Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)




アイヌ民族の文化伝承に生涯を捧げている著者の自叙伝「アイヌの碑」並びにアイヌ

の伝承世界に息づく豊穣な魂を綴った民話と神話集「炎の馬」を参照されたし



アイヌ・・・萱野茂(萱野茂アイヌ記念館館長)の言葉


アイヌ民族は自然を神と崇め、自然界と共存共生し慎ましく生きて来ました。

魚、野獣、山菜のどれひとつとってみても必要以上には決してとらず、他の

生きもののために残し、また来年のために置いておくのです。そのような自

然界の巡りをアイヌ民族はよく知っていました。平和なアイヌモシリは、和人

の侵略と開拓によってどんどん荒らされていき、アイヌ民族は一方的に生活

圏の全てを奪われてしまいました。


私はこれまで19回諸外国を訪ね、それぞれの国の先住民族と交流を重ね、

たくさんの話を聞きましたが、日本程先住民族の事を何ひとつ考えず無視し

ている国は他にないという事に気づかされました。どの国も侵略した側とされ

た側の開には、何らかの条約かおることを知りました。ところがこのでっかい

島、北海道の主であるアイヌ民族と日本政府の間には、条約のかけらもなく、

この事は世界に類例のない暴挙てあります。そしてこの事実は、世界に恥ず

べき事であります。4万5千ヵ所からなるアイヌ語の地名が、北海道はもともと

アイヌの土地であった事を明白自明の事実として、物語っています。ですから

「私達アイヌは、北海道というでっかい島を、日本人に売った覚えもなし貸した

覚えもなし、せめて年貢ぐらい出してもいいでしょう。アイヌの頷有権を認め

ていただきたい」と私は言い続けているのです。


かつて私達アイヌ民族の祖国であるアイヌモシリを侵したのは、あなた方で

はありません。しかし、あなた方の祖先が犯した過ちを正せるのは「今、生き

ているあなた達」です。あなた方の祖先が犯した過ちを正す行為は、決して

恥ずべき行為ではないばかりか、差別のない共生と平等な社会に向けての

出発点であり、日本が国際社会で生きていくための基本であると考えます。

現在世界中で行われている自然破壊の様をアイヌである私はひどく憂慮して

います。巷で「自然保護」が叫ばれていますが、アイヌ語の中に「自然保護」

という言葉はありません。自然、つまり海でも山でも、川でも鳥や獣に至るま

で、もしも□があったなら「人間其よ、自然保護などという大それた言葉を慎

しめ。我々自然は保護される事を望むのではなしに、人間であるあなた達が

ぜいたくをしない限りにおいて、紙にする木材でも、薪でも、家を建てる材料で

も供給できることになっているのだ」と自然の神々はおっしゃるでありましょう。

自然は常に巡っており、生きもの同士がその摂理の中でそれぞれの生命を全

うするはずが、人間共の勝手なエゴや欲望によって、虫達の家や着物を剥ぎ

取り、鳥や動物達の住み家までも奪い去っています。これもまた、侵略です。

ゴルフ場しかり、リゾートしかり、ムダ遣いが原因の森林伐採しかり・・・、例を

挙げればキリがない程どれもこれもです。日本は浪費し過ぎです。天に向かっ

て「面のひっぱがし」です。いずれそれらが、自分たちの顔に降りかかってくる

のです。消費、浪費の大国のまま良き未来を迎える事はありません。


