魅せられたもの

2011.7.23










神奈川県厚木市 七沢森林公園 順礼峠



私はこの順礼峠のお地蔵さんを見ると心が熱くなります。それは順礼中に不幸

なことに山賊に殺された親子の無念さと、それを哀れに思った当時の村人たち

の深い祈りの姿をこのお地蔵さんを通して感じるからです。。享保6年(1721年)に

起こったこの悲しい出来事はずっとこの地区の人に伝えられてきました。そしてつ

い最近、亡くなられた親子の子孫の方が見つかり、このお地蔵さんに花を手向け

けました。お地蔵さんは嬉しかったと思います。昔の村人の祈りが今も生きている、

そう感じてなりませんでした。







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順礼峠
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順礼峠
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順礼峠
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順礼峠
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「今から260余年前の江戸中期、信州から巡礼
に出てきた父と娘が峠を越えようとした際、待
ち伏せしていた盗賊に襲われて切り殺されて
しまった。この姿を哀れんだ村人が二人の
めい福を祈り、建立したと伝えられている。」
厚木市文化財保護調査員・前場幸治さん。

このお地蔵様は当時、地元の石工によって
七沢石を使ってつくられたものです。またこの
峠は隣の村(現在の七沢地区)に行く近道
だったそうで、父と娘は隣の村に行こうとして
いたということです。



これ以降は新聞記事にもなった話です。上古沢
で理容店を営んでいる外山巌・スミ子さん夫妻
は、このお地蔵さんの赤いずきんを取り替えた
り、風化し破損した部分を補修するなど供養を
続けていました。



この外山ご夫妻の願いは「血筋を引く方が供養
してあげれば喜ぶだろう」ということで、お地蔵さ
んの脇にある墓石の文字「信州更科群上平村
久保次右衛門 子 享保6年」を頼りに長野県内
の各市役所や町村役場に電話をかけ、そして足
を運ぶなどして半年がかりで亡くなられた親子の
子孫を探し出しました。子孫の方も久保性でした。
(享保6年は1721年です)



この子孫の方が語るには「祖父からずっと前に
旅に出た親子が結局戻らなかったという話を聞
いたことがある」というものでした。探し出した
外山さんは「子孫との“対面”以来、厳しい表情
だったお地蔵さんの顔は穏やかになり、願いご
とをよくかなえてくれるようになった」と話していま
す。



妻のスミ子さんはこの悲話を基に「ああ順礼峠」
という詩を作り歌にしました。「順礼信濃の父と娘
(こ)が、無念の刃に散ったとか、せめて手向けに
前だれを・・・」という哀歌で、東名高速を走る県内
の観光バスのガイドさんが歌って聞かせることも
あるといいます。 



私自身この記事を読んで、亡くなられた親子の
子孫を探しつづけた外山さんご夫妻の祖先は、
このお地蔵さんを建立した方たちではないかと
感じました。このお地蔵さんに伝わる熱い想い
の言い伝えは、きっと祖先の方が代々子供や
孫に伝承されてきたものかも知れません。そし
て、この祖先からの想いを子孫が受け継いだ
と考えても飛躍しすぎではないと感じています。



右下の写真はお地蔵さんの前に立つ石碑
で、次のように書かれています。「順礼峠 坂東
三十三箇所順礼道にある。昔、順礼の老人と
娘がこの峠を通りがかった時、松の木に潜ん
でいた悪者に斬殺されてしまった。翌朝無残な
姿を発見した村人は哀れな順礼のために、
地蔵尊を建立し、供養したという。」



普通に読めばそれでいいのですが、何故かこ
の文の中に違和感があるのを感じていました。
それは「松の木に潜んでいた」という箇所です。
犯人しか知りえないことが何故わかったのだ
ろう、そんな疑問がわいてきました。もちろん、
いろいろな推測がが出来るかと思います。た
だ私個人としては犯人が捕まったことで、その
ことがわかったと思いたいです。



今となっては真実はわからないかも知れませ
んが、親子の魂が今安らぎの中にいることを
当時の村人の方たちと共に祈り、願いたいと
思います。













順礼峠
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順礼峠
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順礼峠
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順礼峠
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順礼峠
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「痛快! 寂聴仏教塾」瀬戸内寂聴 著 より引用



巡礼が非日常の世界に入る修行の旅であることが、はっきり分かるのはその装束です。この頃は、みなさん

普通の洋服で巡礼していますが、昔の巡礼装束はみな白衣です。なぜ、白い衣かと言えば、死に装束だから

です。人間は巡礼に行くことで生まれ変わると言いましたが、生まれ変わるためには、一度死ななければなり

ません。そこで巡礼者は、生きながらにして死んだ人間になるのです。だから、死人が着るのと同じ白衣を身

にまといます。



巡礼者が死に装束をするのには、もう一つ理由があります。それは現実に昔は巡礼の途中で死んだ人が多

かったから。病気やケガのために行き倒れになった人も多かったし、また山賊に襲われて死ぬことも珍しく

ありません。そこで、巡礼の途中で死んだとしても、そのまま葬れるように死に装束を着たというわけです。

(中略)

また、巡礼は金剛杖という木の杖を持ちますが、この杖は実はお墓に立てる卒塔婆(そとば)代わりなので

す。金剛杖には巡礼者の生国と名前を書き込みます。もし死んだ場合、それを塚の上に差しておけば、誰

が死んだか分かります。杖の上部には「地水火風空」の5文字が梵字で記されています。梵字(ぼんじ)と

いうのは、インドのサンスクリット文字ですが、この5文字は卒塔婆に書かれるべき文字なのです。ですから、

この杖を墓に立てれば、そのまま卒塔婆になるというわけです。



昔は巡礼といえば、決死の覚悟で行なうものでした。そんなに大変な旅だったのに、昔からなぜ日本人は

巡礼をしていたのか。それは辺境の地を回る修行によって、自分自身も生まれ変わるし、仏さまに願をかけ

ることができると考えたからです。かつては若い男女が村の長老に引き連れられて、巡礼をする風習があり

ました。一種の成人式のようなもので、大人になる通過儀礼とされました。厳しい巡礼をすることによって大人

に生まれ変わろうという意味があったのでしょう。どんな目的にせよ、昔はやはり死ぬ覚悟で巡礼していたの

です。





七沢森林公園の全体の紹介はこちらに書いています。

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