「歌う石」O.R.メリング・著 井辻 朱美・訳 講談社








本書より引用



ここがわたしの故郷なのかしら。さもなければ、わたしの両親の生まれた場所?



自分のルーツを探しにアイルランドへ行ったケイは、山の中で見つけた巨石のアーチをくぐったとたん、四つの民族が

対立しあう紀元前のアイルランドの世界へと迷いこみ、まもなく記憶をなくした少女アエーンと出会う。そして、助けを

求めて仙境の賢者フィンタン・トゥアンを訪れたふたりは、助けてもらうかわりに、トゥアハ・デ・ダナーン族のいにしえの

四つの宝を探す旅に出る。時を越え、女魔術師となったケイと、謎の秘めたアエーンの運命は・・・・?


 


本書 〈歴史に関するノート〉 より引用


鉄の時代のアイルランドに舞台を設定した「ドルイドの歌」を読んでくださった読者にとっては、この「歌う石」は、

クーフーリンの一族のはるか昔の時代、その祖先たるゲーディル族と、彼らが信奉したダナーン族の神々の時代

への旅となるでしょう。



トゥアハ・デ・ダナーン族がアイルランドを支配していた時代については、歴史も神話もあいまいです。多くの学者は、

そんな時代は架空のものだとも言っています。しかし、わたしはその時期を、南スペインのロス・ミリャーレス(アルメ

リアのそば)の遺跡の終焉に合わせよと思い、彼らの時代を紀元前1500年ごろの青銅器時代に設定しました。

ロス・ミリャーレスこそ、ミリド、別名をミルの息子たちであるミレジア人が、ここから船団を仕立ててイニスフェイルに

渡った都ではないかと、わたしは思うのです。でも学者たちの中には、アイルランドに最初に渡ったケルト人はイベリア

半島から来たと言う人もいます。



わたしはそこここで伝説を手に入れて、自分の物語に合うようにしましたが、ほとんどの人名や場所は『侵略の書・

レボール・ガバラ』からとりました。この本は、八、九世紀ごろに古アイルランド語で書かれたもので、口承で伝えられ

てきたアイルランドの先史時代の物語をあつかっています。



学術的な議論はさておき、昔だれかがこう言いましたっけ。「もし事実がこうでないとしたら、それは、本来こうある

べきだったということなのだ」


 
 