今や、大昔の暮らしに戻る事はできません。ほんの少し数十年昔の姿を思い出

し、ほんの少し戻ればよいのです。夜の明るさも我慢をして、慎ましやかに生活

しようと思ったならば、資本家に対して原子力発電所などというウェンカムィ=

化け物を作る口実は、与えなかったでありましょう。86年、スウェーデンのヨック

モックを訪ねた時、チェルノブイリの事故による、それは恐ろしい話を聞き、そし

て、いつ私共の身に降りかかってくるやも知れません。人類はぜいたくし過ぎ、

もっと明るく、もっと速く、もっと便利に、もっと多くを求め過ぎました。


全ての生きものの生存を可能とする、地球環境の保護こそが、人類が生きていく

条件であり、人間が人間らしく生きていける山を、川を、畑を、村を、町を、子々孫々

に至るまで残さなければならない、と私は考えています。


93年は「国際先住年」です。これは、私達の住むこの地球から、民族的な差別観を

取り除くと共に、侵されて来た先住民族、少数民族の権利回復はもとより、生活や

文化を共に保障する社会を目指すものです。世界の潮流は、少数者がしいたげられ

る時代に終わりを告げる時を迎えており、全ての生きとし生けるものの平和な生存を

約束する、地球環境保護への道に入りました。社会は限りなく求め続けられている

「人間の欲望」を、どう抑制するかの時代にあるのです。これはアイヌも和人も、一人

ひとりが考えて、果たさなければならない事だと思います。


そして一度でいいですから「もし自分が、アイヌ民族ならば」と考えてみてください。

コロンブス到来500年目の今年、「国際先住民年」の来年は、そういう事を考え合い、

勇気をもって出発する第一歩にふさわしい年であろうと思います。コロンブス到来に始

まる侵略は、南北アメリカ先住民族に想像を絶する苦しみをもたらしました。私達アイヌ

民族も侵略された道を歩まされてきました。侵略された側のアイヌとして、私はその痛み

を知っております。


アメリカのインディアン政策を基にした、日本のアイヌ民族に対する「旧土人保護法」

という悪法は、未だ現行法として生きております。世界は新しい世界に向かって大きく

前進しようとする時代、「知らないという恥」そして「知らないまま加担する深い罪」に、

終わりを告げる時であります。コロンブスの侵略を美化するサンタ・マリア号の復元、

航海が、日本によってなされているという事は、とんでもない深い罪であろうと考えま

す。多くの犠牲の上に立っての、お祭り騒ぎや祝い事など、決してあってはならない

事であります。


一人ひとりが人間として、正しい歴史を学び直してください。そして、本当の事を知って

ください。日本は、単一民族国家などではない事を知ってください。子々孫々に正しい

事を伝え残し、「人間の住む静かな大地」をよみがえらせ、そして残せる人間の姿で生

きましょう。「アイヌ」とは、アイヌ語で「人間」という意味であります。アイヌ民族も、ピリ

カシサム(良き隣人)も、心をひとつにして、無知を改め、正しい行動を起こす勇気をもっ

て、大いなる出発をしましょう。それらがペシッ(波紋)となって、世界に拡がりますよう

に、アイヌモシリより心から切望いたします。


「夜明けへの道」 人間家族 特別号 より引用


 
 


