「THE NORTH AMERICAN INDIAN」

EDWARD S. CURTIS

THE COMPLETE PORTFOLIOS

TASCHEN



この「THE NORTH AMERICAN INDIAN」と並んで「Edward S . Curtis - Hans Christian Adam」

TASCHEN(左下の画像)、「Sacred Legacy - Edward.S.Curtis and North American Indian」

VERVE(右下の画像)も素晴らしい写真集であるが、写真の量では前者が、写真の鮮明さで

は後者が優れている。


   


  







100年以上前にインディアンの魂に魅せられたカーティスの素晴らしい

写真を集めたもの。770ページ近くの分厚い本だが、今では見られな

いインディアンの貴重な姿と共にその叫びまで聞こえてくる写真集。

(K.K)


カーティスが撮った写真の一部は次のサイトで見ることが出来る。

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)







カーティスの言葉

「この仕事は楽な仕事ではなかった。インディアンたちが彼等の知識を喜んで

与えてくれたことによって、時には軽減されることがあったとはいえ、外来者に彼

等の内的生活を垣間見せることを常にきらう、未開人種特有の根深い迷信、保

守主義、そして秘密主義を克服するまでに、私と私の助手が、何日間も何週間も

忍耐を強いられたことのほうが多かったのだ。一度インディアンたちの信頼を得

られれば、困難を切り開く道は次第に開かれた。けれども、秘儀や祭式に関する

知識を採取するためには、長く、かつ真剣な調査が必要だった。インディアンの

生活の大部分は、いまだに大自然に・・・・(中略)・・・・密着して行われている。

したがってそれに関する物語とは、商業的征服についての統計を満載したもの

などではなく、インディアンの、宇宙的現象へのつながりの記録と、それらへの

依存の記録にほかならない・・・・すなわち、樹木、茂み、太陽や星々、稲妻や

雨・・・・なぜならこういうものは、彼らにとっては、すべて生命をもつ生物だから

である。」

「北米インディアン悲詩 エドワード・カーティス写真集」
アボック社出版局 1984年発行より引用







カーティスは、当時のインディアンが置かれていた困難な状況を映像化し、その救済を人々に

訴えるといった型の作家ではなかった。彼は、やがて滅びる民の最後の姿を記録に留めておき

たいと考えていた。それも、彼らの美しさや威厳を保つためにである。彼はその目的を達成する

ために、インディアンの土地を巡り、現場と書物を通して彼らの歴史や風習を堅実に学んだ。そ

の間に彼自身が文字で記録した膨大な資料を見れば、カーティスが写真家であったと同時に、

すぐれた物書きであったことが理解できるはずである。インディアンに関しての最後の文章作品

は、1948年にシアトルの図書館のために書いた北アメリカ・インディアンに関する記事である。

カーティスの写真作品が、単に「こうですよ」というものではなくて、「人々はこうではないだろうか」

という姿でわたしたちに訴えてくるのは、インディアンの生活に関しての充分な知的裏づけを持

つからである。もし作品が、「インディアンはこうあって欲しい」という方に関心が向いていたなら

ば、それらは“美化”された単なる観光写真となっていただろう。彼が実際に撮って保管していた

写真と、「北アメリカ・インディアン」に収録された写真を見比べると興味あることに気づく。一場面

が数枚の写真で構成され、それが民族学的な資料となっている例が幾つか見出される。しかし、

作品集に収録されているのは、その連続作品のうちからどこかカーティシズムの感覚とは違った

ものが選ばれているようにも思えるのだ。編集の過程で、カーティスのロマンティシズムが一層

強められた結果なのかもしれない。1952年10月19日。エドワード・S・カーティスはカリフォル

ニアの娘の家で、心臓発作のため亡くなった。84歳であった。現在、美術品コレクターの間で、

写真というもの自体が高く評価され始めている。カーティスの写真はそのなかにあって、この10

年ほどはアメリカ各地のギャラリーで花形的存在となった。彼はそのブームを、今度は空から

どう眺めているのだろうか。


「伝説のアメリカン・ヒーロー」西江雅之著 岩波書店より引用







