「アイヌ・母(ハポ)のうた」伊賀ふで詩集

 伊賀ふで・著 麻生直子+植村佳弘・編

CD「はるとりのウポポ」(アイヌ語音声)付 現代書館








少女時代の熊送りの儀式の悲しみ、青春時代の喜びに溢れた世界、そして酒

で暴れる夫に苦しめられつつ自身も肺病になってしまう人生の中で、アイヌとして、

母としての誇りを失わなかった伊賀ふでさんが書き綴った詩集とそのウポポ(歌劇)

を録音したCD。伊賀ふでさんの詩は純朴そのものであり、喜び、悲しみ、怒り、苦し

みが直接心にこだましてくるような感じがしてならなかった。ふでさんの背中を見て

育ったチカップ美恵子さんにとって、ふでさんは「言葉を奪われた民族の文字による

表現と記録への挑戦」者であり、目標だった。

(K.K)


 










写真は本書より引用

北に暮らす先住民族であるアイヌに、少女の頃から私が、愛憐をまじえた憧憬をいだくように

なったのは、するどく美しいひびきを持つ月寒(つきさっぷ)という土地の名や、大雪の山々を神々

の遊ぶ庭(カムイ・ミンタラ)というのだと、何かの本で読み深く感動したからでした。近代になって

アイヌは、伊賀ふでさんという純朴でかつ高貴な魂を持つ詩人を、産み出しました。〈アイヌの心〉

がぎっしり詰まったこのようなご本を、私は七十年、待ちつづけていた気がします。

(本書 帯文より)





写真は本書より引用


イヨマンテ:熊送り(熊祭りの寂しさ)



コロ エベレ

ホブニナ

ホク トンゲ

ヘ チュイ

ヤン フーン



さようなら さようなら

私のかわいい仔熊よ

泣けて泣けてしかたがない

これが運命というものか

共に暮らし 共に食し

きょうだいのように遊んだり

同じ空を見たり

寒さも暑さも一緒にしたものを

心ならずも おまえは天国へ行く

神にされて行ってしまう

遠い遠いあの空へ

許しておくれ 昔のしきたり

生まれ変わって

また私のところへ戻っておくれ

私は泣きながらお送りします








ペウレ ウタリ エサシ パク ノ:若い仲間よ いつまでも



夏になりました

日本中の若い仲間よ

お元気に 良き仕事

なさっていらっしゃいますか

今は 色とりどりの花盛りです

美しい若い仲間も花盛りです

忘れてはいけません

風当たり

美しいものを散らそうとする

強い強い風がつぎつぎに

おそって来ると思います

決して負けず泣きもせず

日本のすみずみまで

強く正しい若い仲間を

たくさん作って学びましょう

私の小さな願いです

胸に納めて 欲しいです








娘時代に戻りたい



もう一度 娘時代の美しく健康なからだに戻りたい

いまは 闘病生活をしていても

母なればこそ心強く死の中に活路をもとめ

妻としての資格はなくとも

誰に笑われても私はこれで満足

夫たる人の心は冬の月に似て

始めから

冷たい魚の如し

話しにもならず 理解がないから

子等もなじまず 死にぞこないの私を打ちのめす

シャモならいいのか シャモならいいのかと

毎日酔いしれて暴れる

こんな苦しみ

誰が耐えよう



(注)シャモは和人の意味







写真は本書より引用


母鳥たちのピリカモシリ 麻生直子 本書より抜粋引用



伊賀ふでさんの数冊のノートのふちには黒く焼け焦げた跡があった。ふれるといまにも剥がれ落ちそうで、

私は手に取ることがためらわれた。イランカラプテ(あなたの心にそっとふれさせてください)という挨拶の

ことばをのみこんだ。札幌に住む植村佳弘さんを訪ね、チカップ美恵子さんの遺品やふでさんのノートや

日記帳を見せていただいた日のことだった。



(中略)



チカップさんには多くの心残りがあったに違いない。彼女は著書のなかで、母、ふでさんの遺した回想記や

アイヌ語の意訳詩や、詩作品も収載し、母の生き方は私のバイブルだとも書いている。私は二人の単行詩

集を、暗黙の約束として発行してあげたいとおもった。現在では知里幸恵編訳の『アイヌ神謡集』がユーカラ

として有名だが、その他にさまざまな地域の口承文芸があることを、ふでさんの兄、山本多助さんやチカップ

さんの著作で知った。釧路市阿寒町の阿寒湖畔にあるアイヌコタンでは新しく「阿寒湖アイヌシアター イコロ」

もでき、アイヌ民族の伝統的な歌や踊りも行なわれている。



(中略)



