Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)


魅せられたもの

1997.6.6








アメリカ・インディアンの残虐性の真否


アメリカ・インディアンを語るうえで避けては通れぬものの一つに、彼らの残虐性の

真否が上げられのではないだろうか。勿論、初期の西部劇などに見られる歪曲され

た彼らの姿を信じるものは現代では数少ないであろう。多くの歴史的資料並びに心

ある人達による証言が、逆に白人の残虐性を暴いているからである。白人の大量・

無差別殺人、要するに皆殺しの論理はベトナムの戦争でも垣間見ることが出来る。

しかし彼らアメリカ・インディアンの豊饒な精神文化の影の部分、つまり白人が入植

する前の時代において各部族(全てではない)が対立し戦争した事実が上げられる。

この部族間の対立はアメリカ・イギリスにとって好都合であり、戦略上重要な位置を

占めることになる。この白人入植以前に何が行われたかを真に知ることがアメリカ・

インディアンの実像を正しく理解することになるだろうと思うからである。私自身彼らの

言葉を聴きその叡智に感動するが、だからと言って彼らの闇の部分を避けて通ること

は出来ないと感じている。不十分だが各文献を参考にしながら、この入植以前のイン

ディアンの残虐性の真否の答えを自分なりにだしていかねばならないだろう。





量子化学を教える藤永茂氏(カナダ・アルバータ大学名誉教授)は、カナダに渡って

アメリカ・インディアンの文化に触れ力作「アメリカ・インディアン悲史」を書くので

あるが、その中では次のように書かれている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・



しかもインディアンにとって今度の戦いはいままで全く経験のない形をとった。

インディアンにとって、これまで戦争は一種のゲームであり、勝敗は一種のサ

インであり、約束であった。それは、勝者と敗者をきめるために行われた。それ

は、相手を地上から、抹殺してしまうためではなかった。しかし、今度は勝手

が違う。白人達は、たたいても、不死の大蛇のように、押返して来た。・・・





また長年にわたってアメリカ・インディアンを研究してきたリチャード・アードスと

アルフォンソ・オルティスはその著「アメリカ先住民の神話伝説」で次のように書き

記している。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



多くのインディアンにとって、戦いは心踊ると同時に、危険な競技だった。

ある意味で、厳しいルールによって振る舞い方が制限される中世の馬上

試合に似ている。戦場は、名誉を競う極めて個人的な競争の舞台と化した。

若者にとっては、名を上げ、大人であることを示す鷲の羽根を得るチャンス

となる。この勝負で命を落とす者もあるが、敵を殺すことそのものが戦いに

行く動機ではなかった。部族が全滅したというような全面戦争はほとんど

知られていなかったし、概して嫌われていた。・・・・・・・・・・



どの戦いにおいても、主なる目的は---そして、名誉を得る唯一の方法は

---「クーを数える」、つまり勇敢な行いをなし遂げることだ。待ち伏せ

場所から銃で人を殺しても、それは容易なことだから、クーにはならない

---それなら臆病者でもできる。だが、怪我もしていない完全武装の敵に

馬乗りになり、素手あるいはクー・ステッキで相手に触れるのは、大変な

離れ業だ。敵のほんの目と鼻の先で馬を盗むのもすばらしいクーとなった。





同じくインディアン研究家で、立教大学社会学部教授の阿部珠理氏はその著

「大地の声 アメリカ先住民の知恵のことば」の中で次のように書いている。



インディアン戦士はしかし、いたずらに好戦的であったわけでは決してない。

相手を殺す目的の闘いを行なうようになったのは、白人との抗争が始まって

からだとよく言われる。平原インディアンに関して言えば、部族間抗争はバッ

ファローの猟場や、彼らの貴重な財産であった馬の奪い合いをめぐってしば

しば行なわれたが、実際の死傷者の数はそう多くはなかった。というのも、彼

らには特有の戦いの作法があったからだ。かつて、戦場におけるもっとも勇敢

な行為は、相手を殺すことではなく、相手に「触れる」ことだった。触れるため

には至近距離まで相手に近づかなければならない。いずれもつわもの同士だ

から、それは大いに勇気のいることだった。次の勇気の証明は、死体に触れ

ること、敵に触れられる不名誉を被らないため、死体は味方が必死に守って

いるから、これもそう簡単なことではない。敵を殺すのは、三番目の勇気の

証明でしかなかった。戦場には「クースティック」を携えて行った。相手に触れ

るための杖状の棒である。そこからクーを数える Couting Coup という表現

が生まれ、戦いの謂いともなった。もっとも勇敢な戦士は自らの身体とクー

スティックを結わえ、スティックの先を大地に差し込み、不退転の覚悟を示し

た。戦士は敵に触れるたび、クースティックにメモリを刻んだ。勇敢な戦士ほ

ど、スティックに多くのクーが刻まれている。それは勇者の証明、また誇らし

い勇者の勲章でもあったのだ。戦士が黄泉路に旅立つとき、必ず生前の

武勲、クースティックを携えさせるのが常だった。





白人入植以降のインディアンの実像を正しく伝えているものとして、白人とインディアンの対立に

より両親を殺され、幼くしてインディアンに囚われの身になった白人女性、メアリー・ジェミソンの

言葉を紹介したいと思う。(「インディアンに囚われた白人女性の物語」より引用)