エドワード・S・カーティスは、1868年ウィスコンシン州に生まれ、1900年、三二歳のときに、

北部モンタナ州の平原インディアン、ブラックフット族のサン・ダンス集会に招かれたのをきっ

かけに、インディアン写真家として本格的な活動を始めた。初めの九年間は資金自己負担で

なんとか賄っていたが、そのうち当時の大統領であったセオドア・ルーズベルト等の関心を獲

得し、援助を受けること三〇年を経て、写真と記述による民族誌「北米インディアン」全二〇巻

を完成させた。前世紀末からインディアンは、また新たなる過酷な運命にさらされていた。18

87年のドーズ法により、指定居住区内の土地が個個のインディアンに割り当てられ、部族共

同体の解体によって、生活と文化が破壊されたうえ、白人文化への同化が強制された。カー

ティスの写真は、インディアンの中にはいり、「滅びゆく民」の生活をとどめようというはっきり

とした目的意識のもとに撮られている。そのために、そうしたインディアンをめぐる状況の悲惨

さをえぐるということより、消えゆくものの美と哀感をたくみな構成でとらえることに重点がおか

れている。彼が撮影したどの肖像を見ても明らかなように、被写体はカーティスを深く信頼して

いる。まるで彼のロマンティシズムを、インディアンが共有しているかのようである。もちろん、

そこに、彼ら民族のエトスの永遠の記念碑を築くというカーティスの役割への期待を見てとる

こともできる。「内部記録者によって撮られるべき“滅びゆく”インディアンを、征服者である白

人の側の一人、カーティスが写真機を向けたという根本的な矛盾」(中上健次氏)を抱えつつ

も、あらゆる意味でただの記録ではなく、彼自身による北米インディアンの過去の再構築を

試みたという点において、「北米インディアン」は、インディアンを撮影したその他の写真家の

作品とは明確に区別されるだろう。


「ユリイカ・特集アメリカ・インディアン」1992年3月号 青土社より







「北米インディアン悲詩 エドワード・カーティス写真集」アボック社出版局 1984年発行



カーティスを、アメリカ・インディアンを撮った他のすべての写真家から区別

するものは、とりわけこの目的意識なのである。ジャクソン、オサリヴァン、

その他すべての写真家は、様々な視覚的な事実、それもただの事実を映

像に捕らえることに意を用いた。本質的には記録者にすぎなかった。彼等

の映像は、科学的なやり方で、見事に対象を「描写」している。儀式の様

子、衣服の詳細、様々な部族から集めた代表たちの人相上の特徴などを、

正確だが冷静な方法で描き、余すところがない。これらの写真家たち・・・・

あえてつけ加えるが、彼等の仕事は、インディアン文化を描いた視覚的記録

文書中の、大変貴重な一部であったし、今なおそうである・・・・が、まことに

重要な役割を果たしたことは、疑を容れない。だが概念的には限界があっ

た。それに反してカーティスは、単にインディアン生活の映像ではなく、その

生活に関する映像を作り出すことに専念した。インディアンのライフスタイル

がもつ「精神」を捕え、それを自分の作品に付与するために、明確、そして

慎重な態度で、仕事に着手した。殆ど狂信的なほど無心な態度で追求した

このゴール・・・・そして結果が証明するように、彼は見事にそれに到達した

・・・・こそ、彼を先輩写真家のすべてと区別するものなのである。他の写真

家たちは、単なる表相のみを記録することに満足して、暗黙のうちに、自己

を単なる視覚的速記者として定義してしまったが、だがカーティスは、表相

だけでなく、実体、つまりインディアン生活の中心的エトスを、なんとかして

映像化しようと願い、その結果、自分の被写体の、いわば「語り部」となっ

たのである。これを言いかえると、カーティスは、芸術家として仕事するこ

とを選んだ、と言えるかもしれない。だがこの言葉には、語義が重層して

いて、必ずしも写真映像に対応する言葉としては意味がない。そこでわざ

と私は「語り部」という言葉を使ったが、それはカーティスが、自分の被写体

を自分自身の見方で見た(これは写真家なら誰でも行う)だけでなく、同時

に、被写体がもっており、またそれらが象徴しているものを、自分自身の

ヴィジョン、自分の内なるヴィジョンで見たことを、意味しているのである。

(本書 「カーティスの人と生活」T・C・マクルーハン より抜粋)




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