本書 訳者あとがき より引用


本書は「妖精王の月」で多くのご好評をいただいた、アイルランド在住の女流作家O.R.メリングの前作(第二作)に

あたります。アイルランドの神話と伝承と妖精たちをこよなく愛する彼女は、「妖精王の月」では、現代のふたりの

少女がタラの遺跡から妖精たちの世界に入りこんでゆき、彼らとともに創世の大蛇と戦うという神話的冒険を、

ロマンティックな恋物語をからめて描きました。



この作品では、ケルト好きな読者にとってもっとうれしいことに、舞台は伝説のトゥアハ・デ・ダナーン族の支配して

いた紀元前に設定されています。アメリカに住む現代の少女ケイは、自分のルーツを探してアイルランドに旅立ち、

太古の世界に入ってゆきます。はるかな時、遠い場所への憧れが、作者だけでなく、その分身たる主人公たちを

つねにアイルランドへ引きよせるかのようです。ここでは物語は、より厳粛で、神話的な色彩を帯び、まさに本書の

魔法使いの織るタペストリーの中の出来事にふさわしいと言えましょう。ドルイドたちの夢見のわざによって不幸な

定めを予言された若い女王、海からせまる侵略の脅威、そして、この地を追われて・・・・トールキンの「指輪物語」

のエルフたちのように・・・・彼方へ船出してゆく一族、女神の使者である怪異な枝角をもつ巨人たちなど、物語は

「妖精王の月」をはるかにしのぐスケール感と叙事詩的な壮大さを備えています。



しかし、それだけではありません。メリングの最大の魅力は、本書でも、主人公とそれをめぐる人々の明るさと生き

生きとした性格に発揮されています。彼らは、あらかじめ予言された未来、定められた運命の模様の中にさえ何度

も選択を行う機会があるのだとくりかえして言います。ケイとアエーンの探索は、運命の単なる成就ではなく、運命を

変える希望にもとづいて行われるのですし、「真実に対する直感と真心をもって探し求めれば、宝のほうが(そして

運命のほうが)そなたらを見いだす」と、魔法使いは告げます。



神話的・叙事詩的なファンタジーをつむごうとするときに、作家が必然的に背負いこむことになるのは、個人の意思

と全体の運命はどのようにからみあい、またどのように互いを満たしあうのかという問題です。予言書を底辺に据え

たファンタジーの多くは、若い冒険者が予言に記された試練を果たし、国を救う、王になるなどの道をたどるストーリー

をもっています。けれど、ここでの主人公たちの試練は、それほど直線的な単純なものではありません。予言とは

なんであるか、作者は一歩踏みこんで、その解釈の問題にまで筆を進めています。



それにしても、メリングの語りは、なんと色あざやかなのでしょう。古代伝承にもとづく人々の生活や祭りのさまは、

まことに骨太に描かれていますし、神話を語るときのメリングの手つきは、トールキンが上つ代のエルフの詩を語る

ときにも似た、うやうやしく荘厳な憧れに満ちたものです。登場人物のリアルさと同じだけの重きをもって、神秘と魔法

に対する崇敬が描かれます。このバランスが、わたしにはとても好もしく思えます。前者に比重をかけすぎれば、

ファンタジーというよりも堅実な歴史物語になるでしょうし、後者に寄りかかりすぎれば、物語の生々しい迫真力は

失われます。



この物語のあっと驚くようなしかけは最後に明らかになるのですが、それをふくめて、読後には深い余韻と充足感が

もたらされるのではないでしょうか。ファンタジーを読むことによって、混沌とした現実の世界の見通しがなぜかよく

なり、ガラスをぬぐいでもしたように、あたりがすっきりと見えてくる。しかも、偶然にそこに存在するようにみえる日常

の物事や物や人物がすべて、深い意味をエコーのように響かせているのがわかってくる。それがファンタジー独特の

浄化作用だと、わたしは思います。そしてこの作品が、「妖精王の月」以上にその作用を強くもっていることは確か

です。この物語の終わりは、読者にとっては新しい物語の始まりとなるでしょう。



ところで、わたしはこの仕事のとちゅうで、夏、スコットランドに行きました。あちこちにケルトの人々の足跡が遺跡や

十字架というかたちで残されている風土にじっさいに足を踏みいれてみると、(アイルランドではないにせよ)メリングを

虜にした古代の魔力が、この北方の島には今も生きつづけていることが感じられます。ケルトの血筋を引くスコット

ランドの人々は金髪碧眼で、茶色の髪のイングランド人よりもはるかに大柄で背が高く、背中に潮騒を背負っている

ようにも感じられました。この地ではケルトの人々の歩いた土が、いまもそのまま、極東から来た旅行者の足の下に

あるのだと思われたのです。古いものがそのまま残っている土地では、空間が時間という磁場を何層にも濃密に

帯びています。ケイがアイルランドの山中から突然、古代の世界へ入っていったように、霧ふかい湖のすみを一つ

曲がると、そこはもう高地人たちの荒々しい世界で、W・スコットの叙事詩「湖上の麗人」の主人公ロデリック・デュー

がタータンのマントをひるがえして出てきそうでした。ひょっとしたら、空間というものも時間というものも、わたしたちが

ただそう思っているだけのもの、一場の夢にすぎないのではないだろうか。そんなことも考えさせられました。とまれ、

この物語の魔法使いフィンタン・トゥアンのような視線を、一時でももつことのできた旅でした。



このうえは、ぜひアイルランドにも行ってみたいと思います。そこでは時間が層をなしてふりつもっているのが、目に

見えるかもしれません。



メリングの作品との出会いを感謝しつつ

井辻朱美


1995年12月




アイルランドの写真(大きな画像)(他のサイトからの引用)