ふでさんのノートは1954(昭和29)年、当時41歳のものから1967(昭和42)年4月に54歳で亡くなる直前まで

日記帳とともに書き記されている。そのノートのなかの詩、「ポロンノアン:私の時間」には〈若い時に書きしる

したノートは・無情な動物に焼かれてしまった)という二行がある。そのノートがあれば忘れたものがすぐわか

るのに情けないと嘆きながら、夜8時から10時まで、記憶をたどり、思考をかさねながらアイヌ語の単語に日

本語訳を綿密に書き入れ、先祖から伝わるイヨマンテやイフンケ、ウポポやリムセの詩を意訳した詩集前半

の伝承歌は得難い存在である。ノートには1ページも無駄にしない緻密な文字が詰まる。ふでさんが生まれ

育った道東の、太平洋が広がる釧路の豊かな海、阿寒周辺、塘路湖など、アイヌ語を語源とする地名や動

植物、種々の薬草や効能も記され、それのみで貴重な資料にちがいない。



(中略)



塘路湖でのベカンベ祭りは現在、休止しているが、湖畔でムックリを吹くふでさんの写真は印象的だ。阿寒

湖のまりも祭りには長老たちが小舟に乗り、まりもを祀る儀式もある。ふでさんの詩「トウラ サンベ:まりも

の歌」で「トウラ サンベ」は「湖の妖精」を意味する。先ごろ、世界各地の湖沼に生息するマリモの祖先は、

そのすべてが阿寒湖のマリモで、渡り鳥によって運ばれその地で生育したものだと実証されたという。湖の

妖精が鳥によって運ばれて世界の美しい水辺で育ち、菱の実はもしかしてヒマラヤを越えて飛来する鶴が

運んできた神様の贈り物かもしれないなどと想像してみる。



この宇宙や地球は神(カムイ)からの借り物であり、自分たちは未来の子どもたちに、水や空気も汚さずに

引き渡さなければならない、というアイヌ民族の自然観や精神文化を身近に感じる。ふでさんのアイヌ語と

日本語のバイリンガルの詩は、「ウエノソイマ エミナ カイクシ:おてんばは喜ぶ春」や「ポン レタラ アパッ

ポ(レヘ オイラ:鈴蘭」などに代表されるように、自然や動植物や子どもたちの呼吸が、リズム感をもって

伝えられる。



詩集後半の生活実感がにじみ出た詩の多くは、日記の断片のような独白のことばになっている。1913(大正2)