そうやってわたしたちは暮らしました。家族のあいだに、またそれぞれの人間関係においても、

妬みや口論、仕返しの争いなどはありませんでした。そういった争いが頻繁になったのは、イン

ディアンの世界に強い酒が持ち込まれて以後のことなのです。白人がインディアンに強い酒を

飲ませ、かれらを文明化してキリスト教徒にしようとする試みは、かれらを悪くする一方でした。

悪徳を増大させ、インディアンの多くの美徳を奪い取り、最終的にはかれらを根絶しようとする

ものです。何人かのインディアンは若いときに家族から引き離されて、インディアンとしての習慣

を身につける以前に<白人>の学校に入れられ、成人になるまでそこに引き留められていまし

たが、その教育効果について、数多くの実例を見てきました。つまりもどってくればみなあらゆ

る点でインディアンの何者でもないということです。インディアンはインディアンであるべきで、ど

んなに<白人の>科学や芸術を教えて文明化したとしても、インディアンとして生きていくでしょ

う。オハイオ川流域でインディアンたちと暮らしていたわたしですが、かつて優しい両親がいた

こと、愛する家族をもっていたことの思い出だけは、深い傷となって心に刻み込まれました。

それ以外には、たとえわたしが幼児のときに捕らわれの身となっていたとしても、満足して暮ら

せたと思います。敵に対する残虐な行為がインディアンへのあらゆる非難を呼んでいたとして

も、その残虐さについてはわたし自身が目撃していますが、かれらが生来友人にたいしては

親切で優しく友好的で、まったく正直な人たちであることは事実ですし、残虐な行為も敵にたい

してのみ、それもかれらの正義感に由来するものなのです。(中略) 酒類が持ち込まれるま

では、平和に暮らすインディアンほど幸せな人間はいなかったでしょう。かれらの生活は限り

なく喜びから成り立っていました。欲しいものはわずかで、すぐに満たされました。心配事は

その日限りで、明日の予測できない不安など、先々の心配に縛られることはありません。もし

戦争がなく平和に暮らせれば、いま野蛮人と呼ばれている人びとも昔の生活にもどれるでしょ

う。インディアンの人格的特質は(このように言うのが許されるのなら)悪に汚染されていない

ことです。かれらの誠実さは完璧であり、それは周知のことです。厳しいほど正直で、騙したり

嘘をつくことを軽蔑します。とくに貞節さを尊び、それを破ることは神を冒涜するに等しいので

す。欲望を制し、感情はおだやかで、どんな問題でもそれが重要な事柄であれば自分の意見

を礼をつくして率直に述べます。このようにインディアン同士が、そして白人の隣人とも、当時

白人は近くに一人も住んでいませんでしたが、革命戦争が始まる少し前までは、おだやかに

平和に暮らしていました。戦争になるとインディアンたちはアメリカの人によって、六部族連合

のチーフや戦士たちといっしょに、ジャーマン平地まで呼ばれて行ったのです。そこではアメ

リカの人たちが、かれらとイギリス国王とのあいだに始まろうとしている戦争に備えて、事前

に、味方と敵とをはっきりさせるための会議を開いたのです。





白人入植以前の各部族の対立がどのようにして起こったのかは推測でしかないが、狩りの

獲物が極端に少ない時期になんらかの争いがあったことは想像することが出来よう。それ

は部族の存続、そして自分の家族を守る名誉ある戦いではなかっただろうか。平和に馴れ

てしまっている私に、このような争いを軽々しく批判することは出来ない。ただ、白人の取っ

た大量虐殺という残虐な道をとらなかった所に、アメリカ・インディアンの高貴な精神性を

