「知里幸恵 『アイヌ神謡集』への道」
財団法人 北海道文学館 編 より引用
各界で活躍する33人が、知里幸恵そして「アイヌ神謡集」への熱い想いを (K.K)
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本書 付編 知里幸恵 東京での129日 (小野有五 編)より抜粋引用 「 」内は知里幸恵の日記・手紙などから引用。 7月12日(水) 晴、終日涼。夫人に来春までいてほしいと頼まれる。「勿体ないこと。」 岡村千秋が、「私が東京へ出て、黙っていれば其の儘アイヌであることを知られず に済むものを、アイヌだと名乗って女学世界などに寄稿すれば、世間の人に見さ げられるやうで、私がそれを好まぬかもしれぬ」といふ懸念を持っていると聞き、 逆に憤慨する。「私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサムのやうなところ がある?! たとへ、自分でシサムですと口で言ひ得るにしても、私は依然アイヌで はないか。つまらない、そんな口先でばかりシサムになって何になる。シサムにな れば何だ。アイヌだから、それで人間ではないといふ事もない。同じ人ではないか。 私はアイヌであったことを喜ぶ。私がもしかシサムであったら、もっと湿ひの無い 人間であったかも知れない。アイヌだの、他の哀れな人々だのの存在をすら知ら ない人であったかも知れない。しかし私は涙を知っている。神の試練の鞭を、愛の 鞭を受けている。それは感謝すべき事である。 アイヌなるが故に世に見下げられる。それでもよい。自分のウタアイヌが見下げ られるのに、私ひとりぼつりと見あげられたって、それが何になる。多くのウタリと ともに見さげられた方が嬉しいことなのだ。それに私は見上げられるべき何物も 持たぬ。平々凡々、あるひはそれ以下の人間ではないか。アイヌなるが故に見さ げられる、それはちっともいとふべきことではない。ただ、私のつたなさ故に、アイ ヌ全体がかうだと見さげられることは、私にとって忍びない苦痛なのだ。おお、愛す る同胞よ、愛するアイヌよ。」 9月14日(木) 両親へ最後の長い手紙。帰郷を10月10日に延期。『カムイユカラ』が 直にできることを知らせる。結婚不可の診断が下ったこと。 「自分には不可能と信じつつ、それでもさうなんですから・・・・。充分にそれを覚悟して いながら、それでも最後の宣告を受けたときは苦しうございました。」 「私はほんとうに懺悔します。そして、その涙のうちから神の大きな愛をみとめました。 そして、私にしか出来ないある大きな使命をあたへられている事を痛切に感じました。 それは、愛する同胞が過去幾千年の間に残しつたへた、文芸を書残すことです。この 仕事は私にとってもっともふさはしい尊い事業であるのですから。 過去20年間の病苦、罪業に対する悔悟の苦悩、それらすべての物は、神が私にあた へ給ふた愛の鞭であったのでせう。それらのすべての経験が、私をして、きたへられ、 洗練されたものにし、また、自己の使命をまったく一つしかないと云うことを自覚せし めたのですから・・・・」 「おひざもとへかへります。一生を登別でくらしたいと存じます。ただ1本のペンを資本 に新事業をはじめようとしているのです。」 これを書いた4日後の9月18日(月)、『アイヌ神謡集』の校正をすべて終えて、夕食後 に急変。午後8時30分他界する。 |
