2012年5月24日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。
私がインディアンに関心を持った頃に、インディアンのことについて日本人の方が書いている本に出会った。
その方からは、メールを通していろいろ教えてもらったこともある。
その方はブログの中で、日食に関してインディアンのメディスン・マンから決して見てはいけないことを言われ、
世界中のシャーマン達が決して日食を見ない事例を紹介しながら、家にこもり内なるビジョンを見ることを訴
えておられた。
私は日頃から星空に関心があり、時々山にこもって星を見るのだが、日食も一つの天文現象であると浅は
かに思っていた。
確かに太陽が死んでいくことは古代の人々にとって恐怖であり、喪に服す意味で家にこもったのだろう。私
たち現代人は太陽が隠れても、直ぐに復活することを知っているため、彼ら古代の人のこの恐怖は決して
理解することは出来ないと思う。
この意味で、先のブログは私に新たな視点を与えてくれたように思う。
ただ、私自身の中で、違う見方をした古代の人もいたのではないかという疑問が湧いてきて、5月21日にそ
の思いを投稿した。
私はギリシャ神話は好きではなく、以前から古代の人が星空にどんな姿を投影してきたのか関心があった。
また自分なりに星を繋ぎあわせ星座を創ったほうが意味あることだと思っていた。
今日のことだったがアイヌの日食についての伝承に出会った。私自身まだ読んではいないが、これは『人間
達(アイヌタリ)のみた星座と伝承』末岡外美夫氏著に書かれている話だった。
アイヌの文献は何冊か読んで感じていたことではあるが、アイヌの方と神(創造主)はまるで同じ次元でもあ
るかのような親密感をもって接していながら、畏敬の心を持っている。私は彼らの世界観が大好きだった。
下にこの文献からの引用とアイヌの方が日食を歌った祈りを紹介しようと思うが、これは一つの視点であり
絶対こうでなければならないという意味ではない。
私たちは日食に対する様々な見方を受け止めなければならないのだろうと思う。
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太陽が隠れるということは、人びとにとって恐怖でした。
日食のことを次のように言いました。
チュパンコイキ(cup・ankoyki 太陽・をわれわれが叱る)
チュプ・ライ(cup・ray 太陽・が死ぬ)
チュプ・サンペ・ウェン(cup・sanpe・wen 太陽・の心臓・が病む)
トカム・シリクンネ(tokam・sirkunne, tokap・sirkunne 日(太陽)・が暗くなる)
チュプ・チルキ(cup・ciruki 太陽・が呑まれた)
トカプ・チュプ・ライ(tokap・cup・ray 日中の・太陽・が死ぬ)
チュプ・カシ・クルカム(cup・kasi・kur・kam 太陽・の上を・魔者・がかぶさる)
日食の際の儀式を紹介します。
男性は、欠けていく太陽をめがけてノイヤ(蓬(よもぎ))で作った矢を放ちました。
女性は、身近にある器物を打ち鳴らし声を合わせて、次のように叫びました。
チュプカムイ 太陽のカムイよ
エ・ライ ナー あなたは重態だ
ヤイヌー パー よみがえれよー
ホーイ オーイ ホーイ オーイ
日食は、太陽を魔者が呑み込むために起こったと考えました。その魔者を倒すために、蓬の矢が効果が
あったのです。
太陽を呑み込む魔者は、オキナ(oki・na 鯨・の化け物)、シト゜ンペ(situ・un・pe 山奥・にいる・もの 黒狐)。
オキナは、上顎(うわあご)が天空まで届き、空に浮かんでいる太陽をひと呑みにしたと伝えられています。
闘病記/定年退職後の星日記/プラネタリウム より引用
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(K.K)
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