「アシジの聖フランチェスコ」

ジュリアン・グリーン著 原田武 訳 人文書院 より引用






本書 役者あとがき より抜粋引用


本書は昨年4月の発売以来、フランスで非常な売行きを示した。上記の「フィガロ・

マガジーヌ」によれば、これは同年9月までで5万部以上を売り、宗教関係の本として

は異例なベスト・セラーになった。新聞雑誌の評判もなかなか好意的であって、「ル・

モンド」は「読者は、この信仰あつい作家がアシジのフランチェスコに関する仕事と、

その出会いを通じて経験した若々しい快活さに、心動かされずにはいられないだろ

う」と述べ、カトリック系の「十字架(ラ・クロワ)」も賛辞をよせて、「ジュリアン・グリー

ンの本を読むことは、その時間をアシジのフランチェスコとともに生きることを意味す

る。すべての神学体系を超越したこの聖人とのこのような出会いを、私たちは逃すべ

きではないだろう」と語る。もう一つ、「エクスプレス」5月6日号にのったドミニック・フェ

ルナンデスの書評を紹介しよう。日本に訳書もある、この小説家にして精神分析派の

評論家は聖フランチェスコの人間性をとり上げるグリーンのやり方に賛意を示したあ

とで、これを「強い共感のしみ通った、とても生き生きとして上出来の本」とたたえ、次

のように結ぶ。「まったくフランチェスコふうな単純さで書かれたこの本は、人びとから

愛されるだろう。ここではグリーンの心の震えや、光と影を巧みにふり分ける、いつも

の彼独自のやり方のおかげで、各ページに一種の魔法のような呪縛が生じるのだ」。

またこれは、雑誌「読書(リール)」によって昨年の「良書20冊」に選ばれている。


 


本書 役者あとがき より抜粋引用


訳者のあとがきとしては、私はやや長く語りすぎたのかもしれない。ただ私は、訳者と

してグリーンの刻むこの稀有な、感動的な人間像に親しく接してきたあとで、多少の粗雑

さはあえてしても、今度は自分の言葉でグリーンの述べるところを側面から補い、敷衍せ

ずにはいられなかったのである。



ともあれ、「人間」への見直しが迫られている今、聖フランチェスコがはなはだしく現代的

な意味をもつことは確かである。聖フランチェスコこそ、真に宗教家らしい宗教家であり、

彼のうちには、キリスト教のみならず仏教にも通じる宗教そのものの「原点」が見出され

るのではないだろうか。「受苦」の思想家シモーヌ・ヴェイユは、ポルチウンクラの天使の

聖マリア聖堂で、はじめてひざまずいて祈ったといわれる。「この地上にあっては、ただ

窮迫と悲惨そのものの姿をさらすことが、真理に従おうとする者に当然要求される条件」

であるとの自覚が彼女にあった(田辺保『純粋さのきわみの死』)。またやはり、「太陽」と

「貧しさ」の詩人であったアルベール・カミュは、いわば当然のこととして聖フランチェスコ

に共感をよせる。「『神』という言葉をのぞいては聖フランチェスコの思想とカミュの思想に

質的な差異はないといえるほどの」近さで、二人はあい接するのである(饗庭孝男『自然・

制度・想像力』)。もう一つの別の場合をつけ加えるなら、のちにもふれる雑誌「フィガロ・

マガジーヌ」のインタビューで、グリーンはかつてスイスのある町の壁に「アナーキストの

守護聖人、アシジのフランチェスコばんざい!」との落書きを見たことを語っている。フラ

ンチェスコが当時の社会で、「愛」を武器とする革命家であったとすれば、今日の青年の

このような反応にも根拠があるというべきだろうか。



著者のジュリアン・グリーンについては、もはや多言を要しないであろう。日本でも彼の

熱心な愛読者が少なくなく、14巻にのぼる「ジュリアン・グリーン全集」(人文書院)が完結

した今では、彼の作品の大部分を日本語で読むことができる。一方で、ジャーナリスト、

マルセル・ジュリアンとの対談集(『終末を前にして』人文書院)も日本語に訳されている

から、彼が人間をめぐるさまざまの問題について、率直に肉声で語るのを聞くこともでき

る。1900年アメリカ人を両親としてパリに生まれた現存のフランス作家で、数多くの小説

や劇作、エッセイ、それに今日まで12冊にのぼる大部な『日記』によって、人間であること

の矛盾と困難を、執拗かつ誠実に問いつづけてきた内面の探求者といえば、彼の輪郭

がほぼ察せられよう。1930年ローマ教会に決定的に復帰してから、彼のカトリック信仰

にゆるぎはないけれど、半世紀以上に及ぶ文学活動のなかには、異教、神秘、非現実

かつ狂気や下意識世界にいたる、広い心的現象への関心がみられる。人間の苦しさ

に発するもっとも基本的な意味での宗教性が、彼の問題意識の中心にあり、人間の潔さ

と複雑さに対する透徹した自覚をもって、この異色な宗教作家の特徴とすることができる

ように思う。



(中略)



しかし、これがいかに多くの資料の検討の上に立った著作だとしても、むろん著者グリー

ンの問題意識を反映せずにいることはできない。とりわけ、聖フランチェスコの「人間的

な」、あえていえば肉的な側面に、彼がやや過度のこだわりをみせているとの批判が成り

立つかもしれない。だとしてもこれは、まさしく肉の問題に終始からみつかれて生きなけれ

ばならなかったグリーンとして、やむをえない接近の仕方なのだ。83年9月「フィガロ・マガ

ジーヌ」誌のインタビューで、『聖フランチェスコ』でなく、なぜ『兄弟フランチェスコ』の題名

をとったかという問いに対して、彼は「彼を私たちにより近い存在にしたかったからです。

私は聖人に先立って人間を語りました」と答える。たしかに、グリーンの叙述を通じて、当

初ごくふつうの青年であり、回心後も烈しくいきどおり、叱咤し、ときには悲嘆にくれること

もあったひとりの人間の姿が浮かび上がる。そしてそれが、この「聖人」を私たちにいちだ

んと親しく感じさせるのである。もともと人間性の極地をきわめた聖人とは、もっとも人間ら

しい人間のことだともいえ、ひとりの個人のあつい共感のもとに、人間的側面がしっかり

考慮に入れた聖人伝は、人間の記録として広く読まれてよい分野であろう。



 


目次


第一部 なすところなき青春

第二部 神の狂人

第三部 世界に向かって

第四部 ただ神のみ


訳注

訳者あとがき

参考文献

年表

詳細目次





2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)









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