年生まれのふでさんが、戦中、戦後の困難な時代、多くの母たちが味わった窮乏生活のなかで、家族のこと、

病気や入院生活、自分の夢や欲望や悲嘆や死さえも、ことばに吐き出し、それが、かえって詩を書くことをより

どころにしていた独りの母や女性の姿を映し出す。



チカップさんの詩群は昨年、『チカップ美恵子の世界』(北海道新聞社)といsてアイヌ文様刺繍とともに作品集

に収載された。『アイヌ・母(ハポ)のうた・・・・伊賀ふで詩集』はこのたび植村さんと一緒に編むことができ、そ

こにいたるまでいろいろな人にご協力をいただいた。なによりもチカップさんにそのことを伝えたい。

〈あなたの心にそっとふれさせてください〉という読者への願いもこめた詩集なのです。







娘につなぐウポポのこころ 植村佳弘 本書より引用



本書は北海道釧路市に生まれ育ったアイヌ民族の一人の女性、伊賀ふでの詩をまとめたものである。ふでは

生前、アイヌに伝わるウポポ(歌劇)を意訳した詩の他に、アイヌ語と日本語で多数の詩を遺していた。それら

を書き留めた十三冊のノートと日記は長女のアイヌ文様刺繍家、チカップ美恵子が大切に保管していた。



チカップとはアイヌ語で鳥を意味する。美恵子は2010年2月5日、急性骨髄性白血病で鳥のようにおおらかに

羽ばたいた61歳の生涯を閉じた。私は刺繍の写真と詩を『チカップ美恵子の世界・アイヌ文様と詩作品集』

(北海道新聞社)として刊行した。彼女との最後の約束だった。



美恵子は母ふでとその長兄、山本多助エカシ(長老)から大きな影響を受け、自分の著作の中でふでの詩など

を断片的には紹介していた。美恵子の没後、美恵子が生前最後に行った「日本の詩祭」(2009年)での講演を

主催した日本現代詩人会の実行委員でもあった詩人、麻生直子さんからふでの詩集を刊行したいとの申し出

があった。以後、二人でふでのノートを見直し、本書にはほぼすべてとなる71編の詩を収載した。アイヌ語につ

いては大野徹人さん(アイヌ語講師、北海道日高管内様似町在住)に監修いただいた。また民族の伝統を尊重

しながら、ロック調にアレンジした音楽の演奏など、いまを生きる民族の文化の発信を追及している「アイヌアー

ト・プロジェクト」代表で版画家の結城幸司さんに版画を寄せていただいた。



明治以降の同化政策によって、先住民族であるアイヌは抑圧されていく。貧困と差別、希望が見えぬ生活に

酒におぼれるアイヌも少なからずいた。酒を飲んでは大声を出して妻につらくあたる夫。ふでの家もまた同じ

であった。



やり場のない悲しみと苦しみ。しかし、ふでは戦後の新しい風も吹く中、詩やエッセー、物語などの文芸の他に

も刺繍や彫刻、習字、油絵などと多彩な表現活動を展開、才能を開花させ始めた。高度経済成長が本格化し

ていく1960年ごろ、畳さえ満足になかったあばら家の自宅の真ん中には、大きな箱型のオープンリールのテー

プレコーダーが一台あった。事故死した夫に代わり、出稼ぎをして一家の生活を支えていた長男、久幸が大

奮発して買ったものだ。



ふでは病弱であまり外出はできず、近くで暮らす千家イセと従妹の井樫タケ、二人のフチ(おばあさん)や山本

エカシがよく遊びに来た。どぶろくを呑み、調子が出るとウポポが始まる。添付のCDに収録されているウポポ

がその一部だ。



歌っていたウポポがすぐにその場で聴ける。フチらにとってテープレコーダーはまるで「魔法の箱」だった。ふで

はおしゃべりの合間をみて、録音したばかりのウポポを聴かせる。まだ小学生の美恵子とフチらは驚きの声を

出して、大笑いした。



日本全体が東京オリンピックの熱気につつまれるころ、ふでは病気で入退院を繰り返すようになる。人生は

はかなく、自らのいのちも限られたものであることを自覚したのだろうか。執筆のペースは上がり、多くの詩な

どを書いている。苦しみさえ包み込み、その表現は生きる喜びにあふれ、しなやかに澄んでいる。



一方ふではアイヌ語の語彙や意味、ウポポの歌詞などをノートに書き留め、記録することにこだわりを見せて

いる。アイヌ語は独自の文字をもたず、文化や歴史は口承されてきた。同化政策でアイヌ語の使用は制限さ

れ、「滅びゆくアイヌ」とさえいわれた。「民族のこころを守り育てていく。母がしたことは、言葉を奪われた民族

の文字による表現と記録への挑戦だった。その母の背中をずっと追い続けている気がする」と美恵子が話し

たことがある。



「美しき着物、夢」

毎日、よく降る雨である。一針一針動かしつつ祖母の作った百年近いと思われる古い着物を見ながら、と

言ってよいか、拝しながら、と言った方が正しいのでしょう。それを見ながら感激やら感謝をして真似をして

みるが、うまくいかない。

祖母はこの着物を作る時、どんな気持ちで一針一針を運んだのだろう。ミシンでもうまくいかないくらい、少

しも狂っていない。井樫おばさんの話だと、祖母が私の母に作ってくれたものだという。今、50歳になった私

がそれを見て、手を動かしている。何という感激であろうか!

刺繍をしていないところはボロボロである。けれど一針一針の真心は今なお、立派に美しく残っているので

ある。私は素晴らしい祖母と母をもって幸せであった。ありがとう。ありがとう。

(1964年6月10日 ふでの日記から一部略)



ふでの没後に改築されたものの、ふでと美恵子らが暮らした家は今も残っている。天気さえ良ければそこ

からも見える高台に二人の墓があり、太平洋がはるかに広がっている。訪れるたび、海はさまざまな表情

を見せる。



「生命(いのち)のめぐりの環(わ)」と美恵子はよく言っていた。その環の中で、母から娘に紡がれていくも

の、吹きつける風のかなたで、母と娘は楽しげにウポポを舞い続けているに違いない。





APOD: 2012 May 19 - Annular Solar Eclipse

(大きな画像)



 


