「アッシジの聖フランチェスコ」

ジャック・ルゴフ著 池上俊一・梶原洋一 訳 岩波書店 より引用








本書・訳者あとがき 池上俊一 よ抜粋り引用


こうして著者は、フランチェスコ関係の史料から重要な語彙を取り出してリスト化し、どんな基準

の図式がそこから帰納され、それがフランチェスコの意図や構想とどうつながっているかを見極

めていく。こうした地道な作業の積み重ねが、フランチェスコとその運動の、より大きな歴史的意

味の評価へとつながっていく点が、本書の比類ない特質だろう。「フランシスコ会の運動が目指

したものを、その社会的語彙にもとづいて定義しようと試みてもいいだろう。あるイデオロギーが

用いる語彙は、それが働きかけようとする社会の描写であると同時に、社会をつくりかえるため

の道具であるのだから」と述べているとおりだ。そして歴史的意味を判断する際には、中世ヨー

ロッパというコンテクストだけではなく、現代世界までが射程に収められているのである。



ルゴフがわれわれの目の前に明らかにしたフランチェスコは、小鳥に説教し、「兄弟たる太陽の

賛歌」を歌った貧者の守り手、というような、何度も繰り返され通俗化した感傷的なイメージと違う

のはもちろん、今日よく言われるようになった、平和の使徒、自然・エコロジーの擁護者、あらゆ

る宗教の仲介者・・・・といったフランチェスコ像ともほど遠い。



ルゴフは、フランチェスコを文明の否定者とか、体制のラディカルな変革者として称えることは

まったくない。自らが創った兄弟会が、自分の思いとは別のものへと変質してしまいそうなことを

予感したフランチェスコの苦衷と無念に思いをいたしながらも、彼があくまで教皇や聖職者、教会

の体制に敬意を払い服従していたこと、そして教会の堕落を非難することも、一般信徒の権利

拡大・霊的渇望の充足のための改革運動に加わることもなかったことを、むしろ評価する。なぜ

なら、こうして異端に陥ることなくカトリック教会の枠組みのうちに踏みとどまったところにこそ彼

の偉大さがある、とルゴフは考えるからだ。フランチェスコがカトリック教会内に留まったおかげ

で、キリスト教世界はキリストの模倣へと導かれ、人間中心的な思考が高貴な野心と無限の地

平、悦びの感情に根ざした森羅万象への愛に開かれた積極的な理想を受け取ったのであり、

その結果、中世的な感性に大変革がもたらされた、というのである。このあたり、バランス感覚

が抜群で、人格者でもあるルゴフ氏らしい評言だと思う。



(中略)



こうした百花繚乱ともいうべき研究群の中で、ルゴフの本書は、フランチェスコを彼が生きた時代

の文化・社会コンテクストに据え、そこから歴史的意義を考える、という姿勢の徹底で他の追随を

許さない。それは、小さな出来事やひとつの語彙を扱っていても、ルゴフが「全体を視る目」をけっ

して忘れないからだし、また彼の心が、フランチェスコの心と共鳴しているのが、読者に感じ取られ

るからでもあろう。



わが日本でも、聖フランチェスコはよく知られた聖人である。古くから、伝記的研究が翻訳紹介さ

れてきたし、イタリアの芸術や観光の人気も、アッシジの聖人の衆望を高めた。さらにかなり古く

から、西田幾多朗、そして名著『アッシジの聖フランシス』を著した下村寅太郎など、哲学畑の研究

者の注目を浴びてきた。最近も、少なからぬ思想家、評論家たちが、カトリシズムの権力組織を

擁護することになったドミニコ会のトマス・アクィナスなどと対比して、小さき者の味方、自然の賛美

者としてのフランチェスコを称揚した発言をしているのが散見される。



このように、わが国でも非常に有名ではあるのだが、そのわりには、本格的な歴史研究や伝記

研究はほとんどまったく進捗しなかった。だがそれが最近、変化するきざしがある。すなわち、

つぎつぎと史料や翻訳紹介(『小さき花』、『完全(完徳)の鑑』、『第一伝記』、『第二伝記』、『大

伝記』など)されるとともに、2006年から東京フランシスカン研究会による『フランシスカン研究』が

刊行されはじめたからである。これらの出版事業は、わが国でも素朴な理解が多少とも正される

機縁となるであろう。


 


目次

序文

年表

フランチェスコの主要著作および主要な伝記一覧



T章 封権社会の変革と重圧に挟まれたアッシジのフランチェスコ



U章 真実の聖フランチェスコを求めて

真実の聖フランチェスコの探求

自著の中の聖フランチェスコ

伝記の問題

聖フランチェスコの生涯

回心

『第一会則』から『第二会則』へ

フランチェスコとインノケンティウス三世

聖キアーラ

奇跡と巡礼

第四ラテラノ公会議

公認された会則

死に向かって

数々の著作と、ただひとつの仕事

聖フランチェスコは中世人か近代人か



V章 アッシジの聖フランチェスコと13世紀のフランチェスコ伝記作者たちに

おける社会的カテゴリーの語彙




研究の定義と射程

研究の定義

研究上の困難



社会的カテゴリーの語彙の諸要素

聖フランチェスコの場合(自著と伝記記述にもとづく)

伝記作者たちの場合



解釈の試み

上述の語彙の、中世のイデオロギー的緒図式から見た位置づけ

フランチェスコの語彙の、中世に実在した主要な社会的語彙から見た位置づけ

これらの語彙の、フランシスコ会運動の構想と目的から見た位置づけ

これらの語彙の、歴史家の問題意識から見た位置づけ



W章 フランシスコ会運動と13世紀の文化モデル

空間と時間の認識に結びついたモデル

経済的発展に結びついたモデル

全体社会ないし市民社会の構造に結びついたモデル

宗教社会の構造に結びついたモデル

本来の意味での文化に結びついたモデル

行動と感性のモデル

厳密な意味での倫理的・宗教的モデル

聖なるものの伝統的モデル

結論



訳者あとがき

参考文献

原注





2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)









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