「アイヌの里二風谷に生きて」 萱野茂著 北海道新聞社刊 より引用


私は、大正十五年、沙流川のほとり平取村二風谷に生まれ、物心

ついた昭和五〜六年には祖母”てかって”に手を引かれ、山菜取に

野山を歩いたものです。当時のアイヌ婦人がそうであったように、口

の周りと、手の甲から肘まで、いえずみをしていた人でした。昭和の

初年で八十歳を超えていた祖母は、日本語を全くといってよいほど

しゃべることができず、孫の私との会話は完全にアイヌ語ばかりで

した。したがって山菜を採る場合の約束事もすべてアイヌ風のアイ

ヌ精神を持って私に教え、山を歩く時の心得から、小沢でドジョウな

ど小魚を捕る時には、どうすれば神様に叱られないかなどと、こま

ごまと教え聞かされたものです。しかも、それらの教えの多くは、

ウウェペケレという昔話をとおしてだったのです。


二風谷に、春先いちばん早く生える山菜は、プクサ(ギョウジャニン

ニク、俗にアイヌネギ)ですが、これを採取するにも、根っこを掘り採

るようなことはしませんでした。どのようにしてそれを規制したかとい

うと、これもやはり民話でおどしながら教えました。あらすじをいうと、

「私には父がいて母がいて、貧乏な家の一人娘でした。うわさによ

ると、隣村の村おさの妻が病気をしているという話でしたが、ある春

のこと亡くなったという話を聞きました。おくやみに行きたいと思いま

したが、持っていく供物もないのと、着ていく着物もありません。仕

方なしにおくやみにも行かず、畑仕事に行き、お昼に粗末な弁当を

広げ食べようとしていると、座っているうしろで人声がします。だれ

だろうと振り返ってみると、だれもおらず、声の主は萩でした。”これ

娘よ、聞きなさい、隣村の村おさの妻が死んだ理由は、ギョウジャ

ニンニクを採る時根こそぎ採って、ギョウジャニンニクの神を殺して

しまったのだ。それを怒ったギョウジャニンニクの神が、村おさの

妻を病気にして殺した。大急ぎで家に帰り、乾かしてあるギョウジャ

ニンニクを持って村おさの家の南斜面へ行き、ギョウジャニンニク

の魂を返すといいながら撒きちらしなさい。そうすると村おさの妻

は生き返るであろう。”こう萩の神様が貧乏娘の私に教えてくれま

した。いわれたとおりにすると、村おさの妻が生き返りました。だか

ら、今いるアイヌよ、山菜を採る時に根こそぎ採ってはいけません、

と一人の女が語りました。」このように、民話の中で何回も何回も

同じ話を聞かせ、それを皆が守るようにして暮らしたのです。例え

ば、フキを切る場合でも、アイヌであれば十本が十本全部切るよう

なことはせずに、切りたいような良いフキであっても、三本か四本

は残すようにします。その理由は、今年はフキが生えていても来年

はフキノトウになり、タネが飛び、フキが減らないことを知っている

からです。試みに秋一回か二回霜の降りたあと、霜で黒くなった

フキの根を指先でほじくってみると、来年の春のためにフキノトウ

の頭が隠れているものです。それを知らない都会の人たちは、

ありったけのフキを切ってしまい、何年かあとに、あるいは次の年

に行ってみると、フキは掻き消すように一本も生えていません。

辺りを見回し、不思議そうな顔をしているのですが、アイヌにいわ

せると、フキを殺してしまったことになるのです。小魚を捕る時も、

平たい石を起こしてその下の小魚を抄い上げたあとは、石を必ず

元のように平たくします。それは魚の寝床と考え、そのように教え

られたものです。山菜とのお付き合いは、以上のようなものであ

りましたが、サケなどはどうであったのでしょうか。


沙流川でのサケの初漁は、だいたい九月三日ころというふうに

父はいっていたものでした。九月と十月に捕るサケは、脂もあっ

て大変おいしいものですが、保存には向きません。したがって、

その季節に捕る分は毎日食べる量、それも自分の家にだけで

はなしに、隣近所の老人家庭に分け与えるに必要な本数を捕

ってきます。アイヌの村の村おさの条件は、ユクネチキ、カムイ

ネチキ、アエアウナルラ、シカやクマを隣の家へ運ぶほど私は

狩りが上手だ、自分さえ良ければいいというのではなく、一族

全部が、村人それぞれが食うに困らないほど、たくさんの獲物

を運んでこれる者、それが村おさになれる条件の一つであった

のです。十一月に入ると、サケは産卵を終えて、よたよたと川

岸へ流れ着きますので、それをたくさん捕って背割りをして乾か

します。この季節になるとハエも出ないので、ウジのわく心配

が全くありません。それと脂気がないので、次の年の夏を越し

ても脂焼けなどで味が変るようなこともなく、何年間も保存でき

