「アシジの聖フランシスコの小さき花U」

フランシスコ会業書 7 石井健吾 訳





先に紹介した「聖フランシスコの小さき花」の続編で、「聖フランシスコの聖痕について」「兄弟ジネプロの伝記」

「兄弟レオによる兄弟エジディオの伝記」「兄弟エジディオのことばから」「補足された章」が収められているが、

私は単純素朴なジネプロにも惹かれる。

(K.K) 






本書 序にかえて より引用


アシジと言う、イタリアの小さな町から生まれたささやかな精神運動が、幾世紀の歳月

を経て、今日全世界に広がり人々の共感を呼んでいる。今年は、この運動の創始者

フランシスコの生誕800年を迎える。彼のメッセージは、激動する現代社会と動揺する

人々の良心に、過去のどの時代にもまして強くアピールするもののように見える。


騎士とこの世の栄誉に憧れた若きフランシスコは神の霊の呼びかけに答えて、全き

回心をし、大王であるキリストの騎士となった。全ての人を救おうとされるキリストの愛

を実行するため、彼はキリストと全く同じように生きることを望んだ。そこから生まれた

霊性には、他のそれとちがって難解な所は何もない。理由は、それが生活に根ざし、

生活そのものであったから。この内容は神と人とを愛し、貧しく謙虚に生きる、ただそ

れだけである。しかし、この実行は生やさしいものではなかった。


この世に生を受けた誰もが、このような生活を望み、憧れながら成功した者といえば、

数えるほどしかいない。それはエゴ(自我)との壮絶な戦いに始まり、想像を絶する苛酷

な戦いに終わる。この「小さき花」は、フランシスコと彼の生き方に共鳴した、最初の兄弟

たちの血みどろの戦譜である。


「小さき花」という題名の持つひびきは、耳にやさしくムードに溢れるが、その内容は、

はげしく魂の根元を衝く。ロマンティシズムとは、大きな困難に敢然と立ち向かうことで

あるとすれば、この書に見られる個々のエピソードに登場する、小さき兄弟たちの生き

方を支えたものが、まさにそれであろう。神と人との平和を目ざすフランシスカン運動

は、自我との戦いに始まり、それに終わる。「小さき花」は、その戦いで花開いたロマン

ティシズムによって編まれた花冠、つまりロマンの勝利を表す月桂冠とでも言えよう。


今春、来日された教皇ヨハネ・パウロ二世の平和アピールの核心も、各個人の罪と悪

からの離脱、つまり魂の自由にあることを考える時、本書の意味する所は大きい。な

お14世紀後半に編まれた本書は、以上のような霊性面の他に、文学面でもイタリア・

ルネッサンスにさきがける中世文学の花として、ヨーロッパでは「ローランの歌」や

「バラ物語」を始めとする中世騎士物語と並んで高い評価を受けていると聴く。さてこ

の度、石井健吾師が最新の校訂版を使用して、平易な文体で邦訳を終えられたこと

は歓びにたえない。本書ができるだけ多くの人に読まれ、聖フランシスコの生き方と

その精神が広く現代に理解され生かされるのを念願して、序言に代えさせていただく。


1981年6月 聖霊降臨の大祝日を期して

フランシスコ会日本管区長 佐藤啓一


 


目次

聖フランシスコの聖痕について

兄弟ジネプロの伝記

兄弟レオによる兄弟エジディオの伝記

兄弟エジディオのことばから

補足された章





2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)









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