本書 「生きる意味」 知里幸恵とキリスト教 小野有五 より抜粋引用 教会 そのような幸恵にとって、キリスト教への疑問は、聖書そのものからではなく、むしろ「キリストの体」 である教会からわいてくるのは当然のことであるともいえる。ヨーロッパにおけるようなキリスト教の 受容が日本人にとって可能かという問題は、遠藤周作がその生涯のテーマとしたことがらであった。 カトリック神父の井上洋二氏もまた、日本人によりキリスト教の受容のありかたを問い続けておられ る。アニミズムや神道、さらにさまざまな仏教の混在する精神構造を植えつけられてきた日本人に とっても、絶対神との契約を基盤とするキリスト教とのあいだには、やはり高い障壁があるのだ。 明治以来の宣教師たちの努力にもかかわらず、日本でキリスト教の信徒数がさほど増えないのも そのためであろう。自然すべてをカムイの姿とする世界観をなお持ち続けていた当時のアイヌ民族 にとって、唯一神への信仰を説くキリスト教が受け入れがたかったことは容易に想像がつくが、それ を、日本人の場合と比較して、特別に受け入れがたかったかというとき、そこには無意識のうちに アイヌを特殊なものとする心理が働いているように私には思われる。 病をおして、また婚約者、村井とのしばらくの別離を自らに強いてまで、幸恵に上京を決意させた ものは何だったであろうか。もちろん、『アイヌ神謡集』を出版する、ということが第一の目的だった かもしれない。また藤本英夫氏が言われるように、村井との結婚問題で生母ナミと養母マツが対立 し、進退きわまった幸恵が一時、冷却期間を置こうとしたということもあったであろう。しかし、それ 以上に、幸恵が求めたのは、東京という新世界での体験ではなかったかと思う。それはまず金田一 が教えてくれるという英語の魅力であり、また新しい教会との出会いであった。バチェラーの聖公会 とチカプニ(近文)に入った救世軍しか知らなかった幸恵は、両者の対立に心を痛めてきた。貧しい 者、しいたげられた者に目を向け、また地をはうようにして、禁酒などの社会運動を積極的に進める 救世軍に幸恵は強く共感する。しかし、養母マツが伝道所を開いているバチェラーの聖公会は、 救世軍のこのような活動を警戒し、むしろ対立関係にあった。バチェラーを父とも仰ぐ養母マツも、 これには逆らえなかったであろう。若い幸恵にとって、それは辛い体験であったにちがいない。 二十一世紀に生きる幸恵 だから、断片のなかにそのような言葉があったらといって、幸恵がイエスの教えを捨てたと考える ことはできない。信仰とはそもそも疑うことを前提として成り立つ行為である。9月7日、金田一の親 友である小野寺博士から「結婚不可」という決定的な宣告を受けたあとの幸恵の心の軌跡は、9月 14日、幸恵が登別の両親にあてて書いた最後の手紙に克明に描かれていて、読む者の心を打つ。 この手紙は、4日後に迫っていた自らの死をあたかも全く予測しないで書かれているように見える ために、読む者には一層悲痛な印象を与えるが、もちろんこれは藤本英夫氏が指摘しておられる ように、両親が少しでも安心させようと努めて自分を元気そうに描く幸恵のいつものポーズである かもしれない。自分の身体がすでに予断を許さない状態になっていることは幸恵自身がいちばん わかっていたはずである。 いずれにしても、この最後の手紙で幸恵が述べている決意は、誰でも私に従おうとするものは自ら の十字架を背負わねばならない、というイエスの言葉への全身全霊をかけての応答以外の何もの でもない。病気や不運、失敗といった世俗的なマイナスが、実は神が自分を用いるために周到に 用意された恵みであったと感じる瞬間、信仰者は、それらが突然、すべてプラスに変わるのを体験 する。「復活」とはそういうことであろう。そこでは、死さえもが、一瞬のうちに生に変わるのである。 幸恵にとっては、婚約者、村井との結婚が最大の問題であった。村井家が農家であるが故に、そこ での過酷な労働を恐れて、生母ナミは結婚に反対したのであったが、人並みに結婚し、子供をつく り幸せな家庭を築くということ自体が、これまでのようにユカラを必死に書き記す生活からの離脱を 意味することを、幸恵はもとより感じ取っていたはずである。