「アイヌの碑」
萱野茂著 朝日文庫 より
アイヌの文化伝承に多大な力を注いでいる著者の半生を綴った書であり、幼い頃の 辛く悲しい思い出から如何にアイヌ文化伝承に目覚めていったかを語ったものである。 著者は小学校卒業後、山子などの出稼ぎをしながらアイヌ民族としての自覚と誇りを 持つようになり、アイヌ民具を収集することから文化伝承の道を歩み始める。そしてそ の貴重な収集物は、1972年「二風谷アイヌ資料館」に収蔵されることになる。また 著者はアイヌの民話をまとめた「ウエペケレ集大成」などで菊池寛賞、吉川英治賞を 受賞し、現在もアイヌ語のCD−ROM辞典や民話を集めたCD−ROMなどを世に送 りだしている。アイヌ文化が根絶されようとしている現実に危機感を持ち、その活動は 今でも(1926年生まれ)衰えを知らない。1999年には「アイヌ語語り部育成へ育英資 金」を設立し、「言葉こそ民族のあかしだ」とのもとに後継者育成への資金協力を広く求 める活動を始めた。著者自身、アイヌ語をアイヌ民族のお年寄りから話を聞き取って学 んだが、その多くは亡くなり後継者不足が早急で深刻な問題として今問われている。 「(年を考えれば)正直、焦っています。ぼけないうちは頑張るが、いつまでもそうとは 限らない。一人でも二人でも、育英資金に賛同してくれればうれしい」と語る著者の 活動に賛同される方は次の振り込み先までお願いします。 苫小牧信用金庫平取支店の普通預金口座145306「萱野茂アイヌ語育英資金」 2000年2月21日 (K.K) アイヌの伝承世界に息づく豊穣な魂を綴った民話と神話集「炎の馬」を参照されたし
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本多勝一 本書より引用
これは「本」ではない。何万年の歴史を生きてきたひとつの民族、ひとつの文化が、 いま正に風前の灯にある、その灯を消すまいと、必死に祈り、戦い、怒り、しかし静 かに語る魂・・・・憤死した先祖たちが萱野氏というアイヌを通して全日本人に呼びか ける「声」そのものだ。
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本書より引用
このように昭和二十八年の秋ごろから、アイヌ民具の蒐集をつづけていくうち、アイヌ文化 全般を見直そうという自然な気持ちがわたしの心の中に生まれてきました。アイヌ研究者に 閉ざしていた心を少しずつ内側から開いていき、研究に対しても協力するようになりました。 ちょうどそのころだったと思うのですが、二谷国松さん(アイヌ名、ニスッレックル。明治二十 一年生まれ)、二谷一太郎さん(同ウパレッテ。明治二十五年生まれ)、それにわたしの父、 貝沢清太郎(同アレッアイヌ。明治二十六年生まれ)の三人が集まって話をしていました。 この三人は、二風谷ではアイヌ語を上手にしゃべれる最後の人たちでした。三人が話して いたのは次のようなことでした。「三人のうちで、一番先に死んだ者が最も幸せだ。あとの 二人がアイヌの儀式とアイヌの言葉で、ちゃんとイヨイタッコテ(引導渡し)をしてくれるから、 その人は確実にアイヌの神の国へ帰って行ける。先に死ねたほうが幸せだ」 聞いていて、 わたしはとても悲しかった。「先に死んだほうが幸せだ」。わたしは何度もこの言葉を心の中 で繰り返しました。この言葉の意味は、民族の文化や言葉を根こそぎ奪われた者でなけれ ば、おそらく理解することは絶対に不可能でしょう。人間は年をとると、死ぬということにあま り恐れをいだかなくなるといいます。しかし、死んだときには、自分が納得できるやり方で、 野辺の送りをしてもらいたいと願う気持ちには変わりがありません。その納得できる葬式を してもらいたい、ただそれだけのために早く死にたいと願うほど、わたしたちアイヌ民族に とってアイヌ文化、アイヌ語は大切なものなのです。そして、その三人のうち、“最も幸せ”に なったのは、わたしの父でした。
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本書より引用
そのころ、わたしが行っていた二風谷小学校では、困っている生徒に昼食にお米の にぎりを一個ずつくれました。たしか毎日ではなく、週に一日か二日だったと思います。 それにその期間もそれほど長くはなかったような気がします。それでも、他の子供が 弁当をもって来ているのに、貧乏人の子供の自分たちだけがにぎりめしをもらうのが いやで、支給の日に学校を休んだり、渡されるおにぎりを横目でみながら、近くのわ が家に帰ってきて、ひえのおかゆをすすって食べたりしました。あんなみじめな食い 方はおれはいやだ、と思ったのです。ところがそのころ、わたしのすぐ下の弟の源助 が病気にかかってしまい、だんだん元気がなくなるのです。弟に白い米のにぎりめし を食べさせたら病気が治るかもしれない。わたしはそう考えて、にぎりめしの出る日に 学校へ行きました。そして、いやだったにぎりめしをもらって家へ持ち帰り弟に見せた ところ、弟は真っ白いおにぎりを見て、にっこりしましたが、もうその時は、口のそばへ 持っていっても食べる気力はありませんでした。弟はとうとう死にました。数え五つか 六つだったと思います。母は埋葬するときに着せる弟の着物を縫いながら、「ああ生 きていてこのような新しい着物を縫うのなら、どんなにか源助が喜んでくれるだろうに ・・・・・。死んでからこんないい着物なにするものだ・・・・・」と涙を流しておりました。 それは、濃い茶色のネルの着物でした。わたしの母はとても信心深い人で、家の近く を通る寒修行のお坊さん、うちわ太鼓をもった人、錫杖をもった人、いろいろなお坊 さんを泊めました。ときには、わたしたちが寝たあとに泊めることもあり、わたしたち が敷いているわらぶとんの上のふとんを引っぱり抜き、その旅のお坊さんに敷いて やるのです。朝になって目が覚めると、わらぶとんの上に直接寝ているということが たびたびありました。お坊さんにかぎらず、通りがかりの旅人でも困っている人は泊 めてやりました。泊めて世話する余裕はなかったはずですが、もしその人を泊めない で行き倒れにでもなったら、自分は一生罰があたると思っていたようです。母は、神様 はみえないが、どこにでもいるものだ、人がみていなくても神様がみている、人のもの を盗んだり、悪いことをしてはならない、とよく言っていました。穴だらけのわが家では ありましたが、わが母の愛は針でついたほどの穴もなく、 アイヌ ネノアン アイヌ (人間 らしくある 人間)になれぞかし、と育てられました。
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もくじ わが二風谷 コタンの四季 和人の奴隷だった祖父 強制移住の果て 長期欠席児童 罪人にされた父 出稼ぎ少年の青春 あこがれの親方となって 先に死んだほうが幸せだ 知里真志保先生の教え 金田一京助先生との出会い アイヌ資料館をつくる アイヌ民族として あとがき 文庫版によせて
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2012年5月24日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年5月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |