「アッシジの聖フランシスコ」

永井明著 サンパウロ アルバ文庫より





「十二世紀に、イタリアのアッシジの町に生まれ、「聖貧」と愛徳に基づいて一生を送った

聖フランシスコの精神は、混乱した現代の社会がもっとも必要とするものではないだろ

うか。本伝記の著者は、この聖フランシスコの「聖貧」と愛徳の精神を、特に日本の若い

人々に理解してもらうため、なめらかな文体で、やさしくこの伝記を記し、楽しい読み物

としている」(本書より)。本書は上に紹介したヨルゲンセン氏の「アッシジの聖フランシ

スコ」やフランスの青少年のためのスライド用の台本を参考に書かれたものであるが、

初めて聖フランシスコの生涯に触れる人を対象にしており、その文体は読みやすい。

(K.K)

 




本書 まえがき より引用


いまの日本に・・・単に日本だけではありませんが・・・一番欠けていて、しかも一番必要なものが、

聖フランシスコの「聖貧」と「愛徳」の精神ではないかと思います。それで、わたしたちは、非常に

すぐれた聖フランシスコの、この伝記を著してみなさんに送りたいと願いました。あるフランスの神

父さまもいわれていますように、もしわたしたちがほんのわずかでも聖フランシスコの精神を理解

し、彼の精神に近づこうと努力するなら、この日本の国は、そして世界は、もっともっと美しい、楽し

いところとなるでしょう。



この本は、ビアン神父さまがフランスの青少年のためのスライド用の台本として書いたものと、ヨェ

ルゲンセン氏の好著「アッシジの聖フランチェスコ」をいろいろ参考にしてだれにでもわかりやすい

ように非常に簡単な文章で書かれたものであります。なお、本稿は雑誌「家庭の友」に2年にわたっ

て連載したものです。いま、中央出版社(現サンパウロ)編集部のお骨折りによって1冊にまとめる

ことができましたことを、心からのよろこびと致します。


1993年 夏 著者


本来は貧しきを表現することばとして「清貧」を使用しますが、著者はフランシスコの貧しさも、ただ

の貧しさだけでなく、神との結びつきにおいてもとらえているので、本文中では「聖貧」としています。




完全なよろこび


また、ある冬の日に、フランシスコとレオーネ兄弟は、ふたりでペルージャからポルティウンクラへ

行ったことがありました。そのとき、つめたい氷雨打たれて、寒さにこごえながらレオーネ兄弟が

フランシスコに、こうたずねました。「父よ、完全なよろこびとは、どのようなものでしょうか?」   

すると、フランシスコは答えました。「たとえ、わたしたち修道士が、どんなにきよい行いをして全世

界にお手本を示そうとも・・・・・・・レオーネ兄弟よ、よくおぼえておいてください・・・・・・・その中に

は、完全なよろこびはありません」 しばらく、ふたりはだまって歩いて行きましたが、今度はフラ

ンシスコのほうから、レオーネ兄弟にむかって言いました。「兄弟レオーネよ、たとえ、わたしたち

修道士が、目の不自由な人の目を開けたり、足の不自由な人の足を立たせたり、悪魔を追い出

したり、耳や口の不自由な人の耳をいやし、口をきけるようにしてあげたり、あるいはイエスさま

のように、死んでから四日たった人間を墓の中から生き返らせるような不思議な奇跡を行ったと

しても・・・・・・・レオーネ兄弟よ、よくおぼえておいてください・・・・・・・その中には完全なよろこび

はありません」 ふたりは、しばらく、だまって歩きましたが、やがて、フランシスコは、三度レオー

ネ兄弟にむかって言いました。「兄弟レオーネよ、たとえ、わたしたち修道士がどんなに深く学問

を修めて、あらゆる国々のことばを語り、あらゆる尊い書物を読破し、未来のことがらや、人の

心の奥の秘密を知り得たとしても・・・・・・・レオーネ兄弟よ、よくおぼえておいてください・・・・・・・

その中には、完全なよろこびはありません」 それからまた、しばらく歩いてから、フランシスコ

は言いました。「兄弟レオーネよ、たとえ、わたしたち修道士が、天使の使うことばを話したり、

あるいは大空のすべての星の軌道を知り、薬草の力や、地の宝、鳥やけものや魚の特質を知

り、それからまた、人間や植物や石や河川や湖などの性質をどんなにくわしく調べつくそうとも

・・・・・・・レオーネ兄弟よ、よくおぼえておいてください・・・・・・・その中には完全なよろこびは

ありません」 それから、しばらく行ってから、フランシスコはまた、言いました。「ああ、兄弟レ

オーネよ、たとえ、わたしたち修道士が、すべての不信仰者たちを、キリストさまの信仰へと、

回心させるようなりっぱな説教をすることができようとも・・・・・・・レオーネ兄弟よ、よくおぼえて

おいてください・・・・・・・そこには、完全なよろこびはありません」 だまってフランシスコの言う

ことに耳をかたむけていたレオーネ兄弟は、これを聞いてすっかり頭が混乱してしまいました。

彼は驚いて、「父よ、それでは、完全なよろこびは、どこにあるのですか、神さまのために教え

てください」 とたずねました。すると、フランシスコは、こう答えたのでした。「これから、われわ

がポルティウンクラの修道院へ着くと、門番は、雨にずぶぬれになった、われわれのみすぼら

しい姿を見て、“このどろぼうめ”とどなって、われわれを追い出すだろう。そのとき、その門番

たちに対して腹を立てず、謙遜に、なさけ深く、彼らのため神さまの祝福を祈るなら・・・・・・・お

お、レオーネ兄弟よ、よくおぼえておいてください・・・・・・・ここに、完全なよろこびがあります。

主キリストさまの愛のために苦しむ以外のところには、どこにも完全なよろこびはありません」


 




2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)









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