垣間見ることが出来るのではないだろうか。



白人入植以降のアメリカ・インディアンの汚点として残るのは、最古の部族として知ら

れているホピ族が狂信的なキリスト教の執拗な布教により、キリスト教に改宗した同族

のアワトビ村の73人の大半を殺害した事件が上げられる。ホピ族にとって、「彼ら独

自の信仰を失えば大神霊とのつながりが断たれ、かれらの土地とその実りを守るこ

とも、自然のバランスを保つこともできなくなる」(「ホピ宇宙からの予言」より)と考え

たからである。「300年近くも前のことだが、この事件はいまだに多くのホピの心に

影を落とし、良心をさいなんでいる。清廉に平和に生きることを信条としているだけ

に、かつて自分たちが信じられないほど残酷に同胞の村を破壊しつくしたことを、

忘れ去ることができないのだ。」と同著には書かれている。このような虐殺は許され

るべきものではない。だが彼ら現代に生きるホピ族にとって、それは過去の風化さ

れた事件ではない。今も重く心に留めておかなければならない事件なのであり、決し

て風化してはいけないと感じているのである。果たしてアメリカや日本は過去に行っ

た残酷な行為に対し、ホピ族のように重い責任を自覚しているのだろうか。・・・



アメリカ・インディアンが完全な平和の民として語られるのは間違いであろう。しかし、

たとえ道を踏み外しても求心力が働き、あるべき道・「赤い道」へと帰ってゆく力を保持

していたことに私は深い感動を覚える。部族間の対立にしても、相手を殺すことを目的と

はしなかったのである。数少ない文献でこのような結論を導き出すことは、ある意味で

危険なことかもしれない。だが、70年前にアメリカ・インディアンに対して何らの偏見を

持たず、彼らの文化を探ったアーネスト・シートンの言葉の重さに私は限りない信頼を

置く。シートンは「レッドマンのこころ」を著すにあたって次のように書き記している。



本書を著すに当たって私は、一人のインディアンからすべてを聞き出すという

ことはせずに、妻と同伴で多くの長老と会い、敬意をもって問い、伝説を集め、

習慣に注目し、生活を細かく観察し、預言者と呼ばれる霊能者たちの記録を

集め、原始時代のインディアンについて研究している白人にうかがい、とくに

青少年期をインディアンの伝統的慣習の中で生活したあとで白人に混じって

同等の教育を受けた人たちと語り合った。そうすることで、どうにかインディア

ンの教義、部族内の不文律、それから自分と仲間さらには宇宙の創造主であ

り、支配者である「大霊」とのつながりと義務について、理解のようなものが

得られたように思う。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





「シートン動物記」のことは多くの人がその存在を知っているが、彼がその後

アメリカ・インディアンの精神文化に深く共鳴していったことはあまり知られて

いない。シートンが40歳の時、ニューヨークの郊外に農場を買い、子供に野外

生活を体験させるための施設を作るが、これは自然と一体の生活をするアメリ

カ・インディアンから学ぶ目的を持っていた。「シートン・インディアン団」と

呼ばれたこの活動は、のちにボーイスカウトとして発展していくのであるが、

若者たちを鼓舞する手段として、ボーイスカウトが愛国主義と一体化していく

のを見てシートンはこの活動から離れていくことになる。・・・・・・・



最後にインディアンの残虐性ついて、シートンの言葉に耳を傾けたいと思う。

(K.K)