 




2015年11月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。


アイルランド(写真は他のサイトより引用)



22歳の時に何気なく取ったアイルランドの写真集、思えばそれから写真や写真集に惹かれていったのかも知れない。



アイルランドと言えばIRA(アイルランド共和軍)によるテロしか思い浮かべなかったが、大地や人々の息づかいが

聞こえてくるような写真に、私自身の眠っていた遺伝子を呼び覚まされるような不思議な感覚を持った。



ケルト人の宗教は自然崇拝の多神教であり、エンヤやケルティック・ウーマンの音楽を通しても、澄みきった風の

ささやきが聴こえてくる。




 


ケルトと日本の文化
京都産業大学文化学部 国際文化学科 林 紀美子
京都産業大学 ヨーロッパ文化演習T より以下引用



春学期は「ケルトと日本の文化」というテーマでゼミの発表を行った。近年、映画界をはじめとし、ファンタジー文学が

流行しており、特にイギリスやアイルランドの作家のものは顕著であるように思う。以前、大学の講義で、ファンタジー

文学が日本で受け入れられるのには理由があり、それには日本の宗教が深く関係していることを聞いた。私は、

イギリスやアイルランドのファンタジー文学が好きで、それは無意識的にだと思っていたが、実は、私の中には、

それを受け入れるベースがあったのではないかと思うようになった。イギリスや、アイルランドの文学には、ケルトの

思想が強く根付いており、そのケルトと日本を比べることにより、私の疑問に答えが出ると考え、考察するにいたった

のである。今回は考察の対象を、アイルランドに残るケルトにしぼることとした。



はじめに、ケルトとはどのような民族かという事について述べておきたい。ケルト人は、ほぼヨーロッパ全域に居住

していた古代民族である。その起源は非常に古く、紀元前2千年には、いわゆる“ケルト世界”が形成されつつあった

といわれる。紀元前8世紀頃、大いに栄え、その勢力を各地に広げていったが、ゲルマン人の進出、ローマ人の

ヨーロッパ制圧により、紀元前1世紀末には、ケルト人居住の大部分は失われることとなる。現在主として、スコット

ランド、ウェールズ、アイルランドに余命をつなぎ、フランスでは、ブルターニュ地方に、その文化の名残を留める

だけである。このように、ケルト人というと、後半の悲劇的側面が強調されがちだが、長い目で見ると、それは、

栄枯衰退の歴史であった。



また、ケルトを知る上で、大変重要となってくるのが、キリスト教が普及する以前から彼らが信仰していたドルイド

(Druid)教である。この土着信仰では、太陽と大地の古い神々を信じ、生き物の中に霊的なものを知覚し、自然と

宇宙と自己との一体化を試みている。また、「霊魂不滅」「輪廻転生」の信仰が中心思想として機能していた。

ドルイド教をつかさどったのは、司祭階級であったドルイド達である。(彼らの名から、宗教の名がきている)ドルイド

は、常に王の側で、神からの言葉を伝えるものとして、時には王よりも強い権力を部族の中で持っていた。ドルイド

には階級が存在し、地位が高い順に、ドルイド(神官、司祭、立法・裁判者など)、バード(記録者、詩人など)、

ヴァート(祭儀者、占星術者、預言者など)と呼ばれた。彼らの教義は秘密裡に、人から人へと口伝えで伝授されて

いったので、現在、その内容を知ることは困難である。



しかし、ドルイドが行った祭儀は、ギリシャ、ローマの歴史家や哲学者達が書き残した古文献などからその内容を

うかがい知ることができる。特に驚くべき祭儀は、「火炙り」の儀式と生贄を「剣で刺す」儀式である。彼らには、

1人の人間の生命を救うためには別の人間1人の生命が必要であるという考えがあり、また、太陽の神としての

タラニスを喜ばせ、穀物の実りと作物の豊穣をもたらしてもらうために「火炙り」の儀式を行った。「剣で刺す」儀式

は、未来のことを判断し予知するために行われた。ドルイドが儀式を行う祭壇は、石舞台と呼ばれるつくりで、

