(木曜日を示す)、ハリストスの十字架上の苦しみの夜(金曜日の夜を指す)、永眠した私のために主・神に祈って 下さい。」と書かれてあるのを見つけた。 ゾシマは、修業女が読み書きを知らなかったため、誰がこれを書いたのであろうと思い驚いた。しかし修業女の名マリアを知る事 が出来た事を喜んだ。またこの記述から、ゾシマが20日間かけて歩んだ荒野の道(川岸から涸れた小川の傍まで)をマリアは一瞬 にして歩き、この場所で永眠した事が分かった。 ゾシマは涙で地とマリアの体をぬらし、神を讃美しつつマリアをこの地に埋葬しようとしたが、道具も無く地面も堅かった為、作業は 難航した。顔を上げ、腰を伸ばした際、マリアの足元に大きなライオンが現れ、彼女の足を舐めているのを見た。ゾシマは恐れた が、マリアの祈祷によってライオンが自らに危害を加える事は無いと信じて十字を画いた。するとライオンが彼に甘え始めたので、 ゾシマは勇気を奮ってマリアのために墓を掘るようにライオンに命じた。ライオンが彼の言葉通り地面を掘り起こしたので、ゾシマ はマリアをそこに埋葬した。ライオンは荒野の奥へ、ゾシマは修道院へと神を讃美しながら戻った。 帰還したゾシマが修道院長と修道士達にこれらの話を語ると、皆その話に驚き、克肖女マリア(こくしょうじょマリア)の永眠日を 記憶する事が決められた。 ゾシマはその後も修道院で神に仕え、100歳近くになって永眠したという。 The Life of St Mary of Egypt, by St Sophronius |
(63) 「St. Mary of Egypt」Pinterest エジプトの聖マリア 「聖人たちの生涯 現代的聖者175名」池田敏男 著 中央出版社 より引用 4世紀、ユダヤ国のヨルダン川の近くに、ある修道院があった。この修院の修道士たちは毎年四旬節になると修院を出て ヨルダン川を渡り、枝の祝日まで荒野で祈り、黙想、大斎などをしていた。 ある年のこと、ゾジムという老司祭が、いつもより荒野の奥深くわけ入り、ひざまづいて祈っていると向こうのほうから腰にしゅろ の葉をまとった人がひょろひょろ歩いてきた。だれだろうとながめているうちに、相手もゾジムに気づき、くるりと背を向けて逃げ 出した。ゾジムはあとを追い、「お待ちください。わたくしはけっして怪しい者ではありません。あなたは苦業しながら神に仕えて いるかたでしょう。わたくしも神に仕える者です」と呼びかけた。 すると相手はいきなり草むらの中に身を隠し、「ゾジム神父様、わたくしは罪深い老婆です。こんな荒野にいますので着物が ありません。どうぞあなたの上着を拝借させてくださいませんか」と言う。 ゾジムは見たこともない人から名を呼ばれて不思議に思いながらも、とにかく上着を脱いで草むらの中に投げ入れた。彼女は それを着てゾジムの前に現われ、しばらく祈ってから自分の過去を語りだした。 「わたくしはエジプトの者でマリアと申します。幼いときから不良がかり、13歳のとき父母と死別してからアレクサンドリアに行き、 そのまま17年間ほうとうに身をもちくずしました。ある日港に入ってみると、キリスト信者の団体がエルサレムへ巡礼しようと船に 乗り込んでいました。わたくしもそうそうに荷物をまとめて、この団体にまぎれ込みました。そして出航後は人びとを誘惑し、罪に 落とし入れましたが、そのことを思い出すごとに今はこの罪深いわたくしが生きながら地獄に落とされなかったのを不思議に 思っております・・・。」 しばらく痛悔の情でことばをとぎらせたが、「わたくしはエルサレムへ行ってからも不品行を改めませんでした。ところが聖十字架 発見の祝日に、わたくしは好奇心から信者のあとについて聖堂にはいろうとしました。しかし、どうしたわけか聖堂の入口まで 来ると、わたくしだけ一歩も進めなくなりました。これは天罰にちがいないと直感し、思わずその場に倒れ伏しました。 そのとき聖堂内の聖母のご像が目にはいったので、わたくしはわらをもつかむ思いで聖母に救いを求めました。『ああ、罪びとの よりどころなる聖母マリア様、わたくしの罪の許しを取り次いで聖堂にはいらせてください。とうとい十字架を礼拝したのちは、一生 償いの生活をもって正しい道を歩みます。』 この祈りが終わると同時に両足が動くようになりました。 聖堂にはいって十字架を礼拝したのち、わたくしは聖母のすすめのままに、まず聖ヨハネ修道院に行って告白と聖体の秘跡を 受け、それからヨルダン川を渡ってこの荒野にはいりました。もう47年になります。そのあいだだれにも会いませんでした。はじめ の17年間は寂しくて思い出してもぞっとするような悪魔の誘惑を受けました。そんなときは熱心に神のみ助けを祈ったり、聖母の 取次ぎを求めたりして自らを励ましてきました」と。 最後に彼女は「来年の聖木曜日、わたくしに聖体を授けに来てください」。と言って別れた。 約束の日、聖体をもってゾジムがヨルダン川の岸べへ来ると、向こう岸で待っていた彼女は水の上に十字架のしるしをした。 ゾジムは難なく水の上を歩いて渡り、彼女に聖体を授けた。それから彼女は「来年の四旬節に、はじめてお目にかかったところで またお会いしましょう」と言い残して荒野に姿を消した。 翌年の四旬節、ゾジムは約束の場所に行ったが、いくら待っても彼女の姿が現われない。不安にかられてあたりを見まわすと、 そこに冷たくなった彼女の死体があった。遺体のかたわらの地面には大きな字で、「わたくしはご聖体をいただいたあの翌朝、 お召しを受けました。ゾジム神父様、この卑しい身をここに埋葬して、わたくしのために祈ってください」としるしてあった。 |
Panorama Of Desert Lands Near Baptism Site In The Jordan River.. Stock Photo, Picture And Royalty Free Image. Image 12818555.
panorama of desert lands near baptism site in the Jordan River Valley in place of dead of Saint Mary of Egypt
GIOTTO(ジョット)
Abbot Zosimus gives his cloak to Mary
1320, Fresco
Assisi: Magdalena Chapel (lower church)