「聖性の詩人 フランチェスコ」 アベル・ボナール著 大塚幸男訳 白水社





聖フランシスコ同様、この文献には誌的な美しさが湛えられている。現代から中世まで遡り、聖フランシ

スコの魂に辿りつくには、清浄な水を潜っていかなければならない。もし汚れた水の中に飛び込んでも、

聖フランシスコの魂に辿りつくことは出来ないだろう。著者はこの清浄な水を心に湛えた人であり、それが

故に、水の底に輝く詩的な聖人の魂に向かって真っ直ぐに潜っていくことが出来たのだろう。


(K.K) 




わたしは数ある文献の中から、なにゆえにこの書を選んだか?それはこの書が聖伝を

厳密に尊重しつつ、アッシージの聖者の人間とドラマとを深い洞察をもって描き出し、

その聖性の比類ない特質と美しさとを詩的に伝えているからである。しかも二百数十項

という小さい本でありながら、その緊密度が希有の高さに達しているからである。さき

に挙げたような、フランチェスコ文献の主なるものはすでに日本語に移されているが、

それはほとんど宗門の人々の手に成るものであった。けだし純粋な作家の手に成る

ものの邦訳は、この拙訳をもって嚆矢とするのではあるまいか。それだけ本書は一

般の読者にも近づきやすいであろうと思う。とはいえ、わたくしはわたくし自身のため

に、わたくし自身の喜びのために、この書の翻訳を志した。フロベールが常にいって

いたように、われわれは何よりもまず自分自身のために仕事をしなければならない

のである。この書がわたくしに絶大な感激と法悦とをもたらしてくれたように、心ある

読者の胸に何らかの感動を伝えることができれば、訳者として望外の喜びである。

<知識階級も国家も、大がかりで馬鹿げた金銭経済に足もとを奪われている。この

世がこれほど俗世だったことはなく、これほど愛情と善意に乏しかったこともない。>

これは誰の言葉であるか? ニーチェの言葉である。ビスマルク時代のドイツ、国運

隆々たるかに見え、政治的、経済的に急速に発展しつつあった時代のドイツに対

る批判である。この批判を現代の日本にあてはめ、今日の時代の挙世とうとうた

る風潮にフランチェスコを対置するのは極めて容易なことである。しかし、わたくし

はこの聖者に単なる今日的意義を求めて事足れりとする者ではない。それは至っ

てこの偉大な人を引き下げ、小さくすることにすぎないからである。それにこの人

は他を責めたり、理屈をこねたりすることは決してなかった。ただ、ひたすら愛を歌

い、愛を実践したのである。<理性は語る、されど愛は歌う!>。フランチェスコ

は<この世に太陽のごとく出現した>ダンテ。<彼は深い夜の中に輝く一つの

星のように、闇を追い払う曙光のように輝いた>チェラーノ。アッシージのフランチ

ェスコは、時と所を超えて、人の世の空高く、まさに太陽や星のごとく、永遠に輝

いているのである。・・・・・・・・・・・・・・同著 「短い序曲」より


 




2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)









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