金田一のいる東京へ出かけるという 行為そのものが、幸恵の心の底では、ただ幸せな家庭を夢見る村井への裏切りであり、彼の愛を 踏みにじるものであった。 アイヌ語と日本語の完全なバイリンガルとして育った幸恵の特異性。それはつきつめれば、生母と 養母、アイヌとヤソという彼女が背負ったそもそもの二重性に由来する。日本人とも、また同族の大 多数とも異なってしまうそのような己れの特異性をすべて切り捨て、幸恵が幼なじみのマテアルに ふともらしたように、ごく普通のアイヌとして、同じアイヌと普通に結ばれることが人間としてのいちば んの幸せだと思う気持ちと、それらすべての異質性を、神が自らに与えたこの上ない恵みとして受け 入れ、生きる限りそれを輝かさねばならぬという使命感。19歳の幸恵はこの二つの方向のあいだで 最後まで揺れ続け、その答えを知るために、自分の体は東京の暑さに死ぬかもしれないと覚悟した うえで、村井と登別の両親を振り切り、東京への旅に賭けたのだ。 どちらも自分。厳然としてある己れの姿である。だが、その二つは、おそろしいほどに全く正反対の 方向をさして、未来へと続いている。ほんとうの自分とは何者か、どちらがほんとうの自分なのか、 その問いは、すべての若者に、否、どれほど年を重ねたものにとっても、常に重くのしかかる。それ から目をそむけず、答え続ける者だけが、真に人生を生きた者といえるのであろう。幸恵の19年の 人生が私たちを打つのは、まさにその故である。 |
目次 口絵 巻頭詩篇 いのち紡いで 戸塚美波子 巻頭エッセイ 個人から神話へ 入口としての知里幸恵 池澤夏樹
第一編 今に生きる知里幸恵 自由の天地を求めて 知里むつみ 幸恵さんからのメッセージ 計良智子 幸恵の清しい詩 生誕百年によせて 小川早苗 知里幸恵との出会い 加藤幸子 知里幸恵とアイヌ民族の詩人たち 花崎皋夫 幸恵さんとみすずさん 矢崎節夫 生きる意味 知里幸恵とキリスト教 小野有五
第二編 『アイヌ神謡集』を読む 知里幸恵のユーカラ 語る文学と書く文字 萩中美枝 民族が子供に伝えるお話し 富盛菊枝 『アイヌ神謡集』をうたう 中本ムツ子 『アイヌ神謡集』のアイヌ語をよみがえらせる 片山龍峯 『神謡集』を面白く読むために 矢口以文 『アイヌ神謡集』と私 北道邦彦 詩的共同体への祈り 『アイヌ神謡集』に 原子修
第三篇 対話/コスモポリタンとしての幸恵、そしてアイヌ文化 山口昌男 × 小野有五
第四編 アイヌ文化の広がりを求めて 喜びの文化 高田宏 体の中のトキの音 加藤多一 知里幸恵と二人の日本人 青柳文吉 知里幸恵文学碑建立の思い出 荒井和子 登別での墓参を通じて 中川悦子 「登別」にあったこと 宮武紳一 在天の幸恵よ・・・・ 山下敏明 蘇る魂と「アイヌ文学」 相川淳一
編むということ 「あとがき」にかえて 平原一良 イラスト/知里幸恵「手帳日誌」より 横山孝雄 執筆者一覧
第五編 対訳 梟の神の自ら歌った謡「銀の滴降る降るまはりに」 『神謡集』をアイヌ語で読もう アイヌ語本文 日本語訳 フランス語訳 フランスの学生たちとともに 監修 知里幸恵 津島祐子 英語訳 サラ・ストロング アメリカで考える銀のしずく 「聞いていると優しい美しい感じが致します。」 サラ・ストロング ロシア語訳 工藤正廣/タチヤーナ・オルリャンスカヤ ロシア語訳の覚え書き 工藤正廣
付編 知里幸恵 東京での129日 (小野有五編)
知里幸恵略年譜 『アイヌ神謡集』序 知里幸恵
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2012年5月24日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年5月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |