「良寛と聖フランチェスコ 菩薩道と十字架の道」
仏教とキリスト教の関係について
石上・イアゴルニッツアー・美智子(フランス国立科学研究所員)著 考古堂 より引用
本書 序にかえて より抜粋引用 良寛が何故、仏陀の忠実な弟子かは皆さまご存じと思いますが、聖フランチェスコは、 数多いキリスト教の聖者のうちでもキリストの教えを文字通りに実行した人で、しかも 仏教の僧伽に似た、製品・乞食・慈愛に基づく、いわゆる「乞食集団」をキリスト教史上 初めて創立した人でもあります。ほかのキリスト教の聖者が人間を救うことだけに専念 したのに対し、フランチェスコは太陽・月・星・雲・水・火あらゆる創造物を愛し、人間ば かりでなく、鳥・獣・魚まで救おうとして、これらの動物に説教したことは有名でありま す。つまりキリスト教の聖者のうちでいちばん、仏教徒に親しみやすい聖人です。私は 子供時代から鳥に説教する聖フランチェスコを描いたジョットーの壁画の写真を見て、 心温まる思いをしていました。しかも良寛と聖フランチェスコは、あらゆる点で驚くほどの 共通点を持っています。二人ともナイーヴで信じやすく、おのおの仏陀とキリストに心か ら信頼をよせ、馬鹿正直にその教えを実行しました。良寛が袈裟一枚、鉢一つの清貧 の生活を送れば、聖フランチェスコは当時の農民の着ていたと同じ粗布と荒縄のバンド と裸足で説教して回り、良寛と同じく、乞食と間違えられて人々に唾をかけられたり、石 を投げられたり、叩かれたりしました。けれども良寛と同じく無抵抗でなすがままにされ ていました。その動機は、前世の因果と観念する良寛と違って、キリストも人々に軽蔑 され、迫害されて苦しんだのだから、自分も同じ苦しみを進んで受けるというのです。
二人とも論より実行。言葉より自分の行為で謙虚に人々を教化し、良寛は単なる禅僧、 聖フランチェスコは一介の助祭で一生を終わりましたが、二人とも実はどんな禅師、どん な大司教も及ばぬ聖人となりました。ところが初めは二人とも全く違った国に生まれ、正 反対の性格を持った青少年でした。良寛と聖フランチェスコは近世と中世と、六世紀近く も隔たった時代に生き、極東の雪国の北海に面した港町、南欧の太陽の輝くイタリアの ウンブリア地方の丘の上の町、といった対照的な風土の中で育み、良寛が内向的な勉 強家で非社交的なはにかみやの少年から、名主見習いの公務に耐えず、禅寺にかけ 込むような一見非行動的な青年になったのに対し、聖フランチェスコは、日中は高級織 物店の家業を手伝うかたわら、夜はアッシジの貴族の子弟達の首領となって、歌や宴会 や遊びに明け暮れる外向的な陽気な青年で、平民ながら騎士の鎧を着けて戦争にまで 参加した行動的な青年でありました。
このように、初めは全く違った性格の、対照的な風土・文化の中で育った二人の人間が、 どうして仏教とキリスト教という違った宗教に忠実に生きた結果、幾多の共通点をもつ聖人 になったのか、その理由を知りたいというのが今度の研究の動機です。また、人間の身で ありながら、人間以上の人になる、つまり聖人になる、という現象に、私は前から興味を惹 かれ、どのようにして人は聖人になるかも観察して東西の聖人を比較してみたかったので す。結果は予想を超え、この研究の終わりには、ついに、仏教とキリスト教の関係につい て、思いがけぬ発見をすることができました。
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目次 序にかえて 良寛と聖フランチェスコ比較の動機 仏文の「禅僧良寛」執筆の動機 伝記執筆の方法 外国人の目に映る良寛
第一章 道元、良寛と聖フランチェスコ 東西二聖人の出会い 道元禅師とキリスト教 道元禅師の教えと良寛
第二章 キリシタン迫害と良寛 良寛とキリシタン 良寛の漢詩とキリスト教
第三章 仏教とキリスト教の類似と相違 仏教とキリスト教との関係 仏教とキリスト教の類似 仏教とキリスト教の相違 仏教とキリスト教の類似と相違の理由 仏教の万字とキリスト教の十字
第四章 フランチェスコと良寛の生い立ちと青少年時代 良寛の時代の日本と、フランチェスコの時代のヨーロッパ・・・・貧困の問題 出雲崎とアッシジの気候風土、地理条件 フランチェスコと良寛の父母と生家 フランチェスコと良寛の青少年時代と性格
第五章 良寛の出家とフランチェスコの回心、その動機 戦争と権力争いに背を向けるフランチェスコと良寛 救民の誓い 父に逆らっての出家、以南とピエトロの対照的な態度 フランチェスコと良寛における父子の関係
第六章 良寛とフランチェスコの宗教活動 江戸末期の日本宗教界と良寛の禅修業 十二、三世紀のヨーロッパのキリスト教とフランチェスコの乞食教団創設
第七章 清貧と乞食 清貧と乞食と慈愛 一衣一鉢 フランシスコ会の清貧の精神 清貧の師、大而宗龍 乞食
第八章 慈愛・・・・菩薩道と十字架の道 慈愛 菩薩道と十字架の道 着物を脱いで与える
第九章 慈愛の行為 盗ませる 分かつ 貧乏人や賤しい者を救う 病人を看とる
第十章 お上に対して庶民を守る
第十一章 すべての生物を愛す 森羅万象と一体となる 火、水、石、木 草花 虫や鳥や動物たちとの交流 鳥
第十二章 慈愛の動機、「神の像」と「仏性」 二聖人と動物たち 慈愛の動機 「神の像」と「仏性」
第十三章 創造主と太陽と月 天帝と創造主 太陽と月の讃美
第十四章 平和をもたらす 平和の意味
第十五章 良寛とフランチェスコの邂逅 東西二聖人の邂逅 神秘的な音楽を聴く二聖人 神気と精霊 死後も生けるが如し 仏典と聖書による聖人の定義 良寛とフランチェスコの共通点 二人の接近の理由
第十六章 法と神との関係 仏法とは何か 神による救い
第十七章 仏教とキリスト教との関係 仏教とキリスト教による宇宙と人間観 仏陀とキリストの救済法
第十八章 神と法と人との関係 涅槃と「永遠の生」 仏教徒とキリスト教徒の歩み寄り
註
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2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 原罪の神秘 キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが 何か考えるようになってきた。 世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る 余地などない。 ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない 遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら の魂は何かに守られていると感じてならなかった。 宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力 に満ち溢れているのだろう。 その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た わっているのかも知れない。 世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し ている。 世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。 これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類 と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、 原罪との関わりもわからない。 将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、 ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人と 言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。 しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。 原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて いる。 前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも それは変わらないのだと強く思う。 最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は 聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。 私の文章で不快に思われた方、お許しください。 ☆☆☆☆ 神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。 憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように いさかいのあるところに、赦しを 分裂のあるところに、一致を 迷いのあるところに、信仰を 誤りのあるところに、真理を 絶望のあるところに、希望を 悲しみのあるところに、よろこびを 闇のあるところに、光を もたらすことができますように、 助け、導いてください。 神よ、わたしに 慰められることよりも、慰めることを 理解されることよりも、理解することを 愛されることよりも、愛することを 望ませてください。 自分を捨てて初めて 自分を見出し 赦してこそゆるされ 死ぬことによってのみ 永遠の生命によみがえることを 深く悟らせてください。 ☆☆☆☆ (K.K) |