2012年5月24日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



私がインディアンに関心を持った頃に、インディアンのことについて日本人の方が書いている本に出会った。

その方からは、メールを通していろいろ教えてもらったこともある。



その方はブログの中で、日食に関してインディアンのメディスン・マンから決して見てはいけないことを言われ、

世界中のシャーマン達が決して日食を見ない事例を紹介しながら、家にこもり内なるビジョンを見ることを訴

えておられた。



私は日頃から星空に関心があり、時々山にこもって星を見るのだが、日食も一つの天文現象であると浅は

かに思っていた。



確かに太陽が死んでいくことは古代の人々にとって恐怖であり、喪に服す意味で家にこもったのだろう。私

たち現代人は太陽が隠れても、直ぐに復活することを知っているため、彼ら古代の人のこの恐怖は決して

理解することは出来ないと思う。



この意味で、先のブログは私に新たな視点を与えてくれたように思う。



ただ、私自身の中で、違う見方をした古代の人もいたのではないかという疑問が湧いてきて、5月21日にそ

の思いを投稿した。



私はギリシャ神話は好きではなく、以前から古代の人が星空にどんな姿を投影してきたのか関心があった。

また自分なりに星を繋ぎあわせ星座を創ったほうが意味あることだと思っていた。



今日のことだったがアイヌの日食についての伝承に出会った。私自身まだ読んではいないが、これは『人間

達(アイヌタリ)のみた星座と伝承』末岡外美夫氏著に書かれている話だった。



アイヌの文献は何冊か読んで感じていたことではあるが、アイヌの方と神(創造主)はまるで同じ次元でもあ

るかのような親密感をもって接していながら、畏敬の心を持っている。私は彼らの世界観が大好きだった。



下にこの文献からの引用とアイヌの方が日食を歌った祈りを紹介しようと思うが、これは一つの視点であり

絶対こうでなければならないという意味ではない。



私たちは日食に対する様々な見方を受け止めなければならないのだろうと思う。



☆☆☆☆



太陽が隠れるということは、人びとにとって恐怖でした。



日食のことを次のように言いました。



チュパンコイキ(cup・ankoyki 太陽・をわれわれが叱る)
チュプ・ライ(cup・ray 太陽・が死ぬ)
チュプ・サンペ・ウェン(cup・sanpe・wen 太陽・の心臓・が病む)
トカム・シリクンネ(tokam・sirkunne, tokap・sirkunne 日(太陽)・が暗くなる)
チュプ・チルキ(cup・ciruki 太陽・が呑まれた)
トカプ・チュプ・ライ(tokap・cup・ray 日中の・太陽・が死ぬ)  
チュプ・カシ・クルカム(cup・kasi・kur・kam 太陽・の上を・魔者・がかぶさる)



日食の際の儀式を紹介します。



男性は、欠けていく太陽をめがけてノイヤ(蓬(よもぎ))で作った矢を放ちました。



女性は、身近にある器物を打ち鳴らし声を合わせて、次のように叫びました。



チュプカムイ      太陽のカムイよ
エ・ライ ナー   あなたは重態だ
ヤイヌー パー    よみがえれよー
ホーイ オーイ    ホーイ オーイ



日食は、太陽を魔者が呑み込むために起こったと考えました。その魔者を倒すために、蓬の矢が効果が

あったのです。



太陽を呑み込む魔者は、オキナ(oki・na 鯨・の化け物)、シト゜ンペ(situ・un・pe 山奥・にいる・もの 黒狐)。

オキナは、上顎(うわあご)が天空まで届き、空に浮かんでいる太陽をひと呑みにしたと伝えられています。



闘病記/定年退職後の星日記/プラネタリウム より引用



☆☆☆☆







(K.K)



 

 


2012年5月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略

厚木市から見た金環日食



僕は毎日起きてすぐに太陽に祈っている。



人びとに安らぎが訪れるようにと。



今日は金環日食だった。



昔の人は急に太陽が隠されるのを見て、恐れおののいたことだろう。



でも、僕は違う人々のことも想像してみた。



インディアンホピの方たちが日食をどのように見ていたかはわからないが、

日の出と共に太陽に祈りを捧げている人々のこと。



もしこの人たちが太陽が隠され死んでいくのを見た時、こう願い叫んだかも知れない。



「太陽、生きてくれ!!!」と。



僕は肌を通してその感覚を理解しているとはとても言えない。



しかし太陽と心が通じていた民の中には、死にゆく太陽を見ながらこう願ったかも

知れない。



日々、太陽が昇ることを当たり前の出来事と受け取らず、日々感謝の心を持って

生きてきた人たち。



勿論これは僕の勝手な想像で、そのような先住民族がいたかどうかはわからない。



でも、僕は彼らのような民がいたことを、そして現代でも生きていることを信じたい。



(K.K)



 







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