「フランシスコと共にいた わたしたちは」
レオネ、ルフィーノ、アンジェロ兄弟たちの報告記
佐藤翔子・渡辺義行 訳 小さき兄弟会監修(フランシスコ会) あかし書房
本書 はしがき より抜粋引用
この本には、「フランシスコと共にいたわたしたちは・・・」という大胆な表題がついている。 これは、ありのままに書かれたまとまりのない一群の物語であるが、有名な聖人と日々生 活を共にしていた人たちの手で記録されたものである。それでこの本に、こういう表題をつ けるのはふさわしいことである。
これを書いたのは、フランシスコと最も親しかった三人の仲間たちであった。そのうちの一 人は、フランシスコの腹心の友、また霊的指導者、兄弟レオネであった。この兄弟は、フラ ンシスコ臨終の際には看病にもあたった。他の一人は、霊的生活にすぐれていた兄弟ル フィーノで、この兄弟のことをフランシスコは聖人と呼んで、そばにいてもらいたいと望んだ 人である。もう一人は、温和な人、最愛の友、兄弟アンジェロで、後にフランシスコの院長 になった人であった。兄弟たちに、自分たちの霊的父のことを報告するよう求められる日 が来た。兄弟たちは、自分たちの兄弟であり、父であり、また聖なる師でもあったフランシ スコについて、この兄弟たちだけが、その時まで知っていたさまざまのすばらしい出来事を 心をこめて書き上げたのである。これらの兄弟たちの書いたものは、しみじみとした意味 深い話にまとめられたもの(物語ふうの形)になっていたので700年たった今も、兄弟たち が知っていた聖人の世界に読む者を引き入れることが出来るほどである。
こういうわけで、この兄弟たちから直接、今日の人たちに語ってもらおう。カトリックの 聖人たちの中にあって、フランシスコほど世界中の人びとの関心と愛情をかち得た人は いない。物質主義に押しつぶされ、疑いばかりでいらいらし、たちまち消えてしまうイデオ ロギーが雨後のたけのこのようにはびこる現代社会の中で、フランシスコは、わたした ちの宗教的目覚めを新たに導いてくれる希望として待望されている。現代はまた、フラン シスカンの生き方についてのあらゆる問題が見直される時でもある。さらにフランシスコ を慕う者として、もし聖霊に従うならば、フランシスコの果たしたことと兄弟たちが果たす べきことが、必ずしも同じでないとしても、兄弟たちは、フランシスコの本当の姿を確信 もって話すことができさえすれば、自分たちの問題点をかなりはっきりとらえられるであ ろう。
フランシスコは、神が創造された美しく善い兄弟姉妹被造物に話しかける。そのような フランシスコが人の心を引きつける。フランシスコのもとにやってきた貧しい人のだれに も、背負っているものは何でもあげようと心配っているフランシスコが、わたしたちの心 を暖め、財布のひもを緩めさせる。この兄弟、ラ・ベルナ山での熾天使との言い表せな いほどの崇高な出会いでわたしたちを圧倒する。だれもかれも、フランシスコが非常に 魅力的で非常に愛すべき人だと言うのである。フランシスコを、美しい、人の心を高潔 にする神秘家とする人びともいる。だが、それにもかかわらず、そこには、福音の主が、 人類に絶えず教えられることを、自身とその行いとで劇的に再現されるために、考えら れないほどまでに、自らを放棄していた人、祝福されたフランシスコの姿はないのであ る。仲間たちの話は、神聖な想像を描いて自己満足している者に反省を促すものであ る。兄弟たちは、自分たちの聖なる師の真の姿を描き出している。また、フランシスコ 自身がそれらを言い表したと同じ動機、目的をわたしたちに語ってくれる。
兄弟たちの話すことは、どれもわたしたちにとって、目新しいものではない。兄弟たちは、 フランシスコについて書かれた物語、また、最近の物語どちらにも資料を提供している。 本書は、これを読んで、フランシスカニズムを学ぶというよりもむしろ、フランシスコがどん な人であったかにもっと気づきたいと望む読者のために、仲間たちの物語にたやすく近づ けるよう書き方の形を整えたものである。フランシスコは、生存中も、また、その人柄の影 響がまだ感じられていた間にも、書かれた記録題材の質量いずれも、中世の聖人たちの 間で例外なおど多い。今日のわたしたちは、明らかに有利な点がある。今世紀の初めか ら、非常に有能な学者たちが源泉資料を研究してきた。フランシスコについての優れた、 また確実なさまざまな研究が、この福音生活の模範から教わりたいと望む人びとのために 出版されてきた。では、なぜこの本では、フランシスカニズムに精通した人たちがほとんど 陰に残していた仲間たちの話を取り上げるのだろうか。
確かに、もし著者たちが、実際に記録された清らかな出来事と共に生きていたとしたら、 また、もし、これらの兄弟たちが、記録された話の目撃者であり、また、それらの出来事 の中にいたとしたら、その話は聞くに値する。では、兄弟たちは目撃者、実際にその場に 居合わせた者たちだろうか。兄弟たちは自分たちが正しくそれらの目撃者だと主張する。 また、自分たちは文学的能力にも欠けているし、知的なことを表現するにも余り巧みでな いという事実ほど、よりよく信じてもらえるものはないのではないかと、ためらわず繰り返 し主張しているのである。兄弟たちは、どう書こうかということには興味がなかった。疑い もなく自分たちが何を書いているかを知っていた。フランシスコについて言うべきことはた くさんある。しかし、兄弟たちの話は報告であって伝記ではない。本書は、冒頭から臨終 に近い聖人の話で始める。このことからすでに明らかなように、本書は、年代的順序で書 かれていない。ばらばらに並べられた物語は、アシジの聖フランシスコの生涯をすでに 知っていた人びとにとっては便利だと言えよう。したがって、これはフランシスカンの種々 の書き物の中に含まれていたラテン語写本から採られた報告をまとめたものである。写 本は、ペルージアの図書館に保存されている。これは、すでにあった作品を筆者が写し たものであり、1311年か、あるいはこれに近い年に仕上げられたものである。
サルバトーレ・バトラー(フランシスコ会) アシジのサン・ダミアノ修道院で
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2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 原罪の神秘 キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが 何か考えるようになってきた。 世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る 余地などない。 ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない 遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら の魂は何かに守られていると感じてならなかった。 宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力 に満ち溢れているのだろう。 その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た わっているのかも知れない。 世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し ている。 世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。 これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類 と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、 原罪との関わりもわからない。 将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、 ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人と 言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。 しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。 原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて いる。 前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも それは変わらないのだと強く思う。 最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は 聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。 私の文章で不快に思われた方、お許しください。 ☆☆☆☆ 神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。 憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように いさかいのあるところに、赦しを 分裂のあるところに、一致を 迷いのあるところに、信仰を 誤りのあるところに、真理を 絶望のあるところに、希望を 悲しみのあるところに、よろこびを 闇のあるところに、光を もたらすことができますように、 助け、導いてください。 神よ、わたしに 慰められることよりも、慰めることを 理解されることよりも、理解することを 愛されることよりも、愛することを 望ませてください。 自分を捨てて初めて 自分を見出し 赦してこそゆるされ 死ぬことによってのみ 永遠の生命によみがえることを 深く悟らせてください。 ☆☆☆☆ (K.K) |