ドルメン(数個の支石の上に、1枚の大きな板石を乗せたテーブル形の構造を持つ墳墓遺構)のようなものであった。

そして、ケルトの部落があったと思われるところには必ずドルメンがあり、ドルイドの儀式は、ある意味で、部族の

信仰と習慣、生活の中心をなしていたといえる。



では、ケルトのベースとなっているドルイド教の思想が分かってきたところで、ケルトと日本の比較をしていきたい。

まず、取り上げたいのが、芸術である。ケルトの芸術は、日本の芸術と大変似たものがある。例えば、ケルトの

紐組紋と日本の縄文文化の縄文である。画家・彫刻家である岡本太郎は、ケルトの紐組紋から感じる生命美は、

縄文土器の縄文から感じる生命美と信じがたいほどそっくりだと述べている。



また、古代アイルランドの詩と大和の歌にも似ていると感じるものがある。和歌の詠み手は、三十一音という限ら

れた音節の中に、その場の印象や雰囲気、感情や感動を凝縮して言い表そうとする。説明されていない部分を

読み手の創造で補うことこそが、和歌の醍醐味であり、読み手の感動を深めるからである。このような詩のつくり

方は、古代アイルランドの詩にも見られる。日本人と同じようにケルト人も詩的ヒントから創造を膨らませることが

得意で、すべて語らぬことが最も好まれていた。「ダビデ(deibhidhe)」と呼ばれる、古代アイルランドの詩形は

二十八音節からなり、頭韻法をふんだんに使うリズムある詩である。



次に、アイルランドの妖精信仰と日本の妖怪信仰について考えてみる。現在、アイルランドは、ナショナル・シンボル

として妖精のレプラホーンを掲げており、「妖精の国」としての特色を打ち出している。それに対するなら、日本は

さしずめ「妖怪の国」といえるであろう。水木しげるの妖怪画・マンガ、京極夏彦の奇怪小説、宮崎駿の劇場用

アニメーション(「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」など)といった妖怪を扱った作品は人気があり、長い時間かけ

て育まれてきた妖怪文化の伝統を伺うことができる。



井村君江は、『ケルト妖精学』の中で、妖精が生まれてくる6つの源として(1)自然、天体、元素の精霊(2)自然現象

の擬人化(3)卑小化した古代の神々(4)先史時代の祖霊、土地の霊(5)死者の魂(6)堕天使、を挙げているが、

特に(3)(4)は、柳田国男の妖怪研究が提示したような、「妖怪変化とは、零落した古代の古き神々の姿である」

という見方とも一致する。妖精と妖怪。共に不可思議な存在であるけれども、それをごく当たり前のようにうけい

れている、アイルランドと日本。これらの受容には、ドルイド教や神道の思想が人々にもたらした民族性に関係し

ているのであろう。



このように比較してみると、地理的に、また、歴史的にもかなりの違いがあるにもかかわらず、アイルランド周辺に

残るケルトと日本の文化には、通じ合うものがあるといえる。音楽、美術といった芸術や、今なお受け継がれている

信仰など、さまざまである。はじめに述べた私の疑問に答えを出すとすれば、アイルランドと日本は、自然宗教的、

アニミズム的考えを国民意識の根にもっており、さまざまな芸術的類似点にもつながっているということである。こ

れが、ファンタジー文学を生み出し、受容しているのである。もちろんその国のもつ歴史や環境などといったものの

影響も忘れてはならないが。今回の対比は、学問的分野にとどまったが、今後は、現代の個人の思考、会社に

おける人間関係といったような日常性の高い分野まで掘り下げて、追求していきたい。

参考文献
・鎌田東二・鶴岡真弓著『ケルトと日本』角川書店(2000)
・井村君江著『ケルト妖精学』(1996)講談社
・本田綿一郎著『ヨーロッパの文化・文芸とケルト ―学問を野に放つ試み―』松柏社(2004)
・小松和彦著『妖怪文化入門』せりか書房(2006)





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