アーネスト・シートンの言葉



人類の歴史で何が残酷といって、中世のキリスト教会による迫害(ユダヤ人への

迫害、魔女狩りなど)ほど残酷なものはない。ある悪名高い牧師で権力者の一人

が、ライバルの牧師をワナにはめて罪を着せ、火刑に処した。それも、わざと生

木を使用して、悶え苦しむ時間を長くしたという。「暗黒時代」のこうした例は枚

挙にいとまがない。が、米国でもほとんどの感化院には拷問部屋があり、囚人が

悶え死ぬケースが今でもあることを私は確認している。刑務所長の案内でその

現場に臨んだ経験があるのである。「暗黒時代」の悪魔的残虐行為の手口には、

火責めだけでは満足せず、手足を少しずつ切断し、さらに精神的苦悶を与えるた

めに、処刑を何週間も何ヶ月も延期したりした。「異端審問」の公式記録には、

信仰の異なる者三十万人を焼き殺した、と誇らしげに記されている。・・・・・





インディアンがもともと心優しい人種であり、捕虜への残虐行為は、侵略者

である白人が行うまではインディアンの世界には存在しなかったことを、信頼

のおける歴史的証拠のすべてが証言している。要するにニューイングランドに

おけるピルグリム・ファーザーズ(英国からの最初の移住者たち)やメキシコ

におけるスペイン人が、その先例となっている記録が山ほどある。いずれも

キリスト教の名において行っている。W.P.クラーク隊長も、平原部族、とくに

シャイアン族に言及してこう述べている。「彼らのことをどう猛で好戦的で、

冒険好きな野蛮人と呼んでいますが、しかし、彼らが捕虜を焼き殺したとか、

皮を剥いだとか、むごい責め苦を与えたという証拠はどこにも見当たらない

のです。」(「身振り手振りの言語」)・・・・・・・・・・・・・・・・





とは言うものの、古い時代にさかのぼると、イロコワやヒューロン、アブナキ

といった部族において、捕虜に責め苦を与えたことが実際にあったことは疑い

の余地がない。が、そうした場合の捕虜は、それまでさんざん迷惑を被らされ

てきた、憎んでも余りある敵であるか、さもなくば、その捕虜みずからが剛気

さと反抗精神を見せて、やりたいようにやるがいい、といった啖呵を切ったた

めのいずれかであろう。それに引きかえ、ヨーロッパのキリスト教国において

は、捕虜は虐待するのが当然という風潮があった。・・・・・・・・・・・・





1812年の米英戦争、俗に言う「1812年戦争」において、米英双方がそれ

ぞれの捕虜の虐待を行っていた。その時、プロクター将軍の率いる英国軍に味方

をしていた大酋長のテクムセが、無抵抗の弱者をいじめるのは臆病者のすること

だと言って、制止しようとした。プロクターはこれが戦争というものの慣行だと

言って続行しようとした。するとテクムセは、では私とあなたとで一騎討ちをし

て、勝った方の考えに従おうではないかと迫った。これにはプロクターもあっさ

り引き下がったという。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





戦利品として敵の兵士の頭皮を剥ぐ、いわゆるスカルピングは多くの部族で

慣習化していたことは事実である。が、それをことさらのように大げさに扱

って、インディアンの野蛮性の象徴のように宣伝しているが、当時は白人も

インディアンの頭皮を剥ぐ行為を盛んにやっており、しかも首を切り落とし

てそれを棒に突きさし、見せものにすることまでしている。そうした事実は

歴史の教科書から削除されている。マサチューセッツ州のインディアンは、

スカルピングという行為を清教徒のピルグリム・ファーザーズ(英国からの

最初の移住者たち)から教わったという。・・・・・・・・・・・・・・・



「レッドマンのこころ」シートン著 近藤千雄 訳 北沢図書出版 より引用


 


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