ます。サケが四年目には成魚となって母なる川へ帰ってくるこ

とを、アイヌたちが知っていたかどうかは別として、毎年同じに

捕れるとは限りません。それで捕れない時に備えて保存食と

して乾かし、家の中の火棚のもう一段上へ上げておくと、煤で

真っ黒になるけれど虫も付きません。食べる時はぬるま湯に

うるかし、たわしでごしごしと洗って煮て食べるという具合でし

た。アイヌのサケ漁というのは、一方的に捕り尽くすというので

はなしに、自然の摂理に従い資源が枯渇しないように産卵後

のサケを大量に集め、保存食にし暮らしていました。川へサケ

を捕りに行き、思いのほかたくさん捕れた時には、キツネの食

べる分として柳原へ置いてきます。カラスの分は砂利原へ置き

ますが、砂まみれにしないよう、きれいに洗って置くようにした

ものです。


なぜかといえば、民話の中でカラスにくれてやるサケを洗って

やった者と、砂まみれにしてやった者が、神様からお礼をしても

らった様子の明暗がはっきりしていたからです。アイヌがそれら

生物に餌を与える時に必ずいう言葉に、アイヌネヤカ カムイ

ネヤカ ウレパネマヌ アコヤイラ ペテッネクスというの

があります。この意味は、人間でも神様でも子育てには大変な

苦労が伴う、したがって神であるあなたが、あなたの子どもたち

とともに食べる分を上げましょう、というわけです。アイヌの狩人

たちは、山でシカを獲った場合も肉の全部を採り帰らずに、キツ

ネの分は雪の上へ、カラスの分は木の枝に掛けるというふうに、

肉の一部と内臓は残してくるように心掛けます。それはシカの動

きを教えてくれるのが カラスとカケスだからです。狩りに山へ

行き、沢の向かい側の林の上にカラスあるいはカケスが舞うと

いうか旋回していると、その下には必ず何かがいるからです。

したがって、獲物を探す狩人にとっては、それら鳥の動きが大

きな目安になったわけです。ですから、お礼のしるしに肉を置い

てくることを忘れませんでした。アイヌ民族は、すべての生物が

物を分け合って食べようという気持ちが常にあるのです。


したがって、遠くに見える山、近くを流れる川、沢など、これら

の自然はアイヌにとっては神様であったのです。山も木も川も

みんな神様です。なぜそれを神様と考えたのか。それは自然

全体、山も川も沢も、これらはいつも新鮮な食料を供給してく

れる食料貯蔵庫であったのです。ということは、川があるから

魚がいる。木がはえているからシカがいる、そこへ行って食べ

物をちょうだいしてくるという謙虚な心をつねづね持っていまし

た。このように自然を神と崇め、豊富にある物といえども乱獲

を慎み、それによって神=自然とアイヌの間に相互信頼が確

立していたのです。


 


「アイヌの碑」萱野茂著 朝日文庫 より引用


このように昭和二十八年の秋ごろから、アイヌ民具の蒐集をつづけていくうち、アイヌ文化

全般を見直そうという自然な気持ちがわたしの心の中に生まれてきました。アイヌ研究者に

閉ざしていた心を少しずつ内側から開いていき、研究に対しても協力するようになりました。

ちょうどそのころだったと思うのですが、二谷国松さん(アイヌ名、ニスッレックル。明治二十

一年生まれ)、二谷一太郎さん(同ウパレッテ。明治二十五年生まれ)、それにわたしの父、

貝沢清太郎(同アレッアイヌ。明治二十六年生まれ)の三人が集まって話をしていました。

この三人は、二風谷ではアイヌ語を上手にしゃべれる最後の人たちでした。三人が話して

いたのは次のようなことでした。「三人のうちで、一番先に死んだ者が最も幸せだ。あとの

二人がアイヌの儀式とアイヌの言葉で、ちゃんとイヨイタッコテ(引導渡し)をしてくれるから、

その人は確実にアイヌの神の国へ帰って行ける。先に死ねたほうが幸せだ」 聞いていて、

わたしはとても悲しかった。「先に死んだほうが幸せだ」。わたしは何度もこの言葉を心の中

で繰り返しました。この言葉の意味は、民族の文化や言葉を根こそぎ奪われた者でなけれ

ば、おそらく理解することは絶対に不可能でしょう。人間は年をとると、死ぬということにあま

り恐れをいだかなくなるといいます。しかし、死んだときには、自分が納得できるやり方で、

野辺の送りをしてもらいたいと願う気持ちには変わりがありません。その納得できる葬式を

してもらいたい、ただそれだけのために早く死にたいと願うほど、わたしたちアイヌ民族に

とってアイヌ文化、アイヌ語は大切なものなのです。そして、その三人のうち、“最も幸せ”に

なったのは、わたしの父でした。








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